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第八話「名前のある熱」

 名前をつけた翌日から、世界の解像度が変わった。


 正確には、天野小夏——小夏の解像度が変わった。


 教室に入って「おはよう、千雪ちゃん」と言われた時の心拍数。隣に座って弁当を広げる時の距離感。笑う時にわずかに見える八重歯。話している時に揺れるウェーブのかかった毛先。そういう細部が一つ一つ、以前よりも鮮明に千雪の網膜に焼きつくようになった。


 自覚がある分だけ厄介だった。


 自覚がなかった頃は——名前をつける前は——心臓が速くなっても「体調のせいだ」と処理できた。耳が赤くなっても「気温のせいだ」と分類できた。でも今は、その原因が「好き」であることを知っている。知っていて、知らないふりはもうできない。


 五月中旬の朝。今日の髪型は、後ろで低くまとめたシニヨンにした。うなじを見せるスタイルは気温が上がるこの時期にちょうどいい。かんざし代わりに白い木製のヘアスティックを一本挿した。


「千雪ちゃん、今日のやつめっちゃ好き。なんていうん、これ」


「シニヨン。要するにお団子」


「お団子っていうには上品すぎひん? なんかこう——和菓子みたいな雰囲気ある」


「和菓子」


「白いお団子に木のお箸が刺さってるみたいで——って、なんか食べ物の話にしてもうた。ごめん」


「……いい。嫌いじゃない、その例え」


 白い団子。確かに見えなくもない。千雪は心の中でメモした。いつか白いお団子を作る時があったら、名前の参考にしよう。


「千雪ちゃんのシニヨンは——えっと、『白月はくげつのだんご』みたいな?」


 千雪の足が止まった。


 振り返って、小夏を見た。小夏は自分で言っておきながら照れたように頬を掻いている。


「……今のネーミング、誰に教わったの」


「いや、自分で考えた。花守——千雪ちゃんの影響受けすぎて、最近なんにでも名前つけたくなるねん。変やったらごめんな」


 変ではなかった。変ではないどころか——千雪の胸の奥で、じわりと温かいものが広がった。自分の感覚を「変だ」と言われ続けてきた千雪にとって、同じ感覚を自然に真似てくれる人の存在は、想像以上に嬉しかった。


「……白月の団子。いい名前」


「ほんま? やった」


 小夏が嬉しそうに笑う。その笑顔を正面から見て、千雪は咄嗟に視線を窓に逃がした。


 ——まずい。名前をつけてから、直視するだけで顔が熱くなる。


 昼休み。


 今日の千雪の弁当は、鯖の味噌煮、ほうれん草のナムル、さつまいもの甘煮。小夏はコンビニのツナマヨおにぎりとカップの味噌汁。


「千雪ちゃん、さつまいもの甘煮って難しいん?」


「難しくない。さつまいもを輪切りにして、砂糖とみりんと少しの塩で煮るだけ。弱火でゆっくり」


「ゆっくりってどのくらい?」


「二十分くらい。途中で触らないのがコツ。触ると崩れるから」


「触らんほうがいいって——我慢できるん? うちなら絶対混ぜてまう」


「我慢できる。料理は待つ工程が多いから」


「待つの得意なんやな、千雪ちゃんは」


 小夏がおにぎりを頬張りながら、何気なく言った。何気ない一言だったはずなのに、千雪の中で別の意味と重なった。


 待つのは得意だ。小夏の秘密を待っている。自分の気持ちを伝えるタイミングも待っている。ずっと待っている。でもそれは我慢しているのとは違う——はずだ。


「——そういえばさ、千雪ちゃん」


「うん」


「来週の金曜日、午後の授業終わったら暇?」


「料理研究部がない日だから、暇だけど」


「あのな——ちょっと、一緒に行きたいとこがあって」


 小夏の声がわずかに変わった。いつもの軽さの下に、慎重さが滲んでいる。千雪はそれを聞き逃さなかった。


「行きたいところ」


「うん。——駅前の本屋。うちが見たいコーナーがあるねんけど、一人で行くのがちょっと——恥ずかしくて」


「恥ずかしい本屋なんてある?」


「本屋自体は普通やねん。うちが見るとこが——えっと——」


 小夏が言い淀んだ。おにぎりを持ったまま、視線が左右に泳いでいる。瞬きが増えている——が、嘘をつこうとしているのとは少し違う。言うか言わないかを天秤にかけている目だ。


