3ー9
私が、ベットから起き上がったのは、太陽が空高く昇った後だった。蒼穹と呼ぶにふさわしい空だ。居座る秋と、その秋に立ち退きを要求した冬が衝突して出来た空白地帯。台風の目の中にある晴天。そんな日だった。部屋から食堂に行き、柱時計を見た。短針は、12時付近にあった。
完全に寝坊である。明け方近くに寝たのだから当然の結果であり、太陽の位置で、大体の時間は把握していたが、時計という時間を正確に計る装置から、寝坊という事実を改めて突きつけられ、私は「やばい、寝坊した」と心の中で思った。そして、朝六時の教会の鐘は、バルナバ神父かコルネリウスが鳴らしてくれていることを願った。
12時の鐘は絶対に鳴らさなければならないな、と私は思い、行儀が悪いが、寝巻のままで、鐘を鳴らす準備をしに礼拝堂に向かった。
礼拝堂で、紐を解く作業をしている時、教会の入り口で男の声が聞こえてきた。
「コルネリウス」
誰かの叫び声が聞こえてきた。しかも、その男が発する声には、怒りの感情が明らかに含まれていた。誰かが、コルネリウスを訪ねてきて、教会の門の前でコルネリウスを呼ぶために大声を上げているという訳ではなさそうだ。そんな友好的な声色ではない。それに、誰かが訪ねてきているのだったら、礼拝堂の中に入ってきている筈だ。礼拝堂の扉は、施錠されていない。何時でも祈りを捧げることができるように、鍵は閉めていない。扉が閉まっているだけだ。
私は、何故か忍び足で入り口まで行き、そしてゆっくりと扉を開いた。
扉を開いた私の眼下には、地面で絡み合っている二人組の男がいた。コルネリウスとラタさんだった。ラタさんは、格闘漫画で良く出てくるマウントポジションをとっていた。コルネリウスは、ラタさんの左手でシャツの襟首を握られて苦しそうだった。そして、ラタさんの右手は、コルネリウスを殴ろうと、高く振り上げているところだった。
「ちょっと、なにを…… 」
私が声を出したちょうどその時、「ボコッツ」という音を聞いた。ラタさんが振りかぶった拳で、コルネリウスの左頬を殴った音だ。白いシャツに付いた油のようにしつこく、耳から離れないようなそんな印象深い音だ。私の耳の中に、肉感音がねっとりと残る中、私は、これは喧嘩をしていると判断した。そして、それを至急、止めなければならないと思った。
しかし、私の思考はそこで止まった。この喧嘩の止め方が分からない。
私の中での喧嘩は、殴り合いではない。男と男が、3メートルくらいの距離で、仁王立ちしながらにらみ合いをしているような、そんな喧嘩だ。そして、お互いが間合いを詰め始めようとするとき、女の子が、その二人の間に泣きながら割って入って、「私の為に喧嘩しないで。私を取り合わないで」と、そう泣きながら叫ぶ。私の喧嘩のイメージなんてその程度である。もちろん、現実の生の喧嘩現場なんて遭遇したことがない。
現実に目を戻そう。すでに、喧嘩は始まっているようであり、ラタさんがコルネリウスを地面に組み伏せている。この状況で、どうすればこの喧嘩が止まられるのか、想像がつかない。
「ボコッツ」
また、ラタがコルネリウスを殴った。力一杯。私は、教会の扉の前で、呆然と立ち尽くすしかなかった。
コルネリウスとラタの喧嘩は、私の思考が石となり、私の体がロボットのようにぎこちなく動いているところで、勝手に収束を迎えた。ラタさんが殴るのを止めて、コルネリウスを解放したからだ。
ラタさんは、自分の衣服についた埃を簡単に払ったあと、右手の中指の第3関節の部分を左手で撫でていた。コルネリウスを殴った反動で、関節を痛めたみたいだけど、ラタさんの負傷に私は関心がない。
私は、地面に大の字になっているコルネリウスに駆け寄った。
