5−11
後宮に来て、3日目の朝が始まった。目を開けると、部屋の中が明るい。床の石板が太陽の光を部屋中に拡散させている。眼を擦ったあと、窓の外が明るすぎると思った。そして、私は、かなり寝坊をしていることに気がついた。
あ、やってしまった、と思いながらベットから跳ね起き、部屋の扉を開けるとハンナさんとペニナさんが部屋の外に立っていた。ハンナさんと目が合った。しかし、彼女は気まずそうに視線を外し、下を向く。
「あの、おはようございます」と、私は彼女達に言った。
「おはようございます。昨日はお疲れのようだったので、起こさずに外で待機しておりました」と、ペニナさんが言った。私が寝坊したことは、すでに周知の事実らしい。
「あ、いま何時ですか? 」と私は聞く。
「10時を少し過ぎた頃でございます」と、ペニナさんは言った。もう10時を回っているのか。私は昨日、6時前には起きていた。そして、その頃にはペニナさんは既に朝の準備は万端という感じだった。おそらく、ペニナさんは6時前にぐっすりと寝ている私を見て、起こさないように決めたのだろう。
つまり、ペニナさんは4時間くらい部屋の外に立っていたのか。たぶんハンナさんも長い時間立っていたのだろう。悪い事をした生徒でも、4時間廊下に立たされるようなことはないだろう。2人にはとても気の毒なことをしてしまった。今後は、おちおち寝坊もできない。
「すみません。ずっと待たせてしまって」と、私は平謝り。
「いえいえ、お気になさらないでください」と、ハンナさんが言った。気にするなと言われても、気にしてしまうよ。
「ササキ・アリサ様、8時頃にこの部屋の前をワシュテア様がお通りになりました。そして、ササキ・アリサ様宛への言付けを残して行かれました」とペニナさんが言った。
「あ、どんなですか?」と私は聞いた。
「明日は朝早くから市場へ出かけますので寝坊しないように。早起きして畑に行く者は金の藁を掴み、遅く行く者は豚の尻尾を掴む、というザンドロス国の諺を貴女に教えて差し上げますわ、とのワシュテア様の伝言でございました」とペニナさんはワシュテアさんからの伝言を伝えてくれた。
得意顔になっているワシュテアさんの顔が頭に浮かんだ。まぁいいか。ちょっとお腹が空いた。
「あの、朝ご飯ってまだ残っています? 」と私は聞いた。実家とかだと、遅い時間に起きると母がさっさと朝食を片付けてしまい、残ってなかったりしたのを思い出す。成長期の弟が、炊飯器の中を食べ尽くしちゃっていたということも何度もあった。
「もちろんでございます」と、ペニナさんが答えた。
「ああ、ありがとうございます」と、私は答えた。すると、ペニナさんは難しい顔になった。ハンナさんも、首を傾げて不思議そうな顔をしている。
「ササキ・アリサ様、私どもは、主人が寝ている間に、主人の朝食を盗み食いしたりいたしませんよ」と、ペニナさんが言った。ハンナさんもそれに頷いている。
別に、誰かが盗み食いをしてないかなんて心配していないんだけどなぁ。どうやったらそういう風にさっきの言葉を受け取ってしまうのか、私にはよく分からない。朝からなんか、疲れてしまうよ。
・
私が昼食を食べ終わると、ペニナさんがすぐに朝食の食器が片付け、獣皮紙と羽根ペンとインク壺を机に置いた。うむ、エクレシア語文法の本を書かねばならぬ。消しゴムとかないから一発勝負ってのが、躊躇わせる。推敲ってか、どんな内容にするか、目次だけでも作ったら筆は進むのかもしれないけれど、どんな構成にするかもまだ頭の中でまとまっていないから、目次も作ることができない。
「あの、ペニナさん」
「はい。なんでしょう」と、後ろに控えているペニナさんが答える。
「間違って書いてしまった時って、これ、どうするんですか? 」と、私は聞いた。鉛筆と消しゴムを発明した人は凄いと思う。だって、間違ったら消せるのだもの。きっと、鉛筆と消しゴムが発明されてなかったら、パソコンのキーボードに「delete」ボタンは存在しなかったのではないだろうか。いや、そんな筈はないか。
「間違ってしまった場合は、その部分を削ると聞いたことがあります。どこかにその道具があると思いますので、探して参りましょうか? 」とペニナさんが申し出てくれた。