「行く」


「え?」


「行くよ。——何のコーナーかは、着いてからでいい」


 小夏が目を丸くして、それから——ゆっくりと息を吐いた。覚悟を決めるような吐息だった。


「……ありがとう。千雪ちゃん」


 放課後、料理研究部で紅茶のパウンドケーキを焼いた。


 アールグレイの茶葉を生地に練り込み、仕上げにレモンアイシングを垂らす。焼き上がりの香りが調理実習室に広がって、矢島先輩が「いい匂い」と鼻をくんくんさせた。


「千雪ちゃん、最近ますます腕上げたねえ。パウンドケーキの膨らみが完璧」


「ベーキングパウダーの量を〇・五グラム減らしました。膨らみすぎるとキメが粗くなるので」


「〇・五グラムの違いがわかるの、すごいなあ。——あ、そういえば、天野さん最近見学に来ないけど、忙しいのかな」


「……部活の見学は最初の一回だけでした。でも、試食係としてはまだ現役です」


「試食係って……千雪ちゃんが持って帰ってるの?」


「……はい」


「仲良いんだね、二人」


 矢島先輩がにっこり笑った。千雪は返事の代わりにパウンドケーキの粗熱を確認した。


 ——仲良い。


 そうだ。仲が良い。友達として。でも千雪の中では、もう「友達」のラベルでは足りない。ラベルを貼り替えたいのに、貼り替えた先のラベルを相手に見せる勇気がない。


 パウンドケーキを二切れラップに包んで、鞄に入れた。一切れは小夏に渡す用。もう一切れは——。


「先輩、名前つけました」


「聞かせて」


「『午後三時の伯爵夫人』」


「……千雪ちゃんのネーミング、毎回クセが強いけど、毎回なんか納得しちゃうんだよね」


「そうですか」


「アールグレイの『アール』ってもともと伯爵って意味だから、合ってるのが悔しい」


 千雪は小さく頷いた。その由来は意識していた。紅茶のパウンドケーキを午後に焼いた。伯爵の名を持つ茶葉を。だから伯爵夫人。——小夏なら、この名前を「ええな」と言ってくれるだろうか。


 そういうことを考えている自分に気づいて、千雪は軽く頭を振った。何を作っても、名前を考えても、最終的に小夏の反応を想像してしまう。


 寧々の言葉が脳裏をよぎる。


 ——その人のことを考えてる時間が、気づいたら一日の大半を占めてる。


 占めている。完全に。


 翌日の朝、教室で小夏にパウンドケーキを渡した。


「千雪ちゃん! うわ、めっちゃいい匂いする。これ何?」


「紅茶のパウンドケーキ。名前は——」


「名前! 聞きたい聞きたい」


「『午後三時の伯爵夫人』」


 小夏が一瞬黙って、それからぷっと吹き出した——のではなく、目を輝かせた。


「伯爵夫人。アールグレイの伯爵と——午後のお茶の時間やから。めっちゃおしゃれやん。物語のタイトルみたい」


「……わかるんだ」


「わかるよ。千雪ちゃんの名前はいつもちゃんと理由があるから、考えるのが楽しいねん」


 ——考えるのが楽しい。


 千雪の名付けを「考えるのが楽しい」と言った人は、小夏が初めてだった。寧々は笑い、先輩は首を傾げ、ネットの友人は「独特だね」と流す。誰も「考えるのが楽しい」とは言わなかった。


 胸の奥で、名前をつけたばかりの感情がまた一段階、大きくなった。


「小夏ちゃん」


「ん?」


「……食べた感想、あとで教えて」


「もちろん。——あ、今食べてもええ?」


「朝から?」


「パウンドケーキは朝食になるやろ。洋菓子やし」


「理屈がおかしい」


「ええやん。いただきます」


 小夏がラップを剥がして一口食べた。咀嚼。沈黙。それから——目を閉じた。


「……おいしい。紅茶の香りがふわって口の中に広がって——あと、レモンの酸味がちょっとだけ効いてて、甘すぎひんのがええ。千雪ちゃん、天才やと思う」


「天才じゃない」


「天才やって。この味を高校生が出すのおかしいって」


 小夏が力説している。千雪は教科書を鞄から出す動作で顔を隠した。褒められて嬉しいのは——料理の腕を認められたからだけではない。小夏が幸せそうに食べてくれること自体が嬉しいのだ。


