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今日も、宿屋にメルさんの手伝いに行かなければならない。正直、気が重い。あの商人さん達、特にラタとかいう男に会いたくない。メルさんの手伝いから帰って来てからも、私は元気がなかったらしく、バルナバ神父も、コルネリウスも心配してくれた。ハンドクリームが欲しかったんですけど、お金がないので…… 、なんてことは言えないから、馴れない仕事をして少し疲れただけです、と誤魔化しておいた。慎ましい生活をしている二人に、ハンドクリームが欲しいです、なんて贅沢なことは言えない。コルネリスも、成長期はさすがに過ぎているだろうけどお肉が食べたいとか、不平を言わず、パンとあまりたくさん野菜の入っていない塩スープを感謝しながら毎日食べている。
私は今、北階段を降りて、環状線を西回りに歩いている。つまり、東門にある宿屋へ、遠回りして歩いている。足取りも重く、ゆっくりと、地面を見ながら歩いている。だって、あの人達に会うのが気まずいんだもん。あの人達が朝食を食べ終わって、食堂にいないことを願いながらゆっくりと歩く。メルさんには悪いとは思うけど…… 。
宿屋に着いて、メルさんに挨拶をする。メルさんは今日も忙しそうで、すこし後ろめたい気持ちになった。
食堂には、シルティスさんと、サルデトさんの二人が書類を広げて作業していた。シルティスさんは、相変わらず明治時代の政治家っぽいし、サルデトさんは、リンカーン大統領みたいだ。ラタがいない分だけ、気持ちは楽だけど、食堂での作業は気が重い。気が重いけど、メルさんから食堂の食器の片付けを頼まれてしまったから、仕方が無い。ハンドクリームは諦めるけど、歓迎会のお礼の会をするという初志は貫徹しようと頑張る。
「おはよう。お嬢さん」と、シルティスさんが笑顔で声を掛けてくれる。おはようございます、と作り笑いで対応をする私。私のハンドクリームは要らないですからとシルティスさんに今日、言わなければならない。昨日、有耶無耶になってしまったし、雰囲気的に私が買えないってことは分かっていると思うけど、私の口から、断りを入れるのが筋だと思う。万が一、次にシルティスさん達が来たときに、私の分のハンドクリームを仕入れてきてくれたとしても、その代金を払うお金が私にはない。念押しという意味でも、「私の分は、要らないです」と言っておかなければならない。
後ろ髪が引かれるというのは、このことだろう。意識的に二人を見ないように食器を片付けたりしているけど、欲しい物は欲しい。ハンドクリームを諦めきれない自分がいたりする。実は、試供品とかないのかなぁ、とか期待していたりもする。そして、実は、ただでハンドクリームをプレゼントしますよとか、そんな事を言ってくらないかなぁなんて、期待している自分もいる。
メルさんが食堂にやってきて、昨日のように休憩に入る。昨日と同じようにシルティスさんのテーブルに座るようだ。私は、その輪に加わりたくなかったし、洗濯などの用事を作ってその場への参加を避けたかったけど、メルさんの誘いを断れずに席に座る。
「ザントロスは、水面下の活動から、水面に波紋を広げるような活動に変わった」と、シルティスさんが深刻そうに説明をした。
このタキトス村は、ザントロス国との国境の山脈を越え、林を抜けたらすぐにこの村、というような位置にある。戦争になり、ザントロスが定石通りの進軍をしてきたとしたら、真っ先に攻められるのはこの村だということは、歴史が証明しているということだ。もちろん、そんな歴史を私は知らない。
そして、この村が攻められても、即時の反撃をしないというのが、このイコニオンのこれまでの戦略ということらしい。村の周りは、緩やかな丘しかなく、攻め易く、防衛するには向かない。防衛の要所となるのは、丘の上の教会だが、それほど難攻ということでもない。イコ二オン軍のザントロスとの戦争の定石は、この村周辺にザントロス軍を足止めし、殲滅するというものらしい。ザントロスは、山脈を越え、林を抜けるという輸送上の問題があり補給線の確保は難しく、補給には時間が掛かる。イコ二オンは王都からタキトス村までの道路が完成しているから、補給線はたやすく確保できる。イコ二オンは、総力戦でザントロスを破り、敗走させる。それが、このイコニオンの防衛らしい。そして、このタキトス村を抜けられたら、王都まで進軍されてしまうので、激戦区となるのもこのタキトス村周辺らしい。
