6ー7 有沙の家路
市場から後宮へと帰ることになった。靴屋のおじさんが引き紐を編み終わるタイミングでプリスキラさんとシエルさんが帰ってきた。そして、そのまま帰りましょうということになった。
引き紐は、全長10メートルくらい。ワシュテアさんと私で馬の停留所まで運んだが、重かった。靴屋のおじさんは、よくこれだけの重さの藁を編み込んだなぁと感心する。確かに、小学校の運動会でやった綱引きの綱を移動させるのにも苦労をした覚えがある。運動会で使う綱引きの縄は、体育倉庫の奥に、ミシンで使うボビンを大きくしたような形の物に巻き取られていたっけ。あれを転がすのにも力が必要だった。
引き紐の強度は、どれくらいあるのか検討が付かない。紐の直径は、五百円玉くらいの大きさだけど、どうなのだろう。家に帰る途中でちぎれて昴が逃げていったら、追いかけたり捕まえたりするのが大変だと思う。もし逃げられたら、西部劇に出てくるカウボーイのように、紐の先に輪っかがある紐で、上手に捕まえたりするのだろうか。
私は市場に来た時に乗った馬車に乗って帰っている。私の馬、昴はワシュテアさんの馬と引き紐で結ばれている。ワシュテアさんが、引き紐を手で持つのかと思っていたら違った。馬と馬を結ぶための引き紐らしい。まあ、片手で乗っている馬の手綱を、もう片方の手で引き紐を持つのは、危なっかしいのだろう。それに紐は重くて、片手で持ってはいられない気がする。
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草原の丘に、プリスキラさん、シエルさんの姿が小さく見える。馬車と馬のスピードの違いだろう。どんどん距離を離されていく。昴は、躊躇いながら走っているのか、ワシュテアさんの進む速度は速くない。馬車よりも速いけれど、プリスキラさん達と比べると随分遅い。まだ、丘の麓にいるくらいだ。丘の麓と言っても、私の乗っている馬車との距離はかなり離れてしまっているけれど。
昴は、先ほどの馬主さんが恋しいのかもしれない。自分が売られてしまったということを理解しているのだろうか。
まったく見ず知らずの人に、縄かけられて連れて行かれるっていう心境はどういうのなのだろうか。前の世界でも、家族旅行に行く際に、買っていた犬をペットホテルに預けたことがある。その時は、かなり取り乱していた。車でのドライブが大好きな犬で、家族でお出かけで車の中でかなりはしゃいでいたけど、ペットホテルに降ろして、預かる人がホテルの中に連れて行こうとすると、お座りをしたまま動かなかった。尻尾も車に乗っていたときはテンポの速い曲を弾くときのメトロノームのように左右に揺れていたのが、すっかり地面に尻尾が落ちてしまっていた。くぅ〜ん、と悲しそうな鳴き声で、見つめていたっけ。私が高校2年の時に死んでしまったけれど、その時はとても悲しかった。今思い出しても悲しくなるくらい悲しかった。
馬車は、市場に行くときと同じ道を通って後宮へと向かう。似たような草原の光景しかないから、はっきりとは同じ道だという自信はないのだけれど、同じ道なのだろう。私は、なんとなく昴を眺め続けた。昴は走りながらも、途中で足を止め、後ろを振り返る。先ほどの市場の方向を眺めている。前の持ち主の所へ帰りたいのだろうか。流れで昴を買ってしまったけれど、昴が前の持ち主のところへ帰りたいのであれば、そうしてもいいと思った。今の昴の持ち主は、どうやら私ということになっているし、私が持ち主に返すべきと主張すれば、そうなりそうな気がしないでもない。
太陽は、傾いた。夕暮れに近い昼。夕暮れのようには赤くないけれど、昼のように黄金色の太陽ではない。少し赤味を帯びた桜色だ。原色の緑に近かった草原が、桜色に染まっている。舞い落ちた桜の花びらが、並木道一面を埋め尽くしているみたい。私は、ひまわりのような太陽と夕暮れの赤く染まった太陽しか知らなかった。太陽がこんな色を持っていたなんて知らなかった。
「御者さん、お忙しい所すみません」と私は運転をしている御者に話しかけた。彼の名前は知らない。今日、彼と会話をしたのは、よろしくお願いします、と、お待たせしましただけだ。
「なんでしょう、ササキ・アリサ様」と、彼は顔だけを私の方に向けた。彼の顔を初めてちゃんと見た気がする。彼が、頤髭を生やしていたことに初めて気付いた。
「桜という花知っていますか? 」
「サクラですか? 聞いたことがありませんね」と彼は答えた。
「そうですか」と答えて、また太陽の方を見たら、太陽は夕陽に変わっていた。草原は、赤黒く染まっていた。
「夕陽って見ていると寂しい気持ちになりませんか? 」と私は言った。一人で夕陽をただ眺めていたくはなかった。
「寂しくなります。影も伸びます」と彼は言った。そして、「ササキ・アリサ様はご存じですか。この時間帯は、誰だってもう会えない人に会いたくなるんです。死んじまった人にかも知れないし、遠い所に行ってしまった人かも知れないし、近くにいるけどもう会えない人かも知れないし。ただ、届かない場所にいる人に会いたくなるんです。その証拠に、影がこんなに伸びています」と彼は言って右手を挙げると、彼の影も彼の右手以上に遠くへと伸びた。
「そうなんですかね」と私は言った。
「きっとそうです。ササキ・アリサ様も、きっとご自分が気付いていないだけしょう。その証拠に、貴女様の影も伸びています。自分で自分の心は騙せても、太陽からは誤魔化すことはできない。ササキ・アリサ様も、遠くにいるどなたかとお会いになりたいのでしょう。心がその人の所へ行こうとしているし、太陽はそのことをちゃんと分かっているから影を伸ばすんです」と、彼は言った。
「そういうものなんですね。私の国では、この時間帯は、逢魔時と言って、化け物に出会うと言われる時間帯なんですよ」と私は言った。
「化け物ですかい。そいつは傑作ですな。たしかに、ロトラント・ミラスコロード様は、私から見れば化け物みたいな凄いお人だ。化け物ですかい。言い得て妙ですな」と彼は言って大声で笑い出した。
「なんでロトラントさんの話が出てくるんですか!」と私は言った。
「これは失礼致しました。ただ、私の経験上、夕陽を寂しそうに見つめている女性はたいてい、恋人のことを考えているのでございます」と彼は笑いを抑えながら言った。
私は、言いたいことがあったが言うのを止めた。そして、風情のあることを言う人だなぁなんて思っていたけど、ただの下世話なおじさんだと、彼への印象を改めた。私は、黙って夕陽を眺め続けた。彼もこれ以上私に話しかけてはこなかった。
家に向かう道。夕陽を浴びて、馬車の影がどんどん長くなっていく。私の影も伸びているのだろう。私は立ち上がって自分の影を見た。影は、私の身長よりも遙かに長くなっている。ただ、この影はどこまで伸びようとも、届かない場所というのを私は知っている。
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