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第七話「秘密の輪郭」

 ゴールデンウィークが明けた月曜日の朝、千雪は髪をハーフアップにした。


 上半分を後ろで束ねて、残りは下ろす。結び目にひと巻きさせた白い髪がリボンの代わりになる。シンプルだが、後れ毛の量と位置で印象が大きく変わるスタイルだ。今日は耳の前に細い一房だけ残して、あとはすっきりまとめた。


 鏡の中の自分に頷いて、洗面所を出る。


 リビングでは寧々がソファに沈没していた。ゴールデンウィーク中に溜まった大学のレポートと格闘しているらしく、ノートパソコンの画面には文書作成ソフトが開かれている。ただし進捗は二行。


「ちーちゃん、おはよ。レポートがラスボス級の強さなんだが」


「おはよう。二行しか書いてないのに何がラスボスなの」


「ラスボスの前の絶望感を味わってるフェーズなんだが」


「それはフェーズじゃなくてただの逃避」


 トーストを齧りながら、千雪はスマートフォンを確認した。天野小夏からのLINE。


『おはよう! ゴールデンウィーク終わってもうた……学校行きたくないわけちゃうけど旅行の余韻がすごい』


 伊豆旅行から五日が経っていた。連休中も二人はLINEでやり取りを続けていて、旅行の写真を送り合ったり、天野小夏が自主練したくるりんぱの経過報告を受けたりしていた。


 千雪は短く返信を打った。


『おはよう。余韻に浸るのは帰ってからにして』


『了解笑 今日の髪型なに?』


『ハーフアップ』


『楽しみ!!!』


 この「楽しみ」という言葉を受け取るのが、いつの間にか朝のルーティンに組み込まれていた。トーストを食べて、髪をセットして、天野小夏の「楽しみ」を読む。そこまでが一連の流れになっている。


 寧々がソファからこちらを見ていた。


「ちーちゃん、スマホ見てニヤけてるよ」


「ニヤけてない」


「口角が三ミリ上がってた。姉ちゃんの目は計測器並みの精度だから」


「精度じゃなくてただの凝視」


 千雪は鞄を持って玄関に向かった。ドアノブに手をかけた時、背後から寧々の声が追いかけてきた。


「ちーちゃん。——最近、すごくいい顔してるよ」


 振り返らなかった。振り返ったら、たぶん何かが顔に出る。


「……いってきます」


「いってらー」


 教室に入ると、天野小夏の席が空だった。


 珍しい。最近は千雪より先に登校していることが多かったのに。千雪は鞄を下ろして席に着き、文庫本を開いた。


 五分ほどして、天野小夏が教室に飛び込んできた。息が上がっている。頬が紅潮して、髪が乱れていた。


「——セーフ。セーフやんな?」


「予鈴まであと三分。セーフ」


「よかったあ……」


 天野小夏がどさりと席に座った。鞄を机に置いた拍子に、中から何かが滑り落ちた。


 薄い冊子だった。表紙にカラフルなイラストが描かれている。千雪の視力では遠くの細部は見えづらいが、机の下に落ちたそれを天野小夏が慌てて拾い上げたのは見えた。


 ——慌てていた。


 明らかに、見られたくないものだった。天野小夏は冊子を鞄の奥に押し込んで、ファスナーを一気に閉めた。その動作の速さが、かえって不自然だった。


「……大丈夫?」


「うん、大丈夫大丈夫。なんでもない。ちょっと寝坊しただけ」


 笑っている。でも目が笑っていない。瞬きが多い。


 千雪は何も聞かなかった。ただ、記憶の片隅に「冊子」と「慌てた天野小夏」を保存した。


 昼休み。


 天野小夏が椅子を寄せてきた。今日のコンビニ飯はカップの春雨スープとおにぎり一個。


「花守さん、ハーフアップめっちゃ似合うな。大人っぽい感じがする」


「……ありがとう」


「あと後れ毛のバランスがすごい。左右で微妙に長さ変えてるやろ?」


 気づいていた。千雪は少し目を瞬かせた。左は顎の高さ、右は頬の高さ。わざと非対称にしている。左右対称にするとかっちりしすぎるから。


「……よく見てるね」


「そりゃ見るよ。毎日見てるもん」


 さらりと言ってのけた。千雪は弁当の蓋を開ける動作で視線を逸らした。今日の弁当は豚肉の味噌漬け焼き、ひじきの煮物、ほうれん草の卵焼き。


「毎日見てるって——じろじろ見てたら、嫌やない?」


 天野小夏の声が少しだけ小さくなった。


 千雪は箸を持つ手を止めた。


 視線に敏感な自分が、天野小夏の視線を嫌だと感じたことは——一度もなかった。それは不思議なことだった。知らない人の視線は今でも苦手だ。電車の中で目が合うと反射的に逸らすし、街中で見られていると感じると足が速くなる。


