第五話「地図の裏側」
金曜日の朝は、ダブルくるりんぱにした。
一つ目のくるりんぱを耳の高さで作り、残った毛先をさらにもう一段、うなじの近くで二つ目のくるりんぱにする。二段の捻りが縦に連なると、それだけで奥行きのあるスタイルになる。仕上げに編み目を少しだけ引き出して、ルーズさを加えた。
鏡の中の自分に頷く。よし。
「ちーちゃん、ダブルくるりんぱ。今日は誰かに見せたい日?」
寧々がトーストを齧りながら言った。その観察力が時々怖い。
「……別に。たまたま」
「たまたまが最近多くない? 姉ちゃんの観測だと、ちーちゃんの朝の所要時間が先週比で平均四十秒増加してるんだが」
「計測しないでって言った」
「愛を——」
「数値化しないで」
玄関で靴を履く。ドアノブに手をかけたところで、足が止まった。
「……寧々姉」
「ん?」
「ゴールデンウィーク、今年はどこに行くの」
廊下の奥から、ぱたぱたとスリッパの音が近づいてきた。寧々が壁に寄りかかって腕を組む。
「伊豆。海沿いをぐるっと回って、修善寺あたりで温泉入って帰ってくるプラン。日帰りなら土曜が空いてるけど——誰か、誘いたい人でも?」
千雪は視線をドアノブに落としたまま、数秒黙った。
「……考えておく」
「はいはい。ちーちゃんの『考えておく』は前向き検討だって姉ちゃん知ってるからね」
ドアを開けて外に出た。五月の風は四月よりほんの少し甘く、日差しはほんの少し強い。鞄の中の日焼け止めを確認してから、通学路を歩き始めた。
教室に入ると、天野小夏が机に突っ伏していた。
寝ているのではなく、腕の中に顔を埋めたまま、何かをぶつぶつ呟いている。千雪が鞄を置く音で顔の半分だけ上げた。目の下に薄い隈があった。
「……おはよう。天野さん、顔色悪いけど」
「おはよ。いや、昨日ちょっと夜更かしして……」
「何してたの」
「——えっと」
天野小夏の目が泳いだ。瞬きが増えている。嘘をつく前兆だと千雪は知っている。
「……ドラマ見てた」
「ドラマ」
「うん。ちょっとハマってるやつがあって、続きが気になって止まらんくなって」
嘘だ。千雪にはわかる。でも追及はしない。それがルールだ——と思いつつ、今日は少しだけ気になった。
天野小夏が隠しているもの。「趣味」の正体。「偏っている」と自分で言った中身。それらは全て同じ一点に収束しているような気がする。でもその一点が何なのかは、天野小夏が自分で扉を開けない限り、千雪にはわからない。
「……ドラマ見るのはいいけど、体調は管理して」
「はーい。お母さんみたいなこと言うやん」
「お母さんじゃない」
「せやな。花守さんはどっちかっていうと——」
天野小夏がそこで口を噤んだ。言いかけた言葉を飲み込んで、代わりに机の上に突っ伏し直した。
「……どっちかっていうと、何」
「なんでもない。忘れて」
千雪は首を傾げたが、深追いはせずに文庫本を開いた。
昼休み。
いつものように二人で弁当を広げた。今日の千雪の弁当は、鶏の南蛮漬けと人参のラペ、ブロッコリーの塩昆布和え。天野小夏はいつものコンビニおにぎり——と思いきや、今日はサンドイッチだった。
「珍しいね。サンドイッチ」
「たまには変えてみよかなと思って。——あ、そういえば花守さん。前から聞きたかったんやけど、弁当のおかずって毎日違うやんか。献立ってどうやって決めてるん」
「冷蔵庫の中身を見て、栄養バランスと彩りを考えて、前日の夜に決める」
「前日の夜に? 朝じゃなくて?」
「朝は髪のセットに時間をかけたいから、料理は前日の仕込みで済むようにしてる」
天野小夏がサンドイッチを噛みながら、感心したように頷いた。
