猫のクリスマスプレゼント
今回は橙と幽々子さんのお話。
12月24日、雪の降り積もった幻想郷。
白玉楼もその類にもれず。
幽々子が縁側から今に戻ると、そこには大きなプレゼント箱が―――ー。
巳の刻に、障子の戸を開け縁側に出る。
目の前に広がっているのは、白く染まった白玉楼の庭園。
「今日も、幻想郷の冬はかわりなし……ね」
呟き、縁側から門に伸びる足跡に目を向ける。
ちょうど、辰の刻頃に、
――――幽々子様! 私、買い物に行ってまいります!
そう言った妖夢へ、炬燵に入ったまま返事をしたのを思い出す。おそらく、縁側から走って門まで行ったのだろう。縁側から空に飛べばいいのに、わざわざ門を通る辺り律儀なのか、玄関を使わない辺りそうではないのか。これを妖夢に聞かせれば、彼女は慌てて謝罪し、次からは本当に玄関からしか出て行かなくなるだろう。普段なら、そんな可愛らしい彼女の姿を見ようとして、今からどうやって声を掛けようかと悩むところ。けれど、雪の上にできた足跡を見るとそんな気分にはなれなかった。
縁側から、妖夢が走った足跡。それが、彼の足跡に重なる。
昔の話だ。
一人の剣士が、白玉楼を去った。
孫に引継ぎの話を、私に頓悟したという話だけを残して。
彼と私は、たぶん上手くやれていなかった。彼の厳格な態度や年長者なところ、どこを見ても、彼には気後れしてしまった。護衛でもあり、庭師でもあり、一応、私の世話もしてくれたけど、現在妖夢にしているように、甘えることはなかった。そのことを、彼がどう思っていたのかは知らない。私も、知ろうとは思わなかった。
私は、彼が去った直後は、代わらない日々が続くと思っていた。彼がしていた仕事を全て妖夢がすることになっただけのことだと、思っていた。
だが、彼が白玉楼を後にして数日後、寂しさで胸が苦しくなった。
そうなった理由は、今になっても分からない。
冥界を管理する私が、亡霊の私が、別れを悲しむなんておかしな話。
だから、この身にそのような余分な感情はいらないと、理由を知る必要もないと、思考を切って捨てた。
冥界は、輪廻転生を待つ幽霊たちの集い所。
何れは別れ生くものしかいない。ならば、別れを惜しむ心などいらない。
亡霊は亡霊らしく冷たく。身も心も、冷淡に――――。
「……はぁ。こんなこと考えるなんて、らしくないわね」
足跡から目を外し、空を見上げる。
水面を走る落ち葉のような、白雲。
透き通った湖を思わせる広大な、青空。
それらよりも遥か高みから、太陽が此方を見下ろしている。
快晴の空ならば、じきに、雪の足跡も消えるだろう。そうなれば、いくらかはましな私に戻るはず。それこそ、今日を凌げば、後はいつもどおり。
私は、妖夢を可愛がる、亡霊のお嬢様に戻るだろう。
さっきの私は、まるで思春期に悩む少女。
さすがに、もうその時期は通り過ごした身だ。
早くいつもの自分に戻りたいなと考え、縁側を後にする。
向かう先は、先ほどまでいた炬燵のある一室。冬は、暖を取ってみかんでも食べるのが一番なのである。猫だって、炬燵で丸くなるのだ。亡霊が炬燵で丸くなっても、罰は当たらないだろう。
そう思い、障子の戸を開ける。
木枠が床に擦れる音が軽く鳴り、戸が開く。
視界に映ったのは、畳の床の中央に置かれた炬燵と、その上に置かれた、大きなプレゼント箱――――。
「……え?」
思わず、おかしな声がでた。いつもの私なら、「あら?」というところが「え?」だ。その所為なのか、頭は混乱しているはずなのに、自分が混乱しているという自覚は持てる。
縁側に出るまではなかった筈の、箱。ピンク色の箱で、大きさは人一人が余裕で入れそうな程大きな箱。それが、赤いリボンで結ばれている。
こんなことをする人物は、一人しか想像できないのだが、それは今のところどうでもいい。私としては、中身に興味がある。何せその箱は、ガタガタ、と動いている。少なくとも、箱の中身は動くものなのだろう。
