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2056年 東京オリンピック Ohgui 女子48 kg級

作者: 飯山まい子

「おおっと!ろくじゅうきゅうてんごーさん!ろくじゅうきゅうてんごーさん!これはすごい記録が出ました!ロシアのイリーナ選手の記録を1.2 キロ上回り暫定首位です!残る計量はあと二人、これは少なくともメダル確定、ということですね。いやー、小山真理子選手、よく頑張りました!」

「コンディションをしっかりこのオリンピックに合わせてきたあたりは、さすがとしか言いようがないですねえ。自己ベストを1.2キロも上回ってますね」

「2056年東京オリンピック、女子48 kg級 Ohgui、世界ランキング1位、女王、小山真理子、堂々の貫録です!」


食べている間の緊張が切れて、周囲の音がどっと流れ込んできた。日本語の大歓声が響いてきて、「あ、ここは日本なのだ」と実感する。「おつかれさま。よく耐えてくれたよ。ありがとう」いつものルーティン通り、パンパンに張ったお腹(といっても大半が胃袋)を撫で、優しく声をかける。全員の計量が終わるまで、気を失ったり戻したりしてしまっては、失格になってしまう。嘔吐の方はあまり心配しなくていい(ここまで胃袋が引き伸ばされてしまうと、戻そうにも反射自体が起きてくれない)のだが、身体の極限と戦うこの競技、何かしらこうして気を紛らわせなければ、失神の方は珍しくない。69.53という数字、70キロ超えをこのオリンピックの目標としてきた小山としては、少し残念なところではあるが、かといって今の胃袋にあと470グラムの食物を受け入れる余裕など到底ない。階級が上がれば22 kg 増も珍しくない業界であるとはいえ、160 cmの小山にとって70 kgの壁はまだ厚い。


股関節を開き仙骨を後ろに反らせる、大食いの基本姿勢を崩さぬよう、そっと胃袋の状態を確認してみる。競技用のTシャツはまだまだ余裕があるように見えるがその下の皮膚はパツパツに引き伸ばされている。左右に開いた肋骨のすぐ下から、ほぼ直角に飛び出ている胃は下腹部まで目一杯広がって真理子の太ももを完全に覆い隠しており、辛うじて膝が見える程度だ。


「モーリタニアのファリハ、68.32!68.32で暫定3位。小山が完全にライバルを抑えた形になりました。これで銀メダル以上が確定です!」


興奮した解説者の声が流れてきた。勝った!ファリハに勝った!これはもう、金メダルを取ったも同然だ。去年の世界選手権、初めてこの階級で20 kgの壁を破った小山を10 g差で破ったのがこのファリハだった。小山が68.02、ファリハが68.03。あの日の借りは自国開催の五輪で返すと決めていた。優勝した者の慢心か、それとも大会前の減量が上手くいかなかったからなのか、ファリハがあれからたった90 gの容量増加で留まっていることが、小山は不思議でならなかった。3位?ファリハが暫定3位?確かに若いイリーナの膨らみ方は凄かったが、小山はまさか、ファリハがイリーナに2位の座を譲るとは思っていなかった。何が起こるか分からないのが五輪、最後まで気を引き締めていけよ、と言った鬼コーチの声が脳裏にこだまする・・・そうか、これが五輪か・・・いけない! いま気を失う訳にはいかないのだ! 息を細かく吸うのも辛いほどだが、一方でどこか、人間のものとも思えぬような自らの腹部の変貌に興奮してしまう自分がいる。少しでも気を紛らわそうと、記憶をたどる小山の脳裏を、今までの長い道のり一コマ一コマが、まるで走馬灯のように駆け巡った。


***


小山が生まれた2032年は、国連で飢餓・栄養失調の撲滅宣言が出された転機の年だ。世界が人口減少に転じ、穀物が有り余りはじめ、痩せ過ぎの美意識に対する反動も相まって、大食いが幸福の象徴、女性の美徳として急速に周知されていく時代であった。テレビが毎日のように大食い番組を放映し、日本の「大食い」が世界の "Ohgui" 競技スポーツとして急速に認知されるようになる。階級別に体重の増加量を競う、生命の本質に関係した、ある意味で最も原始的な競技である。