「すごいな。ちゃんと優先順位つけてるんや。髪が一番で、料理が二番?」
「……二番ではない。同率一位」
「同率一位が二つあるの、花守さんらしいわ。普通の人は一個に絞るのに」
「絞れない。どっちも好きだから」
「好きなもの全部大事にできるの、ほんまにすごいと思う」
天野小夏の声が少しだけ沈んだ。また例の翳りだ。「好きなもの」という言葉に反応している。
千雪は箸を置いた。
「——天野さん」
「ん?」
「ゴールデンウィーク、予定ある?」
唐突だった。自分でもそう思った。脈絡もなく切り出したのは、天野小夏の翳りを見るたびに膨らんでいく「何かしたい」という衝動を、これ以上飲み込めなくなったからかもしれない。
「え? ゴールデンウィーク? 特に予定はないけど——」
「姉が車を出してくれるんだけど。日帰りで伊豆に行く予定があって。——来る?」
天野小夏のサンドイッチを持つ手が止まった。
「伊豆。花守さんのお姉さんの車で。——うちも?」
「嫌なら無理にとは——」
「行く」
即答だった。
「行く行く行く。伊豆! 海沿い! めっちゃ行きたい! ちょっと待って、お姉さんに迷惑ちゃうん?」
「姉が自分から誘っていいかって聞いてきた」
「お姉さんから!? えっ、でもうち、お姉さんに会ったこともないのに——」
「だから会いたいって。一回でいいから、って」
天野小夏が口元に手を当てて、何かを考え込んでいた。数秒の沈黙のあと、おそるおそる聞いてきた。
「……花守さんのお姉さんって、厳しい人?」
「厳しくはない。変な人。ネットスラングをリアルで使うタイプ」
「そのお姉さんが、わざわざ『会いたい』って言ったんやんな」
千雪は頷いた。隠しても仕方がない。寧々の「会いたい」は純粋な好奇心ではなく、千雪の傍にいる人間を見定めたいという意図だ。天野小夏がそれに気づくかどうかはわからないが、嘘はつきたくなかった。
「……姉は、私に関わる人のことが気になるみたい。心配性だから」
「妹思いなんやな。——ちょっと緊張するけど、行きたい。花守さんのお姉さんにも会ってみたいし、花守さんとお出かけするの——」
語尾が尻すぼみになった。コンビニのレジ袋をかしゃかしゃと鳴らしながら、耳を赤くしている。
「花守さんとお出かけするの、初めてやし」
「出かけるのは姉の運転だから、私は何もしない」
「いやそういう問題ちゃうくて……まあええわ。楽しみにしてる」
天野小夏が笑った。隈の残る目が細くなって、それでもきらきらしていた。
千雪は弁当の蓋を閉めながら、ぽつりと付け足した。
「……私も、楽しみにしてる」
小さな声だった。天野小夏に聞こえたかどうかはわからない。でも、隣で息を呑む気配がしたから、たぶん——聞こえていた。
放課後、約束通り三つ編みの講習をした。
場所は前回と同じ調理実習室。千雪は前日の夜に作った手順書を広げて、まず自分の髪で見本を見せた。
「三つ編みは、束を三つに分けて交互に重ねていく。右の束を真ん中に、次に左の束を真ん中に。それを繰り返すだけ」
「言葉にすると簡単そうやな」
「実際に簡単。慣れれば」
千雪は白い髪を三つの束に分けて、手際よく編んでいった。指が自動的に動く。もう何百回と繰り返した動作だ。
「——手ぇ速すぎて見えへん」
「ゆっくりやる」
速度を落とした。一工程ずつ、指の動きを止めて見せる。右を中央へ。左を中央へ。交差する白い束が規則正しく組み上がっていく。
「おお……。右、左、右、左——これを下まで繰り返すんやな」
「そう。毛先まで行ったらゴムで留める。以上」
「よし、やってみる」