コルネリウスは、目を開いたまま、空を見つめていた。口の中を切ったのか、血と唾液が混じったような、血のように赤くもなく、唾液のように透明でもない液体が、口から垂れていた。粘りが強い液体なようで、顎から地面へと垂れるその液体は、糸を引いていた。
コルネリウスは、大きく目を見開いて、空を見ていた。コルネリウスの意識が無いのかと思った。ラタに殴られた衝撃で、気を失っているのではないかと思った。コルネリウスは、目を大きく開けて、唯、空を見ていた。雲も無い空を。
私が、彼のほっぺたを軽く叩いても、反応がなかった。危険な状態なんじゃないかと思った。
「バルナバ神父を呼んできて」
私は、後ろを振り返って、ラタさんに叫んだ。
ラタさんは、私の後ろで、腕を組んでただ立っているだけだった。ラタさんの瞳には、私は映っていなかった。
「ラタさん、ラタさん」
私は、ただ、コルネリウスを無感情で漠然と見つめているラタに呼びかけた。
「ラタさん、ラタさん。バルナバ神父を呼んできて」
「コルネリウス。返事をして」
「ラタさん。お願い。ラタさん」
コルネリウスの目は、空を見ていた。ラタさんの瞳は、何かを見ている。
私は、怖くなった。喧嘩という現場に遭遇したという恐怖ではない。この2人が何を見ているのかが、分からなくて怖いのだ。
私は、前の世界の仙台の美術館で観賞したことのある、彫刻家の舟越桂氏の作品に表現されている目を想起した。今の二人の目は、そんな目をしている。
「コルネリウス、しっかりして。ラタさん、バルナバ神父を」
私は、2人に呼びかけ続けた。
「俺の妹を殺したのは、お前だ」
ラタさんが静な声で言った。本当に静かな声だった。ガラスとガラスを擦り合わせた時の音のような、そんな静かな声だった。人間には聞き取れず、コウモリとかが聞き取れるような、そんな音だから、静かなのかも知れない。
ラタさんは、北階段の方に向かって歩いていった。私は、それとコルネリウスを交互に眺めることしかできなかった。
・
ラタさんが去ったあと、バルナバ神父がやって来て、コルネリウスを抱えて、食堂の椅子に座らせた。そして、バルナバ神父も私も椅子に座った。そして沈黙が続く。
柱時計の振り子が空気を切る音が聞こえる。巻かれたゼンマイが、少しずつ緩んでいく音が聞こえる。教会の鐘が、風に吹かれて少し揺れているような気がした。12時の鐘は鳴っていない。
蠟燭の耐久性に驚かされる。延々と燃え続けているのに、蠟燭は減っていないように思える。燃え尽きる事のない魔法の蠟燭を使っているのかも知れない。
「具合はいかがですか? 」
「もう、大丈夫です。落ち着きました」
「そうですか」
教会の屋根の上に、鳥が止まったような気がした。台所に置いてある水瓶に、小さな埃が、瓶と蓋の隙間から入ったような気がした。井戸の中に、枯れ葉が落ちた音が聞こえた。
「ラタは、昔の仲間です」
「そうだったんですね。分かりました」
バルナバ神父は立ち上がり、食卓を挟んで向かい合わせに座っているコルネリウスの右肩に右手を置いた。2秒くらいだと思う。私は、その間、呼吸はしなかった。バルナバ神父は、ゆっくりとその手を上げ、食堂から出て行った。
私は、コルネリウスの目の前に置いてある布を取った。そして、井戸に行き、その布を洗い、水を絞った。そしてその後、その布を水に濡らし、軽く絞った。
コルネリウスの左頬に、その布を当てた。左膝の上に載せられていたコルネリウスの左手をそっと握り、そのまま彼の左頬にまで持って行った。コルネリウスもその意図を理解したらしく、布を自分の手でおさえた。
