3ー2
有沙は、南階段を降りて宿屋に向かう。東の地平線からいつのまにか太陽が顔を出していた。陽の光は、朝の湯たんぽのようにどこか頼りない。
太陽から逃げ遅れた暗闇は、高いとは言えない村の家々の陰に一生懸命隠れている。そして、少しでも西に逃げようと、長く長くその体を西へと伸ばしていた。夕暮れの影は、自分たちが本体であるかのような自己主張をする。日の出前に逃げ遅れてしまった暗闇達が、自己主張をせず、静かに建物の陰に身をひそめているのは、これからの時間が自分たちの時間ではないことを知っているからだろう。
「こっちの世界の太陽は、低血圧なのかな」と、有沙は、地表を暖める気がないような、弱々しい太陽に駄目出しをした。
微かに東の方から吹いてくる風は、太陽から逃げ出すみたいに西へと吹き去っている。いつもは西からの風だけれど、一日のうち、朝と夕方の短い時間だけ、風向きが逆転し東からの風となる。
北風と太陽は、旅人の服を脱がすために、競争をする。東風は、太陽のことが大嫌いで、朝日が昇ると、太陽から離れるために移動する。昔、些細なことで喧嘩をして、それからずっとお互いに口を聞いていないのだ。夕方、太陽が西に沈む頃になって、東風は、太陽と仲直りがしたくなって、太陽を追っかける。だけど、途中で思い直して、仲直りするのをやめる。そんなことを毎朝、毎夕繰り返している東風、なんていう空想をしながら、有沙は階段を降りた。
宿屋に着くと、受付にメルさんはいなかった。食堂の中に入っていくと、メルさんが食事の後片付けをしていた。食堂の一番奥のテーブルには、三人の男が座っている。
「おはようございます」と、有沙は、食べ終わった皿を重ねているメルさんに声をかけた。
「あ、アリサちゃん、おはよう」
メルさんは顔を上げて、私に微笑みかけた。
とりえあえず、朝食の片付けからかなと思い、少し肌寒いと感じながらも、食堂入り口近くの椅子に着ていた上着を掛けて、メルさんの食器片付けのヘルプに入った。三人分の食器があった。奥のテーブルに座っている三人組が、このテーブルで朝食を食べ、食後に奥のテーブルに移動したのだろう。
「助かるわ。残りの食器、調理場に持って来てね」と言って、メルさんは皿をかかえられるだけかかえて、食堂から急がしそうに出て行った。テーブルには、陶器製のコップと、木を掘って作った木皿が三つ残っていた。
テーブルの上があんまり汚れていない。ラメドより、上品な人達だ、と食事の形跡を片付けしながら思った。
調理場に食器を持って行き、洗い物をしているメルさんに渡した。
「そこにある白湯を、食堂の人達にお出しして」、とメルさんから指示されたので、その通りにする。白湯を出すということに、心の中で抵抗を感じるのは、お茶を飲むことに、前の世界で慣れ親しみすぎたからかもしれない。
「白湯を出すくらいだったら、茶を出せよ」なんて言われたりしないか、内心びくびくしたけど、逆に反応が良かった。そういえば、この世界には、緑茶だったり、紅茶はあるのだろうか。
「おぉ、ありがたい。体が温まる。お嬢さん、ありがとう」と、真ん中に座っている男の人が、丁寧にお礼を言ってくれた。
「お姉さんは、メルさんの娘さん?」と、男の一人が聞いてきた。その人は、三人の中で一番、外見が若い。
「違いますよ。今日は、メルさんの手伝いに来てるんです」とだけ返事をして、調理場に戻った。
「出してきました」とメルさんに一応報告する。
「ありがとうね」と、鍋を洗いながらメルさんはお礼を言ってくれた。
「食堂にいた三人が、泊まっている商人ですか? 」
「そうだよ。アリサちゃんは、初めてかもしれないね。王都の話とか、興味があったら聞いてみるといいさ。きっと面白い話を聞かせてくれるよ」とメルさん。
あの三人の男達が、商隊ということらしい。結構大人数だと想像していたが、ぜんぜん違った。
あの商人達は、二、三ヶ月に一度くらいの頻度で、定期的にこの村にやってきて、王都で仕入れてきたものを村で売ったり、この村の干肉だとか、家具だとかを買っていくそうだ。また、村に来るたびに、王都の政治動向や近隣諸国の動きなどの最新情報を、村長さん達、村の幹部に伝えていってくれるそうだ。露天を開いたりするなら、ウィンドウショッピングしたい! と思ったけれど、王都の品を販売すると言っても、村人個人が買い物をするというのではなく、村で必要な品を、村長が代表して注文して、その代金として村で作られた物を持って行くそうだ。
そんなことを、メルさんは食器を洗いながら教えてくれた。私も、食器を拭き、拭いたものを食器棚にしまいながらその話を聞いた。