動物だろうか。炬燵に動物と来ると、先ほどのように猫が浮かぶけれど、猫を入れるには大きな箱だ。では、犬だろうか。大型犬ならば、入っていてもおかしくはないけれど、鳴き声が聞こえないのはおかしい。
とりあえず、好奇心には勝てないので、箱のリボンを取り、箱のふたを持ち上げる。
そして、中を覗き込む。
「――――! ――――!?」
「あらら。確かに、炬燵に猫は私も連想したけれど、これは――――」
中に入っているのは、八雲藍の式神こと、橙。
リボンでプレゼントのように結ばれ――なぜか口元まで結ばれているが――、箱の中からこちらを見上げる彼女。なるほど。これでは声が聞こえなくても、仕方ない。
恐らく、無理やりプレゼントのような状態にされてしまった橙。
「……あ」
私は彼女を見て、場違いながら、そう言えばと思い出した。
今日が12月24日で、紫がプレゼントを贈ると言っていたことを。
===
「た、助かりました。ありがとうございます。幽々子さん」
箱の中から橙を助け出し、リボンを解いてあげると、お礼を言われた。
現状、何故彼女が箱詰めされていたのかはわからない。
とりあえず、寒いだろうから炬燵に入るのを促してから、事情を聞いてみる。
「ねえ、橙ちゃん。どうして、箱の中に?」
かなりおかしな質問だけれど、彼女が箱詰めされていたのは事実なので、そう尋ねるしかなかった。
彼女は私が質問をすると、目をぱちぱちと数回瞬かせ、口を開く。
「えっと、何故私は箱に入れられて、白玉楼にいるんでしょう?」
「…………ああ」
質問をしたのはこちらなのだけれど、向こうから質問が飛んできてしまった。猫特有の気まぐれさが式神になっても残っているのは、彼女と接して来た身として理解はしていた。だが、こうなると苦笑いしかできない。気まぐれな相手との対話。さらに、彼女の思考は子供と同じくらいのもの。円滑に話を進めるのは難しいだろう。
しかし、こちらも今回の出来事に大方の予想を付けてはいる。なので、彼女に一つ一つ確認を取る事で、質問に答えやすくしようと思う。
「えっと、橙ちゃん。あなたは、紫に箱詰めされた?」
「え、え……私、紫様に誘拐されたんですか!?」
――――あ、そもそも誰に入れられたのか分かってないのね。
喉から出そうだった言葉を心に留めて、適当に相槌を打ちつつ、一旦、質問を変えることにする。
「んー。たぶんだけれど、そうじゃないかしら? 橙ちゃんは気づいたら箱の中にいたの?」
「はいっ! わたし、気づいたら箱詰めにされて、リボンで結ばれて何がなんだかわかりませんでした」
「だから、暴れていた?」
私の言葉に彼女は頷く。
「声も出せませんでしたし、動くことくらいしかできなかったので。えっと、藍さまが教えてくれたんです! 閉じ込められて、声も出せないなら、とにかくまずは動いてみようって。出られなくても、外の人は気づいてくれるかも知れないって。藍さまの言うとおりでした!」
「ふふふ。藍は良い主になっているのね」
自分の主である藍の話をできてなんだか嬉しそうな橙ちゃん。こんなに楽しそうに笑うのだから、和風の部屋に西洋風のプレゼント箱があれば例え動かなくても気づくとは、言わないほうがいいだろう。
とりあえず、ここまでで分かったのは、橙は何も言われず、気づけば箱の中にいたということだけ。
まあ十中八九、紫が関わっているとは思うのだけれど、彼女が何を橙ちゃんにさせたくて、私をどうする気でいるのかが全く判らない。まったく、こうして親友の思考が読めないことはいつものことだけれど、たまには分かりやすくてもいいんじゃないかしら。そんなだから、霊夢に胡散臭いとか言われるんだわ。
「あ……」
私が考え込んでいると、橙ちゃんが小さく声を出した。
「あら? どうかしたかしら?」
「い、いえ。何でもないです!」
首をぶんぶん横に振って私の言葉を否定する彼女。けれど、彼女の視線はチラチラと、炬燵机の上の竹籠に入った蜜柑に向いている。彼女はどうやら蜜柑を食べたい様子。寒い雪の日は、炬燵で蜜柑が定番なのは亡霊も猫も一緒らしい。
あ、元々は人間の定番だったかしら。まあ、それはおいておくとして――――。
