alchol
この話に登場する怪人:泉喪。
悪の組織、『村』の怪人。浄連の滝の女郎蜘蛛の子孫。
ナノワイヤーを操る青年。肉弾戦が得意。
温厚な性格。テンションは常に低い。万年花粉症。
※※※※※※
とても晴れている日に、泉喪はこの雑居ビルにやってきた。
その部屋には立派に皮が張られたソファが3つ。
奥の窓に向かってコの字を作っている。
入って左の壁沿いから始まり、窓のある壁を背にして右側の壁に沿う。
コの字の真ん中には、ソファに囲まれるように、堂々としたテーブルが1台。
短いが黒く太い4つの脚に支えられたガラスの張りが美しい。
― スリランカの山奥で切り出してから磨かれたみたいだなあ。惚れ惚れしちゃうガラス加減つうかさあ。一条さんもこういう趣味ならいいのに ―
と泉喪は思った。(実際は中国製であったが)
降りきったブラインドの隙間から室内に漏れるわずかな光。
その光に煌めくガラスの輪郭を筆でなぞるように視線を動かしながら、彼はさらに思う。
― もしここで戦闘になっても、こいつは痛めないようにしよう。―
泉喪に惚れ惚れさせたガラスの平板。その上には酒瓶が夏の雑草か、新宿のビルの乱立のような繁華を成している。
黒だったり赤だったりチェ・ゲバラみたいな外人が遠い目をしていたり、マリリン・モンローみたいな女が大口を開けてこちらに笑いかけている。
ロッキーかアルプスか分からない山脈の隣でヤシの実の重さにこずえがバナナ・カーブを描くそれらは、基本的には縦に直立して並んではいるのだが、いくつかは横に転がって、その丸い口からだらりと粘りの帯びた白い液体を透き通ったガラスにたらしている。
― 52本か。みんなアル中なんだなあ。 -
部屋全体が酒臭くヤニ臭い。
さらに新宿歌舞伎町の居酒屋の便器の裏のようなアンモニア臭が微かに漂う。
室内全体が一条の邸宅で行われる乱痴気騒ぎの後のような退廃に澱んでいて、泉喪は入り口でため息をつきかけた。
「変わってんな。このぼんぼり」
後ろから耳を引っ張られる。
正確に言うとピアスだが、泉喪が寝違えの朝に首を縮めるように、肩越しに振り返ると、勾玉のフォルムのピアスの下部の釣り針のように尖っているその先にまじまじと視線を落としているそのやや小柄で線の細い男が視界に飛び込んできた。
「拷問にも使えそうだ。」
何事も無さげなその声は低い。
彼は泉喪の脇を通り抜けて室内奥の暗がりに進み、薄い光がを床に漏らしているブラインダーの傍らに垂れさがるひもを引く。笹を揺らすような音がした。
日光が空間の四隅を浸食。波が砂浜に寄せて上がるみたいだ。
そのまま窓を開けた男は懐からシガレットを取り出してくわえ、窓枠に備え付けのマッチ箱からマッチを一本とりだして肩をすくめるように火をつけた。
役目を終えたオタマジャクシのような黒棒を、男は、ひょい、と窓の外に放る。
それは放物線を描いてビルの隙間に消えていく。
泉喪はなんとなく、その男の傍らに立って、地割れのような窓の下に視線を落とし、マッチ棒の描く軌跡を見守る。
と、強いビル風が吹いた。
美容室のおしゃれ感満載の黒ジーンズのブランド物の男性がわしゃわしゃとするみたいに、泉喪のゆるくクセがかかった黒髪を乱す。
つられて枠外に堆積したほこりや、隣室から排出された空調の湿気が生暖かく彼の額と鼻筋をなでたため、彼はくしゅんと小さくくしゃみをした。
鼻水が鼻孔の奥から垂れてきたので、すすって引っ込める。
「たまに吹くんだよ」
そう言って瞼をせばめる男の目じりには、ちょうど左右に3本づつ深いしわが入り、泉喪は、昔、『先生』と読んだヘミング・ウェイの名作、老人と海を思い出し、わずかに後ずさる。
悪いくせだ。
悲哀を帯びる者に、感情移入してしまうのである。
移入への自戒に、彼の顔面に比べて大ぶりの肉体は自然に後ろに下がってしまう。
それはあるいは、移入に任せて仕事を放棄したいという逃避行動かもしれないが、実のところ彼自身も判別はつかない。
「3人。出てるが、いずれ戻ってくる。くつろいでいてくれ」
押しつぶしたようなトーンの言葉と、紫煙のゆるい螺旋を空気に残して、男は泉喪に背を向ける。
そのまま室外に出て行った。
― 出来れば、生かしておいてあげたい、けどさ。 ―
泉喪は男の残像を目で追うように、室外に続く閉じた扉に眼を凝らし続ける。
― まあ、こればっかりは、なあ。 ―
青年がため息をつきかけると、急に先ほどよりは3倍ほど強いビル風が、窓上から吹き込んできた。
彼はその孕む埃にケホっとむせてから、体をくの字に折って、盛大にくしゃみをした。