5−4
私が部屋で二杯目のお茶を飲んでからしてすぐ、部屋をノックする音が聞こえた。ペニナさんが対応してくれた。どうやら茶話会の用意ができたらしい。
「ササキ・アリサ様、身支度をお願いいたします」と、ティーテーブルまで彼女は戻ってきて私に言った。とくに、身支度なんてするという認識もないから、私は首を傾げる。
「身支度? 何か準備するものがあるの? 」
「はい。こちらへお越しください」と言って、彼女は私をベッド横のタンスの所まで案内した。彼女は、タンスの抽斗の引手に手をかけた。
抽斗の中には、青、赤、紫、黒などの鮮やかな色の布が綺麗に畳んで入れてある。
「茶話会に出席される際の上着をお選びください」と彼女は言って、タンスに畳んであった布を広げて私に見せ始める。
。私が着ているのは、浴衣のような物だ。上着として着るのであれば、茶羽織とかだろう…… と疑問が頭を過ぎる。なんだ、このバスタオルを長くしたような布は…… 。これが上着? と私の頭の中は、クエスチョンマークで一杯になった。
「これなど如何でしょうか」と言って、真っ赤な薔薇を少し水で薄めたような色の布を私に巻始めた。左肩に布の先置いて手で固定し、後ろの首を通して右肩へ。そこから胸を通してちょうど腰のくびれの所で布を折り返して腰に回していく。そして腰を一周巻いたところでまた右のウエスト辺りから左肩までその布を持っていく。幅の広い包帯を上半身に巻かれているみたいだ。
ペニナさんは、タンスの一番上の抽斗を引いて、手鏡を出した。そしてそれを両手で持って、鏡の面を私に向ける。
「うーん」と私は唸る。
「お気に召しませんでしたか? 」と彼女が聞く。
「そういう訳ではないんですけど」と私は答えた。
なんと言えばいいのだろうか。斬新過ぎるという言葉しか見つからない。布を巻いた服を古代のギリシャとかローマのあたりの人が着ていたということは歴史の授業か何かで聞いたことがあったけど、この布はその類いなのだろうか。でも、和風とも言える、浴衣のような物を着ているし。なんだこの変な和洋折衷は。何をどうしたらこういう発想になるのかが分からない。
白無地の浴衣のアクセントとしてこの布を巻いているのだろうか。それだったら、伊達締めをアクセントにしたりすれば良いだろうと思う。ってかそうした方がしっくり来るんですけどと思う。まぁ、郷に入れば郷に従え。気にしたら負けだろう。
「もうちょっと落ち着いた色がいいかなと思います」と、私はペニナさんに言った。
ペニナさんは、抽斗から布を出し、自分の左腕に布をいくつもかけ始める。長いから布の先が、地面に付いている。
「あ、これは? 」と言って、私は藍色っぽい布を指さした。咲きたてのラベンダーのような色した明るく薄い藍色の布だ。
「では、試しに着てみましょう。ササキ・アリサ様、失礼致します」と言って彼女はまた、さっきと同じように巻き始めた。彼女は、これを着ると表現しているが、私からしたらこれは、着るではなくて巻くという表現が妥当な気がする。この巻いている行為を、「着る」という風に思えない私の心が狭いのか、ロゼさんのエクレシア語翻訳魔法の欠陥か、まぁ後者ということにしておこう。
ペニナさんが手鏡を持って私に見せる。浴衣の白色と、この布の色の組み合わせは素敵だと思った。浴衣と布の組み合わせに関しては、ノーコメント。でも敢えてコメントするなら、つま先が尖った茶靴、細身のパンツ、高そうな腕時計に、しっかりと糊の効いたオシャレな柄シャツを着て、さっそうと街を歩いている仕事の出来そうなビジネスマン。ただし、何故か赤いちゃんちゃんこを上着として着ているというような感じだろうか。まぁ気にしたら負けだ。
「ササキ・アリサ様、素敵です」と、ペニナさんからお褒めの言葉を戴いた。もうこれでいいやと、私は諦めの境地に達した。