代表に選ばれてからというもの、自らの半生がよく取材などで特集されるが、小山は決して、もとから大食いのできる体なわけではなかった。今でこそ、この話をすると驚かれるが、幼少期は体が弱く、給食を半分も満足に食べられないので、周囲からとても心配されていたのだ。「なんとか給食だけでも残さず食べられるように」と母が近所の大食い道場に連れて行ってくれたのが小山の快進撃の始まりとなる。


当時の日本チャンピオンや名立たるプロを複数擁するこの道場は指導法が充実していることで有名で、腹部臓器の解剖から食欲の調整方法に至るまで、緻密なカリキュラムを構成していた。当初 200 g 超えるのもやっとであった小山の胃は、1年を待たずして1,000 gを受け入れるようになり、血色も目に見えて改善された。家族はみな喜び、もう道場に通わなくてもよいと安堵したのだが、今度は真理子の方が大食い競技の面白さに目覚めてしまい、引き続き鍛練を願い出たのである。自らの限界に挑むプロたちの姿勢が素直に恰好よく、自分も限界に挑戦してみたかった、というのが表向きの理由だが、折しも次回の自国開催五輪では日本発の Ohgui 競技が正式種目として採択されるのではないか、と騒がれ始めた時期、他のスポーツは「からっきしダメ」だった真理子が「大食いでなら五輪の舞台に立てるかもしれない」とほのかな打算をもったことも事実であり、自らのパンパンに変形する胃と、満腹の状態そのものに一種の非日常的な高揚感を感じるようになっていたこともまた、事実である。(大食いプロになった今、そのような高揚感はもはや日常の一部なのだが笑)


小山の記録は、身体の成長とともに順調に伸びた。小4で1,500 グラムを突破し、小5で2,600 グラム、小6で4,200グラム。素人の大人が驚愕するような量を平気で食べることができるようになってきた。中学に入り強豪の大食い部に進むと、毎日の詰め込みで急激に容量が増え(本当の意味での限界に到達できるようになった、とも言うのかもしれないが)中1の3月に都の新人戦で7,730グラムを記録する。これで都の強化選手に指定され、大食い訓練・コーチ陣が輪をかけて充実し、かつ厳しくなった。中2のうちに二桁の大台を突破。部の主将として燃えていたこともあるが、食べれば食べるだけ記録が伸びるため、真理子は楽しくて仕方がなかった。中3の引退試合では14,200グラムという、当時の中学日本新記録をマークし優勝する。将来が約束されたかに見えたが、ここからの道も決して平坦ではなかった。毎日毎日部室で胃をパンパンにする過酷なトレーニング。もう大人でも十二分に「大食い」と言われる域に達しているのだから、男も仕事も選り取り見取り、選び放題だ。これ以上、貴重な青春を大食いに懸けるべきかどうか?「もったいない」という周囲の反対を押し切り、真理子は高校入学までの半年ほど、大食い競技を離れることになる。


自由に過ごした半年間は、それはそれで非常に楽しいものだった。小遣いは時折大食いチャレンジをするだけで十分に稼げるし、気持ち悪くなるまで食べることもない。大食い用の米ではなく、自分で選ぶ好きなメニューは格別だった。高校は大食いの推薦で決まっていたから、勉強にあくせくする必要もない。真理子は(自分でいうのもなんだが)青春、というものを満喫したように思う、と同時に、どことなく物足りなさも感じていた。


大食い推薦で入った高校で、真理子はブランクの意味に愕然とすることになる。当時の監督の言葉で「胃は嘘をつかない」というのがあるが、その意味を真理子は身をもって噛みしめることになった。入部初日の容量測定で真理子は14キロどころか、10キロにも到達できなかったのである。大食い推薦の基準値以下、部内の最下位であった。「お前、何のためにここ来たの?」周囲からの高い期待はすぐ嘲笑に変わり、容赦ない扱いが真理子を待っていた。しばらくトレーニングをさぼっている間に、胃も脳も、大食いの感覚を忘れかけてしまっていたのである。大食いで最初に感じる限界は胃の物理的な限界ではなく、脳の心理的な限界だと、真理子も知ってはいた。知ってはいたが、9.8キロ食べたところで、どうにも箸が進まなくなってしまったのである。