朝食の片付けが一段落して、
「休憩ついでに、シルティスさんのお土産話でも聞こうか」とメルさんが言ったので、私もそれに着いていく。メルさんと私は、三人が座っていたテーブルにお邪魔する。
メルさんが、簡単に私を紹介して、三人も簡単に自己紹介をしてくれた。
シルティスさんというのは、白湯を出した時に、丁寧にお礼を言ってくれた人だった。シルティスさんの外見は、髭を豊富に蓄えており、髭だけをみれば、伊藤博文とか、板垣退助とか、明治時代に活躍した政治家を連想させる。髪は、オールバックで、髪に油を塗って、髪型をセットしているようで、髪が黒光りしている。年齢は、四十歳の半ばを少し過ぎたかな、というくらいの人だ。
シルティス商会の社長さんなんだよ、とメルさんが教えてくれた。シルティス商会のシルティスさんって、おい! と私は、心の中で駄目だしをした。有沙商会の有沙ですという風に、自分に置き換えても、名字じゃなくて名前を商会の名前にするなんて少しおかしい。佐々木商会の有沙です、なら社長令嬢っぽくていいけどね。
シルティスさんに続いて、自己紹介をしてくれたのは、サルデトさんという、シルティスさんと同じくらいの年齢の人だ。シルティス商会の副社長さんで、若い頃からシルティスさんと一緒に商売をしているらしい。ちなみにこの人は、
「リンカーン大統領を意識しているでしょ」
と突っ込みを入れたくなるぐらい、奴隷解放に多大な貢献をした偉人と同じように、髭と、もみあげがつながっている。
「私が目指しているのは、人民の、人民による、人民のための商人です」と言ってくれたら、すごいテンションがあがるんだけどなぁと思ったけど、それは、この世界で私しかわからないネタだし、高望みしすぎだろう。
最後は、ラタさん。私が、メルさんの子供かと聞いたのは、このラタさんだ。2年前から、シルティス商会で、修行をしているらしい。シルティス商会が、支店を作るようになったら、そこの支店長を任される予定の、期待の星ということだ。長い髪を後ろで紐で縛っていて、無精髭を生やしている。人懐っこい顔と態度だけど、右目に泣き黒子があり、少し寂しがり屋さんなのかな、という印象を受ける。たぶん、私より若い。
テーブルには、地図が広げてあった。私が、地図を見ていると、
「それに興味があるのかい?」
とシルティスさんが聞いてきた。私は、はい、と答えて、その地図の位置をずらした。私は、実際の方位と、地図の方位を同じ方向に合わせないと、地図をうまく読むことができない。どうしてかは知らないけれど、そうなのだ。だから、村の北門の方角に、地図の「北」を合わせた。
「お嬢さん、これがなんだか分かるのかい?」
シルティスさんは、白湯が入っているコップをテーブルに、ぶつけるように置いた。かっん、という音が響いた。私は、シルティスさんが持っているコップが割れてないかを確認してから、
「この地図のことですか? 」と私は、質問を質問で返した。
私のその言葉に、シルティスさんをはじめ、商人の皆さんは少し驚いた様子だった。
「今、私達は何処にいるか分かる? 」とシルティスさんが質問をした。この3人が驚いている理由が分からないから、何も言わないで黙って地図でタキトスの村が書いてある場所を指し示す。だって、地図に、「タキトス」って書いてあるし、そりゃ、分かるよと思う。
私の指指さした地図の場所を見て、うーん、と唸るシルティスさんとサルデトさん。
「王都からこのタキトスまで、馬車で八日掛かる。では、王都から、このヤッファの町まで、どれくらいの日数が掛かるか分かるかい? 」と、サルデトさんから質問が来た。
ヤッファという町の名前を初めて聞いた。とりあえず地図をのぞき込んでみる。タキトス村から北に伸びている道を辿ると、王都がある。これはザインさんが教えてくれた通りだ。そして、タキトス村から北西、王都から南西という、場所に、ヤッファという町が書いてあった。タキトス、王都、そしてヤッファを三点で結べば、二等辺三角形に近い形ができそう。
「四日ですか? 」と答えると、また、シルティスさんと、サルデトさんは唸った。どうやら正解のようだ。国土地理院地図に比べたら、目の前にある地図は、子供が書いた絵地図のようなだけど、縮尺は正しいみたい。
「じゃあ、じゃあ、タキトスからこのヘブロンの町に行くには、何日掛かる? 」と、ラタさんが今度は聞いてきた。シルティスさん、サルデトさんは、何か考え込んでいるようで、腕組みをして黙ってしまった。
「8日ですか? 」とだけ答えた。
「違う。16日は掛かる」と、ラタさんは、意地悪そうな笑みを浮かべて言った。