・
後宮の中を廊下を右に、左に、時には真っ直ぐ歩いて5分。どれだけ広いんだこの後宮は、と思う。ただ、お金持ちの人が、高そうな壺とか絵画とか甲冑とかを飾る理由が分かった気がした。単純に、廊下を歩くだけだったらつまらないからだ。同じような構造の廊下を3分歩くのの苦痛で仕方が無い。カップラーメンを出来上がるのをじっと待っている方がよっぽど精神衛生上良い。
暇つぶしに通り過ぎる間際に、それらを眺めるだけでも少し気分は紛れる。たぶん、廊下を歩くことを飽きないようにするための一つの工夫なのだろう。
もしくは、来客時の時間調整が出来るようにだろう。廊下の先に4人ぐらいの人影が見えた際、ペニナさんが何故か立ち止まり、壁に掛かっていた絵画について説明を開始したからだ。
たぶん、鉢合わせを避けるために、わざわざ私にこの絵画について説明をして、先ほどの人達が先に進む時間を稼いでいるのだろう。彼女は3代前のアルウェルス族の族長について説明してくれた。ザンドロス国の王様も務めたことがあるらしい。あまり興味がなかったけど、失礼の無い程度に耳を傾けた。
「どことなく、ロトラントさんに似ていますね」と言ったら、ロトラントさんの曾祖父だと彼女が説明してくれた。
また長い廊下を歩いた。そして着いた。どうやらここは、後宮の中庭らしい。見渡せば周りは建物で囲まれている。中庭の広さも、野球グラウンドくらいはある。そして庭園の中心は高くなっており、自分の部屋から見えたのと同じような構造の建物が見える。ただし、今度は石造りの建物だ。おそらく、あそこで茶話会が開かれるのだろう。私は、浴衣の衿を正した。体に巻かれた布が衿を正す際に少し邪魔だった。
私はペニナさんの後を着いていく。彼女は、真っ直ぐに建物まで伸びた道を歩いて行く。道の左右には、綺麗に手入れされた植木が並んでいる。植木の高さが定規で引いたみたいに綺麗に揃っている。おそらく伸びて枝や葉を、高さを揃えるように毎日手入れしているからだろう。横も、道に沿って綺麗に切りそろえられていて、はみ出している葉や枝はない。しかも、道には葉や枝が髪の毛一本ほども落ちていない。手入れが完全に行き届いた庭だ。真っ直ぐに伸びた道、綺麗に縦横を整えられた植木、そして中心にある建物が醸し出す数学的な統制された美しさが私の心を緊張させていく。
中心の建物の中には、既に座っている人の姿が見える。ペニナさんは、建物へと続く短い階段で立ち止まった。
「ここから先は、私は上がることはできません。こちらで待機させていただきます」とペニナさんは言った。ロトラントさんとその妻達しか、足を踏み入れてはいけないとか、そんな決まりでもあるのだろう。
「行ってきます」と、私は彼女に言って、階段に足をかけた。
私は、階段を登った。そこには、3人の女性が座っており、1人が立っていた。立っている女性は、ペニナさんと同じような格好だから、家政婦さんの一人なのだろう。
座っている女性達は、麻雀卓みたいな四角い机に、それぞれの各辺に座っている。自然と私が座るべき場所が分かる。というか、手前の席しか空いている椅子がないしね。
「初めまして。ササキ・アリサと申します」と一礼をして、ありったけの作り笑いをする。緊張しすぎて、頬の筋肉が張っているのが自分でも分かる。前の世界で、司書の採用面接をした時のことを思い出す。座っている3名も立っている人も、私を見ていないようでしっかりと私を観察しているように感じる。この、見てないようで見ている視線って苦手なんだよなぁ。
沈黙が流れる。怖いよ。この沈黙。というか、私、一番遅くに来て大丈夫だったのだろうか。普通、偉い人が最後に来るような気がする。もしかして遅刻してたりしてないよね。遅刻していきなり自己紹介を堂々としてしまったのだろうか。謝罪が先だったかもしれない?
