11.懐古の夜 1
夜は更ける。
胸のざわめきが納まらない。まさか、このような場所であんな物を見てしまうなんて。
フランはそれを手にとってみようと試みたが、畏敬心が邪魔をしてそれを許さない。
でも、幼い頃のフランはこの銃に対して、羨望に近いものを抱いていた。布団に潜り、今すぐにでも持ち主に確認をとりに行きたいという衝動を押し止めながら、眠りにつく努力をする。しかし、うっすらとした暗闇のなかで輝く三日月と太陽のシルエットが頭の中から離れてくれなかった。とりあえず明日になれば、本人に訊ねてみることにしよう。
緊張からくる動悸で、喉がカラカラになりそうだ。フランは、なぜこの部屋で寝ることを希望したのだろうか、と思いふける。確か、あのやかましい友人達の相手をしていては、体がもたないと判断したのだ。これではあちらを選択していた方がマシだったということ……、でもなかった。
会えて嬉しかった。そう思うと、胸の高鳴りは一向におさまる気配がない。少し水でも飲んで落ち着く必要がありそうだ。
フランは布団をめくり、上体を起こす。薄暗い部屋に置かれている簡素な机や、くたびれた感の漂う本棚に収められた、難しそうな専門書の背表紙も、暗闇の中に数十分もいると、いいかげん目が慣れて見えてくる。清潔感の漂う、小さな部屋。
視界がハッキリしてきたといっても、やはり暗いので足元を気にしながら、戸を開ける。居間へ入ると、キッチンに置いてあった木のコップを手に取り、水瓶から水をすくい一気に飲み干す。乾いた喉は気持ちよく水分を吸収していく。
――あぁ、うまい。
口元を手の甲で拭い、フランがコップをキッチンに置いたその時だった。不意に外で、何かうごめいている気配を感じた。
フランは一度抜けた緊張感をスッと引き上げ、足音を消し、慎重にキッチン近くの窓へ歩み寄る。外の何者かに気付かれないようにそっと顔を上げ、闇に慣れた目で外の確認をする。
そこには黒髪の男が二本の木剣を巧みに操っている姿があった。それは思わず見とれるような剣舞だった。華麗にして力強く、型を創る手足はしなやかに、なびく黒髪は荒々しく、しかし体の中心は崩れず、常に安定している。その剣舞は、フランの脳内の疑問を確信へと変えるのに十分過ぎるものだった。
黒髪の男はフランの視線に気付いたのだろうか。円舞の様な見事な型の鍛錬に区切りをつけた際に、こちらをちらりと見やる。そして男は、そっと右手を上げ、手招きをする。
間違いなく気付かれている。フランはキッチンを通過し、入り口の付近にかけられていた黒い外套を借りる。春になり温かくなってきたとはいえ、外はまだ寒い。それにフランが今身につけているのはほぼ下着に近い薄生地の寝巻きである。とてもじゃないが、そんな姿を晒すなんて恥ずかしくてとてもできない。外套を羽織ながら、ドアの施錠を開けて表へと出る。
外は思っていたよりも寒く感じた。アリエルの家の立地が丘の上にあるからだろうか。それとも、夜が更け気温がより下がった為か。遠くに見える麦畑の穂の揺れる音が聞こえてくる。フランは外套が風に飛ばされないよう、前をキュッと右手で締める。
「眠れないのかい?」
「ええ、少し気になる事がありまして」
なびく髪を空いた左手でおさえながら、フランは答える。
『気になる事』それを聞くのは気になるくせに気が引けた。なぜならば、それを聞いてしまう事は彼の人生を左右しかねないほどに重大な気がしたから。しかしそれでもフランは聞きたかった。そうまでして知りたいことだった。
「貴方も魔闘士だったのですね? ソーザさん」
「まぁね。でも今は薪や炭を街に卸す、ただの木こりさんですよ」
ソーザはおどけた口調で肩を少し上げる。
「まぁ、魔法は使えないから魔闘士とはとても呼べないけどね」
木剣を腰のベルトに挿す。その動作が美しく流れるようで、フランは思わず目で追ってしまう。