なんか、私が間違ったのがうれしいみたいだ。
「え? どうして? 」と聞く。
だって、タキトスから王都と、タキトスからヘブロンは、同じくらいの距離だ。普通に考えて、タキトスから8日掛かるのと同じように、8日掛かると考えるだろう。ちなみに、ヘブロンという町は、タキトスの東の方向にあるように地図では書かれている。
「タキトスから王都まで八日、王都からヘブロンまで、八日。合計、16日だ。いいかい、8、足す、8は、16だよ」と言った。
私はカチンと来た。ラタさんは、私の顔面に両手を突き出して、どや顔で、左手指5本、右手指3本で、「8」を示してきた。そして、「足す」とラタが言ったとき、両肘を曲げて、そして、また「8」と言ったときに、両手を伸ばして、また両手で作ったそれを、私の顔面近くにまた突きだしたのだ。「8」で両腕を伸ばして、「足す」で肘を曲げて、「8」でまた伸ばす。結構、不愉快、というか馬鹿にされているような動作だ。そして、「16だよ」と言ったとき、彼は両手を頭上に挙げて、幼稚園のお遊戯でやったお星様のキラキラを示すように両手の手首をひねりながら、円を描くように手を下ろしたのだ。
私が簡単な足し算ができないみたいじゃない。何度も言ってしまうが、私は、カチンときた。そして、タキトスからヘブロンに行くのに、なんで王都を経由するという答えの意味も分からず、徐々に腹も立ってきた。
テーブルに座っている三人のコップが空になっていたので、その白湯をいったん下げる。どのコップがどの人の使った物かを分かるように工夫しながらお盆に置いて、調理場に戻る。
頭の中は、先ほどのラタが出した問題のことを考えようとするが、ラタさんに対するイライラが収まらずにいる。
嫌いな上司のお茶は、ボロ雑巾で絞った物を出す、なんていうOLの間に流布しているという都市伝説が、あながち作り話ではないかもしれない、なんてことをラタのコップに白湯を注ぎながら思う。もちろん、雑巾でしぼった白湯なんてものは出したりしない。そんなことをしても、自分の気持ちがすっきりしないのが分かっているからだ。むしろ、そんなことをしたら、後味の悪い気持ちが長く尾を引くだろう。
テーブルに戻ると、王都の話題になっていた。
「俺達が王都を発つ前日に、ラメド徴税官の裁判は終わったから、早ければあと二週間くらいで、王都から小麦が届くかもしれない」と、シルティスさん。メルさんは、真剣な表情でそれを聞いていた。三人の前にコップを置いて、私もまた席に着いた。
ラメドの不正は、3年前の徴税時から始まった、つまり、この村の徴税官になった時から、ずっと不正をしていたということだ。そして、タキトス村には、多く支払った分の小麦を還付するという話が王都で進んでいたとのことだ。シルティスさん達も、三年分の村の小麦の収穫の二割が戻ってくるということを、大きなビジネスチャンスと捉え、ヤッファの町に行く予定を変更して、タキトスに来たそうだ。村長に小麦還付の情報を伝えると、村長としても、そんな大量の小麦が戻ってきても管理面で困るといった反応で、還付された小麦で村の生活が豊かになるような物を購入しようと考えているらしい。念願の驢馬を番いで購入して畑を広げるのに役立てようとか、千歯扱きを購入しようとか、そんな景気の良い話をしていたとのことだ。もちろん、購入の際は、シルティス商会を通して、という約束も取り付けることができて、予定を変更してこの村に来た甲斐があったそうだ。
「今や、不正をしていた連中は、次は自分の不正が暴かれるかもしれないと震え上がっていると聞く。公表されていないが、自分から不正をしていたと、自首をした連中もいるらしい」と、落ち着いた渋い声で話すサルデトさん。
「この村でラメド徴税官をとっ捕まえた時、王国騎士様は、ダリス陛下から直々に賜った言葉を、披露されたんだろう? 不正は、王国騎士が許さないって! かっこいいよなぁ」と、ラタが五月蠅い。
「あれはかっこよかったねぇ。私もあと二十歳、若ければなんて思ったさ」と、笑いながら言うメルさん。
王国騎士というのは、ザインさんのことだろう。しかし不正は許さないとか、そんな発言をしていたかと、首を傾げる。王国騎士は困難を乗り越えるとか、そんなことを言っていた気がする。まぁ、口伝てで伝わっていく噂なんてそんなものだろう。
「さて、楽しい話も聞かせてもらったし、そろそろ仕事に戻ろうかね」とメルさんが言った。かれこれ30分以上、ゆっくりしてしまった。私も宿の洗濯をしなければならない。
