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さぷりちゃんの手のひらは小さく柔らかい。
首元の首輪代わりの革ベルト以外、一糸まとわぬ肩も腕も華奢で、それは元々の骨のつくりもあるけれど、栄養不足が一番の理由だろう。
乳袋は豊かではちきれそうな弾力がある。
形状は白のジェロビーンズを彷彿とさせるが、これはやはり元々のつくりでもあるけれども、投与されているホルモンの副作用でもある。
さぷりちゃんの乳房の大きさと張りをと揺れを、泉喪はその太ももに感じる。
彼女の黒髪は日本人形のように長く、前髪も眉の2㎝上で切りそろえられている。
瞳は潤んでいる。
感情をこらえるというより、馬や犬といった家畜の潤みに近い。
よだれも口の端からたらしている。
が、そもそも彼女に人格はないのだ。
そんなものは、麻薬漬け日々の中で、薄れて消えてしまった。
その日々の長さは、彼女の華奢な首元を拘束する黒革ベルトのかすれ具合から見てとれる。
彼女は泉喪が腰を下ろすソファの横の闇に一度引っ込んでから、野生の猫のように肩甲骨を低くして椅子の正面に這い、そのまま青年の肉体を這い上がる。
膨らんだ二つの乳房が泉喪の太ももを覆うジーンズと擦れた。
小さく整った鼻の先は青年の腹の前まで到達し、彼の腹を覆うTシャツを両手の人差し指と親指の先でつまんでめくりあげ、割れた腹の筋に舌を這わせる。
「さぷりちゃん、今日もぴちぴちだね」
くすぐったさを紛らわすように、泉喪は彼女の頭部に声をかけるが、彼女は構わない。
聴いていないというより、届いていないのだろう。
泉喪はそのことに、悲哀を覚える。
ろくろのようなシルエットの白い背にかかる長い黒髪と、背から先の臀部の丸みが、彼の言葉に何の反応もしないのだ。
が、彼は彼女に対しては、目のやり場に困らない。
これは彼女が肉人形であり、人形は人形でしかないからだろう。
服を取ったリサちゃん人形に何も感じない感覚に近い。
さぷりちゃんの舌は泉喪の腹筋を一通り舐めまわし終わった。
くすぐったさに反応して、青年の腰の先もチャックの裏から硬直の盛り上がりを示したのを確認した彼女は、彼のベルトの金具に手をかける。
それから両手で知恵の輪をカチャカチャするようにいじり始めた。
ここにいたって、泉喪は苦笑をする。
「今日はいいよ。悪いね」
さぷりちゃんの小さな頭部にその手のひらをあてて、物を丁寧にどかすようにして押してのける。
「今日は、じゃなくて今日も、じゃねえか。」
マリファナの常用でしわがれているが野太い声は、笑いを含んでいた。
泉喪は声の方向、隣を見る。
アイマスクを額の生え際付近にずらした一條は、相変わらずソファに寝そべり、首はソファの端に預け、顎は暗い天井を指していた。
が、まぶたは薄く開いている。
横目で泉喪を覗き込んでくるので、青年は照れをごまかすように、穏やかにきいた。
「起きてたんすか?」
「今起きたんだよ」
「おはようございます」
「こんにちは、だろ」
一條はそういったやりとりの中で、おっくうそうに上半身を起こし青年に向き直りつつ、組長はソファの前に足を投げ出した。
それからおもむろに組みなおす。
― だるそうだなあ。普通の人も、大変なんだなあ。―
「ですね。……開店おめでとうございます」
「おう。遊んでくか? 勝たせてやるぜ」
「遠慮します。俺、苦手なんで。賭け事」
一條は不思議な生き物でも見るように、泉喪を眺めてから、少し笑った。
あくびをしつつ、主人の命令を待つ柴犬のように彼を見上げるさぷりちゃんに向かって、しっしと手の甲をふる、
と、彼女は泉喪のソファの陰に再び隠れた。
しつけが行き届いている。
一條はもう一度軽くあくびをして、毛深い指をぱちりと鳴らす。
黒服の1人が葉巻をケースに入れて持ってきて、片膝をつき、軽く口を開く組長の口にくわえさせて、葉巻の先に火を灯した。
組長は虚ろな瞳でゆっくりと吸い、それから紫の煙を大きく吐く。
このお偉いさんは、日常の動作のほとんどを部下にやらせる。
― 病院とか老人ホームで介護されている人たちとあんま変わんないよなあ。―
と泉喪が思っていると、
「どうだ?この店は」
と訊いてくるので、
「匂いがきつくなくていいですね。店の名前もかっけえっす」
と素直な感想を返した。
が、一條は眉をしかめる。
「違う」
「へ?」
「俺が訊いているのは、お前なら、何分で制圧できるか? だ。」
