蛙鳴く雨の日に
雨の日って、わけもなくうきうきする。周囲の水田から蛙の鳴き声が聞こえてくる。天気が悪いからって家の中でおとなしくしているなんてありえない。
傘も持たずにサンダルで飛び出し、全身を濡らす天然のシャワーを浴びながらけらけらと笑った。
僕の声に、別の笑い声が混じり合う。ふと見ると、近所の友達も同じようにしている。男の子も女の子もだ。
びしょ濡れ、泥んこで帰れば、みんな親に怒られる。そんなのいつものことだ、誰も気にしていない。
未舗装のまま放置されている田舎道。そこかしこに水たまりができている。まあ、舗装されてる道だって、トラクターの落とした泥で凸凹なんだけどね。
僕らの中で一番年上の男の子が得意げに言う。
「俺、この水たまりを飛び越せるぜ」
みんなの注目が集まるのを確認すると、水たまりの端から二、三歩離れた。向こうの端までは僕の身長くらいありそう。助走をつけ、それを飛び越した。
「あたしだってそのくらいできるもん」
我も我も、とその後に続く。
もちろん、僕もだ。僕はこの中では一番小さい。ハンデとばかり、十歩ほどの助走をつけた。
「えいっ!」
ばしゃーん。
仲間たちの容赦ない笑い声が弾ける。
あと一歩、というところで水たまりをまともに踏みつけたのだ。
悔しい。だけどやっぱり楽しい。
照れて笑っていると、突然仲間たちが体育の授業のような気をつけの姿勢をとった。
「こらーっ!」
大人の声にびっくりした。
振り向くと、男の人が仁王立ちしている。ズボンに泥がついているのを見て、しまった、と思った。僕のせいだ。
「ごっ……」
親や先生にはよく叱られるけど、知らない大人に怒られるのは初めてだ。怖い。謝らなきゃいけないのに。
うまく言葉が出てこない僕の様子を見て、彼は溜息を吐くと何も言わずに立ち去って行く。
年嵩の男の子が近づいて来て僕の肩を叩いた。
僕らはすぐに別の遊びを始めた。
家に帰ると、母親が玄関先で待っていた。
また泥んこになった僕のことを怒るんだろうなと思っていたが、違った。
「早く着替えなさい」
泥んこになったことじゃない。何か、別の事で怒っている。すぐにそう思ったけど、心当たりがない。
言われた通りにした僕に、母親は菓子の包みを持たせた。
「これを春日さんのお宅に持って行きなさい。きちんと謝るのよ」
名前を聞いてピンと来た。さっきの男の人だ。そういえば、そんな名前だったっけ。町内の集まりで何度か見かけた覚えがある。
「いつも言ってるでしょ。ありがとうとごめんなさいはきちんと言いなさいって。春日さん、怒っていらしたわよ。角を曲がって二軒目のお宅だから。一人で行ってしっかりと謝って、許してもらってきなさい」
告げ口という言葉が頭の中に浮かんだ。でも大人が告げ口って、なんか変。お母さん、見ていたのかも。
今度はきちんと傘をさし、とぼとぼと歩いて行く。
角を曲がって二軒目、たしかに「春日」と表札が出ている。僕は深呼吸した。
「ごめんください」
すぐに戸が開いた。まるで、僕が来るのを待っていたみたいだ。
春日さんは僕を見下ろした。なんか、あまり怒っていない気がする。
「あの、水たまりをはねてご迷惑をおかけして、ごめんなさい!」
母親に言い含められた言葉とちょっと違うような気がしたけど、どもらずに言えた。
「お詫びに、これを召し上がってください」
「いや、俺も大人げなかった。そのお菓子は一緒に食べようじゃないか。まあ、上がってお茶でも飲んで行きなさい。大丈夫、君のお母さんにはちゃんと言ってある」
許してもらえたのが嬉しくて、僕は素直にお邪魔した。
「坊や、いらっしゃい。本当にこの人は短気で困るわ。怒るようなことじゃないでしょうに」
おばさんの言葉を受け、おじさんはすまんすまん、と僕に言う。変なの。謝りに来たのは僕なのに。
それを言うと、おじさんは豪快に笑った。声が大きいけど、嫌な感じはしない。
おじさんはお茶と言ったけど、おばさんはオレンジジュースを出してくれた。大好物だ。
「元気なのはいい事だ。やんちゃもどんどんすればいい。だけど人に迷惑をかけたと思ったらすぐに謝ること。それを教えようとしてな」
「そんな怖い顔で睨まれたら、こんな小さな子、言葉が出てこないでしょ。ここまで一人で謝りに来られただけでも偉いわよ」
おばさんはそう言いながら、僕の頭を優しく撫でてくれた。
それからしばらくは、僕の友達のことや学校のこと、好きなテレビ番組のことなど、おじさんもおばさんもニコニコしながら聞いてくれた。
あれ? そういえば、僕が小学校に上がるころ、春日さんの玄関前には三輪車が置いてあったような気がするんだけどな。この家、子どもいないんだっけ。
でもそれは、聞いてはいけないことなのかも。理由なくそう思い、最後まで聞かずじまいだった。
「ジュースありがとうございました。お邪魔しました」
玄関でお辞儀すると、おばさんは相好を崩した。
「偉いわねえ。百点満点のご挨拶よ」
また遊びに来なさいね、というおばさんの声を聞きつつ、もう一度お辞儀してから僕は玄関を出た。
角を曲がる前、ふと振り向くと、おばさんが手を振ってくれている。応えるように手を振ると、おばさんの足元からも小さな手が。
思わず目を擦る。……おばさんしかいない。錯覚かな。
蛙は休まず鳴き続けている。止んでいた雨がまた降り出した。
また怒られちゃうけど、僕は傘を開かずに空を見上げた。
天然のシャワーだ。雨の日って、わけもなくうきうきする。