「頼まれていた品。忘れないうちに渡しとくよ」とシルティスさんが、テーブルの下から大きな袋を持ち上げた。そして、その袋から、掌に載るくらいの大きさの壺を取り出し、机に置いた。
「いつも、すまないね。早速、使わしてもらうよ」
「いやいや、メルさんにはいつもこの村に来るときはお世話になっているからね」
メルさんがお礼を言って、その壺をシルティスさんから受け取り、壺の蓋を取って、中に人差し指を突っ込む。そして、人差し指に付いた黄色いのを、手に塗り込んでいる。
「メルさん、それって? 」と思わず聞いてしまう。メルさんの使い方を見る限り、壺に入っている物は、ハンドクリームのように思われる。
「ハンドクリームだよ。アリサちゃんも使ってみるかい? さぁ、手を出して」と、予想通りの答えをするメルさん。この世界にもあったんだぁ、と少し感動する。ありがとうございます、と言って、両手を出す。
「アリサちゃんの手、荒れてるじゃないかい。女の子はねぇ、ちゃんと手も綺麗にしておかなきゃだめだよ」
メルさんは、私の手にハンドクリームを塗り込んでくれる。ハンドクリームを付けたときの最初の冷たさが、すごく懐かしく感じる。
「いいなぁ」と、思わず本音を漏らしてしまう。
「アリサちゃんも、欲しいのかい? 」というメルさんの問いかけに、私は即座に首を縦に振った。私が食い入るようにハンドクリームの壺を見つめていると、メルさんは、困ったような声で、シルティスさんに尋ねてくれた。
「今は、持ち合わせがそれしかないな。次に来るときに、お嬢さんの分もって来てあげよう」と即答してくれたシルティスさん。それを聞いて、シルティスさんに深々と頭を下げて、お礼を言った。
「本当に困ってたんです。ありがとうございます」と、何度もお礼を言う私。
「いやいや」と、私の反応を見て、照れ笑いをするシルティスさん。私の反応に、メルさんも、サルデトさんも苦笑いをしている。
ラタさんは、締まりの無いにやにやした顔で、「もちろん、ただじゃないからな」と言った。そして、私は現実に引き戻される。妄想をしていた訳じゃないけど、現実に引き戻された。ショウウインドーを眺めていて、これ欲しいなって思うアクセサリーとか服を見つけた後、その値札を見て、すっとその場から立ち去る時の心境と同じだ。
「まぁ、もちろん代金はもらうけど、メルさんと同じく、仕入れ値で提供するよ」と、シルティスさん。テンションが下がっている私を不憫に思ったのか、値下げを申し出てくれているが、現金収入がほとんどない私には、買える気がしない。
「お幾らですか? 」と一応聞いておく。
「2アサリオンだよ」と、懐から出した手帳らしきものを見ながらサルデトさんが言う。きっと手帳に、品物の相場とかを細かくメモしているのだろう。
「普通なら、3アサリオンなんだけどな」と、恩着せがましくラタさんが補足した。
「あの、2アサリオンって、幾らですか? 」と私は聞く。私にだって、アサリオンというのが、通貨の名称だってことぐらい分かる。千円っていくらですか、みたいな馬鹿な質問をしているのだろうということも、もちろん分かる。だけど、この世界に来て、お金を使ったのは、歓迎会の時のワインを購入した時だけだ。小麦は、粉にされたのが調理場の大きな壺に入っていて、それがまだあるから買ったことないし、野菜とかも教会の裏庭のバルナバ神父が手入れをしている菜園から都度、収穫している。
「やれやれ」と言って、首を横に降りながら言うラタさん。お前みたいな田舎娘と、取引するほど暇じゃないんだよ、みたいな事を心の中で思っているのだろうと想像してしまうのは、私の被害妄想だろうか。
「これが、1アサリオンだ。これが、ひとつ、ふたつ、2つで2アサリオンだ」と、外套のポケットから2枚コインを出して、説明するラタ。声を大きく張り上げて威圧的に説明する。さっさとどっか行けよ、という副音声が聞こえるのは、私の被害妄想ではないような気がする。机に2枚並べたコインは、ワインを買ったときに使ったコインより1回り大きい。ワインを買うときに使ったコインは、1円玉くらいで、そのアサリオンというコインは、十円玉くらいだ。
「分かったか? 」と聞くラタ。結局、よく分からない。黙り込む私。
「さぁ、今度こそ仕事に戻ろうかね」と、少しの沈黙の後、メルさんが席を立って、調理場の方に行く。私もそれに黙って着いていく。
「手伝いに来てくれているときは、自由に使っていいからね。これ、ここに置いておくからね」と、調理場に戻った後、メルさんは優しく言って、ハンドクリームの壺を置いている場所を教えてくれた。少し、目尻が熱くなった。
読んでくださり、ありがとうございます。