「――――!」
私が竹籠の中の蜜柑を一つ取ると、彼女の目が私の手元に固定される。ゆっくりと、丁寧に蜜柑の皮を向き、中果皮を綺麗に取っていく。なんでも、中果皮は栄養があるのでそのまま食べるのが良いらしいけれど、私は中果皮の食感があまり好きではないのでいつも綺麗に取っている。後、なんだか綺麗に中果皮がなくなった蜜柑の形が好きなのもある。ただの好みなのだけれど。
そうやって食べられるようにした後、蜜柑を一切れ、口に運ぶ。
口の中に、甘酸っぱい味が広がる。適当に取った蜜柑だけれど、ちょうどいいものを選べたようだ。
私が蜜柑を食べているのを、橙ちゃんはじーっと見つめている。その姿がなんだか愛らしくて、このまま気づかない振りをしていたいところだけれど、それは少し可愛そうなので、ここで蜜柑を一切れ、彼女に近づけ、
「はい、橙ちゃん。あーん」
と、言ってみる。
特に迷うことなく、彼女は小さな口を目一杯開き、「あーん」と声を出す。その口に、近づけた蜜柑を入れてあげる。
すると、彼女は目を細めてなんだか刺激に耐えるような顔をした後、美味しいのか顔を蕩けさせた。猫は普通柑橘系を嫌うはずなのだけれど、猫又は違うのだろうか。彼女が蜜柑を食べるのは随分前から知っているけれど、未だに気になってしまう。まあ、猫と猫又が同一かと言われれば違うとしか言えないので、食べられると納得するしかないのだけれど。
「んぐ……んぐ、美味しいです! 幽々子さん、ありがとうございます!」
「ふふ。どういたしまして。まだ食べたかったら食べていいわよ」
そう言って、彼女の前に綺麗に向いた蜜柑の残りを渡す。
「? ……幽々子さん、食べないんですか?」
不思議そうな顔をして、首を傾げる彼女。
普段なら竹篭の中が空になるくらいは食べるのだけれど、今日はやはり調子がよろしくない。たかだか、雪の上の足跡を見ただけだというのに、いや、今日は12月24日。彼がここを去ったのも、確かその日だったような――――。
「…………幽々子さん?」
「え、…………」
名を呼ばれて、橙ちゃんのほうへ目を向ける。そこには、こちらをじっと見つめる彼女の姿がある。しかし、その表情は、先ほどまで蜜柑に向けていたものとは違った。眉は下がり、いつもはピンと立っている耳も少し垂れ、どこか元気がない。そんな表情でじっと此方を見ている。自分の状態と照らし合わせて、こちらを心配しているのではと、想像するのは容易い。
「幽々子さん。どうしてこの日はいつも、そんなに寂しそうなんですか?」
彼女の問いに、驚く。
橙ちゃんは、私が毎年この日に、こんな状態になってしまうことに気づいていたらしい。
私としては、皆に隠してきたつもりでいた。気づかれても、紫くらいのものだと思っていた。橙ちゃんみたいな子の目は、ごまかせないということかしら。
こちらを見つめたまま、橙ちゃんは続ける。
「毎年、毎年。幽々子さんは、この12月24日におかしくなっちゃいます。特に、雪が降った日が酷いです。普段よりも物腰が弱々しくて、声も小さくなって、笑っているのに上辺だけの笑顔で――――」
橙ちゃんが話すのは、私が知らなかった私自身のこと。
どこか弱々しくなっていることは気づいていた。声が、小さくなることも知っていた。自分のことは、自分が一番良く分かっているつもりだった。
けれど、笑えていなかったことを知ったのは、初めて。
笑顔が出せなくなるほど、私は彼との別れを寂しがっているというのだろうか。
それではいけない。それでは、冥界の管理者足り得ないし、亡霊でもない。従者の妖夢に示しがつかないし、なにより、ここを去った彼に申し訳ない。
「幽々子さん」
「……何かしら?」
「よかったら、聞かせてくれませんか? 何があったのかを」
「…………」
一瞬、彼女に話したところで――――と、諦めを良しとする考えが頭を過ぎる。
こんな考えではいけない。
改善したいと願うなら、自分ではどうしていいか分からないのならば、誰かを頼るのは当然のことだ。彼との別れは、別段秘密にすることでもない。そして、橙ちゃんは親友の式の式だ。信用に値する。