「初めまして。ササキ・アリサさん。私は、プリスキラ・タキシュです。お掛けになったら? 」と、私の正面の人が笑顔で声をかけてくれた。金色の長い髪。私の感覚で言えば、少しぽっちゃりとしたような人だ。円熟した女性のような印象を受ける。たぶん、私より5歳くらい年上。
「失礼します」と言って、私は椅子に座る。なんか本当に麻雀でもするかのような座席の位置だ。まぁ私は麻雀のルールを知らないけれど。
「ワシュテア・シムオンよ。よろしくね」と、右側に座っている人が言う。やはり長い髪。同じように金髪だ。ほっそりとした体格。そして、彼女の唇の左下にある黒子が、顔全体を引き締まった印象にしている。たぶん、この人が私を含めた4人の中で一番若い。
「シエル・アドラムです。初めまして。ササキ・アリサさん」と、左の女性が言った。髪は私と同じ黒。肌の色が少しばかり私より黒い。私も日焼けしちゃっているけど、今の私をさらに夏の砂浜で一日焼いたくらいの感じ。前の世界言えば、ラテン系の人種のような感じだ。私と同じくらいの歳かなぁ。
そして、また沈黙が流れる。沈黙が流れている間に、プリスキラさんの後ろに立っていた女性が、私の前にティーカップを置き、お茶を注いでくれた。彼女は、この場全体の給仕をする人なのだろう。
注いでもらったお茶に手を着けていいものかも分からない。お茶で乾杯をするというような雰囲気でもないし。私は、両手を両膝に載せて、背中を丸めて縮こまった。そして、お茶からでる湯気を眺めてた。
すごく気まずい感じ。
「今日は、良い天気ですね」と私は勇気を振り絞って声を発した。天気の話ほど、無難な話はないだろう。
「ええ。とても風が気持ちがいいわ」と、左のシエルさんが言った。
「そうね。まるで春のようね」と、プリスキラさんが言った。
そしてまた沈黙が流れる。一見、柔らかい態度のお三方だが、私への態度はどことなく鋭い。
「散歩したら気持ちが良さそうですね」と私は言った。出来れば、中庭を散歩してきますとか言って、この場から逃げ出したい。
「こんな日の散歩はきっと気持ちが良いわよ。前に、遠駆けした時は、本当に気持ちがよかったわ」と、ワシュテアさんが言った。
「私は馬には乗れないので分からないですが、馬に乗って草原を走るのって気持ちが良さそうですよね」と、私は話を盛り上げるべく応対する。
「仰る通りですわ。もし宜しかったら、その日の体験をここで披露させていただいても宜しいですか? 」と、ワシュテアさんが言った。
プリスキラさんとシエルさんは、頷いた。同意したのだろう。
「はい。是非お願いします」と、私も同意した。
「ではご披露させていただきますね」と、ワシュテアさんは笑顔になり、話を始めた。
「それは春でしたね。頬を撫でる風、包み込むような太陽の光。私の愛馬も、この日はいつもよりもたてがみが、靡いていた気がします。長かった冬が終わり、春の到来を感じさせるような草や花。久しぶりに親しい者達だけでの外出でしたので、私もついつい浮かれてしまい、風の吹くままに、馬に走るのを任せ、長い時間走ってしまいましたわ。昼の時間となり、私達は水の湧き出ている場所を見つけて、そこで簡単な食事を取りました。
そして私は、水が湧き出ている小さな岩の陰に、見たこともない草花を見つけましたのよ。この中庭にも、王宮にも多くの花が咲いておりますが、そこに咲いていた花は、私がこれまで見たことの無いような花でしたの」と、彼女は言って、中庭の方に視線をやった。
私も中庭を見渡した。この建物につながる道と道の間には、様々な種類、様々な色の花が咲いている。綺麗だとかそんな単純な言葉しか思い浮かばないくらい、本当に綺麗だ。花の咲いていない草や木もあるけれど、おそらく別の季節に咲く花なのだろう。きっと、年間を通して、この中庭には何らかの花がいつも咲いて景色に彩りを与えているのだと思う。
「私は、その花を、食事をしている間も見つめました。その花は私を魅了しました。終には、食事の間見ているだけでは飽き足らず、私はその花を株ごと持って帰りたいとまで思うようになりましたの。私が自身の手で丁寧に掘り出しましたのよ」とワシュテアさんは言って、彼女の両手を少し持ち上げた。手入れの行き届いた手と爪だ。爪は、マニキュアとか塗っていないはずなのに、艶光りしている。
「私はその花を丁寧に持って帰り、実は、この中庭に植え直したのです。はしたない独占欲かとも思いますが、いつでもその花を眺められるようにしたいと強く思ったのです」と彼女は言って、中庭の一つの場所を見た。おそらく、彼女が見た方向に、その花が植えられているのだろう。