 この人のために作りたい。


 その衝動が、日に日に鮮明になっていく。


 数日が過ぎて、金曜日が来た。


 六限目が終わって、千雪が鞄を持って立ち上がると、小夏がすでに隣に来ていた。


「行ける?」


「うん」


 二人で校門を出て、駅前に向かう。五月の午後は日差しが強くなり始めていて、千雪は帽子を深めに被った。小夏がちらりとそれを見て、何も言わずに日陰側を千雪に譲った。無言の配慮。千雪はそれに気づいたが、何も言わなかった。言葉にすると壊れそうな、自然な優しさだったから。


 駅前の書店は、三階建ての大型店舗だった。学校帰りの学生や主婦がまばらにいる程度で、混雑はしていない。


 自動ドアを抜けて店内に入ると、小夏の足が止まった。


「……二階」


「うん」


「コミックのフロア」


「うん」


 千雪は小夏の顔を見た。強張っている。朝の快活な表情はどこにもなくて、入学試験の教室に入る直前のような緊張が全身から滲んでいた。


「——大丈夫?」


「大丈夫。ちょっと——心の準備」


 小夏が深呼吸した。一回。二回。三回。それから、意を決したように歩き出した。エスカレーターに乗って二階へ。


 コミックフロアは広かった。少年漫画、少女漫画、青年漫画、とジャンルごとに棚が分かれている。小夏はそれらを素通りして、フロアの奥のほうへ進んでいく。千雪は黙って後を追った。


 小夏が足を止めたのは、壁際の一角だった。棚の上部にジャンル表示のプレートがある。千雪は目を細めてそれを読んだ。


 ——『百合コミック』。


 千雪は瞬きを一つした。


 百合。その単語は知っている。寧々がたまに使っていた。女性同士の恋愛を描いた創作ジャンル。


 棚には色とりどりの表紙が並んでいた。柔らかいパステル調のものもあれば、鮮やかで力強いものもある。どの表紙にも——二人の女性が描かれていた。見つめ合っていたり、手を繋いでいたり、寄り添っていたり。


 小夏は棚の前で立ち尽くしていた。千雪のほうを見ていない。棚を見ている。棚を見ながら、唇を噛んでいる。


「——これが、うちの趣味」


 小さな声だった。店内のBGMに紛れそうなほど小さい。


「百合が好きやねん。漫画も、アニメも。女の子同士の恋愛の話を見るのが——ずっと好きで」


 千雪は黙って聞いていた。


「前の学校で仲良くなった子に話したんよ。この棚の前に連れてきたわけちゃうけど——好きなアニメの話になった時に、つい。そしたらその子が——」


 小夏の声が少しだけ震えた。


「——『えっ、女同士の恋愛ってこと? それって気持ち悪くない?』って」


 千雪の胸の奥で、何かが鋭く刺さった。気持ち悪い。その言葉の刃が、小夏に向けられた瞬間を想像した。想像しただけで——怒りに似た感情が、ゆっくりと腹の底から立ち上がった。