だから、遠慮なく話した。
彼――――魂魄妖忌が白玉楼を去ったという、それだけのお話を。
このお話に物語性は無い。ただ、私の護衛であり、白玉楼の庭師であり、妖夢の祖父だった彼がここを去った。そして私は毎年、彼の去ったこの日になると、こんな状態になる。
それだけの事実を述べ、口を閉ざす。
対面に座る橙ちゃんも、口を閉ざしている。
静寂に包まれること、数十秒。
「……幽々子さん。ごめんなさい」
何故か、彼女は私に頭を下げた。謝罪をする理由が分からず、私は尋ね返す。
「橙ちゃん。どうしてあなたが謝るの? あなたは何も悪いことをしていないと思うのだけれど?」
「いいえ。しました。私は、幽々子さんに対して余計な心配をしちゃいました」
橙ちゃんは、弱々しい表情と声で続ける。
「私、幽々子さんが思い悩んでいると思っていたんです。でも、さっきのお話を聞いたら、それは違うと思いました。だって、家族の方と別れるのは寂しい事ですから」
――――だから、ごめんなさい。
そう言ったまま、彼女は頭を上げない。
しかし、彼女が謝る必要はない。なぜなら、私はその寂しさについて悩んでいるのだから。
「橙ちゃん。謝らなくていいわ。私はあなたが思ったとおり悩んでいるのだから」
「え……。でも、今の話は妖忌さんがいなくなって寂しいって話でしたよね?」
「そう。寂しい。けれど、私はそうあってはいけないの。冥界の主は常に、ここにあるものと別れなければならない。亡霊は、冷たくなければならない。別れを惜しむ気持ちは余計だわ。だから、困っているの。寂しさを感じていることに、ね」
私は、寂しさはいらないと思う。
寂しさなんて、あるだけ余計なはずだ。人も、妖怪も、どんなものにだって、死がやってくる。いや、死、となると、厳密には違ってくる。そう、別れという言葉のほうが近い意味合いになるだろう。死を操る程度の能力を持つ私だから分かるのではない。こんなこと、どんな形であれ、この世に存在しているものなら遅かれ早かれ気づくことだ。
別れが避けられないなら、寂しさなんていらない。誰かとずっといることなんて不可能。現に、私の前から、彼は去ったのだから。
「そんなの、おかしいです!」
私の言葉に、目の前の橙ちゃんは予想以上に大きな声で反論した。
「だって、身近な人がいなくなったら寂しいじゃないですか! それなのに、それを感じるのがおかしいだなんて。絶対おかしいです!」
そう。本当なら、橙ちゃんの思考が普通なのだと思う。けれど、それでも私は――――。
「……ええ。普通はそうだわ。でもね、私はそうは思えないの。彼がここを去る前、私はこんなに苦しくなる何て思っても見なかった。でも、現実は、違ったの」
そうだ。もう帰ってこないことを頭で理解していた。
けれど、心では理解していなかった。
彼のいない寂しさを感じた。でも、それを表に出すわけにいかなかった。なぜなら、傍には彼の孫である妖夢がいたから。私以上に辛い筈の彼女の前で、弱音は吐けなかった。
だから、どうにか12月24日にのみ自身の不調がでるように留められた今でも、寂しさを感じたいとは思えない。これは、あの日から今まで、自分でも言い表せないような寂しさを感じてきたからこその発言なのだ。
「橙ちゃん。私は寂しさなんていらない。今まで経験してきたけれど、こんなのもの、無いほうが私は嬉しかったわ」
私の言葉に、橙ちゃんは納得いかない様子だ。
どうしよう。怒らせる気はなかったのだけれど……どうやったら落ちついてくれるのかしら。これは、私と橙ちゃんの価値観が違ったというだけの話で、彼女が思い悩む必要はどこにもないのに。
大声を上げて息を乱したのか、肩で息をする橙ちゃん。疲れた様子で、先ほどまでの覇気は無い。だが、私に対する怒りのようなものは感じ取れた。静かな怒りとは、まさにこのことなのだろうかと思っていると、彼女が口を開く。