「あ、大丈夫です。聞いてみただけですから」と私は答えた。だって、ペニナさんは私の後ろに控えていて、私がまだ獣皮紙に『エクレシア語文法』としか書いていないのをばっちり見ている。文字が読めないのだろうけど、今日私が一行も書いていないということに気付いているだろう。はぁ、なんか気まずいなぁ。
結局、私はエクレシア語文法を書くのを一旦中段して、ロトラントさんから聞いた「ダリア姫とハチドリの物語」を書き記した。ザンドロス国の人は誰でも知っている話っぽいし、聞いたことのある話を改めて文字で読むってのも、文字を学習するのには効率が良いのではないかと思った次第です…… 。まぁ、本当の理由は、筆を動かしてなきゃいけないのではないのだろうかという圧力を自分の背後から、名指ししてしまうとペニナさんから感じたので、今私が出来る範囲のことをしたのだ。
「ダリア姫とハチドリの物語」は、獣皮紙一枚の両面で収まった。A4のルーズリーフ表裏分の文字を短時間で書いたのは結構久しぶりだった。そして、獣皮紙って裏にも書ける優れ物だということを初めて知った。流石に太陽の光で透かして見ると、裏面と表面の文字が重なってしまうけれど、室内で机などに置いて読む分には、まったく両面に書くことに問題はない。前の世界の普通のルーズリーフに、このインクを使って書いたら、油性ペンで書いたみたいに裏にまで滲んでしまうのだろう。しかし、獣皮紙はそんなことはないようだ。
また、手で獣皮紙の表面を触っても、凹凸をほとんど感じない。わら半紙と大して変わらないように思える。結構性能って意味では、なかなか獣皮紙も優れているんじゃないかと思えてきた。ちなみに、獣皮紙の表面をよく目で凝らして見ると、紙上に小さな濁った点が所々にあったりもする。太陽で透かして見ると、特に目立つ。たぶん、毛穴なんだろうけど、気にしたら負けだ。
私が不満があるのは羽根ペンだ。本音を言うと、ペンと呼ぶのに抵抗がある代物だ。羽根の先を鋭く削って、先端から芯にそって溝を掘っただけの、ただの羽根だ。まず細すぎる。やっぱり鉛筆くらいの太さのが書きやすいと思う。欲を言えば、グリップが欲しい。
まぁ、羽根ペンの持ちにくさは、次第に慣れるかもしれないから、我慢できるとして、我慢ならないのが、インク切れだ。10文字も書かないうちにすぐにインクを付けなければならない。文字を書いている途中でインク切れになった時なんて、かなりストレスが溜まる。インクを付けて、文字が薄くなってしまった部分からなぞるように文字を書くのって、神経を使うんだよね。頻繁にインクを付けなきゃならないのもとても面倒。
使ったことは無いけれど、万年筆もこの羽根ペンと似て非なるけど、似たような先端の形だったように記憶している。万年筆っていう名前の正確な由来は知らないけれど、1単語を書く度にインクに浸けなきゃならないような羽根ペンに比べたら、万年筆はインクを付ける手間がグッと減って、まるでずっと、まぁ誇張をすれば一万年も書き続けられるように思えるような、画期的な筆だったのかも知れないなぁと思った。
そういえば、鉛筆から、シャーペンへの発展も改めて考えると凄いなぁ。誰かこの世界でも発明をして欲しいなぁ。たぶん、万年筆やシャーペンは時間が100年単位の時間が必要な気がするけど、鉛筆はなんとかならないのかなぁと思う。
でも、鉛筆ってどうやって作るんだろう。そもそも、鉛筆って、なんか炭かなんかを固めて、木でサンドイッチしているようなイメージだったけど、鉛筆って、鉛の筆って漢字で書く。鉛って、金属だったような気がする。鉛筆の素材って、いったい何だったんだろう。いっぽんの鉛筆の向こうに何があったのか、今となってはもう分からないや。そういえば、ポディマハッタヤさんは今、どうしているのかな。
「ササキ・アリサ様、そろそろ、ダンス練習のお時間です」と、ペニナさんが声をかけてきた。
「あ、分かりました」と私は言った。意外と書くのに没頭して時間が過ぎたようだ。それにしても、羽根ペンの性能にはストレスが溜まった。ダンスでストレス発散できるといいんだけどな、と思う。
読んでくださりありがとうございます。