「10秒っす」
泉喪は間を置かずに答えた。
「ほう。」
「俺なら、10秒です。他は知らねえっす」
一條は再び葉巻を吸い込み、視線は宙を泳ぐ。
「……1分、いや、30秒かからない理由は」
「死角が多すぎます。黒服さんたちの意識も硬いっす。硬くちゃ浸せません。水みたいにならないと、偏りと隙ができます」
「お前の言葉は分からんが、具体的にはどこら辺に死角があるんだ?」
泉喪は黙って室内のいくつかの箇所を指さす。
一條は軽く鼻をならす。
「後で警護に伝えとくよ。……で、だ。仕事を受けるつもりはないか?」
― ほら、きた。これがいやなんだ。―
ソファの前のテーブルの上の皿にはカルパスが山盛りである。
今の生活では死はあまり見ない。
案件ではこのカルパスよりもおびただしい量の死を見るので、食指は伸びない。
いっぱいいいっぱい、というか、食傷している。
泉喪は、もともと争いが好きではないのだ。
手持無沙汰の時にカルパスに手を伸ばすように、暇つぶしで人を殺める村人もいるが、泉喪はそういう種類ではない。
何より、今はオフなのだ。
断るのはおっくうだが、これは譲れない。
「仕事、する気ないっす。俺、仕事したら物騒なんす」
「そうか。まあ、無理は言わないし、言えないわな」
「すいません」
泉喪は一條のため息まじりの紫煙をさけるように、首と肩をすくめて、後ろ手で頭をかく。
その仕草は猿を彷彿とさせる。
「そろそろ行きます」
「おう、また来い」
うなずく一條に口角を上げて、泉喪は立ち上がり、ふと、違和感を覚え、室内を見渡した。
「……あれ?」
「ん?」
「さぷりちゃん、つか、この子だけっすか?」
一條は片眉をあげ、その頬に酷薄を浮かべた。
口の端も上げる。
「気づいたか。まあ、気づくよなあ」
「はい。乱痴気騒ぎの子たち、つまり、飼われてた子たち、みんないないっすよね」
「処分したよ」
事も無げに言う。
この男の中では、人の命は、村並みに軽い。
その点も青年が一條に親しみを覚える理由だろう。
欲望に誠実で、命に容赦が無い。
これは村人の特質だ。
青年は念のために確認する。
「処分、すか?」
「ああ。薬漬けが長いからな。病気にもかかりやすい。引っ越しついでに処分してきたよ。ま、腎臓とか角膜とかそこら辺はさばくついでに中国あたりの成金にうっぱらったからな。あいつらも、ちゃんと役に立ったわけだ。本望だろうよ」
― 生け花みたいだな。―
泉喪は思う。
一篠のまわりには、常に花が乱れ咲くように女が乱れ、空間を飾っている。
みんな花でつくった輪っかみたいに綺麗だ。
下手なキャバクラなんか、文字通り顔負けだ。
けれど、長くはない。
定期的に処分される。
が、おそらく、というより確実に、花である肉人形たちに悲哀は無い。
悲哀を認識するための、自我的な器官は、麻薬に侵されて、ちょうど湯のみにこびりついた飲み残しが、洗剤入りの湯に浮いて消えるように、消えるからだ。
それが彼女たちの生きざまであり、一條から見た、存在意義なのだろう。
― あれ? ―
「一條さん」
「ん?」
「さぷりちゃんは、この子は」
「ああ。お前が気に入ってるみたいなんでな。ほら、前も助けたことあったろう。で、こっちにも持ってきたんだが、お前も遊ぶ気もないみたいだし、今度処分するよ」
開店を目前にして、室内を照明が照らし始めた。
ルーレット、ポーカー台、ソファやテーブル。
一定間隔に配置されたインドネシア製の木彫りの大きな顔。
それらが、淡く輝き始める。
音楽も流れた。
ジャズだ。
1930年代。
保育所で先生がよくかけてくれた。
曲名は……。
”HEAVEN”
天国。
「さぷりちゃん。この子、貰っていいですか?」
「ん?」
「仕事、一回受けますから。代わりにさぷりちゃん、下さい」
「おお?」
一條は純粋に驚いていた。
彼と同じ程度には、泉喪も意外を覚えている。
― 何言ってんだ? 俺。 ―
と思いつつ、言葉を続ける。
「仕事終わったら迎えにきますから、この子に服、着せといてください。」
一條は口をあんぐりと開き、その口の端から葉巻が、二次関数的な重力的加速度を帯びて落下し床のペルシア製の高級じゅうたんを丸く黒く焦がす。
が、組長は構わずに爆ぜるように笑った。
……というわけで、一篠から仕事を受けた2週間後、泉喪は晴れた日に雑居ビルに来た。
埃っぽいビル風にむせながら、中年に取り残されて、……とりあえず、トイレ掃除を始めた。