美人税
美人税が導入された年の春、桜は例年よりも早く散った。花びらがアスファルトに貼りつき、踏まれて黒ずむのを見ながら、私は区役所のガラス扉をくぐった。入口の脇には、まるで献血車の案内板のように「美人税申告窓口はこちら」と書かれた立て看板が立っている。
いや、献血よりも雰囲気は明るい。献血は痛みと善意の匂いがするが、美人税は痛みすらも装飾品に変わる。
窓口前の列は、奇妙に静かで、しかし空気は高揚していた。待っているのは、税を納めに来た者たちなのに、誰も肩を落としていない。むしろ背筋が伸び、髪は整えられ、香水が薄く漂う。列の先頭に近い女性が、友人らしき人に小声で言った。
「今年も二段階目に上がれたらいいな。ちょっと怖いけど、憧れだよね」
私はその言葉を聞き、咄嗟に自分の顔を思い出した。鏡を見る必要はない。私は、たぶん、列の中では「無税側」だ。申告に来たのは納税のためではない。ここで働くためでもない。今日、私は取材に来た。
美人税は、制度としては驚くほど簡単だった。自治体が定める「外見指数」と、社会的便益の統計に基づいて段階的に課税される。かつてなら暴動が起きていただろう。美醜を行政が決めるなど、倫理的にも実務的にも危うい。
だが実際は、導入から数年で社会に溶けた。溶けたどころか、光沢を帯びて浸透した。美人税を納めることがステータスとなり、納めない者は「まだ選ばれていない」ことを暗黙に突きつけられる。
美人でない側はと言えば、胸がすくのだという。損をしてきた分、精算されるような気持ちがあるらしい。美人側は、税を払うこと自体が「私は恩恵を受けるに足る」と社会から認められた証になる。誰も損をしない。誰も怒らない。そんな制度があるとしたら、それはたぶん、怒りの在処を別の場所へ移した制度なのだ。
私は週刊誌の片隅でコラムを書いている。政治でも文化でもない、ただの社会観察だ。編集長は私に言った。
「お前さ、あの制度、叩く記事はもう飽きられた。叩かれてないのが不気味だって方向で書け。みんな幸せって顔してるけど、ほんとに?」
私はうなずいた。幸せそうな制度ほど、裏側にあるものが見えにくい。私はそれを嗅ぎ分けるのが仕事だ。
ただ――嗅ぎ分けて何になるのか、最近は自分でもわからなくなっていた。
列の最後尾で、男がスマホをいじりながら足を揺らしていた。スーツは新品で、靴も磨かれている。横顔は整っていたが、列の中では突出しているようには見えない。目立たないように、しかし目立ちたいように、首元のネクタイピンがやけに光っている。
私は声をかけた。
「すみません。取材で来ています。美人税の申告ですか?」
男は一瞬、警戒するように私を見たが、すぐに笑った。笑顔が上手い。
「はい。初めてです。……いや、正確には、初めて“この列”に並べました」
言い方に、誇りと怯えが混じっていた。
「おめでとうございます、と言うべきなんでしょうか」
「ありがとうございます。みんなそう言うんですよ。ここでは。外では……ちょっと違いますけど」
「外では?」
男は肩をすくめた。
「外では、無税の人が“まだなんだね”って目で見る。善意のつもりなんでしょうね。励ましっていうか。こっちの方が痛いです」
彼は名刺を差し出した。印刷された肩書きは「外見評価コンサルタント」。最近、よく見る職種だ。美人税ができてから、外見を磨く産業は爆発的に伸びた。美容整形だけではない。姿勢矯正、声のトーン、会話の間合い、SNSの写り込み方、照明、肌の反射率――ありとあらゆるものが「外見指数」に換算されるようになった。
「私は佐々木といいます。あなたは?」
「山科です。記事を書く人間です」
名刺を出すと、佐々木は「へえ」と目を丸くした。
「記事にするんですか? ここって、皆、取材されるの好きですよ。納税って、隠すものじゃなくなりましたから」
彼はそう言って、スマホ画面を見せた。SNSの投稿だった。「#美人税初申告」「#一段階目到達」「#やっと社会に返せる」。いいねの数が並ぶ。コメント欄には祝福が溢れている。
祝福が、溢れている。
私はその言葉に、少しだけ引っかかった。祝福とは、本来、限られたものに向けて注がれる。限られた者が、限られたことを成し遂げた時に。だがこの社会では、祝福は制度的に大量生産され、配給される。足りない者には「次は君だ」と手を差し伸べ、届いた者には「おめでとう」と拍手を送る。
拍手が止むと困るのは誰だろう。
列が少し進んだ。窓口の奥に、白いパーテーションが見える。あそこが「判定室」だ。外見指数の測定は、徹底して機械化されている、とパンフレットには書いてある。照明の色温度、カメラの角度、顔の左右差、骨格の比率、皮膚の水分量。公平で、科学的で、恣意性はない。