「私は、その花を植えた翌日、この中庭を訪れました。また、その花を愛でたいと思ったのです。しかし、不思議なことが起こりましたの」と、言って彼女はお茶を一口飲んだ。話方が上手だと思った。聞き手の興味を惹きつけて離さない、絶妙な間の置き方だ。何が起こったのか続きが気になる。彼女と私は、目が一瞬合った。
「その中庭に行った前日、つまり遠駆けした日に、あれほど私の心を惹きつけたはずの花が、私を惹きつけなくなったのです。あれほど綺麗で私の心を掴んで離さなかったのにです。この中庭に咲いている花々よりも格段に落ちる美しさ、つまらない花のように思えてきて、なぜ昨日あれ程までにこの花に心躍らされたのか、私自身、分からなくなってしまったのです。それが私の不思議な体験です。ササキ・アリサさんも、同じような事を体験されたことってありませんか? 」と、ワシュテアさんが私に話を振ってきた。
私は少し考えてから、「確かに、同じような事を経験した事ってあります。ワシュテア・シムオンさんのその時のお気持ち、分かるような気がします」と、答えた。
「あら、共感して戴けて嬉しいわ。どのような時にそうお思いになったの? 」と彼女が私に笑顔で聞く。プリスキアさん、シエルさんの視線も私へと向けられてきたのを感じた。
「新しい服を買って失敗した時でしょうか。お店でその服を見つけて、実際にお店の中で着てみたときには、本当に素敵だなと思って買うんですが、家に持って帰って、改めて着てみると、あんまり素敵じゃないなと思い直したりしたことは何度かあります。そんな時は、なんでこの服が良いと思ったのか、自分でも分からなくなります。そして結局、そういう服は一度も着ないままになることが多いです」と、私は言った。
「私も、髪留めを買った時に、同じ経験をしたことはありますわ」と、シエルさんが手で口を隠しながら笑って言った。
「ああ良かった。私、少し安心しました。こんな気持ち、私だけかと思って心配しておりましたの。やはり、先ほどのような気持ちって、誰でも感じることはあるのね」と、ワシュテアさんが言う。そして、私を含めた3人は頷き、同意する。そして、ワシュテアさんは、言葉を続けた。
「女だけでなく、男の方も先ほど私がお話したようなことを同じようにお感じになる事っていうのもきっとあるでしょうね。たとえば、男が遠い国へ旅に出て、そこでその国の女性を見初める。そして男は、その女性を自分の国に連れて帰って自分の妻にした。しかし、その男は国に帰った後、どうしてその女に恋心を抱いたのかさっぱり分からなくなる。そんな話、私達の身近に転がっていそうな話だとお思いになりません? ササキ・アリサさん? 」と、彼女は笑顔で言う。
私は「ありそうな話ですね」と答えた。もう無理。たぶん、この人達と上手くやっていけない。私、少なくともワシュテアさんには、相当嫌われちゃっているよ。私は、自分の膝を見つめた。顔を上げるのが嫌だ。
沈黙が続く。私はじっと顔を下げたまま。
私は別に、ロトラントさんの妻になることを了承した訳でもないのに、なんで初対面の人から嫌みを言われなきゃならないのかと、怒りも込み上げる。腹が立つ。向こうには楽しく会話する気がないということは分かった。久々のお風呂で少し浮かれていた自分が馬鹿だった。本当に早くこの場を去りたい。花を摘みに行くとか適当な口実を作ってお暇しようか。もちろん、中庭に花を摘みに行くという意味ではなくだ! 部屋のベッドで不貞寝したい。
「はぁ」という大きなため息が聞こえた。私は、少しだけ顔と目線を上げた。ため息を発したのは、プリスキラさんのようだ。彼女は、少し額に皺を寄せて目を瞑っている。
「ササキ・アリサさん? 」とプリスキラさんは私に呼びかけた。
「はい」と、私は顔を仕方なしに上げる。たぶん、私は今、ひどい顔をしている。
「私達に、状況を説明してくださりませんか? 」と彼女は言う。
私は、は? あんた馬鹿? と思う。たぶん、私の顔にもこの怒りは出ているのだろう。「いきなり妻になれとか言われるし、この場所に来てみれば、右の女から嫌みを言われるわ。私の方が状況を説明して欲しいわよ! 」と言いたい。でも言えないけどね。
「ごめんなさい。言葉足らずだったわね。まずは、私達の状況を説明させて戴くわ。ササキ・アリサさん、お茶は飲まれないの? 」と言って、彼女は自分のカップを口に運んだ。
私もお茶を一口飲んだ。ほろ甘いお茶で、何気に美味しい。