天野小夏が自分の髪を後ろで三つに分けた。が、すぐに問題が発生した。
「——あかん。三つに分けたつもりが四つになってる」
「量が均等じゃないからそうなる。最初に分ける時が一番大事。ここ——」
千雪は天野小夏の後ろに回った。前回と同じ位置。椅子に座った天野小夏の背中の前に立つ。
「触るよ」
「——うん」
予告制。前回の約束を守る。千雪は天野小夏の髪に手を入れて、三つの束に分け直した。指の腹で毛量を確かめながら、均等になるように調整する。
天野小夏の髪は、前回触れた時と同じ温かさだった。でも今日は、少しだけ違う匂いがした。——シャンプーを変えた? 柑橘系の、甘酸っぱい香り。
「はい、三つに分けた。左手で右の束と真ん中を持って、右手は左の束を」
「えっ、どの指でどれ持つん?」
「人差し指と中指で挟む。こう——」
また、指が触れた。
天野小夏の指に自分の指を添えて、束の持ち方を導く。前回よりも触れている時間が長い。前回よりも、心臓が近い。千雪は呼吸を意識的にゆっくりにした。平静を装うために。
「こう?」
「そう。そのまま右の束を真ん中に持っていって——」
「あ、わかった。こうやな」
天野小夏の手が動いた。ぎこちなく、でも確実に。右の束が中央を越えて、左の束と入れ替わる。
「上手い。次、左」
「左を真ん中に——こう?」
「もう少し引っ張って。緩いと崩れる」
「きつくしたらあかんの?」
「きつすぎると硬い印象になる。程よい力加減がある」
「程よいってどのくらい?」
「……束を引いた時に、軽く抵抗を感じるくらい。引っ張りすぎて痛くならない程度」
天野小夏が三回目の交差を終えたところで、手が止まった。
「——花守さん」
「うん」
「花守さんの声、教えてる時めっちゃ落ち着いてるな。なんか安心する」
千雪の指先が、かすかに震えた。
「……安心する?」
「うん。なんていうか、急かされへん感じ。花守さんはこっちのペースに合わせてくれるから。前の学校で——」
言いかけて、また口を閉じた。けれど今回は、飲み込んだ言葉をもう一度引っ張り出すように、ゆっくり続けた。
「前の学校で、グループ課題の時にうちがもたもたしてたら、『遅い』って怒られたことがあって。それから——人に教わるの、ちょっとだけ怖かったんよ」
千雪は何も言わずに、天野小夏の手が再び動くのを待った。
「でも花守さんは怒らへんし、こっちが失敗しても『最初はそんなもの』って言うし。——ありがたいなって」
「怒る理由がない。初めてのことが上手くいかないのは当然だから」
「それを当然って思えるのがすごいんよ」
「すごくない。自分がそうだったから、わかるだけ」
——自分がそうだった。
鏡の前で、何十回も三つ編みを失敗した日々。左右の太さが揃わなくて、途中で崩れて、最初からやり直して。何度も何度も。それでも続けたのは、完成した時の自分が好きだったから。
「天野さんも、何回かやれば必ずできるようになる。——はい、続けて」
「うん」
天野小夏が三つ編みを再開した。四回目、五回目、六回目の交差。少しずつリズムが生まれてくる。
「——できた。たぶん」
千雪が後ろから確認した。編み目は均一ではないが、三つ編みの形にはなっている。前回のくるりんぱよりも上達が早い。
「……悪くない」
「ほんま? やった!」
天野小夏が振り返った。近い。椅子に座った天野小夏と、その後ろに立つ千雪。振り返った拍子に、天野小夏の顔が千雪のすぐ下にあった。見上げる琥珀色の瞳。見下ろす桜色の瞳。
距離にして、二十センチもなかった。
千雪の心臓が跳ねた。全身の血が一瞬で耳に集まった気がした。白い肌の上に赤が浮かぶのを、自分でわかる。自覚できるほどはっきりと、顔が熱い。