だが私は知っている。数字が公平であることと、制度が公正であることは同義ではない。公平な数字ほど、誰も責任を取らない。
佐々木が急に声を落とした。
「山科さん、こういう話、記事にします?」
「内容によります」
「美人税って、みんな払いたがるじゃないですか。払える人も、払えない人も。……でも、払えない人って、たまに消えますよね」
消える。
私は言葉を繰り返した。
「消えるって、どういう意味ですか」
佐々木は周囲を伺い、さらに声を落とす。
「“整える”のに失敗した人です。美容やトレーニングに人生を突っ込んで、それでも判定が上がらない。家族や職場も、本人の努力を知ってるから、慰めるしかない。慰められるほど惨めになる。……そういう人、ある日、SNSを消して、引っ越して、連絡が取れなくなる」
「それは美人税のせいですか?」
「せい、っていうより……制度が“優しい顔”をしてるからこそ、逃げ場がないんです。だって誰も悪者じゃない。本人が努力して、評価が上がらない。それって、本人が“まだ足りない”って話になりますから」
私は喉の奥が乾くのを感じた。
悪者がいない制度ほど、個人の自己責任を肥大させる。責める相手がいないから、自分を責める。
それでも社会は、笑顔で拍手を送る。お前が足りないだけだ、と言わない代わりに、言わなくても伝わる構造にする。
列が判定室の前まで来た。ここから先は、一人ずつ呼ばれる。
「佐々木さん、もしよければ、判定を見せてもらえますか」
「もちろん。……でも、山科さんは?」
「私は納税対象じゃありません」
「え?」
佐々木が素直に驚いた。驚き方が、少しだけ失礼だった。すぐに彼は取り繕うように笑った。
「すみません。……でも、取材なら、見せてもいいです。むしろ見せたい。努力の成果ですから」
呼び出しの声がして、佐々木が立ち上がった。私は彼の背中を見送りながら、胸ポケットの録音機に触れた。今日の記事は書けるだろう。制度の光沢の裏側にある、柔らかい圧力を。
ただ、それを書いたところで何が変わるのか。
叩くべき悪がない社会批評は、読み物としては面白くても、現実を動かさない。
私は、いつの間にか「動かない批評」に慣れていた。
十五分ほどして佐々木が戻ってきた。顔が少し赤い。興奮している。
「見てください」
彼はタブレットを見せた。そこには数値と、段階が表示されている。
【外見指数:72】
【美人税区分:第1区分(納税義務あり)】
「やっとです。これで、堂々と払える」
堂々と払える。
私は、その言い回しを噛みしめた。税を払うことが、堂々とすることになる社会。かつては逆だった。税を払うことは義務で、堂々とするのは、払わずに済む抜け道を見つけた者だった。
価値観は、制度が作る。制度は、欲望が作る。欲望は、言葉が作る。
そして言葉は、誰が作るのだろう。
私は佐々木に礼を言い、区役所を出た。空は白く、遠くのビルが霞んでいる。歩道の電光掲示板に、自治体の広報が流れていた。
「美人税は、社会の公平を実現します。恩恵を受けた分だけ、社会に還元しましょう。」
その下に、小さく別の文が続く。
「なお、外見指数の測定は年1回、無料で受けられます。測定結果はあなたの資産です。」
資産。
私は足を止めた。
外見指数が資産。美人税がステータス。
税が資産になる時、人は何を守っているのか。
編集部に戻り、私はメモを整理した。佐々木の言葉、「消える人」。制度の優しさが逃げ場を奪う構造。記事の骨子はできた。
だが、机の上に置かれた資料の束――自治体が公開している統計――をめくっているうちに、私はある数字に目が留まった。
美人税導入前と導入後で、いくつかの指標が改善している。差別の訴訟件数は減り、職場でのハラスメント相談も減っている。幸福度調査も上がっている。
なのに、ある項目だけが妙に増えていた。
「自己改善関連支出の平均割合」。生活費に占める美容・トレーニング・外見関連サービスへの支出が、ほぼ倍増している。
それ自体は予想通りだ。産業が伸びたのだから。
問題は、支出の増加が“全階層で”起きていることだった。納税者だけでなく、無税者も、非課税ぎりぎりの層も、皆が同じ方向に金を流している。
私は背筋が冷えた。
この社会は、富の再分配に成功しているように見える。美人が税を払い、そうでない者が救われる。だが、実際に起きているのは別の再分配ではないか。
税として集められた金は、どこへ行く?
