puppy
ドーベルマンのしなやかな肉体たちが
丑三つ時の闇に溶けるように跳躍した。
鼻先にむき出しの牙が並列を成す。
一本一本がとても鋭く尖っている。
表面を濡らす唾液が月明かりを反射している。
顔面と首に。
獣の気が集中。
つま先立ちでしゃがみ込んだ。
あまり犬の口元に集中すると、狂犬の唾液が角膜に付着するかもしれない。
それは避けたい。
「暗視スコープはいいのか?」
「はい。裸眼の方が集中できるっす、俺。」
断ったのをかすかに後悔しかけるが、思い直す。
人工的な視界では、自然にふるまえない。
そう。
大切なのは、自然に振る舞うことだ。
右にステップ。
向かって左側の狂犬は後部の柵に突っ込む。
右側も突っ込みかけるが地上70㎝上空の左脚先を両手で包むように掴む。
そのまま円盤投げのように回転。
らせん状に直立しつつ後方に反って上空、柵の向こうの暗い夜空に放り投げる。
星は見えない。
犬もどこまで高く上がるのか、見ないけれど、飛び掛かられる横のベクトルを
らせんで上方に変えた分、かなり上空に浮いたはずだ。
見ないというより、見る余裕がない。
左側、柵に突っ込んだ一匹が体勢を立て直して
飛び掛かってくる。
右に避けつつらせん状の動きと共にしゃがみこみ
やはり同じ動きで柵の向こうに放り投げる。
降り注ぐ唾液のシャワーが描く放物線を螺旋の動きで避け切った時
遠くで、ずだ袋を地面に打ち付けるような音がした。
― 悲鳴も上げれない、のか。
可哀想、だなあ。―
犬は猫ではなく、体の構造上、受け身が取れない。
しかも、柵の向こうは舗装済の硬いアスファルトだ。
落下の衝撃で肉と骨が砕け血が飛散しても届かないほど
高く遠く、上げておいた。
― でも、大体分かった。 ―
先生との会話を思い出す。
「まず、大きな動きで力のやり取りを覚えよう。
コツを掴んだら動きを小さくしてみよう。
で、目指すは最小限だ。
その方が動作の隙も少なくなるからね。」
すでに第二陣は2m前方まで接近している。
今度は、できるだけ動きを小さく
理想は太極拳のように腕の回転だけで
ほおる
こと。
…暗い上空にほおった番犬が10匹を越えた所で
狂犬たちの成していた列が尽き。
泉喪は
「ぶはあ。」
と大きく息を吐いた。
呼吸を忘れていた。
髪の生え際から眉に向かって、汗がいくつもの筋を作っていた。
後半はそこまで動いていない。
こめかみに痛みを覚えるほどの集中と弛緩。
鼓膜の奥の三半規管が揺れ続けている。
船酔いのような感覚。
ー 先生なら、もっと涼しい顔でできるんだろうけどさ。 -
胸元からスマホを取り出し愛染に連絡。
「おう。」
「終わりました。」
「そうか。」
「前庭は片付けました。
屋敷ん中はわからねえっす。」
「そうか。漏らしがねえか、確認したら、邸宅内で合流しろ。」
「はい。」
唐突に通話は切れた。
ねぎらいも驚きも伝わってこない通話だった。
が。
- 愛染さんとは、うまがあうかも、なあ。 -
と思ってしまう彼自身に
泉喪は軽くため息をついて、辺り、闇がパイ生地のように平たく伸ばされた前庭を見回す。
犬の気配は無かった。
そもそも狂犬のいいところは、無闇やたらに突進してきてくれることであり
隠れて気を伺うような健康な狡猾さがないのは
ほうってきた犬たちを見ても分かることだ。
それでも、愛染たちのためには、彼の言うとおり
漏らし
をしらみ潰すことは肝要である。
門から屋敷を遮るように茂る木立に向かって歩く。
狂犬の隊列は木立を発生源としていた。
