6−5 有沙と市場⑤
シエルさんはお金を払った。お金というか、あの碁石みたいなのが入っていると予想できる巾着袋みたいなのを2つ、馬主さんに渡している。私は、馬を撫でながらそれを遠巻きに彼女達を眺めている。馬主さんは巾着の中を覗いてから、やじろべえの様な物の先に巾着をぶら下げて、もう片方にも何かをぶら下げた。巾着の重さを量っているのかなぁと思う。馬主は、巾着を二つとも重さを量って、それを彼の懐にしまった。あ、碁石のお金の数を数えないんだ、なんて思う。そういえばシエルさんも巾着の中を確認していなけど大丈夫なのだろうか。買い物をして財布を丸ごと渡しているような感じなんだけど。
馬と目が合った。馬の顔が大きいから、私の両目と馬の片目があっただけだけど。私は、蛇に睨まれたカエルのようになって、撫でていた手も固まる。馬の方がすぐに眼を反らしてくれたから、私の金縛りも解けた。
馬は、私を頻繁にチラ見している気がする。私が、シエルさん達の様子を見ているときに、私を見つめている気がする。私が馬の方を向く前に、さっと視線を反らしているような気がする。恐いっす。
「名前は考えた?」と、ワシュテアさんが言った。相変わらずご機嫌だ。
「とりあえず、馬を撫でるの、代わってください」と、私は言った。とりあえず馬から安全距離を取りたい。名前を考える余裕なんてない。
「撫でるより、乗りたいわ。乗ってもいい?」と、ワシュテアさんが私に言った。彼女は、反対側から馬を撫で始める。馬の目を細くなる。ワシュテアさんが撫でるのが気持ちが良いのだろう。
「あ、いえ。私に聞かれても……」と、私は困ってしまって、プリスキラさんとシエルさんの方向を向く。しかし、2人の反応は、なぜ私達を見るの? というような感じ。プリスキラさんに至っては、少し不機嫌そうな感じだ。
「ササキさん、聞いているの?」と、ワシュテアさんが再度言った。馬の耳に声が沢山入らないようにか、両手でメガホンを作っている。
「聞いていますが、私に聞かれても困ります」と、私は早口で言った。馬がビクッと素早く頭を挙げた。私の声に少し驚いたのかも知れない。恐い。暴れ出しそう。早くこの馬から離れて、安全な場所、プリスキラさんとシエルさんの後ろに逃げ込みたい。はやく手綱を取っ手よ、ワシュテアさんと思う。
「貴女に聞くしかないじゃないの。だって、貴女の馬でしょ? 人の馬に無断で乗るのは、泥棒と一緒だと、子供の時に教えてもらったでしょ」と、ワシュテアさんが言った。残念ながら、私はそんな教育を受けてはいない。モンゴルの子供ならどうかは知らないけれど、少なくとも私は知らない。人様の自転車を勝手に乗っていったらそれは窃盗だから、その教えの道徳的意義は理解できるけど。というか、既に私の馬ということになっているけれど、それはいいのだろうか。
「あ、ご自由に乗り回してください」と私は言ったら、「ありがとう」と、もの凄く可愛い笑顔でお礼を言って、そのまま馬の手綱を掴んだ。そして、ワシュテアさんは私やプリスキラさん達を中心にして、馬が円を描くように歩いた。そして、徐々に円の半径を大きくしていくようにして、私達から離れた。なんで私の周りを馬を引き連れてぐるぐると何度も回るのよ、いじめか! と思ったけれど、違ったようだ。急な方向転換を馬にさせると、私やプリスキラさん達が馬の後ろ足でのキックが届きそうな、攻撃範囲の中に入ってしまう。だから、わざわざ外向きの渦巻きのような軌道で馬を離れた所に連れて行ったようだ。ちなみに、私は常に馬と円の反対にいるように、プリスキラさんとシエルさんの周りをぐるぐると回った。他の人達から見たら、馬から文字通り逃げ回っている脅えた人に見えるかも知れないし、プリスキラさんとシエルさんを馬から身を守る人間の盾にしている酷い人に見えたかも知れない。
シエルさんから、「ふふふ」という小さな笑い声が、2人を回っている最中に聞こえてきたらか、怒ってはいないだろう。
「随分と嬉しそうにはしゃいでいたわね」と、シエルさんが言った。私は最初、ワシュテアさんがはしゃいでいることについて言ったのだと思ったけれど、それはどうやら違う。私の先ほどの行動を指して、はしゃいでいると言ったのだろう。
「お見苦しいところをお見せしました」と私は言う。
「いいえ、そんなことないわ。貴女の意外な一面が嬉しいわ」と、シエルさんは笑った。プリスキラさんは、相変わらず不機嫌そう。言葉を発しない。プリスキラさんのような、いつも笑みを浮かべている柔和な人が、不機嫌そうな顔をしていると不穏な何かを感じる。額が広くて、鼻が高いだけに、しかめっ面にも迫力があるし。
「プリスキラのことは気にしなくていいわ。私が、星の5番を切ったことに関してまだ怒っているみたいなのよ」と、シエルさんは肩をすくめながら言った。プリスキラさんは何も答えない。シエルさんが言った言葉は聞こえているはずだけど……。星の5番は、先ほどのトランプのようなゲームの事だとは思うけど。プリスキラさんは、勝負に負けた事が悔しいのかな? 意外と負けず嫌いな人なのかも知れない。
「プリスキラのことは放っておきましょう。それより、名前は考えたの?」と、シエルさんが言った。プリスキラさんは、押し黙ったまま、草を食べている馬の方へ行ってしまった。
「名前はまだ思い付きません。皆さん、どんな名前を付けるのですか?」と私は聞く。結局、人それぞれと言う答えがシエルさんから返ってきた。
しばらく考えて、私は「昴」と命名した。雲一つない青空、蒼穹を眺めていたら何となくこの名前を思い付いた。何かで昴を聯想した気がするけど、思い出せない。まぁ、お父さんが乗っていた車もスバルだから、名前的にはいいような気がする。松田さん、豊田さん、本田さん、日野さんは、人の名前っぽいし。日産は、日本なんて国がないから、メイド・イン・ジャパンのイメージがないし。ダットサンだと私に馴染みがないし。青空の中を走り回って欲しい。とりあえず、私が乗るかはとは別として。馬は、走っているか、暢気に草を食べているかが似合う気がする。さっきからずっと草を食べている他の馬も、絵になるし。草を根っこから引き抜いて食べているようで、馬が密集している場所は、赤茶色い土が露出しているような気がするが、まあいいのだろう。
「スバル。スバル、言い響きね。由来を聞いてもいい?」とシエルさんが言った。
「青空の下、草原をかけて欲しいという願いを一応込めました。あと、父が乗っていたのも、昴という名前だったんです」と、私は言った。
「そうだったの。立ち入ったことを聞いてごめんなさい……。スバル、素敵な名前だと思うわ」と言って、シエルさんは私をぎゅっと抱きしめた。何がシエルさんの琴線に触れたかは分からないのだけど、シエルさんは少し悲しそうだった。
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