 なのに天野小夏の視線だけは、体がこわばらない。


「……嫌じゃない」


「ほんまに?」


「私の髪を見て、綺麗だと思ってくれてるなら——嫌じゃない」


 天野小夏が息を止めた気配がした。数秒の間があって、小さく「うん」と返ってきた。それ以上は何も言わなかった。


 二人で黙って弁当を食べた。沈黙が苦しくないのは、いつからだろう。最初の頃は天野小夏がずっと喋っていて、千雪が短く返す形だった。今は——無言の時間にも居場所がある。


「なあ花守さん。連休中に気になったんやけど」


「うん」


「伊豆で寧々さんが『ちーちゃんの交友関係はSSRクラスの厳選』って言うてたやんか。あれって——うちもSSRってこと?」


「姉のガチャ理論を真に受けないで」


「いやでも気になるやん。花守さん的に、うちのレアリティどのくらい?」


「人にレアリティをつけること自体おかしい」


「そこをあえてつけるなら」


 千雪は豚肉を一口食べて、咀嚼しながら考えた。天野小夏にレアリティをつけるなら。


「…………URくらい」


「SSR超えとる!? えっ、URって最上級ちゃうん!?」


「言わされただけ。忘れて」


「忘れられるわけないやん!!」


 天野小夏が声を上げたので、周囲の視線が集まった。千雪は帽子がないことを恨みながら、文庫本で顔の半分を隠した。耳が赤い。自覚がある。


「……声が大きい」


「ごめん。でもURって——UR……」


 天野小夏が小声で繰り返しながら、自分の頬を両手で押さえていた。春雨スープが冷めかけているが、本人は気にしていないらしい。


 五限目の前の休み時間、千雪が教室に戻ると、天野小夏の席に女子が二人集まっていた。


「天野さんって前は大阪だったんだよね。大阪って遊ぶところ多そう」


「うん、まあそれなりに。USJとか道頓堀とか」


「休みの日って何してたの? 友達と遊んだり?」


「あー、えっと——」


 天野小夏の声が一瞬詰まった。千雪は自分の席に座りながら、聞くつもりはなかったが耳に入ってきた。


「買い物とか、カフェ巡りとか……あと、家でゆっくりしたり」


「家で何するの?」


「え——えっと、動画見たり?」


「何の動画?」


 質問の連打。悪意はないのだろう。ただの世間話だ。でも天野小夏の声が微かに硬くなっていくのを、千雪は聞き取っていた。


「色々。旅行系の動画とか」


「へえー。ドラマとかアニメは?」


「アニメは——まあ、たまに」


「何系が好きなの?」


「えっと——日常系? とか」


 答え方が慎重になっている。言葉を選んでいるのが声のリズムでわかる。普段の天野小夏はもっと流暢だ。関西弁の勢いで会話を回す。それが今、明らかにブレーキがかかっている。


