第1話 プロローグ
青に包まれたこの世界が、好きだった。
海面で乱反射した陽光が、海底へ向かって幻想的な光の柱を作り出し、まるでカーテンのようにゆらゆらと揺れている。
限りなく透明度の高い海水は、遥か向こうまで見通すことを可能にしていた。
遠くに魚の群れが泳いでいくのが見えた。海の生物たちが、視界を鮮やかに彩っていく。静謐に時が過ぎていく──
だが。
そこに、一人の少女が現れた。
枷から解放され、自由に、そして楽しそうに『飛ぶ』。少女は青色の世界を我が物としていた。
最初は不快だった。
だって、ここは俺だけの世界だ。
誰にも譲らない。誰にも追いつけない。この青は俺のものだ──そう、思っていた。
苛立ちとか、怒りとか、そういう嫌な感情は、彼女が「飛ぶ」姿を見た瞬間にふわりと解けるように何処かへ消えた。
──人魚のようだと思った。
彼女の泳ぐ姿を初めて見た俺は、釘付けにされた。胸の内から様々な感情が溢れ出してきて、止まらなかった。初めて青色の世界にやってきたあの日よりも強烈な感情が、体の中で暴れまわっていた。
「海の音が聞こえる──」
呟いた少女は、足を揃えてぐんと水を蹴る。翻って水を掻く。縦横無尽に泳ぎ回る姿は、まるで水と戯れているようで。
「ねぇ、君には聞こえる?」
こちらに気がついた彼女の呼びかけに、どうしようもなく胸が高鳴っていて。
「──聞きに行こうよ、海の音を」
手招きする彼女の姿は、さながら人魚姫で。
そして、どうしようもなく、美しかったんだ────。
青に包まれたこの世界が、好きだった。
青に包まれたこの世界で、彼女が泳ぎ回る姿を見るのが、好きだった。
これは、そんな俺と彼女の物語────
直径20メートルの、青春の物語だ。
☆★☆
ざざん、ざざんと定期的なリズムで押し寄せる波が、かろうじて夏の暑さを紛らわせていた。
白い砂浜には、観光客というには少々多すぎるほどの人が集まっていた。色とりどりのビキニや海パン。焼けた肌が健康的だ。そんな彼らは、『健闘をたたえるため』に、この場所に集まっていた。
若い男女入り混じって見つめるのは、一点。
湧き上がるのは拍手。
讃えられるのは、一人の少女。
その名を──、
「やはり地元民は強かったッ! 七鳴島公認、高校生ハイドリア・ダンス大会……最終結果は、なんと地元鶴海高校一年生のワンツーフィニッシュ! ではまず、華麗に攻撃を捌き、見事一位を獲得した『人魚姫』こと、舞原夏乃さん、コメントをお願いします」
湧き上がった歓声が収まった後、実況していたセーラー服の少女がトロフィーを抱えた夏乃にマイクを向ける。
──舞原夏乃。
長い黒髪はまだ僅かに湿り気を帯びており、艶やかに照りつける太陽光を跳ね返していた。
白を基調にしたセパレートタイプのビキニにはパレオが付いており、足を薄いベールが包んでいる。高一にしては豊かな胸元が女性的なラインを描き出し、集まった観客たちを魅了する……が。
その観客たちの目には、美しいものを見るときの羨望だけではなく。
僅かながらも、同情の色が見え隠れしていた。
「え、えと……舞原夏乃です。応援してくれたみなさん、ありがとうございました」
誰が付けたか『人魚姫』などという二つ名に、夏乃は若干恥ずかしそうに受け答えする。まあ、俺はお似合いだと思っているが。
「率直な感想をお聞かせください。今の心境は?」
実況の少女に問われ、夏乃は恥ずかしげに頰を掻きながら答えた。
「そうですね……嬉しいです、単純に。大好きなHDで一番になれるのは誇らしい
ですし、特に私みたいなHD以外何もない人間にとっては、大会で優勝するのは優勝以上の意味があるのかな、なんて思ってます」
「なるほど、並々ならぬ思いを持っているんですね。つまり、HDは自己表現の場と?」
「……そんな大層なものでもないですけどね。なんというか、爪痕を残したいじゃないですか。人生で一回くらい、何か誇れるものを手に入れたい……みたいな」
たはは、と笑いながら夏乃は実況の問いかけに答えていく。そして最後に、
「では、来年の抱負をお聞かせください」
「……来年の夏は、絶対に優勝します」
そこで夏乃は、一度言葉を切った。