私も、バルナバ神父と同じように、コルネリウスの肩に手を置いた。そして、食堂を出た。そして自分の部屋に戻って、ベッドに座る。落ち着かなかった。窓辺に置いたはずの七竈の実を目で探したけれど、ない。昨日、燃やしたんだったっけ。
何の音も聞こえないのが無気味。私は、ゆっくりと部屋を出て、一階に降りて、食堂を覗いた。コルネリウスが、座っていた。食卓の上には、蠟燭の炎が揺れている。
私は、バルナバ神父を探した。書斎、不在。礼拝堂にいた。お祈りをしていた。
邪魔をしては悪いと思ったが、私の気配にバルナバ神父は気付いたらしく、顔を上げた。私は、ベルナバ神父の所へゆっくりと向かった。
「あの、お邪魔をしてすみません。コルネリウスの事なんですが…… 」
「そっとしておいてあげましょう。昨日は飲み過ぎましたし、先ほどのことも触れないでおきましょう」
バルナバ神父は、私の言葉を優しく閉ざした。そして、春のような笑顔で私に言った。
「分かりました」
バルナバ神父は、喧嘩の事情が分かっているらしい。
「今日は、村全体がお休みです。アリサさんもゆっくりと昨日の疲れを癒やしてくださいね」
「あ、鐘もならなさいのですか? 」
「はい。今日は、鳴らしませんよ。明日の朝、お願いしますね」
「分かりました」
私は、メルさんの宿屋に行くことをバルナバ神父に告げて、教会を出た。
・
教会から宿屋へ向かう途中、いつもは開いている市場も、誰も人がいない状態。村全体が仕事休みということを実感する。すれ違う人も、どことなく足取りがゆっくりと重い。村の人達からの挨拶も、「昨日は、飲み過ぎましたね」という二日酔い宣言の如き挨拶。ハレの日の特別な日なのだろう。私も、ねぶた祭りでハネた次の日は、夕方まで寝ていたこともあるしね。
宿に到着した。
「あら、アリサちゃん。こんにちは。昨日は飲み過ぎたのよぉ」
私は、メルさんの宿屋に来た。メルさんは、受付の机に、両腕と頭を乗せ、へばっていた。昨日、あれだけ働いて、あれだけ飲めば、メルさんの今の状態は当然だろう。受付にいるだけでも立派だ。
「メルさん、こんにちは。今日は、村全体がお休みと聞いたのですが、精が出ますね」
「本当だよ。シルティスの奴に、朝早くに叩き起こされたんだよ。秋祭りの次の日の早朝に村に来るなんて、非常識もいいところだよ」
メルさんは、大きな声で言った。食堂に、シルティスさんがいるのかも知れない。そして、メルさんは、シルティーさんに嫌みを言ったのではないかと思った。ラタさんも食堂にいる可能性がある。
「あの。バルナバ神父、とコルネリウスと私で、ここで夕食を食べさせてもらう話をお願いしに来たんですが、別の日にした方が良いですか? 」
私は、恐る恐るメルさんに聞いた。メルさんは、食事をする日の二日前くらいに連絡をくれれば、準備をしておくということだった。メインは、ニワトリを丸ごと赤ワインで煮込んだ料理でどうかと聞かれる。それをパンと一緒に食べると、ものすごく美味しいらしい。私は、ローストチキンのイメージが頭から離れず、ニワトリの赤ワイン煮込みがどんな料理なのか、いまいち想像が付かなかった。だけど、メルさんのお薦めということで、その料理に決めた。
「あ、あと、昨日。結局、宿は使いませんでしたからね」
使われた様子のない宿の部屋を見れば、一目瞭然だけれど、一応、昨夜の身の潔白というか、なんというか、メルさんの想像しているようなことはしていないということを、自分の口から伝えておく。
「あはは。アリサちゃんは本当に可愛いねぇ」
私の発言を聞いたメルさんが大声で笑い始めた。
「そんなことを、わざわざ言わなくてもいいのよぉ。使ったのにしろ、使わなかったにしろね」とメルさん。