「その子はたぶん、悪気なかったと思う。ただ知らんかっただけで——でもうちは、それ聞いた瞬間に、もう何も言えんくなって。それからずっと——隠してた」


 小夏がようやく千雪のほうを向いた。その目は——怯えていた。今まで見た小夏のどの表情とも違う、剥き出しの恐怖。千雪に拒絶されることへの。


「千雪ちゃん。——引いた?」


 千雪は小夏の目をまっすぐに見た。


「引いてない」


「……ほんまに?」


「ほんまに」


 関西弁が移った。でも今はそんなことはどうでもよかった。


「百合が好きなことの何が悪いのか、私にはわからない。——好きなものを好きだと言えることは、すごいことだと思う。前にも言った」


「それは——千雪ちゃんの髪の話やったやん。趣味とは——」


「同じだよ」


 千雪は一歩、棚に近づいた。並んでいる背表紙を眺める。タイトルも作者も知らない。でも、一冊一冊に物語が詰まっていることはわかる。


「好きなものは好きでいい。それを『気持ち悪い』と言う人のほうがおかしい。——小夏ちゃんは、何も間違ってない」


 沈黙。


 店内のBGMがピアノの穏やかなメロディに変わった。その音が、二人の間の静寂をゆるく満たしていた。


「——泣いてもええ?」


「店の中だから、ちょっとだけにして」


「ちょっとだけ泣く」


 小夏が片手で目元を押さえた。涙は——本当に、ちょっとだけだった。こぼれ落ちる前に指で拭って、鼻をすすって、深呼吸して。十秒ほどで顔を上げた。


「——ありがとう。千雪ちゃん」


「うん」


「うちな、千雪ちゃんに言えたら、もう誰に引かれてもええって思ってた。千雪ちゃんだけには——受け入れてほしかった」


 その言葉の重みを、千雪は全身で受け止めた。


 千雪だけには。他の誰でもなく。この人に。


 それは——千雪が小夏に対して感じていることと、鏡合わせのように似ていた。千雪も、小夏にだけは自分の「好き」を伝えたいと思っている。小夏にだけは、受け入れてほしいと思っている。


 でも、千雪の「好き」は——趣味の話ではない。


「せっかく来たんやし——一冊、おすすめ見てもらってええ?」


 小夏が目元の赤みを残したまま、棚に手を伸ばした。慣れた動きだった。迷いなく一冊を抜き出す。


「これ。うちが一番好きなやつ。この作品がきっかけで百合にハマったんよ」


 表紙には、桜並木の下で向かい合う二人の少女が描かれていた。一人は黒髪のロングヘア、もう一人はショートカットの金髪。二人の間に、花びらが舞っている。


 千雪は表紙を見つめた。


「……綺麗な絵」


「やろ? 中身もめっちゃええねん。幼馴染の二人が——高校で再会して、ゆっくりお互いの気持ちに気づいていく話。派手な展開はないんやけど、その分一個一個の場面がめっちゃ丁寧で。視線の描き方とか、指先の距離感とか——」