「じゃあ幽々子さんは、紫様や妖夢さんといつかお別れした時も、寂しさはいらないって言うんですか?」
彼女の言葉に、そのときを想像してみる。今の私では、酷く寂しくなると思う。たぶん、別れたくないと泣く。それが死によるものなのか、彼のようにここを去るだけなのかはわからないけれど、きっとそうなってしまうだろう。
だからこそ、今のうちに寂しさを消してしまいたい。
「そうね。寂しさを感じる必要は無いと思うわ。だって、いつか別れるのが分かっているのだから。先の見えた出来事に対して感情を抱いても無駄なことでしょう?」
最後まで言い切ると同時に、橙ちゃんが立ち上がった。
そして、彼女は先ほど以上に怒りを露にして叫んだ。
「幽々子さんの馬鹿! それじゃ紫様も妖夢さんも、妖忌さんだってかわいそうです!」
――――かわいそう。
彼女の発言に、私はただ固まることしかできない。
何故か、かわいそうという言葉が酷く耳に残った。
彼女は、大声のまま続ける。
「寂しいから、別れた後も別れた方たちを思い出せるんです! 寂しいから、楽しかった時のことを思い出して、寂しいから、一緒にいた時の暖かさが懐かしくて……」
必死に訴えかけているのが分かる。
私に、何かを伝えようとしていることは分かる。けれど、それが何なのかが私にはまだわからない。
「幽々子さん。私たちが寂しさを覚えるのは、別れの時までに楽しい日々があったからこそです。別れまでにたくさんの思い出を作って、その思い出の日々がもう続かないかもしれないから、寂しいんです。そして、寂しいのが自分だけっていうのが、とても悲しいんです」
――――寂しさをなくせば、相手を悲しませる。
心の中で、呟く。
橙ちゃんが私に寂しさを説いている途中で出た言葉は、ある意味新鮮なものだった。
私は、自分が寂しくなければ良いとばかり思っていた。自分の寂しさだけ無くなれば、例え別れが訪れても、感情に変化は無い。何も、問題は無いはず。そう、思っていた。
けれど、橙ちゃんは言った。寂しさが無ければ、別れた相手が悲しむ、と。
「幽々子さん。逆の立場で考えてみてください。幽々子さんは、紫様や妖夢さんといつかお別れしちゃうときに、寂しさなんて無い。別れに、何も感じないって言われたらどう思うんですか? 幽々子さんが妖忌さんとお別れした時、もし妖忌さんからそう言われたら、どう思っていたんですか?」
いつしか、橙ちゃんの声は諭すような、穏やかな声に変わっていた。
紫に、妖夢。彼女たちと別れてしまったとき。そして、妖忌、彼と別れた時、もしそんなことを言われればどうなるか。
彼女たちから言われたならば、嘘をついているんじゃないかと、願う。楽しかった日々が名残惜しくはないのかと、問いただしたい。
彼から言われたのなら、酷い悲しみになっただろう。彼のいなくなった寂しさ以上に重いものとなったはずだ。長い間同じ屋根の下にいたはずなのに、何故、そんなにも平静でいられるのかと。
ああ――――そういえば、彼はここを去る時、至って冷静だった。
酷い寂しさを覚えそうで、記憶の片隅にできるだけ追いやっていたことを思い出す。
頓悟した彼は、ただただ冷静で、顔色一つ変わることがなかった。その時、思ったはずだ。
――――この人は、寂しくないのだろう。
ああ、何故忘れていたのか。私は、相手が寂しさを抱いていないなら、自分が悲しくなることを、体験している。
私は、彼が去ったのが寂しかったんじゃない。
私は、彼が去った時の彼の心情を知らなかったから、不安を覚えて、寂しかったんだ。
なら、私はどうするべきだろう。
いや、どうするべきも何も、寂しさを無くしてはいけない。これから別れる誰かに、悲しい思いをさせたくはない。
では、別れとはどうあるべきものなのか。
きっと、それは二人の気持ちが同じであればいいはずだ。
お互いに寂しいなら、その気持ちを吐露するだけで、相手も自分と同じだと気づける。
一番いいのは、その別れに至るまでに、別れを寂しさではなく、互いに悔いのない、晴々としたものにすること、じゃないだろうか。
「……幽々子さん?」