大変な所に来たなぁ、ロゼさんはイコニオンは平和だとか言ってたけどなぁ、というのが、うつむきながら聞いていた私の感想だ。もちろん、声に出してはいない。
「私がこの村に来た時も、焼け落ち残った炭と、荒れた土地だったからねぇ」
メルさんの昔を振り返るような言葉のあと、少しの間、沈黙が流れた。メルさんの言葉を額面通り受け取るならば、メルさんはこの村に移住してきたようだ。メルさんの経歴なんてものも、私は聞いたこともなかったけど。
「あぁ、計算が合いません」と唐突に、サルデトさん。
あまりに突然の事に、メルさんと私は「は? 」と、同時に声を上げた。シルティスさんは、その意味を理解したらしく、サルデトさんがせっせと書いていた資料を見つめていた。
「収支が合わないな。だが、大した額じゃないからいいんじゃないか」と、その資料を眺めてから、シルティスさんは言った。
「いや、でも…… 」とサルデトさんは納得が言っていない様子。私は、その様子を見て、サルデトさんはA型かな、なんて思ったりもした。
「さて、仕事をしようかね」と言って、食堂から出て行くメルさん。私も、その後に付いていったが、
「食堂の床の掃除をお願いね」という指示を受け、しぶしぶながら、モップとバケツを持って食堂に戻った。
食堂の手前の椅子やテーブルを端に寄せて、片側の床のモップ掛けをする。椅子も、脚、肘掛け、背板など、椅子の全体にこびり付いた汚れを、雑巾で一脚一脚丁寧に拭いていく。
掃除をしながら、食堂からこの二人、早く出て行ってくれないかなぁと思う。二人が座っている奥の方もテーブルを動かして、床のモップ掛けをしたい。椅子も拭かなければならない。はっきり言うと、作業の邪魔である。退いてください、なんてことをお客様に言う訳にもいかない。お客がまだテーブルにいるのに、掃除を開始するということが、飲食店での経験上、よろしくないということも自覚している。
メルさんも、この二人が食堂に残っているのを承知の上で、食堂掃除の指示を出しただろうし、二人も気にしていない様子だから、この世界では、それはお客様への失礼に当たらないのだろう、なんてことを、雑巾を絞りながら考える。あ、水がだいぶ汚れてきたな、新しいのに代えてこよう、ちょうど部屋の半分、掃除終わったし。
汚れた水を捨て、新しい水をバケツに汲んできても、二人はまだ食堂にいた。サルデトさんが、両肘をテーブルに突けて頭を抱えている。シルティスさんは、脚を組んでリラックスした状態で、右手に持った書類を眺めている。この二人、食堂から移動する気がないようだ。仕方が無いから、掃除の終わった入口側のテーブルに移動だけしてもらおう。
「お嬢さん、白湯をもらってもいいかい? 」とシルティスさんが、声を掛けてきた。移動してください、と声を掛けようと思っていた矢先だ。少しびっくりした、でもこれはチャンスだ。
「白湯ですね。すぐ持って来ます。あ、あと、すみません、掃除をしたいので、あちらのテーブルに移っていただいてもよろしいですか? 」と、さりげなく移動をお願いする。
「あぁ、いいよ」と、何でも無いかのようにシルティスさんが言った。私が気を使いすぎなのかなぁ、なんて思ったりしちゃうじゃん。サルデトさんも、テーブルに広げていた資料を整理し始める。移動の準備をしてくれているようだ。
白湯を調理場から持ってくると、テーブルの移動は終わっていた。ちゃんと、掃除の終わっているテーブルに移動してくれている。
「移ってもらってすみません」と言いながらコップをテーブルに置いておく。心の中では、掃除したばっかりだから汚さないでね、と思っているけど。
食堂の奥も、手前と同じ手順で掃除をした。奥の方が、床は汚れていた。ワインか何かの染みが床についている所は、何度もモップで拭いたけど、少しも汚れが落ちなかった。粉末洗剤とタワシがあれば、もう少し格闘できそうだけど、そんな物はないから諦めるざるをえないわね、と自分にも少し言い分け。