天野小夏も固まっていた。見上げたまま、瞬きすら忘れたように。
二秒。三秒。
「——ご、ごめん」
先に動いたのは天野小夏だった。勢いよく前を向いて、両手で自分の頬を押さえた。耳どころか首まで赤い。
「近かった。近かったな。ごめん。いきなり振り返ってもうて」
「……いい。驚いただけ」
嘘だった。驚いただけではなかった。あの至近距離で天野小夏の目を見た瞬間、名前のつけられない感情が胸の中で大きく弾けた。それは驚きよりもずっと深い場所から来ていた。
千雪は天野小夏の後ろから離れて、窓際に移動した。距離を取る。呼吸を整える。窓の外を見るふりをして、自分の鼓動が落ち着くのを待った。
「——花守さん」
「……なに」
「顔、赤いで」
「——見ないで」
「あ、ごめん」
天野小夏が素直に視線を逸らした。教室の隅の掃除用具入れのほうをじっと見つめている。千雪はその横顔を窓ガラスの反射越しにちらりと確認した。天野小夏も赤いままだった。
沈黙が落ちた。空調の微かな音だけが部屋を埋めている。
千雪は深呼吸を一つして、声を出した。
「……もう一回、練習する?」
「——うん。する」
天野小夏が三つ編みをほどいて、最初からやり直した。今度は千雪が横から口頭で指示するだけにした。後ろには立たない。距離を保つ。
二回目の三つ編みは、一回目よりずっと綺麗にできた。
「……上手くなってる」
「ほんま? 花守さん先生のおかげやわ」
「先生はやめてって言った」
「あ、ごめん。じゃあ——花守さん」
名前だけを呼ばれた。それだけなのに、心臓がまたひとつ跳ねた。
——まずい。
千雪は自分の中の変化に気づいていた。名前を呼ばれるだけで心拍が上がる。視線が合うだけで耳が赤くなる。近づくだけで呼吸が乱れる。
これらの症状は、千雪の知識の中にある。本で読んだことがある。ネットの友人が話していたこともある。寧々が冗談めかして言ったこともある。
でも——自分に起きるとは思っていなかった。
帰り道、駅のホームで並んで電車を待った。
夕暮れの空は雲ひとつなく、橙色のグラデーションが東の藍色に溶けていた。天野小夏がスマートフォンで空の写真を撮っている。
「伊豆の話やけど」
「うん」
「うち、何か持っていくもんある? お菓子とか飲み物とか」
「特にない。姉が全部用意すると思う」
「車酔いの薬は?」
「……酔うの?」
「うちは大丈夫やけど、花守さんは?」
「酔わない」
「よかった。——えっと、服装は?」
「普段着でいい。歩きやすい靴で」
「帽子は?」
千雪は少し目を瞬かせた。
「……なんで帽子」
「いや、海沿い行くなら日差し強いやんか。花守さん——その、肌弱いっていうか……日焼けしやすそうやなって」
言い方を慎重に選んでいるのがわかった。千雪の体質に踏み込みすぎないように、でも配慮はしたいという微妙な綱渡り。
千雪は数秒黙ってから、小さく頷いた。
「……帽子は持っていく。サングラスも」
「うん。よかった」
天野小夏がほっとした顔をした。それを見て、千雪の胸の中で何かが緩んだ。寧々以外の人間が自分の体のことを気にかけてくれることに、まだ慣れていない。慣れていないけれど——嫌ではなかった。寧々の時とは違う種類の温かさがあった。
「天野さん」
「ん?」
「……ありがとう」
「え、なにが?」
「帽子のこと。気にしてくれて」
天野小夏がぱちぱちと瞬きをして、それから照れたように頭を掻いた。
「そんなん当たり前やん。友達——」
言葉が途切れた。天野小夏が口を半開きにしたまま、ゆっくりと千雪を見た。