橙ちゃんが不思議そうな顔をして、こちらを見た。
首を傾げて橙ちゃんに視線を向けると、彼女は不思議な顔をして尋ねる。
「どうして幽々子さんは、笑っているんですか?」
「…………そうね。どうしてかしら」
そう。彼女に指摘されたとおり、私は笑っている。
理由なら、もう分かっている。
一言で言うならば、自分の馬鹿さ加減がおかしくなったのだ。
「あー。橙ちゃん、ちょっとこっちに来てもらえない?」
「へ?」
急に私の様子が変わったからだろう。彼女は私の言葉に首を傾げるばかり。
数十秒もの間手招きを続けて、ようやく彼女が私のすぐ横にくる。
私は彼女を抱え上げ、自分の膝の上に下ろして抱きしめた。
「え、え?」
驚く彼女に、私はこの一言を告げる。
「ありがとう、橙ちゃん」
「へ、え? ど、どういたしまして?」
困る橙ちゃん。けれど、私は彼女を抱きしめる力を弱めない。
私は、一人で勝手に気づいてしまったのだ。私が求めていたものに。
私は、寂しさをなくしてはならない。
何せ、紫や妖夢を悲しませることも、彼女たちとの別れで自分が傷つくのも嫌なのだ。死を操る私ではあるが、大切な人たちを傷つけるつもりは毛頭ない。
だから、彼女の言葉で、傷つけないやり方に心が傾いてしまったわけだ。
でも、こんなに簡単に心変わりしちゃうなんて。女心は秋の空なんていうけれど、こんなところでも移りやすいものなのかしら。貴方なら、なんていうかしら。もっと、強い意志を持って、自分の意思を貫けとでも言うかしら。それとも、過ちに気づけたなら、それを大事にしろと言ってくれるかしら。
――――ねえ、妖忌。
「うにゃ~」
とにかく、私は橙ちゃんをぎゅっと抱きしめ続ける。
たぶん、私はいつもどおりに戻っている。12月24日に苦しんでいた私は、彼女の前にはいないはずだ。だからだと思う。彼女は私を抱き返して、顔を綻ばせて此方を見ていた。
その笑顔に、何故だか胸が熱くなる。
私の心に、彼女の暖かな心が届く、そんな気がした。
===
障子の戸が横に開く。来訪者は、妖夢ではなく、よく見知った親友のものだ。だから、特に何も言うことはない。私の対面へと座り、炬燵の中へ入ってくるのを黙って見つめる。
「ふふふ。どうやら、いい刺激にはなったみたいね」
「随分心臓に悪い刺激だったわよ、紫」
私の対面に座る、私の親友――――八雲紫にそう声をかけた。
プレゼント箱が置いてある段階で、紫の仕業としか思っていなかったけれど、こうしていざ何事も無く目の前に現れると反応に困る。特に、今回は私が紫の手のひらで踊らされたようなものだし。
いや、どうなのだろう。橙ちゃんがあそこまで声を張り上げることまで、彼女は予想していたのだろうか。
「橙は寝てしまったのね。しかも、あなたの腕の中で」
紫は、私の腕の中を見て言う。
紫の言うとおり、現在、私の腕の中で橙ちゃんは眠っている。抱きつかれた後、眠ってしまった橙ちゃんを起こすのも忍びないので、このままの状態でいるのだ。恐らく、怒り、涙を流し、大声で叫んで疲れたのだろう。
「それで、幽々子。少しは気分が晴れたかしら?」
「……そうね。たぶん、考え方を変えるきっかけになったわ。これから、時間をかけて私は橙ちゃんが必死に伝えてくれた考えに傾いていくわ」
大切なことに気づけた。けれど、これまで根付いていた私の思考は業が深いはず。
やっぱりこれまでの考え方を突然変えるなんてコトは難しいので、そこは徐々にというのが私の考えだ。
「ふーん。考え直す気にはなってくれたのね。なら、橙に感謝しないと」
眠りにつく彼女を見つめて、紫が微笑む。
この一連の流れのとおり、紫は私の考えをどうにかしたかったのだろう。それが分かった今だからこそ、少しだけ聞きたいことができた。だから、それについて尋ねてみる。
「ねえ、紫。もし、私があなたとの別れを寂しく感じないと言ったら……怒る?」
「怒りはしないわ」
先ほどまでの笑顔は消えて、明らかに怒っていますといいたげな表情で彼女は言った。
そして、
「ただ、悲しいわよ」