僅かに違和感を覚えた俺は、チラリと横の夏乃へ目線を向ける。
──瞬間、視線が重なった。
あまりに一瞬の出来事に、俺はその視線から感情を読み取ることはできなかった。
「絶対に、優勝します」
夏乃は一言、同じ言葉を重ねた。
そしてインタビュー対象は俺に移る。
「では続きまして、怒涛の連続攻撃によるアグレッシブな戦闘スタイルでここまで勝ち上がってきた『青鮫』こと、二位の浪川蓮太さんのインタビューに移ります!」
となりの夏乃がぷふっと吹き出す。
……俺にもとんでもない二つ名が用意されていた。
「今回、並み居る先輩たちを押しのけなんと一年生のワンツーフィニッシュという結果に終わりましたが、お二人はご友人だそうで?」
「はあ、まあ一応。小学生の頃からの付き合いです」
「わあ、幼馴染なんですね! 二人で秘密の特訓をしたりしてるんですか?」
「そんな特殊なことはしてませんよ。二人とも海は大好きなので、ひたすら来る日も来る日も海で遊んでいただけです」
「なるほど、年齢以上に『海慣れ』してるという訳ですね」
「夏乃ほどではないですよ」
「下呼びなんですねえ」
なんだその顔は。
「小学生時代からの名残です」
「幼馴染、いいですねえ」
さっきまで真面目にインタビューしてたクセに……。
隣で夏乃が下を向いて震えている。笑いをこらえているようだ。俺もキレるのをこらえた。
そこから何度か質問のやり取りをして、最後に夏乃と同じ質問がやってくる。
「では、来年の抱負をお願いします」
「そうですね……」
俺は僅かに悩んで、
「来年も俺と夏乃でワンツーフィニッシュ、ですかね」
「おや、来年こそ一位! とかではないんですね?」
「まあ、優勝できるに越したことはないですけど。俺は、夏乃が優勝してるのを見れればそれでいいので」
「くぅ~、いいですねこういう関係! 私も幼馴染が欲しかった!」
終始テンションの高い実況少女に圧倒されつつ、俺のインタビューは終わった。三位だった高二の男子生徒へのインタビューもつつがなく終了し、閉会式に移行した。閉会の挨拶として、現市長の舞原慎二市長が前に設けられた壇上に立った。
夏乃の父親であり、このスポーツ──『ハイドリア・ダンス』の考案者だ。
「七鳴島から生まれたスポーツがここまで発展したことを嬉しく思います。今後、さらに発展していくためにはみなさんの助力が必ず必要になってくるでしょう──」
市長の演説は非常に熱がこもっていた。それも当然だろう。考案者だということに加えて、そのスポーツ考案のきっかけとなった少女が優勝したのだから。
「HDの発展は島の発展につながります。島外からの観光客も増加の一途をたどっており、今やHDは七鳴島を形作る一角です。今後も島全体でスポーツ振興に尽力し、さらなる発展を目指していく所存です」
そこで市長は聴衆の一人、夏乃にチラリと視線を向け、
「それに私事で恐縮ですが、大切な娘である夏乃の優勝というのも誇らしく思います。誰よりも強く陸に縛られていた夏乃が海を知り、そしてそれをきっかけに考案された『ハイドリア・ダンス』で夏乃が優勝する……。陸では車椅子での生活を余儀なくされる女ですが、海での姿は非常に生き生きしていて、親としても感無量です。恥ずかしながら、夏乃の優勝が決まった瞬間は涙が溢れてきました──」
俺は車椅子の持ち手を強く握りしめる。
砂浜専用に改造が施された車椅子。背後からは、そこに座る少女の顔を見ることはできない。
そう、普段夏乃は車椅子で生活している。
──海から上がった人魚姫は、自由に動くことさえままならないのだ。
どのような思いで、夏乃はこの演説を聞いているのだろうか。
いつだって彼女の後ろに立つ俺には、そこまでは分からない。
俺には、車椅子を押してやることしかできないのだ。
「──今後の夏乃の活躍、そしてハイドリア・ダンスの発展に期待しています。私からは以上とさせていただきます」
盛大な拍手が海辺の会場を包み込む。
その真摯な思いに誰もが胸を打たれたのだろう。俺もその一人だった。
だが。
一番強く思いを感じているはずの彼女が、笑いも泣きもせずに俯いていることに、俺は気づけなかった。
──気付いてやれなかったのだ。