 小夏が話しながら、目がどんどん輝いていった。さっきまでの恐怖はもうどこにもない。好きなものを語っている時の小夏は、千雪が一番好きな小夏だった。


「——千雪ちゃんに似てるキャラおるねん」


「え」


「黒髪ロングの子のほう。寡黙で、でも芯が強くて、好きなものに対してはまっすぐで。最初は壁があるんやけど、相手の子にだけ少しずつ心を開いていくっていうか——」


 小夏がそこで口をつぐんだ。自分が何を言っているのか、途中で気づいたらしい。耳がじわりと赤くなっていく。


「——いやあの、キャラの話やからね? 千雪ちゃんに重ねてるとかちゃうからね? ちゃう——いやちょっと重ねてるかもしれんけど——」


「……重ねてるんだ」


「ちがっ——いや——」


 小夏が両手で自分の顔を覆った。その隙間から見える肌が、耳だけでなく首まで赤い。


 千雪は心臓がうるさいのを自覚しながら、冷静を装って言った。


「……その漫画、貸して」


「えっ」


「読んでみたい」


 小夏が顔を覆っていた手を下ろした。信じられないものを見るような目で千雪を見ていた。


「千雪ちゃんが——百合漫画読むの?」


「小夏ちゃんが好きなものを知りたいから」


 言ってから気づいた。「小夏ちゃんが好きなもの」。その言い方は——色々な意味に取れる。意図したのは作品のことだったが、口から出た言葉は曖昧な輪郭をしていた。


 小夏は数秒固まって、それからおずおずと漫画を差し出した。


「——一巻だけ。続き気になったら言って」


「うん」


 千雪はそれを受け取った。思ったより薄い。でも、この薄い一冊の中に、小夏がずっと隠してきたものが詰まっている。


「あと——その」


「うん」


「読んだ感想、聞かせてな。正直なやつで」


「わかった」


 二人で書店を出た。外はまだ明るくて、五月の夕方の光が街並みを柔らかく照らしていた。千雪は鞄の中の漫画を手で確認した。確かにある。小夏が大切にしてきたもの。


「——千雪ちゃん」


「うん」


「ほんまに、ありがとう。うち——転校してきてから、ずっとこれ言うのが怖かった。でも千雪ちゃんに会えたから——言えた」


「私は何もしてない。小夏ちゃんが自分で決めたこと」


「ちゃうよ。千雪ちゃんが待っててくれたから。急かさんと、でも逃げ道も塞がんと。ちょうどええ距離で——ずっと」


 千雪は帽子のつばを少し下げた。表情を隠すために。


「……ちょうどいい距離なんかじゃない。私だって、どこまで踏み込んでいいかわからなかった。何回も迷った」


「迷ってくれてたんや」


「うん」


「それが嬉しいんよ。迷ってくれるってことは——うちのこと、ちゃんと考えてくれてるってことやから」


 駅に着いた。改札を並んで通る。ホームに降りると、夕暮れの風が白い髪を揺らした。


「なあ千雪ちゃん」


「うん」


「うちが百合好きやって知って——なんか、態度変わったりせえへん?」


「変わらない」


「……ほんまに?」


「小夏ちゃんが百合を好きでも、私にとっての小夏ちゃんは小夏ちゃんだから」


「——そういうとこ」


「え」


「そういうとこが——百合漫画のヒロインみたいやなって」


 千雪は顔を上げた。小夏が慌てて両手を振っている。


「いや、あの、褒めてるんやからね!? 最高の褒め言葉やからね!? 百合漫画のヒロインって最上級の存在やから——」


「……小夏ちゃんの最上級は、百合漫画基準なんだ」


「うちの中では最高の褒め言葉やねん。伝わりにくいのは自覚してる」


 小夏が頭を掻いた。千雪は小さく息を吐いた。笑いなのかため息なのか、自分でもわからない呼気だった。


 ——百合漫画のヒロイン。


 その言葉が、胸の中で妙に重く響いた。小夏は百合を「創作として」好きなのだ。フィクションとして。キャラクターの恋愛を楽しむものとして。


 では——現実の、同性への恋愛はどうなのだろう。


 小夏が百合を好きだからといって、小夏自身が女性を恋愛対象として見ているとは限らない。創作の好みと自分のセクシュアリティは別物だ。千雪はそれを理解している。理解しているからこそ——期待してはいけないとも思っている。