「貴方は魔法が使えないのではなくて、使わないのではないですか?」
それに対し、呆れた様に笑うソーザ。フランには、それだけでもう分かってしまった。やはり、彼はあの畏怖の魔闘士だった。この世でただ一人の闇の死神。そして彼女はフランの憧れだった。
「あんなに幼かったのに、君は覚えていたのか。俺が何者かって事を。よくわかったね。今は昔と違って顔も老けたし、名前も違うのに」
ソーザの中にもフランの記憶にあったようだ。少しバツの悪そうな表情でフランの言葉に応じてくれる。
「偶然です。偶然泊めて頂いた部屋に、小さい頃見覚えがあった銃がありました。それに私はバレッジ家の人間ですよ? 貴方も私の名前を聞いたときに気付いたはずではないのですか」
ソーザは恥ずかしそうに頭を掻く。
なにが恥ずかしいのだろうか。正体がばれたことが、それとも他に理由があるのだろうか。
「うん、だから俺も寝られなくて、ね。久しぶりに俺の過去を知っている人に会ったから。それにしても美人になったな、見違えたよ」
お世辞でも嬉しかった。「私も見違えました」フランもそう言いたかったが、失言ではないかと思いとどまる。
ソーザはその場で腰を下ろすと、空を見上げる。そして自分の隣をパンパンと叩き、誘いかけてくる。フランはそれに応じ、ソーザの隣に座る。
「あれから元気だったみたいだね」
「ええ、おかげさまで」
「そうか、それはよかった」
「ミシェルさんはお元気ですか?」
フランのその問いに対して、ソーザは直ぐには答えてくれなかった。依然、顔は天を仰いだままだった。まずいことを聞いてしまったのだろうかと、フランが頭を抱えようとした時だった。ソーザの唇がかすかに動く。
「――死んだよ」
フランは本当に頭を抱えたくなった。なんて馬鹿な質問をしたのだろうか。そしてなんでそれを考えなかったのだろうか。ソーザの部屋に彼女の銃があったことに気付いた時、すでに彼女がいない可能性に気付けていただろうが。自責の念に駆られるフランの脳内に彼女との思い出が甦る。
彼女は憧れだった。幼いフランを癒してくれたあの優しい手。心が安らぐような柔らかい微笑み。女神かと見間違うほどに自愛に満ちていた彼女を思い出す。そしてそれを失ったと理解して、悲しみが津波のように激しくフランの心を襲う。
「すみませんでした……」
腹の奥から搾り出すようにフランは言う。涙が止まらなかった。
彼女を失い、名前を変え、世捨て人のようにひっそりと暮らしてきたわけを知ってしまったから。ソーザがなんで生きていられるか不思議なほどに……。
ソーザは嗚咽を漏らし泣くフランの背中を、そっと擦る。
「そんなに気に病むことはないさ。確かに哀しい出来事はあったけど、俺は不幸じゃなかったよ。ミシェルは逝ってしまったし、その後だって俺を狙う輩もたくさんいた。でもなんとかなったから」
『なんとかなった』、その一言に、どれだけの苦労が凝縮されているのだろう。ソーザの属性も希少中の極みである。目立つそれを隠蔽し続けるには、一体どのような千思万考を繰り返したのだろうか。
もう、ソーザをこれ以上苦しませてはいけないと、フランは思った。
「私は誰にもこの事は漏らしません。でも、せめてミシェルさんに一言『ありがとう』と伝えたかったです……。私は貴方達に救われたのですから……」
涙と鼻水でみっともない顔になりながら、フランは断言する。パティ達には決して見られたくない泣きっ面、恐らく人前でこんな風になったことは身内以外ではきっとないだろう。
ソーザは哀しそうに頬を緩ませる。
「ありがとう。俺も久しぶりで少し感傷的になったみたいだ。どうせ眠れないのなら、少し話を聞いていってくれないか?」
ソーザの言葉はフランが頷くに十分だった。フランはソーザの哀しみを、少しだけだがわかるような気がしていた。でも本当にわかっていない事も分かっていた。
二人の絆は本当に美しく、
そして、
儚かったのだから。