「お前、何キロ太った?」監督が呆れたように吐き捨てた。このときの監督が真理子に向けた氷のような目を、真理子は以降、辛いことがあるたびあえて思い出すことにしている。以前より小食になったとはいえ、中学の日本王者だ。腹6分目で食べたところで、好きなものを気ままに食べていればカロリーオーバーになるのは目に見えている。もともとやせ型だった真理子だが、この半年で18キロも増やしてしまっていた。腹回りにしこたまついた脂肪は、胃の拡張を妨げる。成長期が終わり、身長の伸びが止まった真理子は代謝も落ちていたのだと思う。必死でトレーニングに勤しんだが、体系をもとの水準に戻すまで丸2年、記録をもとの水準に戻すにも丸2年を要した。以前の記録の急激な伸びは、真理子の成長期が成した業とも知った。気絶寸前まで詰め込んでもなかなか記録が伸びないスランプが続き、真理子は何度もくじけそうになった。だから高2の秋季大会で14,530 gをマークしたときは、ベスト8にも入れない成績であったにも関わらず、中学時代の自分をこれでようやく超えられたのだと、かつて自分が日本一になったときより遥かに嬉しかった。その後も継続的に限界へ挑戦し続け、高3の引退試合では16キロまであと一歩、という15,990 gをマーク。部内三本指に入って団体戦全国制覇には貢献し、辛うじて大食い推薦合格者としての面目は保った。成長期の自分と成長期後の自分との間にある身体の違いを把握してトレーニングを自ら工夫できるようになり、次第に(少しずつではあるが)自己ベストは更新されていった。


部内1位でこそなかったとはいえ、超強豪校。依然アスリートとして大学からのスカウトには困らなかったから、真理子は大学も大食い推薦で進むことにした。プロや五輪を現実のものとしてとらえ始めたのも実はこの頃だ。中学の二の舞は踏むまいと、引退試合翌日から進学予定の大学大食い部に入門し、大学生に交じって厳しい練習にも耐えた。大学進学後は新人戦で16,630 g、2年時夏に17,250 g、3年時夏に18,010 gと着実に記録を伸ばし、主将として部を率いた最終学年の秋は19,680 gと、日本選手権で優勝。中3時に優勝してから実に7年ぶり、驚異的な返り咲きを果たし「(48 kg級で)大台(20 kg)に一番近い女」と言われた。自国開催の五輪まで僅かと話題性も十分。大手企業をスポンサーにつけて大食いプロとなり、日の丸を腹に世界と戦う立場となった。昨年の春、カイロ世界選手権でファリハと死闘を演じた末、ともに前人未到の20 kg超えとなり、日本代表としての座を揺るぎないものにしたことは周知の事実である。世界選手権ではファリハに負けたものの、その後の地域大会などで地道にポイントを稼ぎ、世界ランキング1位の座は3か月前から小山が制していた。


***


「67.80、67.80!ベトナム代表ファン・チ・トーは20 kgに届かず!この瞬間、日本代表、小山真理子の金メダルが確定しました!オリンピックOhgui競技、女子48 kg級、初代王者は小山真理子、日本の小山真理子です!有言実行!歴史に名を刻みました!」


アナウンサーの興奮した声が小山の思考を中断した。二十余年を振り返ったとはいえ、時間にすれば僅か数分であったらしい。場内の大きな電光掲示板には自分の名前が躍っている。夢じゃない。夢じゃない。(もっとも、このお腹の息苦しさは夢で感じられるような生易しいものではない。)蓋を開けてみれば圧勝だった。もう少し安全にセーブしてもよかったかな、などとも思うが、まあ結果オーライだ。場内の大歓声に小山真理子は何度も何度も手を振った。


2056年東京オリンピック、女子48 kg級 Ohgui 女子48 kg 級

金 日本     小山真理子 (24) 48.00 -> 69.53 (+21.53) WR

銀 ロシア    イリーナ (18) 48.00 -> 68.33 (+20.33)

銅 モーリタニア ファリハ (25) 48.00 -> 68.32 (+20.32)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ご感想・今後のためのご批判など、遠慮なくお教えいただければ幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。

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