19.リオ
夕方の商業区は、午後の繁忙時に突入していた。昼間は閑散としていた通りも、今は買い物カゴを片手に、店を転々とする婦人達が多くいる。そんな彼女達の気を引こうと、店頭では丁稚の小僧達が大声で客寄せをしている。目の前の露店では若い女性が店主に川魚の値を下げようと、鼻息荒く交渉している。貫禄のある店主を相手に果敢に挑む若妻の姿に、街の平和を感じる。
そんな主婦と店主、小僧達の活気のいい声を聞きながら、ソーザは家路を急ぐ。
賑やかな商業区を抜け、麦畑の広がった畦道へ入る。
真っ赤に染まる麦畑と、瞼の奥まで吹き抜けそうな風が心地いい。この静かな風景も、賑やかな街中も、いつからだろうか、悪くないと思うようになった自分がいる。
長い一歩道を暫く歩くと、畑が草むらへと変わり、小さな丘が見えてくる。その丘の上にある小さな我が家も、ここに来てようやく確認できた。
アリエルはもうこの都市を出発しただろうか。事態は思っていた通りヤバイ状況だった。しかしソーザがいくら忠告しても、脳内が感情のみで構成されているあの妹には通用しなかった。魔闘士試験を受験する時もそうだったように。
だからこそ、大切な妹を救うためにソーザは出来ることをやる。それを成す為に、ソーザはアリエルの後を追うしかない。本当は無理にでも止めたかった。しかしそれが出来ないこともソーザは分かっていた。だから、あの銃をアリエルに渡したのだ。せめて自分のいない間、彼女が妹を守ってくれることを信じて。
小屋に入ると、キッチンのテーブルに置いてあった銃は無く、代わりにアリエルの小物が散乱していた。それらをアリエルの部屋の棚や机に置くと、ソーザは自分の部屋へと入る。クローゼットの扉を開き、黒のシャツと外套、タンスの中から黒のズボンをだす。
「全く、手のかかる妹だよ。ったく、誰に似たんだか……」
肩を窄め、誰もいない部屋で独りごちると、着替えを始める。
「約束はきっちり果たすさ、そうだろ……」
さて、厄介事はさっさと片付けるか。そう思い、ソーザはやれやれと重い腰を上げることにした。
絶望とは正にこの事を言うのだろう。目の前で崩れ落ちている友人にかける慰めの言葉をリオは持ち合わせていなかった。仮にリオが弟であるディエゴを失ってしまうと考えたら、正直ゾッとする。そんな事など考えたくもなかったが、実際に今、リオの目の前で似たような出来事が起きている。
リオ達がトラヴァーリに到着した時、正規軍と反乱軍の武力衝突は激しさを増していた。民衆は家に引きこもり、通りに人の気配は全く無かった。中にはすでに国を見限り、国外へ逃亡を図る者もいたようだ。石造りの家屋は銃弾で削れ、収穫間近だった麦が無残に焼かれ、踏み潰されていた。辺りは火と死の匂いが漂う地獄と化していた。
リオ達はそんな荒れ果てた市街を駆け抜け、フランの屋敷へと走った。
そしてフランを待っていたのは、哀しくて辛い現実だった。幸いフランの屋敷は焼かれることもなく無事だった。立派な門構えをした朱色の屋敷、一目で裕福だとわかる佇まいに、わたしは呆然とした。
しかし、立派な屋敷は無事でも彼女の父親が無事である保障はなかったらしい。家に入るなり従者がフランに告げた報告は、彼女を深い崖の底に突き落とした。
フランの父は公館での職務中に突然反乱軍の襲撃を受け、逃げる暇も無く凶弾に倒れたそうだ。フランが屋敷に戻った時、既に冷たくなった父の遺体が彼女の眼前にあった。
ベッドに寝かせられた父にしがみついた彼女は、脇目もふらず声を上げて泣いた。
リオはこれ以上、フランの泣き顔を見られなくなった。フランに悟られぬよう、静かに背後のドアを開け廊下に出る。
フランの屋敷はそれなりに広くて、2階建てのこの屋敷には十数個の部屋があった。内装も優雅なカーテンや、リオのような下層の人間にでもわかるような、趣のある絵や花が随所に飾られていた。リオはそんな雅な廊下を進み、階段を下りてホールへと出る。
――もう無理だ。
フランには悪いが、おそらく彼女の心は完全に崩壊してしまっただろう。わたしがディエゴを失ってしまったら、きっと壊れてしまうから。だから、もうここにわたしがいる意味はないだろう。途中見た瓦礫の山と荒らされた田畑。この国はもう終わってしまっている。これ以上の長居は無用だ。アリー達が到着したらフランには悪いが、わたしはスーペルへ帰らせてもらおう。彼女はわたしにとって大切な友人であるが、わたしは命をここで捨てるつもりは毛頭ない。リオがホールの壁に寄りかかり、今後の身の振り方を思慮していると、玄関口から聞き覚えのある声がした。
「あの~、誰かいませんかぁー?」
ドアを叩く女性の声は、少し上ずっていた。
リオは玄関口に歩を進めると、扉を開く。そこには肩で息をするアリエルとパティの姿があった。おそらくバーゼルからここまで、ずっと走りっぱなしの状況だったのだろう。そんなアリエル達を屋敷内へ入れる。しかし、リオは彼女達に哀しい事実を告げなければいけなかった。
「……折角来てもらったのに、無駄になったみたい」
その台詞にアリエルは首を傾げる。
「無駄って?」
「フランのお父さん、亡くなったの……。今フランは二階で最後のお別れを……」
「そ、そんな……」
