memories
保育士がA4ノートを閉じて、小さく息を吐くまでの間、泉喪は彼の姿を
呆けた面持ちで、見るともなしに見ていた。
変わらない。
保育所を出た時より、むしろ若くなっている気がする。
髪は相変わらず三つ編みで長いし、猿のしっぽのようにゆらゆらと動いたり
蛇のようにとぐろを巻いたりしている。
黒い前髪はやはり顔面を覆っているが、その向こうの視線は
青年のしたためた綴りを真剣に追っている。
泉喪は彼の言葉を待っていた。
ねぎらいでも同情でも蔑みでも罵倒でも良かった。
何でもいいから、
さぷりちゃんの死についての定義付けが欲しかった。
彼女の死は青年が眼にしてきたあらゆる死と同じで
本質的に全く違っていた。
その違いも、違いの理由も分からないまま、
彼は育ての親である保育士に連絡をとったのである。
「ちゃんと食べているみたいだね。
良かった。」
保育士はノートを閉じて微笑んだが、泉喪は、
とてもどうでもいい、と思った。
聴きたいことはそんな事ではなかった。
恩師は青年にノートを返しつつ、さぷりちゃんの亡骸に
その視線を投げた。
とても静かだ。
部屋の暖房も切ってあるので、
余計に冷え冷えとした静けさだった。
「幸せな終わり方、だったね。
随分と辛い生を編んできたようだけど。」
幸せという言葉の意味がよくわからない。
さぷりちゃんが起きる事のない眠りについてから
幸せという言葉の中身がどこかに消えてしまったみたいだ。
泉喪は首を傾げ、そんな彼に保育士は苦笑をした。
「好きな人のそばでその生を終われた。
とても幸せな事さ。」
「好き、とかって、なんすか?
この子、人格ねえし。
俺は人形としか見てなかった!
幸せなんて、…!」
荒げた言葉に詰まる。
それが八つ当たり、だからとかではない。
幸せとか、好き、とか、そういう甘ったるいものじゃないのだ。
この子の死にまつわるものは。
そして、そういう
甘ったるいこと
すら経験させてあげられなかった事に、悲哀を感じる泉喪から
視線をさぷりちゃんに戻して
保育士は彼女の首元にしゃがみこみ、床と彼女を交互に見る。
「恋、とか、愛とかは。
理屈でするものではない。
人格とか理性とかでもなくて、ね。
人はその魂で、人を愛する。
この子は。」
そこで保育士は言葉を切り、彼女から離れた床のフローリングの板目を
しばらく凝視したので、泉喪は、よくわからない苛立ちを押さえつつ
恩師の次の言葉を待つ。
「…この子の魂は君を愛していた。」
「さぷりちゃんは人形ですよ?」
青年は奥歯を噛みつつかすれた声で問う。
保育士は首を横に振り、三つ編みの先も横に揺れる。
「関係ないよ。そんなことはね。
この子はどうする?」
「…許されるなら。
村の共同墓地に眠らせてあげたいです。」
「わかった。
事情は僕が説明しとくよ。」
「先生。」
「ん?」
「教えて下さい。
何で、俺はすげえ悲しいんですか?
分からないっす。
全然、分からない、す。」
保育士はきょとんと青年を見上げてから
再び苦笑して立ち上がり、表に出て
スマホを取り出し、画面の向こうと通話を始めた。
「ああ、すいません。
僕です。
はい。
急ですが境間さんにお願いがありまして。
木炭を1つ。
カラス便でお願いしたいです。
至急、できれば五分以内で。
あ、はい。
生態系は少々乱れても、構いません。
案件を1つ受けますから、最速で届けて下さい。
場所は東京都足立区北千住…」
5分後、空から降ってきた小箱をキャッチボールみたいに
彼は両手で受け止めて
室内に戻り、青年の胸に
ぽん
と預ける。
「後で、床に塗ってみたらいい。
多分、分かるよ。
それからたくさん、泣いてあげなさい。」
彼は静かにそう言って、さぷりちゃんのそばにかがみ
長いまつ毛を閉じて眠る彼女の
華奢な背中と膝の裏に両手を差し込んで抱え上げる。
と。
彼女の長い黒髪が、
音もなく冷たい茶色のフローリングに垂れて
泉喪は何かの幕引きを告げられた気がした。
「一緒に埋葬してほしい物はあるかい?」
「この、ノート。
お願いします。」
保育士はうなずいて
三つ編みの先でノートを巻くようにして受取った。
彼女との記憶を譲渡したような錯覚を覚えた。
「では、行くよ。
たまに、顔を見せなさい。」
「はい、ありがとうございます。」
泉喪は頭を下げた。
…さぷりちゃんを抱きかかえた保育士が
部屋を去ると
改めて、四隅から冷えが寄せて来る気がしたので、
暖房をつけ、小箱を眺める。
卒業証書の入った筒みたいだけど。
実際に入っているのは証書ではなく、炭であるのは分かった。
端に獣の爪跡が複数。
境間さんのカラス。
しばらく時間が経った。
南に高かった陽が西に傾き、部屋が薄闇に沈む。
おもむろに腰を上げて
点灯をして、恩師が指をさしていった床にしゃがみ込んだ。
さぷりちゃんが、スプーンでがりがりやっていた姿を思い出す。
― 猫の爪とぎみたいだ、って思ったんだっけ。 ―
泉喪は微笑んで
小箱から炭を取り出して、その黒を床にこすり付ける。
窓を拭くように腕を扇状に動かす。
床はすぐに真っ黒になった。
線が浮き上がる。
傷が。
彼女が床につけていた傷が。
黒から逃れて、茶色く浮き上がった。
それは
絵
だった。
手をつないでいた。
笑う泉喪とさぷりちゃんが。
口を大きくあけていた。
「…子供の絵じゃねえか。」
感情が胸をこみ上げ、嗚咽となった。
涙が視界に溢れる。
さぷりちゃんの絵が滲むのと裏腹に
青年の脳裏に記憶がよみがえる。
― この、絵は。
あの日の思い出、だ。
2人で手をつないで。
踊った。
あの、日、の。 ―
泉喪は声を大きくあげて泣いた。