「あー日常系ね。最近だと何見てる?」


「えっと——あ、ごめん。ちょっとトイレ行ってくるわ」


 天野小夏が席を立った。千雪は文庫本を開いたまま、その背中を視界の端で追った。教室を出ていく足取りが早い。逃げている。


 ——何から。


 千雪の中で、ばらばらだったピースが少しずつ寄り集まり始めていた。


 「偏っている」と言った趣味。蓋をする癖。「ドラマ」と嘘をつく時の瞬きの増加。朝、鞄から落ちた冊子を慌てて隠した動作。アニメの話題になった時の声の硬さ。


 全部が一つの方向を指している。けれど、千雪はまだその先を覗き込まなかった。天野小夏が自分で扉を開けるのを待つ。それが二人の間のルールだ。


 でも——待っている間に、天野小夏が一人で苦しんでいるのだとしたら。


 千雪は文庫本を閉じた。


 放課後、料理研究部の活動を終えて教室に戻ると、天野小夏がまだ席にいた。机に頬をつけて、ぼんやりと窓の外を眺めている。鞄はまだ片づけていない。帰る気配がない。


「——天野さん」


「あ、花守さん。おつかれ。今日は何作ったん」


「スコーン。——帰らないの」


「うん、ちょっとぼーっとしてた」


 天野小夏が体を起こした。笑顔。いつもの笑顔——だが、その下にある温度が低い。千雪のセンサーは、もうそれを見逃さない。


「……昼休みの後から、元気ないね」


「え、そんなことないよ? いつも通りやって」


「嘘。瞬きが多い」


 天野小夏が目を見開いた。


「……花守さん、うちの瞬きの回数まで見てるん」


「回数は数えてない。でも——嘘をつく時に増えることは知ってる」


 天野小夏が口をつぐんだ。視線が机の上に落ちて、指先が木目をなぞっていた。夕方の光が教室の床を長く切り取っている。


 千雪は天野小夏の隣の椅子を引いて座った。少し離れた位置。触れない距離、でも声が届く距離。


「聞かない。天野さんが話したくなるまで」


「……」


「でも——辛そうな顔してるのを見て、何も思わないわけじゃない」


 天野小夏が顔を上げた。琥珀色の目が千雪を映していた。その目の中に、揺れがあった。迷い。言いたいのに言えない、その境界線の上に立っている人の目。


「花守さん」


「うん」


「——うち、趣味のこと隠してる」


 千雪は動かなかった。表情も変えなかった。ただ静かに、相手の言葉を待った。


「隠してるっていうか——言えへんねん。前の学校で、仲良くなった子に教えたら、引かれて。それから——怖くなって」


 天野小夏の声はいつもの快活さを完全に脱いでいた。素のまま。関西弁のイントネーションだけが残った、飾りのない声。


「何の趣味かは——今は、言えへん。言おうとしてるんやけど——花守さんに引かれたら、って思うと」


「……引かれたら?」


「もう、戻れへんやん。今のこの——花守さんと一緒にご飯食べて、髪の話して、旅行行って。それが全部なくなるかもしれんと思ったら——」


 声が震えていた。天野小夏の手が膝の上で握りしめられている。


 千雪はその手を見つめた。見つめてから——自分の手を、膝の上に伸ばした。天野小夏の拳に、そっと指先を添えた。


 天野小夏の体が微かに跳ねた。


「——予告してなかった。ごめん」


「……ええよ。ありがとう」


 天野小夏の拳がゆっくりと開いた。千雪の指先に、温かい掌が重なった。握ったのではない。ただ触れているだけ。指先と指先が、机の下で静かに繋がっている。


「天野さん」


「うん」


「さっき私、引かないとは言い切れないって思ったでしょ」


「……うん」


「正直に言う。——内容によっては驚くかもしれない。何とも思わないとは約束できない」


 天野小夏の指が少し強張った。


「でも」


 千雪は続けた。


「驚くことと、離れることは違う。——私は、天野さんの趣味がなんであっても、一緒にご飯を食べなくなったりしない」


 沈黙。


 夕日が傾いて、教室の影が長くなった。窓の外で部活の終わりを告げるチャイムが鳴っている。


「……花守さんは、なんでそんなこと言えるん」


「言えるんじゃなくて、言いたいから言ってる」


「言いたい?」


「……天野さんが、隠し事で苦しんでるのを見てるのが、嫌だから」


 自分の正直さに、自分で驚いていた。千雪は感情を言語化するのが得意ではない。いつも言葉が足りなくて、誤解されるか、何も伝わらないかのどちらかだった。でも今は——足りなくてもいいから、言わなければいけないと思った。


 天野小夏の目が潤んでいた。泣いてはいない。泣く一歩手前で踏みとどまっている。


「——もうちょっとだけ、待って」


「うん」


「もうちょっとだけ——勇気ためてから、話す」


「うん。待ってる」


 天野小夏の指先が、千雪の手をきゅっと握った。一秒だけ。それから離した。


「……帰ろか」


「うん」


 二人で教室を出た。廊下を並んで歩いて、昇降口で靴を履き替える。いつもの動作を、いつものように。でもどこか——空気が変わっていた。重さが一つ減ったような、代わりに何かが一つ増えたような。


 校門を出たところで、天野小夏がぽつりと言った。


「花守さん」


「うん」


「好きなアニメのジャンルがあんねん」


 千雪はちらりと横を見た。天野小夏は前を向いて歩いている。耳は赤いが、声は落ち着いていた。


「友達に話して引かれたっていうのは——そのジャンルのこと」


「……うん」


「今は、それだけ。ジャンル名はまだ——言えへん」


「いい。それだけでいい」


 天野小夏が小さく息を吐いた。安堵の息だった。一歩だけ進めたことへの、静かな安堵。


 千雪は何も聞き返さなかった。アニメのジャンル。それだけの情報で、頭の中のピースがさらにいくつか組み合わさった。全体像はまだ見えない。でも輪郭は——少しずつ、浮かび上がってきている。