「——あ。うち今、友達って言おうとした。勝手にそう思ってたけど——花守さん的には、うちのこと友達やと思ってくれてる……?」
千雪は電車の線路を見つめた。夕日がレールの上に長い影を作っている。
友達。
その言葉を、自分の中で転がしてみた。天野小夏は友達だろうか。一緒にご飯を食べて、放課後に髪を触って、LINEでやり取りをして、ゴールデンウィークに一緒に出かける約束をした相手。それは——友達、で合っているのだろうか。
合っている。合っているはずだ。
でも、その枠に収めた瞬間、何かが窮屈になる。小さすぎる箱に大きなものを詰め込むような、そんな違和感。
「——友達だと、思ってる」
千雪は慎重に言った。嘘ではない。友達だと思っている。ただ、それだけで全部を説明できるかと聞かれたら——わからない。
天野小夏の顔がぱあっと明るくなった。
「よかった。——ほんまによかった。うち、転校してきてから友達ってはっきり言えるの、花守さんが初めてで」
「……一ヶ月近くいて、他にいないの?」
「話す子はおるよ。でも——友達って呼べるかどうかって、別やんか。うち、そこの線引きがたぶん普通より慎重で」
転校が多いと言っていた。四回目だと。その度に人間関係をリセットして、新しい場所で一から始めて。できかけた繋がりを置いていくことを繰り返してきたなら——「友達」という言葉を軽く使えなくなるのは、当然のことかもしれない。
「花守さんは——うちが転校しても、友達でいてくれる?」
電車が近づく音が聞こえてきた。風がホームの上を吹き抜けて、千雪の白い髪とサイドテールの毛先を攫った。
「……転校するの?」
「今すぐとかちゃうよ。でも——いつかはわからへんやん。親の仕事次第やし」
天野小夏の声は平坦だった。感情を抜いた声。何度も同じことを経験してきた人間の、諦めに似た平坦さ。
「うち、前の学校でも——仲良くなった子はおったんよ。でも転校する時に連絡先交換しても、最初の一ヶ月くらいでやり取りがなくなって。それが何回か続くと——最初から深くならんほうがええんかなって」
電車がホームに滑り込んできた。ドアが開く。
千雪は乗り込まなかった。天野小夏も動かなかった。二人ともホームの端に立ったまま、開いたドアを見つめていた。
ドアが閉まった。電車が去っていく。
「……花守さん? 乗らんでよかったん?」
「次のでいい」
千雪は天野小夏に向き直った。正面から見ると、天野小夏の目は少しだけ潤んでいた。泣いているのではない。泣く手前で堪えている目だ。
「天野さん」
「ん」
「私は——転校とか、距離とか、そういうの関係なく、自分が友達だと思った人を忘れたりしない」
自分の言葉が、思っていたより強い響きを持っていることに、言ってから気づいた。けれど取り消す気はなかった。
「私のネットの友人は、顔も本名も知らない。でも二年以上ずっと繋がってる。大事なのは物理的な距離じゃなくて——」
言葉を探した。千雪は気持ちを言語化するのが得意ではない。料理の名前なら一瞬で浮かぶのに、自分の感情を正確に描写する語彙が足りない。
「——繋がっていたいと思うかどうか、だと思う」
天野小夏が息を呑んだ。
「花守さんは——うちと繋がっていたいって、思ってくれてるん?」
「…………」
千雪は視線をホームの時刻表に逃がした。次の電車まであと六分。六分間の猶予。
「……思ってなかったら、ゴールデンウィークに誘ったりしない」
精一杯だった。これ以上は、今の千雪には言えない。
天野小夏が両手で自分の顔を覆った。
「——あかん。花守さんがそういうこと言うから——」
くぐもった声。指の隙間から見える肌が赤い。