公共サービス? 福祉? 教育?
もちろん一部はそうだろう。
しかし、もう一つの流れがある。人々は自らの財布から、外見産業へと金を差し出している。
美人税は、外見産業への“安定した需要”を社会全体に作り出す装置になっている。
私は慌てて、自治体の予算書を開いた。美人税の税収の使途。
そこには、目新しい項目が並んでいた。
「外見指数測定設備の更新」
「外見評価基準の研究委託」
「外見改善支援クーポンの配布」
「外見関連事業者への認証制度運営」
私は息をのんだ。
税収が、外見を測る仕組みを強化し、外見を改善するためのクーポンを配り、外見産業を認証する――つまり、税が税を増やす循環が出来上がっている。
美人税は、格差を埋めるための制度ではない。外見という市場を国家規模で拡張し、回転させるための制度だ。
それが“誰も怒らない形”で成功している。
怒らないどころか、皆が拍手を送る。払いたい、と言い出す。
私は急いで佐々木に連絡を取った。電話はすぐにつながった。
「山科さん? どうしました」
「あなたの仕事、外見評価コンサルタント。顧客は納税者ですか?」
「いえ、半分以上は無税の人です。納税者より熱心ですよ。払えるようになりたいから」
「払えるようになりたい、ですか」
「はい。……だって、払えないと、社会に参加してないみたいじゃないですか」
その言葉を聞いた瞬間、私は確信した。
美人税は、税負担の公平さを装った“参加証”だ。
払う者は選ばれ、払えない者は努力し、努力する者は市場に金を流す。税は設備に回り、設備は評価を精緻化し、評価は欲望を煽る。
結果、誰も制度に不満を持たない。なぜなら不満は、すぐに“努力不足”へと変換されるからだ。
私は記事を書いた。タイトルは迷ったが、編集長の言葉通り「叩かれていない不気味さ」を前面に出した。
最後に、私は一つの問いを置いた。
美人税は、美人が得をしてきた分を返す制度ではない。
「美人であること」を、国家が公認し、商品化し、全民に購入させる制度だ。
税を払いたいという価値観が根づいた社会は、税を払えない者に何を求めるのか。
それは美しさではない。
“美しさを買い続けること”だ。
掲載後、反響は大きかった。炎上はしない。抗議もない。
代わりに届いたのは、丁寧な感想だった。
「なるほど、制度が市場を作るという視点は面白かったです」
「でも、結局みんな幸せならいいのでは?」
「私は無税ですが、来年こそ払えるように頑張ります」
頑張ります。
その言葉が、刃のように胸に刺さった。
私は批評を書いたのに、批評すらも“努力の燃料”になっている。
数日後、私は再び区役所の前を通った。立て看板は新しくなっていた。
「美人税申告窓口はこちら」
その下に、キャンペーンの文字が踊る。
「今年から“準美人税”制度がスタート! 外見指数が一定以上の方には、少額納税で参加できます!」
準美人税。
私は笑いそうになった。笑えないのに、笑いが出る。
払えない者のための参加枠。負担のための救済。ステータスの分割販売。
市場は、いつだって“取りこぼし”を許さない。
私は歩きながら、自分の顔をガラスに映してみた。左右のバランスが悪い。目は小さい。肌も荒れている。
以前なら、それは単なるコンプレックスだった。
今は、未加入の証明書みたいに見える。
私は、ふと、区役所の列に並びたくなった。判定室に入って、数値を受け取りたくなった。たとえ無税でも、数字が欲しい。自分がどこにいるのかを知りたい。
その瞬間、私は自分がこの制度の最も巧妙な罠に足を踏み入れかけていることに気づいた。
税を払うかどうかではない。
美しさを「公的な尺度で」測り、順位づけられ、その中で自分の位置を欲しがること。
それが、社会参加の前提になっている。
美人税の社会には、不満を持つ者がいない。
なぜなら、不満という感情そのものが、制度の中で別の商品に変換されるからだ。
劣等感は努力へ。努力は支出へ。支出は市場へ。市場は税へ。税は制度へ。
そして制度は、また新しい言葉を作る。
準美人税。
参加。
資産。
還元。
私は、区役所の立て看板を振り返り、心の中で一つだけ結論を置いた。
この社会が“美人税を払いたい”と信じているのは、美人が得をしているからではない。
税が、人間の欲望に最も似た形をしているからだ。
払えば認められ、払えなければ努力し、努力すればいつか払える――そう信じさせる循環。
救済に見せかけた参加証。公平に見せかけた市場。
桜の花びらが、また一枚、風に巻かれて舞い上がった。
美しさは本来、散るから美しいのに。
この社会では、美しさは散らない。
散らないように、買い支えられる。