 駅のホームで電車を待つ。夕暮れの空に飛行機雲が一筋、白い線を引いていた。


「——花守さんの髪みたいやな」


「え?」


「飛行機雲。白くて、細くて、まっすぐで」


 千雪は空を見上げた。確かに、白い一筋が青い空を横切っている。それが自分の髪に似ているかどうかはわからなかったが——天野小夏がそう見るのなら、そうなのかもしれない。


「飛行機雲は、すぐ消える」


「消えるなあ。——花守さんの髪は消えへんけど」


「当たり前でしょ。髪は雲じゃない」


「たとえやって」


 天野小夏がくすっと笑った。さっきまでの重さが少しだけ軽くなった笑い方だった。完全には消えていない。でも、一人で抱えていた荷物の端を誰かに持ってもらった時の——ほんの少しの余裕が、声に滲んでいた。


 電車が来た。乗り込んで、つり革を掴む。


「花守さん」


「うん」


「UR、やっぱ嬉しかった」


「……忘れてって言ったのに」


「無理。一生覚えてる」


 天野小夏の駅が近づく。ドアの前に移動しながら、振り返った。


「——花守さんがうちのこと待っててくれるみたいに、うちも花守さんのこと待ってるから」


「……私の何を待ってるの」


「わからん。でも——花守さんも何か、言えてないことあるんちゃうかなって。なんとなく」


 ドアが開いた。天野小夏がホームに降りた。振り返って手を振る。いつもの光景。でも最後に付け足した一言が、いつもと違った。


「おやすみ、千雪ちゃん」


 ——千雪ちゃん。


 下の名前。初日に一度だけ呼ばれて、すぐに「花守さん」に戻った呼び方。それが一ヶ月以上を経て、もう一度。


 ドアが閉まる前に、千雪は小さく返した。


「……おやすみ、小夏さん」


 ドアが閉まった。電車が動き出す。


 千雪はつり革を握ったまま、自分の心臓の音を聞いていた。うるさい。速い。名前を呼んだだけでこんなに動揺するなんて。


 ——花守さんも何か、言えてないことあるんちゃうかなって。


 見抜かれている。千雪が名前をつけられずにいる感情を、天野小夏は感じ取っている。気づいていて——待ってくれている。


 千雪は窓ガラスに映る自分を見た。白い髪。サングラスを外した桜色の瞳。耳の先まで赤い、色素の薄い肌。


 鏡の中の自分に、千雪は問いかけた。


 ——いつまで、知らないふりをするつもり?


 答えは出ない。出ないけれど——問いかけること自体を、もう避けてはいなかった。


 帰宅すると、寧々がリビングのテーブルで干し芋を齧りながら、ようやくレポートに取りかかっていた。画面には五行に増えた文書。進捗は遅い。


「おかえり。ちーちゃん今日は遅かったね」


「教室で少し話してた」


「天野ちゃんと?」


「……うん」


 千雪はエプロンをつけて冷蔵庫を開けた。今日の夕飯は何にしよう。鶏もも肉がある。玉ねぎ、じゃがいも、人参——シチューにしようか。いや、暑くなってきたからさっぱりしたものがいい。鶏肉の南蛮漬けにしよう。


 包丁を手に取って、鶏もも肉を一口大に切り始めた。リズミカルに、等間隔に。料理をしている時は考えがまとまりやすい。手が自動的に動く分、頭に余白ができる。


「寧々姉」


「ん」


「……人のことを好きになるって、どういう感覚」


 包丁の音が止まった。自分で止めたのだ。質問の重さに気づいて。


 リビングが静かになった。寧々のキーボードを叩く音も止まっている。


「——ちーちゃん、それは一般論として聞いてる? それとも、実感として」


「……わからない。だから聞いてる」


 寧々が椅子を回して、千雪のほうを向いた。背もたれに腕を乗せて、顎を置く。


「姉ちゃんの経験則で言うなら——その人のことを考えてる時間が、気づいたら一日の大半を占めてる。それに気づいた時が、たぶんそう」


「……一日の大半」


「あと、その人の前で自分がどう見えてるかが急に気になり始める。服とか、髪とか。今まで自分のためにやってたことが、いつの間にかその人のためにもなってる」


 千雪の手が、鶏肉の上で止まったままだった。


 髪型を変えるのは自分のためだ。ずっとそうだった。鏡の中の自分が好きだから、毎日違う形で楽しむ。それは変わっていない。


 ——でも。


 最近、朝の鏡の前で髪型を決める時に、「天野小夏が見たらどう思うだろう」という思考が混ざり込んでいることに、千雪は気づいていた。気づいていて、見て見ぬふりをしていた。