「夫の軍が負けたらしいという話を聞いたのは3週間前ね。そして、このザンドロスへ帰ってきた者もいないとも聞いたわ。夫は、戦死したか、捕虜になったのか、身を隠して無事でいてくれているのか。夫の安否が分からない状況が今朝まで続いていたわ。夫は負傷しながらも生きて帰ってきてくれた。生きて帰って来てくれたことを、私は心の底から喜んだわ。ところが、アヒトフェルから、夫が新しい妻を迎えたという報告を受けて、私は吃驚仰天。夫から話を聞こうにも、夫はすぐに仕事をしに屋敷から出かけてしまったし。これが私の今の状況よ。今の私の心境を一言で説明してしまうなら、行方不明の夫が突然、女を連れて帰って来た、というものなの。もちろん、夫が無事で帰ってきたことは嬉しいことよ。でもそれを忘れてしまうくらの話なの。本来ならば、夫の頬を一回とは言わず何度も叩きたいところなのだけれど、肝心の夫は戦事で不在。私も戸惑っているところなの。だから、この茶話会を催して、貴方から話を聞きたいと思っていたの。私の状況、分かって戴けたかしら? 」
「私も同様の気持ちです。はっきり言って、心穏やかではないです」と、シエルさんが言った。
「どうせ、この女が夫を誑かしたのよ。この泥棒猫! 」と、右の人が叫んだ。ワシュテアさんは敵意丸出しだ。
右の人はもう嫌い。だけど、プリスキラさんとシエルさんの状況というか、気持ちは分かった。そういうことか。それなら、全部ロトラントさんが悪いような気もしてきた私だった。
つまりアレだ。一種の修羅場という奴なのだろう。前の世界で言う昼ドラの世界か。行方不明であった夫がいきなり新しい妻を連れて帰ってきたら、昼ドラなら、誰かが包丁で刺されているかも知れない。刺されなくて良かった。机に、平穏にお茶が置かれているのは奇跡かもしれない。もしこの場が昼ドラのようであったなら、3人の誰かがお茶を私にぶっかけているだろう。まぁ3人も妻が既にいる時点で、日本の昼ドラとは違った展開になるのは当然かも知れない。
私は、彼女達に説明をした。
タキトス村に住んでいたこと、突然ザンドロスの侵略に遭ったこと、洞窟で一人で生活していたこと、偶然にロトラントさんと会ったこと、そして他に行き場のない私は一緒にこの国に来たこと、そして、この話のもっとも重要なポイント、つまり、先ほど突然ロトラントさんの妻になるというようなことを言われたことを説明した。
プリスキラさんとシエルさんは、耳を傾けて聞いてくれたと思う。右の人は、聞いているのかすら分からない。とりあえず、右の人は、貧乏揺すりの癖があるのか、右の机の下から、タン、タン、タンと靴と地面との衝突音が鳴り響き続けていた。私が話している最中にわざとらしい咳払いをしたりするのも、本当に嫌だった。
「皆さんのご気分を害する結果になってすみません」という謝罪の言葉で私は話しを終え、頭を下げた。
沈黙が続く。正直、頭を上げるタイミングが分からない。頭を上げて良いかも分からない。
「ササキ・アリサさん。貴女のお話は良く分かりました。今は、夫への怒りで平静を保っているのが精一杯というのが私の本音です。貴女へも、正しい態度で接することができるか、自信もありません。ですが、貴女が、夫の命の恩人だということは分かりました。妻として、心の底から貴女へ感謝を致します。ありがとうござます」と、プリスキラさんが言った。
良かった。事態は少しだけ良い方向に向いたみたいだ。私は頭を上げながら目線を上げると、プリスキラさんは頭を下げていた。右の人は、腕を組みながら私を睨んでいた。
「あ、人として当たり前の事をしただけです」と、私は言った。
「私の口からも、お礼を言わせてください。ササキ・アリサさん、ありがとうございます。シエル・ミラスコロード・アドラムは、妻として貴女に感謝致します。貴女に風に恵みがあらんことを」と言って、軽く会釈した。なんか腰が落ち着かなくなる。ちょっと気恥ずかしい。
「ワシュテア、貴女の気持ちは分かるわ」と、プリスキラさんが言った。彼女も私の右の人の態度が気になってはいるようだ。
右の人は、舌打ちをしてから「ワシュテア・ミラスコロード・シムオンも、感謝の意を表します。ただし、この女が夫の恩人であることと、新たな妻になることは別問題だと、はっきり申し上げますわ」と言った。お礼を言った側から、この女呼ばわりとは…… 私もこの場に同席しているんですが……まぁ、右の人は、右に置いておこう。まぁ、私からしても、彼を助けたことと、彼の妻になることは別問題だ。理性的に考えれば、彼女の言っていることには同意できる。感情的に考えれば、この人、本当に嫌い。なんとなく反対意見を出したくなるよ。人の性?