そっぽを向いて、そう続けた。
だから私は、
「そう。そう言われてみると、悪い気はしないわね」
少しだけ恥ずかしいけれど、そう伝えた。
私が恥ずかしそうに笑うのを見て、紫も少し頬を赤くしている。彼女も恥ずかしいのだろう。だって、今回のことをまとめると、私の考えが気に食わない紫がどうにかして考えを改めさせたかったということになる。それはつまり、いつまでも私の中に紫を残しておけというメッセージ。親友からのラブコールは、親友も私も結構気恥ずかしいものだ。
そんな感情を抱きつつ、私は紫にもう一つ疑問に思っていたことを尋ねる。
「そういえば紫。どうして、橙ちゃんだったの?」
私が疑問に思っていたことは、私の説得に橙ちゃんを起用したこと。藍ではいけなかったのか。紫でも、妖夢でもいけなかったのか。そこが、気になってしまった。何故って言えば、橙ちゃんとはそれなりに仲良くはあったけれど、紫ほどの親密さはないし、妖夢ほどずっと近い位置にいたわけでもない。
私の疑問に、紫は即座に言葉を返す。
「橙の感性が一つ。過去が一つ。後は、私、藍、妖夢よりも、あなたと距離が離れていたからよ」
「…………どういうこと?」
「橙の感性は……式神とは言っても、やっぱり子供なの。それに、思考も子供と同じくらいだから、気になったことは気にせずどんどん聞いてくるわ」
紫の言葉に、一つ納得する。確かに、今日の用に物怖じせずにどんどん質問攻めにされるのは少し慣れていない。特に、それが子供ともなるとよけいに、だ。
今回、私が思い悩んでいた出来事を聞くのに、遠慮は必要ない。ならば、橙は適役だったわけだ。私の調子の変化にも、気づいていたのだから。
「橙の過去についてはね、彼女、知り合いの猫と何度もお別れをしているの。橙は猫又だけれど、彼女の周りの猫は普通の猫だから、寿命はとても短いわ。妖怪どころか、人間から見ても一瞬よ」
橙ちゃんが、別れを経験していた。
そのことを聞いて、彼女に謝る必要があると思った。少なくとも、私はその点において彼女を見下していたような気がする。彼女の言葉で考えを改めはしたけれど、彼女が出したその言葉は経験のないことを、ただそういうものと感じ取って話しているだけだと思っていたからだ。
彼女の言葉に妙な凄みや重さがあった理由に合点がいった。彼女もまた、別れを経験していたのだ。
「それで、最後の距離についてだけれど、私や妖夢だとあなたとの距離が近すぎて、それとなく気づかせることができなかったのよ。幽々子も、橙と話している時は、橙が次に何を言うのかなかなか分からなかったでしょう?」
「……確かに、そうだわ」
そもそも橙ちゃんが私にお説教と言うか、説得をすること自体が予想外すぎるというかなんというか。
でも、紫の話を聞くと橙ちゃんで正解だったのだと思う。というか、彼女でなければ私は話を聞けなかっただろう。他の人なら、説得するというか、相手が何かをする気配を感じ取って話を逸らしたりして逃げていただろうから。
「それにしても、ぐっすり眠っているわね。猫は炬燵の中で丸くなるって言うけれど、温かければどこでも良いみたいね」
ふと、紫が私の腕の中で眠る橙ちゃんを見て言った。
私は反論すべき点があったので紫にこう言う。
「紫。私は温かくはないと思うのだけれど……」
亡霊は冷たいもの。身も心も、何かもが。
これまでの私はそうあろうとした。そうであったと思う。今日、変わるきっかけをつかんだけれど、そんなに簡単には変われない。だから、私はまだまだ冷たいものだと思っている。
けれど、
「何を言っているのよ。橙にあったかくしてもらったんでしょう?」
――――あなたの心を。
そう言った紫の言葉を受けて、ああと納得した。
そして、橙ちゃんが箱に入っていた時のことを思い出した。
箱詰めされて、リボンで結ばれた彼女。その彼女が、私の心を温めに来てくれた。
私は、私の腕の中で眠る彼女を見つめ、思った。
そう、きっと彼女は、
私にとっての、クリスマスプレゼントだったのだろう――――と。