6ー10 アリサとワシュテア③
ちょっと昴、掃除した側から汚さないでしょと私は思った。ワシュテアさんが木の棒に藁を括り付けた箒のような道具で昴の部屋の中の汚物を掃き出したと思ったら、また昴は部屋の床を汚した。私は飼い葉桶付近にいて大丈夫であったけれど、昴の腹部を拭いていたワシュテアさんの服は汚れたと思う。床に落ちた衝撃で少しだけ飛び散った昴の糞が、服についたのではないだろうか。私の靴も、なんだかんだ踏んでしまっているかも知れないし、靴底を早く洗いたい。私は、50メートル走など、決して走るのが速い方では無かった。しかし、これだけ馬のを踏んでしまった後だと、私の走力は確実にアップしているのではないだろうか。あっ、でも、踏むと足が速くなるのって、牛のを踏んだらだったかもしれない。
「ワシュテアさん、どうしてそこまでしてくれるのですか?」と私は聞いた。昴の世話を、本当に一生懸命にやっている。名義上の飼い主である私なんかよりもっと熱情を持って。真剣そのものだ。本来私がやるべきことなのであろう。
「だって、貴女馬の世話の仕方なんて知らないでしょ?」とワシュテアさんは答えた。彼女の言う通り、私はそれを知らないし、どうすればいいかなんて検討も付かない。
「私に教えるために、わざわざ手伝ってくれているの?」と私は聞いた。昴はまだ藁を食べたいらしく、私はふたたび藁を柵越しに差し出す。昴はゆっくりと頭を降ろしてそれを食べる。
「そうなるわね」とワシュテアさんが言った。
「ありがとうございます。わざわざ早起きしてくれて」と私はお礼を言う。
「お礼を言われる程の事ではないわ。それに、私がシムオンの女であるのは知っているでしょ」とワシュテアさんが言った。ワシュテアさんの名前が、ワシュテア・ミラスコロード・シムオンであったことを思い出す。たぶん、名字があるか名前は別として、最後のが部族名であるのは予想できる。ペニナさんは、ペニナ・アルウェルスだし、アルウェルス族のペニナってことなのだろう。ワシュテアさんは、シムオン族からアルウェルス族のミラスコロード家に嫁いできたのだろう。
「もちろん知っています」と私は答えた。
「それを知っていながら、さっきの質問をするということは、シムオン族のことを分かっていないということね」とワシュテアさんが言った。柱に掛けた提灯の明かりが、ワシュテアさんの顔を映し出した。
「はい。名前だけしか知らないです。ごめんなさい」と私は言う。
「いいのよ。異国から来たのだから。シムオンの女はね、夫の馬の世話をするというのが誇りなの」とワシュテアさんは言った。昴は一応、私の馬ですよね、ロトラントさんの馬ではないかもしれませんが…… と言おうと思ったけれど、ワシュテアさんが何か続きを言いそうだったので黙っておいた。
オォン、と昴が鼻で息をした音を出した。
「でもね、アルウェルス族の男は、自分の馬を自分で世話するのが誇りなの。ロトラントは、私が世話をすると幾ら言っても聞かなかったわ。私は、夫の馬に藁を食べさせてこともなければ、体を拭いたこともないのよ」とワシュテアさんは言葉を続けた。彼女の自嘲するかのような笑み。ロトラントさんへの愚痴を言っているようにも私には聞こえる。
だが、私にはよくワシュテアさんが言わんとしていることが分からない。家事、子育て、それは全部女の仕事だぁーなんて言っている男がいたら、まず結婚の対象外。私が食事を作れば、食後の食器は夫が洗う。洗濯もたまには手伝うとか、そんな感じの分担があってもいいと思う。ロトラントさんが自分で自分の馬の世話をすると言うのなら、させればいいんじゃない? 手間減るし、というのが正直な私の感想。もしかしたら、惚気ているのかも知れない。「私に馬の世話をさせないくらい、私は愛されているのよ」って遠回しに言いたいのかも知れない。
「貴女も、プリスキラやシエルと同じね」とワシュテアさんは言った。彼女の声は小さかった。柱に掛けている提灯の中から、気化した蝋が燃える音よりも小さかった。パチィという提灯から出る音と、昴の呼吸音が私の鼓膜を震えさせている。でも、彼女の声は確かに聞こえた。
「ワシュテアさんの事情をよく分かっていないですけど、昴の世話の仕方、実践的に教えてもらって嬉しいです」と私は言った。
「そう言ってもらえると嬉しいわ。貴女がよかったらだけど、昴への乗り方も私が教えさせて? 」と彼女は言った。同姓の私が言うのもなんだけど、可愛いと思った。
首を少し掲げて、彼女の金髪の髪がさらりと落ちる。提灯の炎に反射をして、髪の毛の1本1本が透き通りながら光って見えた。髪で光を当てた時に、天使の輪が出来るのが私の憧れだけど、彼女なら髪全体が光り輝いて、後光が差しているように見えるのではないだろうか。
「あ、是非教えてください」と私は答えた。
「それは良かったわ。ありがとう。あと、1つ提案があるのだけれど良いかしら? 」と彼女は言った。私と話をしながらも、昴の体を拭く手を止めないのは流石である。
「私に出来ることだったらどうぞ」と私は答えた。
「私のことは、ワシュテアと呼び捨てでよいわ。その代わり、私も貴女のことササキって呼び捨てで読んでも良いかしら?」とワシュテアさんが言った。さっきまで、私の方を向いていたワシュテアさんの顔は、昴の背中を向いていた。横から見たら、ワシュテアさんの睫が長いのがよく分かる。睫のエクステとかしてないよね……。
ワシュテアさんは、私と親密になりたいってことなんだろう。正直、茶話会のときからあまり良い印象がないし、我が道を行くような感じの人だけど、友達になるくらいだったらいいんじゃないかなと思う。私は少し考えた末に答えた。
「ワシュテアさん、じゃなくて、ワシュテアですね。分かりました。あと、私のことはササキじゃなくて、アリサって呼び捨てにしてください」と私は答えた。
その答えをした瞬間、私の顔に、雑巾のようなモノが飛んできた。ワシュテアさんが今先ほどまで昴の体を拭いていた布だった。え? 何? と私が戸惑っているうちに、ワシュテアさんは無言で柵を乗り越え、そのまま馬小屋から出て行った。
え? なんで? と思う私。
結局、暢気に藁を食べている昴と、掃除が中途半端な状態の馬小屋と、状況が上手く飲み込めていない私がその場に残った。
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