「ワシュテア、少し落ち着いたら? 」と、シエルさんが言って、プリスキラさんの後ろに立っている女性に視線をやった。視線を受けた給仕係らしき人は、右の人の前にあるカップにお茶を注いだ。彼女は私にもお茶を注いでくれた。
「確かに別の問題であるように思いますね」と、シエルさんが言った。そしてプリスキラさんも頷く。私も釣られて頷く。
「ササキ・アリサさんは、夫の妻になることについてどうお考えですか? 先ほど、結婚するということを突然聞いたとは伺いましたが、改めて貴女の気持ちを伺いたいです」とプリスキラさんが言う。
夫の妻になるって、日本語として変だけど、まぁ気にしない。もちろん、結婚するなら好きな人とだろう。そして、ロトラントさんを好きという訳ではない。つまり答えはNOだ。でも、それだと、私はどうなるんだろう? ザンドロス国での生活は保証するって、ロトラントさんからの約束は取り付けたけど、それの履行がどうなるかが不透明になる。「妻にはなりません。でも約束通り、彼に私の生活を保証してもらいたい」って言うのが本音なんだけど、言い難いよ。ってか言えない。
「夫のこと、愛してるんですか? 」と、シエルさんが聞いてきた。私が黙り込んでしまったからだろう。しびれをきらしちゃったのかも知れない。答えはNOなんだから、早く何か答えないと。でも、余計なことを考えてしまう。というのも、夫のこと愛してますかっていう日本語も変だからだ。妻と浮気相手の修羅場での会話のように聞こえるよ。きっと、夫の携帯のメールと電話の履歴から事態が発覚して、夫に内緒でその浮気相手を喫茶店に呼び出した感じのシチュエーションかな。
「ロトラントさんに対して、好きとか愛しているという感情はありません。妻になるって言うのも抵抗があります」と、私は答えた。抵抗があるっていうのは、卑怯な言い方だけどね。抵抗があるけど、それを受け入れることもできるっていうニュアンスが残っている。主に、私がこの世界で生きていくためにっていう条件つきだけどね。
私がこの言葉を発したあと、少しの沈黙が流れた。
そして、プリスキラさんがため息を吐き、そして言葉を発した。
「タキシュ族の慣例で言えば、ササキ・アリサさんの気持ちに関係なく、婚姻してもらうことになるのが通例であるのだけれど、夫はアルウェルス族であるし、範となるべき族長。ササキ・アリサさんが望んでいないのであれば、この結婚は認められないでしょうね」と彼女は言う。
「私もプリスキラさんと同じ考えですわ。アルウェルス族の矜持に反しますね。ササキ・アリサさんのお気持ちがない以上、夫が彼女を妻として迎えることはふさわしくないですわ。もっとも、アドラム族の伝統に従えば、他部族とは言え、代表部族の族長が花嫁にという意思表示をされているのですから、結婚することは通常だと思いますね。ここでアドラム族のことを話しても仕方がありませんが、私の妹は、本人の意向には沿わない縁談でありましたが、それを受け入れていますし」とシエルさんが言った。
「私は、とにかく反対よ」と右の人が言う。
私は、プリスキラさんとシエルさんが言っている内容の半分以上の意味が分からなかった。タキシュ族の慣例? アルウェルス族の矜持? アドラム族の伝統? って何? って感じだ。だけど、私がロトラントさんの妻になるというような流れではないということがわかった。法律の問題とかそんなのが発生していて、結婚ができないってことなのだろう。右の人が言っていることが、ある意味一番端的で分かりやすい。
「ここで問題になるのは、ササキ・アリサさんが後宮に入ったという事実が知られてしまうことかしら」と、プリスキラさんが言う。
