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落ち武者は、小川の岸辺には居なかった。どこに居たかというと、川の中にいるのを発見した。私は彼が川で溺れていると思って彼のもとに全力で駆け寄った。そして彼を地引き網のように、強引に陸に引っ張り上げた。力一杯引っ張ったから、かなり痛かったようで、落ち武者は呻き声を上げていた。私は、溺れてしまう方が命に関わると思い、呻き声は無視せざるを得なかった。
「大丈夫ですか? 」と、彼を川岸まで移動させた後、私は声を掛けた。彼の唇は、紫色になっている。大分体が冷えてしまったようだ。
小川の水は、冷たい。流水に長時間体を浸してなんかしていたら、下手をしたら体温低下で命に関わってしまうだろう。小川も、浅くて良かった。脚が骨折していて泳ぎにくい状況、しかも金属の鎧を纏っているという状況で、万が一、水深のある場所に入ってしまっていたら、彼は確実に溺死していただろう。
「あ、あぁ。助かった。助けてくれてありがとう」と彼は言った。
彼は意識を保っているようで、私はホッとして、「よかったぁ」という言葉が口からこぼれた。そして、「あぁびっくりした」という言葉も口から出た。
「布を切るために、ナイフを…… 見つからなくて…… 」と彼は言った。体が冷えているようで、小刻みに体が震えている。声も震えている。
私は、洞窟から持って来た布を彼に渡した。彼は、その布で彼の左脚と薪を縛ろうとしているが、手も悴んでいるようで、左足と副木を結ぶのに苦労している。
じれったく思った私は、「こんな感じで縛れば大丈夫ですか? 」と言いながら、彼を手伝った。副木をどのように固定させれば治療になるのか分からないけれど、彼は分かってやっているようだし、彼の指示通りにしたので、一応の治療、というか応急処置にはなっただろう。
そして、私は小川の中に入って、ナイフを探した。水はやはり冷たい。この世界に来てすぐ、ザインさんとこの小川に足をつけて休憩したときは心地良い水温だったけど、いまは冷たく、寒く感じる。小川の水嵩は、踝の少し上に来るくらいだけれど、足元から身体の体温を奪われていくのが感覚として分かる。
ナイフに関しては、すぐに見つかった。小川の中の小岩の影に少し隠れていたけれど、もとも水の透明度は高いので楽に発見できた。おそらく、彼は水面を這うようにして探すしかなかったので、小川の中を見渡すことが出来ず、探すのに時間がかかったのだろう。立ちながら、そして、あたりを見渡せば、彼も簡単にナイフの柄の部分の銀色の反射がすぐに見つけられただろう。
「ナイフ、見つかりましたよ」と言ったが、彼は、シバリングしている為か、「すまない、ありがとう」というようなことを言ったが、すごく聞き取りずらかった。体を温めなければならないだろう。洞窟に連れて帰って、火に当たるしかないと思った。太陽の光に当たると温もりを感じるし、日の光で気温も少しは上がってきているけど、心もとない。
「あの、私が暮らしている洞窟に行きましょう。かまどの炎に当たれば、体を温めることができます」と私は彼に伝えた。首の動きと、彼の目は、私の提案に同意したように思えた。
「いち、にの、さんで、起こしますよ。いですか? 」と彼に言いながら、彼の右手を私の肩に回した。彼とアイコンタクトできたのを確認して、「いち、にの、さん」。
彼の体重が、私の体にも圧し掛かる。「う、ぐぅ」という彼の痛みを耐えているようだが、うめき声が彼の口から洩れてしまっている。私も、「重いっ」と言う声が私の喉くらいまで上がってきて、もうすぐ口から出てしまいそうだったけど、居心地が悪い感じがしたので、それを押し戻した。
