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第100話 定時退勤の誓い

灰灯工房の朝は、いつも通り霧の匂いから始まった。窓辺には静眠ランプが並び、棚には失敗札が整えられ、扉の横には本日の受付時間が書かれている。王国を揺るがした竜災も、聖女の塔の暴走も、王太子カイルの失脚も、すべてが遠い物語になったわけではない。けれど今日、リディア・ヴェイルが最初にする仕事は、床を掃き、薬草茶を淹れ、砂時計を返すことだった。


ミストリアは変わった。水路は定期点検され、温室には冬でも青菜が育ち、夜警の巡回灯は子どもでも交換できる。孤児院の暖炉石は三代目になり、ノアは弟子ではなく若い職人として自分の作業台を持った。エッダは町長室に契約掲示板を置き、グレンは失敗札を誇らしげに工房の壁へ貼る。ユナの縫った作業布は、王都の貴族から注文が来るほど評判になった。


リディアは、かつて魔力ゼロと呼ばれた。婚約破棄された。悪女と噂された。だがそのどれも、今の彼女を定義する言葉ではない。彼女は灰灯工房の工房主で、仕様書魔法スペック・グリモワールの使い手で、誰かの暮らしを少しだけ壊れにくくする職人だ。そして何より、自分の時間を自分のものとして扱う人間になった。


「本当に、式の前日まで納品するのか」アルヴァンが扉にもたれて言った。

「式の前日ではありません。午前中です」

「午後は」

「休みます」

「安心した」

冷徹公爵と呼ばれた男は、今では町の子どもに過保護公爵と呼ばれている。本人は不本意そうだが、リディアが無理をしようとすると誰より早く気づくので、反論の余地は少ない。


フォルは会議机の中央で丸くなり、尻尾だけを契約書の上に乗せていた。白銀竜との共同仕様、工房連合の規約、女王アリアネからの正式依頼。重要書類はいくらでもある。けれどリディアは、尻尾をどける前に一つだけ確認した。

「フォル、今日の看板獣勤務は午前だけです。午後は式の準備があります」

フォルは目を閉じたまま、了解とも拒否ともつかない声で鳴いた。


王都から届いた最後の手紙は、カイルのものではなかった。女王アリアネからの祝辞と、灰灯工房区の自治権を認める新しい印章だ。そこには、魔道具の管理を神殿と魔導院だけに任せず、使う人々と職人が参加する仕組みへ改めると書かれていた。リディアはその文面を読み、静かに息を吐いた。ざまぁは終わった。けれど、仕組みを変える仕事はここからも続く。


「後悔はないか」アルヴァンが尋ねた。

「王太子妃にならなかったことですか」

「それも、王都に戻らないことも、俺を選ぶことも」

リディアは少し考えた。彼の言葉はいつも不器用で、けれど逃げ道を残してくれる。選ばせるのではなく、選んでいいと差し出す。その優しさを、彼女は何度も確かめてきた。


「後悔はありません。あなたは私を飾り棚に戻そうとしなかった」

「当然だ」

「私の成果を奪わなかった」

「奪えるものではない」

「私が休むべき時に、休めと言ってくれた」

アルヴァンは真剣な顔で頷いた。「それはこれからも言う」

「では、私も言います。あなたも休んでください」

二人は顔を見合わせ、同時に笑った。


結婚式は、王都の貴族が期待したような豪奢なものではなかった。場所はミストリアの広場。飾りは温室の花と、子どもたちが作った小さな灯り。誓いの言葉は神殿の定型文ではなく、二人で書いた契約書に近いものだった。互いの仕事を尊重すること。困った時は仕様を共有すること。無理な残業を美徳にしないこと。怒りを隠して相手を試さないこと。休暇申請を却下しないこと。


セラフィナは遠い修道院で、自分の祝福の欠陥を学び直しているという。カイルは王位継承権を失い、地方の小さな役所で帳簿からやり直している。彼らへの怒りが完全に消えたわけではない。だがリディアはもう、その怒りに毎日を支配されていない。彼らが悔いるかどうかより、ミストリアの灯りが今夜も消えないことのほうが大切だった。


式の後、灰灯工房の扉には新しい札が掛けられた。臨時休業。理由、工房主の結婚と休暇。再開日、三日後。緊急時の連絡先、ノア工房長代理。ただし本当に緊急の場合のみ。ノアは責任重大だと青ざめ、フォルは代理看板獣として得意げに胸を張った。


夕暮れ、リディアはアルヴァンと並んで工房区を歩いた。水路の音、鍛冶場の火、温室の笑い声、遠くで歌う子どもたち。そのどれもが、彼女がここで積み上げたものだ。大きな奇跡ではない。けれど壊れにくく、直しやすく、誰か一人の犠牲に頼らない暮らし。彼女が欲しかったハッピーエンドは、まさにこういう音をしていた。


「明日から、どうする」アルヴァンが聞いた。

「休みます」

「明後日は」

「休みます」

「三日後は」

「受付を再開します。ただし午前は予約のみです」

彼は満足そうに頷いた。リディアはその横顔を見て、少しだけ肩を寄せる。言葉にするには照れくさいが、この人となら、忙しい日も休む日もきちんと相談できると思った。


灰灯工房の灯りが、霧の中で柔らかくともった。かつて王城で失敗作と呼ばれた令嬢は、もう誰かの断罪台には立たない。彼女の足元には、自分で選んだ道がある。隣には、自分を尊重する人がいる。背後には、彼女と共に考え、作り、直していく町がある。


リディアは最後に、工房の看板へ手を触れた。

「本日の業務は終了しました」

誰に向けた言葉でもない。けれどアルヴァンが笑い、フォルが鳴き、町の灯りが一つまた一つと応えるようにともる。リディアは胸を張って、最初からずっと守りたかった誓いを口にした。

「これからも、()()退()()で幸せになります」

完結です。最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
日常とはほとんどが同じことの繰り返しでだけど少しずつ変わっていく、ということを表現したいのかな、と思うのですが、ものすごく読み辛いです。同じ文章が繰り返されるので混乱します。辛かった。
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