gospel
長い一日も日付を越えた真夜中の1時、装備を入念に整えてから
我妻組+泉喪の一行は喧嘩に出かけた。
運転は越智、助手席には東寺、右後部には我妻、左後部が愛染、彼らに挟まれる形で
泉喪が乗り込み、車輛にかかる音と震動に合わせて、愛染が口笛を吹いた。
走り出して車内をしばらく賑わしていた軽口や陽気さも、
車窓の外を流れていく深夜の街並みの闇、暗い大気に蒸散するように、車内を沈黙が浸した。
都会は、特に幹線道路は明け方まで電灯が路を照らしている。
が、その照らしかたは控えめというより寂しい。
上空から俯瞰すれば、夜景は煌めいているのだろう。
が、そこに喧騒はなく。
つまり、騒がしさというものは、
人の気があってこそ、成り立つものなのだろうと思う。
― 村、を思い出すなあ。
人のいない、この感じ。―
郷愁に浸る脇を小突かれる。
左隣の愛染が細く長い眉を意地悪くしかめて
首を泉喪にあずけ。青年の顎元を見上げる。
「ワンころにぶるってんのか?
俺ならビビるぜ。
後悔してんだろ?」
湿った息をのど元に感じる。キシリトールの匂い。
泉喪は口角を上げ、童顔の瞳を覗き込んだ。
…興奮、冷やかしと嫌味、の奥の純粋な、値踏み。
狂犬病のドーベルマン相手にどこまでやれるのか。
泉喪の力量によって、我妻を守る愛染の取るべき動き方も変わってくるのだ。
「…犬は嫌いじゃないっす。」
愛染の瞳が大きくなる。
表情から嫌味が消えて、
素
になった。
彼は舌打ちをこらえるように、その眉と口元を歪めて視線を逸らした。
そのままサイドガラスに額をつけて
まつ毛の長い瞳を閉じ、何かを口ずさむ。
耳を傾けると、それは聖歌だった。
アメリカ国家も讃美歌の1つだが、そういう鷹っぽさを感じる歌ではない。
本場の葬式で歌われるような、哀しげだが美しい旋律である。
行先を考えると場にそぐわないことこの上ないが、愛染にとっては意味のある行為なのだろう。
反対側の我妻は、右のサイドガラスに肩と首を預けて寝息を立てている。
― 子供みたいだなあ。 ―
泉喪が思うと、前席のミラー越しに視線を感じた。
東寺に凝視されている。
と思ってぎょっとしたが、すぐに初老が眺めているのは
泉喪ではなく組長であると分かった。
その視線はすごみのある中にも柔らかく
口元には慈しみが浮かんでいる。
― 愛されているよなあ。
組長さん。―
我妻が愛されているのは、
彼が組員を愛しているからだろう。
それは人類の願望の産物である神がヒトを愛するようなものだ。
父が子を愛するように。
我妻は組員を愛している。
そして、絶対に見捨てない。
彼を、彼の親である一條が見捨てた結果、泉喪は彼らの元に派遣されたのだが。
…泉喪の悲哀、東寺の視線におかまいなく、
我妻の寝息は続いている。
彼らを乗せた車輛も疾走を続ける。
目指すは新宿区の端。
文京区との境にある住宅街。
そこに、彼らの臨む修羅の場が控えている。