「あら、綺麗になったじゃない」と、メルさんが食堂の掃除が終わったタイミングでやって来た。すごいタイミングが良いので、少し怖くなる。こっそり、サボってないかを見張ってたんじゃないか……なんてことも邪推。いや、私は、サボってないけどね。一生懸命やってたし。
「アリサちゃん、洗濯は終わらせたから、もう今日はこれで終わりにしましょう」と言って、メルさんがまたテーブルに座る。宿での仕事が終わったら、コルネリウスの手伝いに駆けつけるべきなんだけど、モップにしっかりと体重がのるように、腰と腕に力を入れ続けていたので、少し休みたい。と、いうことで、モップや雑巾を洗って干して、私は食堂に戻った。そして、朝来たときに、私の外套を掛けた椅子が空いていたのでその椅子に座る。シルティスさんの正面で、サルデトさんとメルさんの間の席だ。メルさんが私にも白湯を準備してくれたようなので、それを飲む。
シルティスさんは、メルさんに、昨日の午後にした村長との商談の話をしていた。小麦の還付が本当にあったらという条件付きだが、ある程度具体的な注文を受けたらしい。そして、ラタが、千歯扱きの規格の詳細を、村の幹部と詰めているらしい。大きさ、木製か鉄製か、歯と歯の間の目の幅がどれくらいか、とかの細かい話があるらしいが、私にはちんぷんかんぷんだ。メルさんは、シルティスさんの言っていることが分かるらしく、タキトスの麦には、目の幅はどれくらいがいいかとか、いろいろ意見をシルティスさんに言っていた。
私は、途中から、というか最初から話についていけず、話を聞くことすら諦めて、机に広げている羊皮紙に書いてある文字を読んだりした。羊皮紙には、いつ、誰からもしくは誰へ、何を、何個、幾らで買ったもしくは売った、というのが記録されている帳簿のようなものだった。石けん、ヤスリ、蝋燭など、いろいろな品物が記載されている。この世界にある品物を把握しておこうと、真剣に帳簿の内容を読む。「タキトス・教会用蠟燭」と書いてあるのを見つけて、教会の蠟燭も、シルティス商会から仕入ているということも知った。ハンドクリームがこの世界に存在しているとか、まぁ知っても買えないんだけど、知らないと悲しい思いをすることが多い気がする。この世界での知識を早く吸収して、私に対する、記憶喪失の女の子、直接な表現をしてしまえば、常識の無いすこしイタい娘という認識を改善していきたいしね。
サルデトさんの手前には、縦、横の線が引いてある木版があり、その上に、碁石のような形の小さな石が並べてあった。サルデトさんは、それを動かしたりして計算しているようだ。しばらくその様子を観察して、その木板と石の仕組みは、そろばんと同じだということに気がついた。へぇ、この世界にも、そろばんに似たような物があるんだぁと少し感動。
サルデトさんは、その帳簿を見ながら相変わらず格闘している。収支がまだ合っていないようだ。帳簿を見ていて思ったのは、資金の出入りを、時系列で記録しているだけの資料しかないということ。こんな家計簿みたいな帳簿だけだったら、仕入原価とかをしっかりと計算しているのかも怪しい。どうせ帳簿を付けるのなら、仕訳くらいやればいいのに、と思う。売掛金の管理はどうやっているんだろう、買掛金は? 利益ってどうやって計算しているのかなぁ、決算した時に現金が増えてたら、今年は儲かったなぁ、とかそんな適当な感じなのかな? と、数々の疑問と共に、大学の時に勉強した簿記の知識が蘇ってくる。ついでに、図書館司書の採用への応募に書いた履歴書に資格欄があり、日商簿記二級、一応取っといて良かったぁ、これがなかったら資格欄が空欄で見栄えが悪かったよ、なんて思った苦い記憶も思い出した。まぁ、全部不採用だったけど。二年連続で……。
「お嬢さんは、商売に興味があるのかな? 」と少し昔を思い出して、ブルーになっていた私に、シルティスさんが声を掛けた。シルティスさんの話をまったく聞いていないということが、ばれたのだろう。ごめんなさい。
「いやぁ、サルデトさん、大変そうだなぁと思って」
「実際、大変ですよ」と、サルデトさんが顔を上げて、笑いながら言った。そして、目のこめかみを右手で揉んだ。
「これじゃあ、大変ですよね」と、私は、苦笑いをしながらサルデトさんの意見に同意して、白湯を啜る。