「そうでしょうね。夫が後宮に入れることをすでに宣言してしまっている。知れ渡るのは時間の問題ね。宮廷仕えの者達に知れ渡っているのだから、明日には市場の誰もが知ることとなるでしょうね」とシエルさん。
「そうなると、難しいわね」とプリスキラさんが難しい顔をした。
「ええ」と、シエルさんも深刻そうな顔つきだ。
私は、何が問題で、何が悪い状況なのかさっぱりだ。
「ササキ・アリサさん? お伺いしてよろしいかしら? 」とプリスキラさんが私に呼びかける。私は、話についていけず、置き人形化していたからだろう。
「はい。どうぞ!」と私は答えた。もう、何でも答えちゃうぞ!
「貴女が、夫の妻になることを望んでいないということを、ここにいる人以外で知っている人はいますか? 」
「あ、えっと。アヒトフェルさんには、馬車の中で、結婚するなんて聞いていない、というような趣旨のことはお話しました」と私は答える。
「それで、アヒトフェルの反応は? 」
「アルウェルス族の族長のロトラントさんが、無理矢理に結婚を迫るようなことをするはずがないと、アヒトフェルさんは仰っていました。そして、とりあえず3ヶ月、後宮で過ごしてはいかがですか? と仰ってくださいました」と、後宮に入る前にアヒトフェルさんと話した内容を伝える。
「はぁ」とシエルさんがため息をつく。そして「アルウェルス族の人間なら、当然、そう思うわよね。おそらく、アルウェルス族の人々は、アヒトフェルのように思うはずね」と言った。
「そうね。まさか、ササキ・アリサさんが結婚の意志がないなんて、想像だにしないわね。マルタ、あなたはこの話、どう思う? 」と、プリスキラさんは、さっきからお茶を注いでくれたり給仕をしている人の方へ振り返って言った。どうやらこの女性は、マルタさんと言う名前なのだろう。
「申し上げます。私は先ほどから、自分の耳を疑っておりました」と、答えた。
「そうよね。そうよね。そう思うわよね。ありがとうマルタ。申し訳ないけど、新しいお茶を入れてきてもらえるかしら」とプリスキラさんが言った。マルタさんは、「畏まりました」と言って、階段を下りて行った。
「さて、守るべきものが何であるかを、ここで考えなければならないわね」とプリスキラさんは少し冷めた口調で言った。プリスキラさんはもしかして、マルタさんがこの場から離れるように、あえて新しいお茶を入れに行かせたのではないかと、私は思った。
「守るべきは、夫の威厳ですわ。この話が悪い方向でアルウェルス族に知れたら、夫は族長としての信任を失うことになりかねません」と、シエルさんが言う。声の調子から、彼女の固い意志のようなものが感じられた。
「つまり、この女にはここで死んでもらうということね」と右の人の暴言。
「は? 」と私は声を上げた。自分の足に力が入り、座っている椅子を少し後ろに押した。立ち上がってしまうところだった。死んでもらうって、殺すって意味だよね。何を言うこの女は。
「ワシュテア。夫の命の恩人に対して、刃を向けるのがシムオン族の礼儀なのですか? 」と、プリスキラさんが強い口調で言う。声量も大きい。プリスキラさんと右の人が、睨み合う。プリスキラさんは、顔が整っているだけあって、睨むと顔に凄みがでる。まぁ右の人のガンつけも迫力はあるけど、プリスキラさんには負ける。
ちょっと挙動不審になった私は、シエルさんと目があった。シエルさんは、口を軽く閉じながらも笑窪を作って、私に優しい目で微笑んでくれた。心が落ち着く笑みだと思う。
「申し訳ありません。失言でした。謝罪致します。皆様におかれましても、先ほどの私の失言へのご寛恕とご放念を」と、右の人は言って俯いた。どうやら、私は殺されるってことはないみたいだ。それは、プリスキラさん、シエルさんの態度、そして、ちょっとしょんぼりしているようなワシュテアさんを見ればわかる。