残りがあるとすればここであり、実際間違いではなかった。
足を少し踏み入れたところで
複数のチタンゲージを発見。
1つを除いて全て開かれている。
鍵で閉じたゲージの中には子犬が一匹。
ドーベルマンではなく、ヨークシャーテリア。
戦闘犬ではない。
うずくまるようにして背を低くし吼え始めたので、
首をかしげると
かさっ
と、葉を踏む音がして梢の影から白刃がきらめいてきた。
サイドステップでかわしつつ後ろを取り腎臓にひざを入れる。
と、人影は低くうめき前のめりに二の腕を地面についた。
ナイフは手をつく前に落としている。
ー 刃物を落とした。
どういうこと、だろ?-
戦闘で武器を手放すのはありえない。
陽動でほおる場合もあるが、
今の落とし方は、
握りきれなくて落とした
という感じである。
ー 戦闘慣れしていない、のかな?-
状況的にありえない。
足音を立てるまでの、気配の消し方は見事だった。
しかし、そんな芸当ができるなら、そもそも足音などたてないだろう。
疑問はすぐに解消された。
振り返りざまに飛び掛ってきた男に、木立を覆う闇の中でも見覚えがあった。
昨日の代々木村で指揮を執っていた男前である。
泉喪の肩をとらえようとする両手には噛み傷がついていた。
新しくは無い。
わずかに震えている。
首を傾けた男の顎は大きく開いていた。
喉を噛み千切りに、きている。
『けたみんをじゅんびしろ』
昼間の口元を思い出す。
足元のドーベルマンの獣臭。
手には無かった噛み傷。
握力の低下と震える手元。
つまり、この男の肉体は狂犬病に侵されている。
違う。
男が進んで、犬に噛ませて、病原菌に自らを浸した。
全ては。
ー 我妻組壊滅のためだけに、よくやる、なあ。-
噛まれても、唾液や血と接触しても感染する。
普通なら戦闘も難しい。
ー けど、俺は村人だから、なあ。ー
泉喪は男の脇と梢の間をするりと抜けて
再び背後を取り
やはり腎臓にひざをいれ
男の手が地を突く前に
彼の延髄に踵蹴りを入れる。
-ふうっ。ー
すねを噛まれかける。
ヨークシャーテリアが足元に来ていたのだ。
それは一息ついた刹那だった。
牙をよけた脚で、そのまま頭部を踵で砕く。
ひやっとした。
ー 手が込みすぎだろ。
ごめんよ、わんちゃん。 -
罠の主は地面にうつ伏せで痙攣している。
つまり息はある。
泉喪はしばし考えた挙句
とどめを刺すかわりに、男の衣服をまさぐり
二本の薬品瓶と注射針を一本取り出した。
・・・・ケタミン。
狂犬病治療薬。
といっても投与すれば治るといえるものではない。
そもそも完治例自体が極端に少ない。
ケタミンは狂犬病原菌を攻撃する薬品ではなく、
免疫力が病原菌を駆逐する力をつけるまで、
脳を眠らせる薬なのだ。
脳は菌には攻撃されないが、全身を浸す病原菌に混乱を起こして
その混乱が死を招く。
ならば、脳を眠らせればいい。
という薬なのである。
そのため用法、用量には厳密な管理が必要である。
ー 2本は打ちすぎだよなあ。
多く打てばいいってものじゃない。 -
用量を間違えて大量に投与すると、昏睡が深くなり、二度と起きない。
劇薬なのだ。
泉喪はため息をついて、注射器に一本分の薬液を満たし
男の腕をまくりあげて、彼の太く青い静脈に注射針を刺して
親指で液体を押した。
ー 死ぬか生きるかはあんたの次第だけど。
一本もらってく、お礼、だよ。-
青年は注射針を男の傍らに置いて、立ち上がり
通用門方向に愛染たちを探すべく、その目を闇に凝らした。