彼を支え、彼の様子を伺いながらゆっくりと歩くが、彼はかなりきつそうだ。呼吸のまったく合っていない二人三脚のように、ぎこちなく前に進んでいく。歩幅もひどく狭い。彼の肩に回した私の腕が冷えていくのが分かる。私が冷たいと感じているということは、彼が暖かいと感じてくれているということでいいのだろうか。彼の体は寒さで小刻みに震え続けているが、少しでも暖かいと感じていてくれればいいなと願う。折れていない右足にも、彼は力が入らないようで、時折私の方に重力が襲いかかってくる。ジェットコースターが、急降下から登り坂に移行した時みたい。
洞窟までの道は、私一人で行くには遠くないが、二人で行くには少し遠い。
兎と亀が競争する童話を思い出す。今の私達、あの童話の亀みたいに遅いのだろう。では兎は? 先に進んで、居眠りをしている暢気な兎は、残念ながらこの場にはいない。ただし、亀に追いつこうとする不吉なものは存在している。彼に肩を貸して一緒に歩いているからこそ、その存在を私も感じることができたのだろう。彼は、私の腕の温もりを奪っていく代価として、死の気配を私の腕に染みこませた。そして、染みこんだその気配は私の静脈を通って私の心臓にまで微かに届いている。遙か前方の方で、居眠りしているはずだった死の気配は、いつの間にか、私の背後にやって来ていた。私が年老いて、髪が完全に真っ白になったくらいに、やっと私が追いついて出会うはずの存在が、何故か後ろから私を追っかけている。
早く洞窟に到着したいのか、私を追う存在との距離を少しでも離したいのか、私は急いで歩みを進めようとするが、進まない。
「どうしたらいいの? 」と、回答をしてくれる者がいるわけでもないのに、私は誰かに尋ねた。だが、彼も、他の何者も、私の問いに回答してはくれなかった。
私は、この時、追われる者と追う者の間には、大きな隔たりがあるのだと知った。兎が遙か前方にいるのだと思えばこそ、亀はマイペースで目標を目指し努力し続けることができたのではないだろうか。背後から迫っている兎に脅えながら焦って走る亀は、なんの童話的教訓も与えてはくれないだろう。私は、彼の死の気配が伝染し、のろのろと山の頂上をめざし登っている一匹の亀となった。背後から迫り来る何かに脅えながらも、ただ山を目指して、洞窟の竈の温もりを目指して、ゆっくりと歩をすすめていくしか方法がなかった。
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洞窟にたどり着くのに、1時間以上の時間を要した。洞窟に着いて、私は急いで火を焚いて、彼を竈の前に座らせた。少しでも多くの熱が彼に当たるようにと、竈の扉を開いたままにしているから、扉から洩れてくる煙が洞窟の天井にも煙が立ちこめる。煙は、排気口と採光穴を通り、天に昇っている。まだ外は充分に明るいので、煙が立ち上っているのが遠くからも見えてしまうだろう。でも、それは仕方ないと割り切ろう。
私は、左の鎖骨に強い痛みを感じている。彼は身長が私よりも高い。肩の位置も私よりも高かった。そのせいで、左腕をずっと上げている状態で、明日以降の左腕の筋肉痛は免れ得ない状況だ。彼の突然圧し掛かっている重みも、何とか耐えきったが、長時間の間左肩を酷使したせいで、肩の関節と、鎖骨が痛い。特に、鎖骨がひどく痛い。彼の着ている金属の鎧の構造上、私の肩全体で包括的に彼の体重を支えるということができなかった。金属鎧の二の腕部分が円形の筒型になっていて(その筒の中に腕を入れて装備している感じ)、彼の体重がその円形の一点に集中し、それがちょうど私の鎖骨の部分と接触していたのだ。つまり、彼の重みが、私の鎖骨を一極集中的に圧迫してきたのだ。はっきりいって、二度とこんな目に遭いたくない。青あざになっていないかどうかを確認したいけれど、自分の両目だけでは、自分の鎖骨を目視することができない。自分の目では、見えそうで見えない。なんか悔しい。