後宮で殺されるとか、なんか有りそうな話でリアルすぎて怖い。毒殺とか怖い。この中庭にもトリカブトとか植えてあったりしたらどうしよう。私は見分けられないし。銀製の食器を使って防ぐとか、そんな感じだっけ。あとは、寝ている間に耳から毒を入れられたりとかだと思うけど、熟睡しているときにそんなことをされたら、寝耳に水だ。
「事実を隠蔽するということは、おそらく無理でしょう。丈夫な革袋もいつか破けて水は漏れると言いますし。それよりも、隠蔽する事実自体を無くしてしまうというのは、如何でしょうか? 」とシエルさんが言った。
「ごめんなさいシエルさん。貴女の言わんとしていることがよく分からないわ」と、プリスキラさんが首を少し傾げながら言った。私は、さっきからみなさんの話の内容について行けていないのだけれどね。
「つまり、ササキ・アリサさんが夫との結婚を望んでいる、熱望しているという状態に持っていくことです」とシエルさんが言う。
「そうなれば、事自体は落ち着くのだけれど。そんなに上手くいくかしら。恋は春風の如し。誰にも止められず、また予想もできない、と古くから言いますわよ」とプリスキラさんが言った。
「ですが、桔梗は咲くところにしか咲かない、とも言いますわ」、とシエルさんが切り返した。
「豚に真珠」と、右の人が小さな声で呟く。
プリスキラさんとシエルさんは2人で、なんか聞き慣れない諺の応酬をしているけど、諺の細かいニュアンスとかまでは私はよく分からない。だけど、今度の話の流れは、私がロトラントさんを好きになるようにする、という話をしているということは分かる。当事者、というか私の目の前でそんな話を繰り広げられても困るし、そんな話をしている2人がロトラントさんの奥様方というのも変だ。
そして、右の人。ちょっと頭に来た。豚に真珠とか、ど真ん中の直球というか、私の前の世界でも使われるような諺を呟くかなぁ。言わんとしている意味が分かってしまうだけ、余計に腹立たしい。豚はこの世界にもいたし、真珠は見たことないけどあるのだろう。そして、その組み合わせに関しても、前の世界とこの世界の人の感性は、共通しているようだ。それにしても、豚に真珠って、面と向かって言われると腹立つなぁ。まだ、馬の耳に念仏の方が同じニュアンスだとしても許せる。あっ、でも、念仏がこの世界にはないかも知れないか…… 。
「ササキ・アリサさん。この話を具体的に進める為に、一つお伺いします。貴女が結婚をする相手として、夫、ロトラントは、見込みがあるとお思いになりますか? 」と、シエルさんが言った。そして、プリスキラさんも私の方を見る。右の人も見ている。
私は考える。確かに、ロトラントさんは悪い人ではない気がする。今思うと、洞窟でロトラントさんを介抱したのは、何だかんだ楽しかった気がする。風邪で寝込んだ彼氏の家に行って、卵おじやを作って食べさせてあげるのに似た感覚だったかも知れない。でもどうなんだろうなぁ、見込みって言われてもなぁと考える。
そして気付いた。この状況で、見込み無いですって言えないことに。だって、奥様×3を目の前にして、「私の結婚相手として彼は見込みありません」とか言えないだろう。失礼千万過ぎるだろう。
「ちょっとまだ分かりません」と、私は答えた。見込みあります、って答えたら、どんどん話が突き進んで行きそうだし、否定は人として出来ないし。まぁ無難な回答って奴だ。
「そうですか」と少し残念そうにシエルさんが言った。
「でも、見込みがないって言う訳でもなさそうね」と微笑みながらプリスキラさんが言う。彼女に、自分でも把握できない自分の心の一部をのぞき見られた気が、なんとなくする。
読んでくださりありがとうございます。