「天野さん?」
「大丈夫。大丈夫やから。ちょっと待って。心の整理がつかへん」
千雪は黙って待った。五月の夕風がホームを渡って、二人の間を通り抜けていった。
やがて天野小夏が顔を上げた。目元が少し赤かったが、泣いてはいなかった。代わりに——今日一番の笑顔を浮かべていた。不思議な笑顔だった。嬉しいのと、泣きそうなのと、何かを決意したような強さが、全部混ざり合った笑顔。
「——花守さん」
「うん」
「うちな、花守さんにいつか——ちゃんと話したいことがある」
「……話したいこと」
「今はまだ——言えへん。でも、いつか。花守さんになら、言える気がする」
天野小夏の声に、震えはもうなかった。穏やかで、でも確かな決意が滲んでいた。
千雪は小さく頷いた。
「待ってる。天野さんのペースで」
予告制だ。天野小夏が準備できた時に、自分で扉を開ける。千雪はそれを待つ。それが、二人の間にできたルールだ。
次の電車が来た。今度は二人とも乗り込んだ。つり革を掴んで、並んで揺れる。さっきまでの重い空気が嘘のように、車内の日常的な騒音が二人を包んだ。
「——あ、そうや花守さん」
「うん」
「伊豆行ったら海鮮丼食べたい。花守さんは?」
「……わさびが多いのは苦手」
「了解。わさび抜きで頼も。あと干物! 干物のお土産屋さんとか寄りたい」
「姉に言っておく。たぶん行程に組み込んでくれる」
「花守さんのお姉さん、行程まで組んでくれるん?」
「趣味だから。スプレッドシートで管理してる」
「スプレッドシートで旅程管理する大学生……。花守さんのお姉さん、やっぱ会うの楽しみやわ」
天野小夏が笑った。朝の隈はまだ消えていなかったが、目の光は朝とは比べものにならないくらい明るかった。
千雪はつり革を握る手に少しだけ力を込めた。
——話したいことがある。
天野小夏が抱えている「何か」。それが何なのか、千雪にはまだわからない。でも——知りたいと思った。初めて、他人の扉をこちら側から知りたいと思った。
それは千雪にとって、とても大きな変化だった。
天野小夏の駅で、ドアが開いた。
「じゃあまたね、花守さん。——ゴールデンウィーク、めっちゃ楽しみにしてる」
「うん。——おやすみ」
「おやすみ」
電車が動き出す。ホームに立つ天野小夏の姿が、加速とともに後ろへ流れていく。最後まで手を振っていた小さなシルエットが、カーブの向こうに消えた。
千雪はつり革から手を離して、ドア際の壁にもたれた。窓に白い髪の自分が映っている。耳が赤い。知っている。ずっと赤かった。
——繋がっていたいと思うかどうか。
自分で言った言葉が、自分に返ってくる。
思っている。繋がっていたいと。この人と。
それが友情なのか、それとも——。
千雪はポケットからスマートフォンを取り出した。ネットの友人たちのグループチャットを開いて、メッセージを打つ。
『質問なんだけど』
すぐに返事が来た。
『なになに?』
『珍しいね、ちーちゃんから質問って』
千雪は画面を見つめて、言葉を選んだ。何度も打っては消して。最終的に送信したのは、簡潔な一文だった。
『友達と、それ以上の違いって何』
数秒の間。
『……ちーちゃん、それってもしかして』
『例の転校生?』
千雪は返信しなかった。スマートフォンをポケットに戻して、窓の外を見た。暗くなり始めた空の端に、一番星が光っている。
金曜日の夜。ゴールデンウィークまであと一週間。
千雪は目を閉じた。瞼の裏に、至近距離で見上げてきた琥珀色の目が浮かんだ。あの瞬間、胸の中で弾けたものの名前を、まだ千雪は知らない。
知らないふりを、しているだけかもしれない。