そして、秋祭りの次の日の挨拶の定型句「昨日は、飲み過ぎましたね」の意味をメルさんから教わった。
私はメルさんから、定型句の意味を教えて貰ったあと、心の中でそんなこと分かる訳ないじゃんと叫んだ。まぁ、言葉の成り立ちとしては分かる気がするけど、それを察するというのは無理があるよ。
『こんにちは』と挨拶されて、今日は……なんです? 大変お日柄が良いんですか? と『こんにちは』の後に省略されている言葉の続きをを挨拶してきた相手に求めたりするだろうか? いやしない。日本における挨拶の常識と言ってもよい。『こんにちは』と挨拶されたら、『こんにちは、大変お日柄が良い日ですね』というのを、自然と察することができる。
しかし、「昨日は飲み過ぎました」から、「昨日は飲みすぎました。飲み過ぎたせいで、昨日起こったことを私は憶えていないので、お互い気にしないようにしましょう。まあ昨日は秋祭りで無礼講でしたからねぇ」という言葉が省略されていると、誰が分かるか! 文化の壁は、想像以上に高い。北壁だ。
秋祭りの夜は、未婚者達の、逢い引きも夜這いも許される。そして、年長者達は、それを見なかったことにする。それらの意味が、「昨日は飲み過ぎました」には含有している。
私は、異文化理解の難しさを身に染みながら、宿屋を後にしたのだった…… 。
教会の丘に向かって風が登るように吹いている。背中を風が押してくれていて、気分的に少し階段を登るのが楽なように感じる。
「ササキ・アリサ」
自分の名前が呼ばれ、振り返ると、ラタが駆け足で階段を登ってくるのが見えた。あんまり会いたくない相手だったけど、足を止めて、ラタを待った。
「すまない。先ほど、渡すのを忘れてしまっていた」
そう言って、小壺をラタは差し出してきた。
壺には見覚えがあった。ハンドクリームの壺だった。村を訪れる度に、ハンドクリームを届けてくれると、シルティスさんが言っていたのを思い出す。ハンドクリームが手に入ること自体は嬉しい。しかし、教会にハンドクリームを届けにきたときに、コルネリウスと会ってしまい、喧嘩が始まったということを考えると、受け取りにくい。コルネリウスに悪い気がする。
「お前のだよ。早く受け取れよ」
壺を見つめ続けている私をラタが急かした。
「ありがとう」とだけ私は言う。それ以上の事を言わないのは、お互いの為だ。
「あと、これ、王都で流行っている魔除けだ」
そう言って、右ポケットから輪っかの紐を取り出した。青と赤の二本の紐でつくられたミサンガ。私が、秋祭りの日に、ダレトさんから貰ったのと同じ意匠だった。どうやらこのミサンガが王都で流行しているというのは本当らしい。
「あ、それ。もう持っているから…… 」と私は言って、自分の左手首を彼の目の前に持っていく。
「そうか。分かった」
彼は、それだけ言うと、私に背を向けた。
「ねぇ、ラタさん」
「なんだ? 」と聞き返すも、ラタは相変わらず私に背を向けている。
「もう、コルネリウスを殴ったりしないでね」と、私はついに言っちゃった。コルネリウスとラタさんの間に特別な事情があったのは、なんとなく分かったけれど、それに私が口を挟んで良いことかは分からない。バルナバ神父からも、触れないようにと言われていたし。
「ああ」
ラタさんは、それだけ言って、足を進め階段を降りていく。私から遠ざかっていく。ラタの背中は、なんとなく怒っているように見えた。
階段を登り切ったあと、南階段の一番上の段から、村を眺めた。広場の真ん中に黒丸が出来ていた。昨日のキャンプ・ファイヤーの燃え残った炭の黒さだろう。燃やした七竈の実は、天に昇ったのかな、と思った。
読んでくださりありがとうございます。