「間に合わなかったわね」
アリエルは呆然と、パティは歯がゆさそうに親指の爪を噛む。
「で、あんたはどうするつもり?」
パティは思考が読めるのだろうか。実際にパティは頭が切れるし、リオの雰囲気と表情でそれなりに察したのかもしれない。
「もうこの国は終わってる……。これ以上ここに留まるのは危険。多分、フランは立ち直れない……」
質問にリオは考えていたことを簡潔に述べた。パティはその台詞にやれやれと肩をすくめる。
「へぇ、あんたはフランを見捨てるわけね」
「本人に生きようとする意思が無いだけ……。そんな人に協力するほど、私は出来た人間じゃない」
挑発的なパティの言葉に、リオは反発するように返す。
しかし、そう言ったところで両肩に激しい衝撃を受ける。
見ると、アリエルが鬼のような形相でリオを睨んでいるではないか。
「アンタはそれを本人に確認したの!? フランが諦めたの!? フランはそんな弱い人間じゃない! 勝手に自分の物差しで人を量るな!」
リオの両肩を壁にめりこませんばかりに突きつけ、アリエルが怒声を上げる。普段の彼女からは想像できないほど激昂している。しかし、リオにだって考えはある。
「……わたしだって彼女が救いを求めるのなら手助けしてあげたい。でも彼女の境遇を考えれば、考えるほど、それを望む事が厳しい」
フランは心の支えが亡くなったのだ。父親のいない国は、フランにとって必要なのだろうか。守る者のいない世界でフランの存在意義はあるのだろうか。彼女は自分の事をどう考えているのか。少なくとも、リオは弟のいない世界に意味はないと考える。
「だぁかぁら~! それはあんたの考えでしょうが! 私はフランがいつ私達を拒んだかって聞いてんの!」
アリエルに押し付けられたリオの小さな身体が悲鳴を上げそうになる。それを見かねたパティがアリエルの背後に立ち、羽交い絞めで御す。
「はいはい、そこまでよ。今はフランも辛いでしょうから、少し時間をずらして尋ねましょ」
「その必要はないよ」
すると、階段の上からフランの声がした。少ししゃがれた声だった。なんと声を掛けていいか分からず、リオはフランの次の言葉を待った。アリエルとパティも動かない。
すると、フランはゆっくり階段を下りる。
「アリーの大声が聞こえてな。まずはすまない、急ぎ駆けつけたが、父は既に反乱軍に殺されてしまっていた……。街中を見てわかるとおり、今も正規軍と反乱軍は血みどろの醜い内戦状態にある」
瞼は腫れて鼻も赤い。そう話すフランはとても痛々しく思える。気丈に振舞っているのが、嫌というくらいわかる。フランの心はもう傷だらけなのだろう。
「しかし、まだ国は消えてはいない。私の守りたい人が守りたかったものがまだ残っている!」
そこでまた、フランの頬を涙がつたう。声は振るえ、眉は険しく、必死に泣き顔を堪えている。
「私はそれを守りたい! だからすまない! 私を助けてくれ」
その言葉にリオは下唇を噛む。
リオは思い違いをしていた。フランはフランであって、わたしではないのだ。アリエルの言ったとおりだ。彼女は本当に強い人だ。大事な人を失い、心はズタズタに切り裂かれているのに……。リオは絶対にこうはなれないと思った。今までこのように友を信頼し、真直ぐに思いを遂げようとした人間をみたことが無かった。同時にリオは、アリエル達に強烈な憧れを感じた。そしてリオ自身、フランを信用していなかったのではないかという、恥じる気持ちも同じくらいに。
「……フラン、ごめんなさい。わたし……正直もう駄目だって思った」
リオは目を逸らしながらも、フランに頭を下げる。
「いいんだ。実際、挫けそうになったのは事実だから。こちらこそすまなかった」
リオの謝罪にフランも謝罪で返す。
「それで、もう大丈夫なわけ? あんまり暗いまんまだと上手くいく事も、上手くいかなくなっちゃうわよ」
「そうそう、悲しい時は思いっきり悲しまないと後で後悔するかもよ~。まぁあんまり時間かかっちゃうといけないけどね~」
「すまない、でも大丈夫だ。これ以上、くよくよしている場合ではないし、父もそれを望まないだろう」
フランは目元を指で拭うと、二人をビッと見据える。その瞳には強い光が灯っていた。
「ならいいわ、それじゃあ詳しい話聞かせてくれる? 来たばかりで、いろいろどうなってるのか知りたいから」
「こちとら兄様の反対を押し切ってまで来てるんだよ~。『何も出来ませんでした』じゃ、合わせる顔がないよ」
三人のやり取りを傍で見ていて、リオは思う。遠慮ない会話をする彼女達が眩しくて堪らなかった。しかし、わたしもフランの友人だ。その友人が助けを求めているなら、わたしは全力で協力しよう。もう二度と、わたしは友を量らない。そしてリオ自身、彼女達と対等に肩を並べて共に歩んでいきたいと思った。
「……わたしも、頑張るよ」
決意を小さく発したリオの言葉に、フランは口元を緩ませる。
「ああ頼むよ、親友達。じゃあ二階の応接間に行こう。そこで今後のプランを考えようか」
『親友達』、フランの口から出たその言葉が、リオの心の中に、深く染み入る。その言葉は例えようもないほど嬉しく、そして重みのある言葉だった。リオはアリエルとパティの隣に並ぶと、フランの後に続いた。