「寧々姉は、誰かのことそう思ったことあるの」


「あるよ。高校の時に一回だけ」


「どうなったの」


「告白して、振られた。相手は男だったんだけど——まあ、姉ちゃんの場合はコミュニケーションがネットスラングすぎて引かれた可能性のほうが高いけどね」


 寧々がけらっと笑った。深刻さを意図的に削っている笑い方だった。


「ちーちゃん」


「うん」


「姉ちゃんはちーちゃんが誰を好きになっても応援するよ。それが男でも女でも——宇宙人でも」


「宇宙人は想定しないで」


「念のため範囲を広げておくのが危機管理なんだが」


 千雪は包丁を置いて、手を洗った。タオルで拭きながら、キッチンの小窓から見える夜空を見た。星は見えない。東京の空は明るすぎて、星を隠してしまう。


「……寧々姉」


「ん?」


「名前をつけるのが怖い時って、どうしたらいい」


「名前?」


「感情に。——この気持ちが何なのか、名前をつけたら元に戻れない気がして」


 寧々が少し黙った。干し芋を一つ口に入れて、もぐもぐ噛みながら考えている。


「元に戻れないって——元って何?」


「……天野さんと、今みたいに普通に隣にいられる関係」


「名前つけたら、隣にいられなくなると思ってるの?」


「……わからない。でも、怖い」


 寧々が立ち上がった。スリッパをぱたぱた鳴らしてキッチンに来て、千雪の隣に立った。


「ちーちゃん。お菓子に名前つける時、怖い?」


「……怖くない」


「なんで」


「名前をつけても、お菓子は変わらないから」


「そう。——気持ちも同じだよ。名前をつけても、気持ち自体は変わらない。ちーちゃんが天野ちゃんに感じてることは、名前がついてもつかなくても、同じものなんだよ」


 千雪は手元のタオルを見つめた。白いタオル。自分の髪と同じ色。


「名前をつけるのが怖いのは——名前をつけた瞬間に、行動しなきゃいけないと思ってるから。でもね、ちーちゃん。名前をつけることと、伝えることは別のステップだから。まず自分の中で認めるだけでいいんだよ」


 自分の中で、認める。


 千雪は目を閉じた。


 天野小夏の顔が浮かぶ。笑っている顔。怒っている顔。泣きそうな顔。独り言を言っている顔。自分の髪を見つめている顔。指が触れた時の、耳の赤さ。


 ——好き。


 その二文字が、胸の中で静かに光った。お菓子に名前をつける時と同じだった。見つめて、感じて、ぴったりの言葉を探して。そして見つけた時の——これだ、という感覚。


 好きだ。天野小夏のことが。


 友達として、ではなく。


「——……ありがとう、寧々姉」


「ん。何か決まった?」


「……名前だけ、つけた」


「おっ。よかったじゃん。——ちなみに何て名前?」


「言わない」


「えー。姉ちゃんにも?」


「姉にも」


「ケチ」


 寧々がぶーたれたが、その目は優しかった。千雪はキッチンに向き直って、鶏肉の下ごしらえを再開した。南蛮酢の配合を頭の中で組み立てる。酢、醤油、砂糖、鷹の爪。タルタルソースは卵を茹でて、玉ねぎをみじん切りにして——。


「……『五月の逡巡チキン』」


「ネーミング来た。——今回のは、なんかいつもよりエモくない?」


「普通」


「逡巡がちーちゃんの心情ダダ漏れなんだが」


 黙って鶏肉に片栗粉をまぶした。


 名前をつけた。まだそれだけ。伝えてはいない。伝えるかどうかも決めていない。でも——胸の中の霧が、少しだけ晴れた気がした。


 スマートフォンが鳴った。天野小夏からのLINE。


『今日の放課後、話聞いてくれてありがとう。千雪ちゃんって呼んでもええ? 嫌やったら戻すから』


 千雪は画面を見つめた。「千雪ちゃん」。目で見る自分の名前。天野小夏の文字で書かれた、自分の名前。


『いい。——私も小夏さんって呼んでいい?』


 送信した。すぐに既読がつく。


『さんはいらん!! 小夏でええよ!!!』


『……小夏ちゃん、にする。いきなり呼び捨ては無理』


『十分です!!! ありがとう千雪ちゃん!!!!!』


 感嘆符の数が尋常ではなかった。千雪はスマートフォンを伏せて、自分の頬に手を当てた。熱い。鏡を見なくてもわかる。真っ赤だ。


 名前をつけた夜。鶏の南蛮漬けは、少しだけ甘めに仕上がった。

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