kindness
狭いダクトを垂直方向に登る時間がしばらく続いた。
ダクトを含む天井裏は全体に排気熱がこもり
蜘蛛の巣やらちょっとした凹凸の至る所に蛾や油虫の死骸が散らばっている。
都会とか東京都とか新宿とか関係ない小さな大自然なのだが、
虫嫌いな藁卑がここを通ったら、滅茶苦茶不機嫌になるんだろうな、とも思う。
脳内の見取り図の写しから探すべきは、
八幡のシェルターの天井裏に至る路ではなく、
彼の部屋へとつながる少しでも高い場所であり、そこに行きたくて。
くしゃみやせき込みを続けながら、結局2階まで来てしまった。
ほこりを吸いすぎて肺に痛みを覚えるが、それが我妻組のマイム・マイムに対する悲哀なのか、
単純に環境的に苦しいのか、分からなくなってきた時に。
ダクトの遥か下方から、爆発音が吹き上げてきた。
― 指向性爆弾、C4をいじったのかな? -
下を見ると、ダクトの果て、侵入してきた天板の位置に
四角く切り取られた光があったので、泉喪は眉をしかめた。
ついでに涙もさらに溢れだす。
― 電気が点いた。
急がないと。 -
愛染たちは方法を見つけ、実行している。
不思議ではない。
結構な時間が経ってしまっていた。
泉喪は垂直から平行に変化したダクトを横に這う。
脳内の見取り図に沿っていくつかの分岐を過ぎた末。
ようやく目標地点に到達した。
二階の天井裏。
外壁に隣接。
八幡の地下シェルターの機械仕掛とちょうど反対側だ。
シェルター付近には感電ショック的な罠も巡らされている、
かもしれないことも。
さもありなん、だけれども。
ここはただの、光ファイバーなどが外部から繋がるケーブルダクトに過ぎない。
目の前の、鉄パイプほどの太さしかないその配管が、八幡のシェルターまでつながっている。
― さ、使うか。 ―
泉喪はその懐からケタミンの小瓶を取り出した。
狂犬使いの男前から拝借してきた逸品である。
パイプのたもとに置き、左耳のピアスを外して集中する。
涙も鼻水も埃の中で止まることを知らないし、口は半開きだけれども、
くしゃみと咳は止まる。
深い集中。
それは、穏やかな。
意識が原初の闇に還るような、そんな錯覚さえ覚えるほどの。
静寂。
…水が飲みたいと思って埃でざらついた唾を飲み込んだ。
終わったのだ。
ピアスを左耳に戻しながら。
― どっかで水でも飲んで、ついでに涼んでもいい、かな? ―
と思いつつも、体はダクトに向かって、一路後方に這い、そのまま滑り下りる。
鋭角に開いた両足の靴の踵で速度を調整しつつも、上りより下りの方が断然速い。
下方から、四角い光が急速に迫ってくる。
落ちるだけなのだから、当たり前だけれども、この手軽さはありがたかった。
天板を抜ける。
愛染が見上げていた。
まつ毛の長い瞳が大きい。
目を丸くしている、とも言う。
とっさに天板のへりをつかみ、横に体をねじりつつ
壁を蹴って斜めに飛ぶ。
延髄蹴りのようなモーションで、壁に激突した。
― いっってえ。 ―
C4爆弾の硝煙ですえた匂いの壁に体を擦るようにして、床に落ちた。
「大丈夫か。」
「あ、はい。おけっす。」
右手を上から差し伸べる愛染の手を取り、立ち上がる。
「あんまり遅えから死んだと思ってたぜ。」
「あ、死にかけたっす。電気にやられて。」
「そうか。」
「シェルターは空きましたか?」
「ああ。結局爆薬かき集めて吹き飛ばした。
ショックの仕掛けだけな。
後は無理やり開けた。
照明も点けてな。」
電気工事のお兄ちゃんと話しているような錯覚を受ける。
「八幡は殺ったんすか?」
「…いや。
必要が無かった。
中で廃人になってた。
白目剥いてしょんべん垂らしてたな。
あれはヤク、じゃねえな。
怖すぎて、いっちまったのかな。頭が。」
「はあ。」
「てか、泉谷。」
「はい。」
「殴らせろ。」
泉喪に向き直った金髪の右のフックは綺麗な流線形の軌道を描いて
正確に青年の顎の先をとらえた。
両膝を床につくのは本日二度目である。
「愛染さん。」
「なんだ。」
「なんでっすか?」
「なんとなくだ。」
堂々と言いつつ、やはり上から手を差し伸べてくるので、その手を取る。
「他の皆さんは。」
「ああ。もう引き返した。
俺がここにいたのは
なんとなく
だ。」
愛染の顔をまじまじと見る。
「愛染さんって…。」
「なんだ。」
「優しいっすね。」
「殺すぞ。」
本当に優しいと思った。
そして泉喪はとても悲しくなった。




