sick
2週間前―。
渋谷の駅をでた途端、泉喪は鼻の奥がむずむずした。
くしゃみの衝動。
悪戯な小人さんたちが楽しそうに、こちょこちょこちょこちょを続けるような感覚が続き、彼は悲哀を覚えた。
― 村人は強いっていうけどさ。こいつらの方がよほど最強じゃんか。何で耐えれるんだ?
いや本当にさ。―
身長180㎝を越えるその青年は、平然と行きかう人ごみの勢いにその肩をすぼめつつ、途方に暮れる。
彼の右手には地図が握られている。
これは一條の部下から渡されたものだ。
常に黒服に身をつつむ、丈の低い小男である部下は、身長に見合った小顔で、目は招き猫のように、いつも見開いている。
口は常に、やはり猫のように、もにゅっと閉じている。
泉喪はこの彼が人語をしゃべるのを、ほとんど目にしたことがない。
だから、
「こちらに住所が書かれておりますので」
と猫目に似合わない渋い声を聴いたとき、
― 猫みたいな高い声だと思ってた。 ―
と、泉喪は意外な顔をした。
一条の部下はそんな彼を怪訝に見上げてから、
「お待ちくださいませ」
という言葉を残し、事務所の奥に消える。
そうしてしばらくしてから戻ってきて、胸の前に携えた封筒を、彼の手のひらに握らせた。
お礼を言って、事務所を出た路上で開くと、天下のグオグルマップさんが三つ折りされていた。
ご丁寧に渋谷駅と目的地に朱の丸が二つという念の入りようである。
とても頼もしく、そして迷いようがない。
青年は無言の圧力を散らすように、後ろ髪をかいた。
……泉喪は渋谷の街路の複雑さには何の不安も抱かない。
問題は、人だ。
多すぎる。
特に女たちの香水、化粧粉、リップにマニキュア、何より出産適齢期の雌が彼女たちの汗と共に蒸散させる誘発物質が街の大気に満ちて、生ぬるい風となって泉喪の頬に吹き付けると、鼻の嗅覚細胞が破壊される錯覚を覚えてしまう。
つまり、こちょこちょの小人さんたちは大活躍で、そのあまりのわっしょいわっしょいぶりに、青年は涙目にならざるを得なくなってしまうのだ。
ということで、渋谷の駅を出て、じっとくしゃみを耐えていると、額の生え際から汗がうきでてきた。前髪全体が水気を帯びて、長い眉の上にはりつく。
一條が新しく営みを始めた、偽装バー兼裏カジノに顔を出すという事で、心をこめて乱れのないようにしゃきっと羽織ってきた数少ない一張羅、黒ジャケットも脱いでしまう。
ちょっと解放された気分になるが、すぐに生暖かい風が体感温度を上げてくる。
春物の黒のロングTシャツの首元をつまんで仰いでも、汗は止まらない。
汗は、そこまで高くはないが真っすぐな泉喪の鼻筋にたれる。
改札付近の天井に備え付けの時計を見ると15時を過ぎていた。
この時間の東京は暖気と湿気を増してくる。
― 先生。帰りたいっす。村に。 ―
春は嫌いだった。
どうしても、弱気になってしまうからだ。
彼が生まれ育った村はひなびているし、怪人養成所である保育所以外は、何もない。
もちろん床屋すらなく、髪を切ってくれるのは育ての親である、保育所の『先生』か、一緒に育った子供たちだけだった。
彼が東京に出てきて感動したのは、男でも美容室に入れるという事実。
感動ついでに勇気を出して足を踏み入れてみる。
整髪料や香料はきついが我慢できた。
女の汗よりもましだ。
何より、ほっとくと湿気にくねる黒髪が、さっぱりふわふわになるのは奇跡を感じたし、美容師のシャンプーとブローには慈愛すら感じた。
……東京に来て感じた愛情はそれくらいである。
そして、それくらいである事を、春にはなぜか痛感してしまうのだ。
それから自然と、
― 先生のまずい飯が食いたい。 ―
と思う自分自身に、泉喪は酷い幼さを感じるのである。
……彼がくしゃみをこらえつつ上る道玄坂。
その先で細かく分岐する狭い路を、右へ左へ曲がり続けると、一篠が最近手に入れたビルに至る。
ここで泉喪を待つ一條は、たまに飯をおごってくれる。
基本外国の料理だ。
のるうえーだったり、すかんじなびあだったり、よくわからない国のよくわからない料理が、常に満漢全席。
「若いんだから食えるだろう」
と年齢のいった老人みたいに言う一條だが、彼の年齢は30の半ばくらいであるはずだ。
でも、一篠はあまり食べない。そこの飯がまずいわけではない。
なんせ、例えばフランス料理なら、メーテルだかメートルだかいう皿だか食器だかを出したり引っ込めたりするただそれだけのための係がいたりする店に連れていってくれる。
もちろん料理の盛り付けも美しく、舌も驚くし後味がとにかく素晴らしい。
口にする泉喪の切れ長の二重の瞳は、自然ととても大きくなる。
いわゆる目を見張るという感じだ。
戦闘でもこんなにビックリした顔を、この青年はしたことがない。
そんな泉喪に、一條は得意げに笑う。
「分かるか? 俺は偉いし優しいんだぜ」