 電車が来た。乗り込んで、並んでつり革を掴む。


「千雪ちゃん」


「うん」


「今日のこと——寧々さんに言ってもええ? 百合好きやってこと」


「……私から言う必要がある? 小夏ちゃんが直接言えばいい」


「そうなんやけど——千雪ちゃんの口から聞いたほうが、寧々さんも安心するかなって」


「安心?」


「ほら——うちが変な趣味持ってるって知ったら、寧々さん心配するかもしれんやん。『ちーちゃんの友達がそういう趣味で大丈夫か』みたいな」


 千雪は首を横に振った。


「姉は大丈夫。というか——姉のほうがよっぽどサブカルに詳しいから」


「えっ、そうなん」


「元ネトゲランカーで、ネット古参。百合くらいで驚く人じゃない」


 小夏がぽかんとした。


「……千雪ちゃんちの姉妹、強すぎひん?」


「何に対して強いのかわからないけど……まあ、うちは少し変わった家族だと思う」


「変わってるけど——あったかいなあ」


 小夏の声が少し小さくなった。千雪はちらりと横を見た。小夏の横顔に、薄い翳りが一瞬よぎった。それはすぐに消えたが、千雪は見逃さなかった。


 転校が多い。家族は親の仕事で動く。友人を作りにくい環境。小夏の寂しさの根は、そこにあるのだろう。


 千雪は何も言わなかった。代わりに、つり革を持つ手を少しだけ小夏のほうに寄せた。肩と肩の距離が数センチ縮まる。触れてはいない。でも、体温が届く距離。


 小夏がちらりとこちらを見た。千雪は前を向いたまま、何も言わなかった。


 数秒の沈黙。それから、小夏が小さく笑った。


「……千雪ちゃんの優しさって、いつもこうやな。言葉じゃなくて、距離で示すっていうか」


「言葉が下手だから」


「下手ちゃうよ。——ちゃんと届いてる」


 電車が小夏の駅に着いた。ドアの前に移動して、振り返る。


「千雪ちゃん。漫画、感想楽しみにしてるな」


「うん。読んだら連絡する」


「おやすみ」


「おやすみ」


 ドアが閉まる。電車が動き出す。


 千雪は鞄の中から漫画を取り出して、表紙を見た。桜並木と二人の少女。これが小夏の原点なのだ。この物語が、小夏の心を捉えて、ずっと離さなかったもの。


 ——千雪ちゃんに似てるキャラおるねん。


 その言葉が反芻される。似ている。小夏から見た千雪は、百合漫画のキャラクターに似ている。


 それは——嬉しいのか、怖いのか。


 嬉しい。嬉しいけれど、怖い。小夏が千雪を「キャラクターに似ている」と見ているなら、それはあくまで創作の延長ではないのか。現実の——生身の千雪を、恋愛の対象として見ているのとは違うのではないか。


 考えても答えの出ないことを考え続けるのは非効率だ。千雪は何度もそう自分に言い聞かせてきた。でも今回ばかりは——考えるのをやめられなかった。


 帰宅して、夕飯を作って、風呂に入って、髪を乾かして。


 ベッドに入ってから、千雪は漫画を開いた。


 一ページ目。高校の入学式の朝。黒髪ロングの少女が校門の前で立ち止まっている。桜が散っている。


 ——十年ぶりだ。あの子も、この学校に来ているだろうか。


 千雪はページをめくった。幼馴染の再会。最初のぎこちなさ。少しずつ距離が縮まっていく日常。並んで食べる昼食、放課後の教室、雨の日の帰り道。


 ——どれも、千雪と小夏の間で実際に起きたことに似ていた。


 似ているのは偶然ではないのかもしれない。小夏がこの作品を好きな理由と、小夏が千雪に惹かれた理由が——もしどこかで繋がっているのだとしたら。


 ページをめくる手が速くなった。


 物語の中盤。黒髪の少女が、金髪の少女の手に触れる場面があった。


 ——触ってもいい?


 ——いいよ。


 短い会話。それだけで、二人の間の空気が変わる。ページの中の少女の表情が——あまりにも、あの日の千雪と小夏に重なって。


 千雪は漫画を閉じた。


 天井を見つめる。白い天井。自分の髪と同じ色。


 ——これは、創作の話だ。


 でも。


 千雪は漫画を枕元に置いて、スマートフォンを取り出した。小夏へのLINEを開く。


『一巻、読んだ』


 深夜だった。返信は来ないだろうと思った。でも——三十秒後に既読がつき、すぐにメッセージが来た。


『えっ もう読んだん!? はやい!! どうやった??』


 起きていたのか。千雪は少し考えてから、返信を打った。


『黒髪の子の気持ちがわかりすぎて、少し苦しかった』


 送信してから、言いすぎたかもしれないと思った。でも正直な感想だった。あのキャラクターの——好きな相手の隣にいたくて、でも自分の気持ちを伝えたら今の関係が壊れるかもしれないという恐怖。それが、千雪自身の胸の中にあるものとあまりにも重なった。


 返信が来るまでに、一分以上かかった。小夏にしては長い沈黙だった。


『……わかるんや。あの子の気持ち』


『わかる。痛いくらい』


『千雪ちゃん』


『うん』


『二巻も、読んでくれる?』


『読む。明日持ってきて』


『うん。——おやすみ、千雪ちゃん。今日はほんまにありがとう。うちの世界の半分を、受け止めてくれて』


 世界の半分。


 千雪はその言葉を胸の中で反芻した。小夏が差し出した半分を、千雪は受け取った。では——千雪の半分は。千雪がまだ差し出せていない、名前をつけたばかりの気持ちは。


『おやすみ。——残りの半分も、いつか聞かせて』


 送信した。その「残りの半分」が何を指すのか、千雪自身にもまだわからなかった。小夏の世界のもう半分のことなのか、それとも——千雪自身の、まだ言えていない半分のことなのか。


 スマートフォンを枕元に置いて、目を閉じた。


 暗闇の中で、漫画の中の二人の少女と、現実の自分たちが重なって揺れた。創作と現実の境界線が、少しずつ滲んでいく。


 ——名前はもうある。あとは、伝えるかどうか。


 五月の夜風が窓から忍び込んで、枕の上に散った白い髪をそっと撫でた。

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