第三話「雨の名前」
四月の三週目に入ると、天野小夏と昼食を共にすることが日課になっていた。
千雪が決めたわけではない。天野小夏が毎日「一緒に食べてええ?」と聞いてきて、千雪が毎日「……いいけど」と返す。その繰り返しがいつしか確認の工程を省略し、昼休みのチャイムが鳴ると、天野小夏が当然のように椅子を引きずってくるようになった。
今日も同じだった。千雪が弁当箱の蓋を開けると、隣にコンビニの袋を持った天野小夏が座る。
「今日のお弁当なに?」
「鮭の西京焼き、蓮根のきんぴら、小松菜のおひたし」
「渋いな! でもめっちゃおいしそう。……花守さんのお弁当見てると、うちのコンビニおにぎりが泣いとるわ」
「別に泣いてない。おにぎりに感情はない」
「たとえやって」
天野小夏がおにぎりのフィルムを剥きながら、ちらりと千雪の頭を見た。今日の千雪の髪は、左側で一つに束ねたサイドテールだった。結び目の下から白い束がゆるやかに曲線を描いて、肩の前に垂れている。
「今日はサイドテールかあ。花守さん、ほんまに毎日ちゃうな。一週間以上見てきたけど、一回も同じのなくない?」
「同じにしてもいいけど、勿体ないから」
「勿体ない?」
「せっかくの髪だから、色んな見せ方をしたい」
天野小夏が数秒黙って、それからふっと笑った。
「……ほんまに好きなんやな、自分の髪のこと」
「うん」
千雪は迷いなく頷いた。この問いに対しては、いつだって即答できる。
「ストレートに好きって言えるの、やっぱすごいわ。うちは自分のこと——」
言いかけて、天野小夏が口を閉じた。おにぎりを一口齧って、咀嚼に紛れるように黙った。
「……自分のこと、何」
「いや、なんでもない。うちの話はええねん」
笑顔だった。でも、その笑顔の下にあるものが透けて見えた気がした。千雪は視線の温度を読むのが得意だ。他人の目の奥に潜む感情を、長い年月をかけて見分けてきた。
今の天野小夏の目には——蓋をした、何かがあった。
追及はしなかった。千雪のルールだ。他人の扉は他人のもので、こちらから開けにいくものではない。
「花守さんの髪ってさ、触ったらどんな感じなん?」
唐突に話題が変わった。天野小夏はそういうところがある。自分の話から逸れたい時に質問を被せてくる。千雪はその癖にもう気づいていたが、指摘はしなかった。
「……普通の髪だけど」
「いやいや、普通ちゃうやろ。めちゃくちゃサラサラやん、見た感じ。光に透けてキラキラしとるし——」
天野小夏の手が、無意識に千雪の髪のほうへ伸びかけた。
千雪の肩が、反射的にわずかに引いた。
天野小夏の手が止まった。
「——ごめん」
「……ううん」
「触ってもええかとか聞いてないのに手が出てもうた。ほんまごめん」
「いい。ただ——」
千雪は自分のサイドテールの毛先を指で掬って、軽く撫でた。
「少し、驚いただけ」
嘘だった。驚いただけではなかった。他人が自分の体に触れることへの咄嗟の警戒。小さい頃から知らない大人に頭を撫でられたり、珍しがって髪を引っ張られたりしたことが、体の記憶として残っている。
天野小夏はしゅんとした顔で手を膝の上に戻した。
「うち、距離感バグってるって前の学校でも言われたことあって……。なれなれしかったら言ってな。ちゃんと離れるから」
その「ちゃんと離れる」の声が、やけに慣れた響きだった。まるで何度も言ってきたかのような。何度も離れてきたかのような。
千雪は数秒迷ってから、小さく首を振った。
「……離れなくていい」
「え?」
「なれなれしいとは思ってない。ただ、急に来るとびっくりするだけ。——予告してくれたら、大丈夫」
天野小夏がぱちぱちと目を瞬かせた。
「予告」
「触りたい時は先に言って。心の準備をするから」
自分で言っておきながら、妙に恥ずかしい台詞だと思った。「心の準備」という言葉が大袈裟だ。でも他に適切な表現が見つからなかった。
天野小夏の耳がじわりと赤くなっていくのを、千雪は見た。
「……わ、わかった。予告制ね。了解。予告する。次からちゃんと予告する」
「……そんなに繰り返さなくていい」
「いや、大事なことやから何回でも言う」
大事なこと。千雪は視線を弁当に落として、鮭の切り身を箸で割った。薄紅色の身がほろりとほどける。
——大事なこと、か。
自分が提示した条件を「大事」と受け取ってくれる人は、あまり記憶にない。「気にしすぎ」「考えすぎ」で流されることのほうが多かった。寧々だけは別だったけれど、寧々は姉だから当然だと思っていた。
他人が——姉でも、ネットの友人でもない、教室にいる生身の他人が、千雪の「ここまではいい、ここからは待って」を、一言で受け入れた。
それが、こんなに安心するものだとは知らなかった。
五限目の後、教室の窓が急に暗くなった。
四月の天気は変わりやすい。朝は快晴だったのに、西の空から重たい雲が押し寄せてきて、六限目が始まる頃にはぱらぱらと雨粒が窓を叩き始めた。
千雪は窓の外を見た。雨の日は嫌いではない。紫外線が弱まるから肌が楽だし、光が柔らかくなるから目も楽だ。世界が少しだけ優しくなる日。
ただ、今日は折り畳み傘を持ってきていなかった。朝の天気予報を確認し忘れた自分が悪い。
六限目が終わる頃には、雨は本格的な降りになっていた。窓の外は灰色一色で、校庭の桜が風に煽られて花びらを散らしている。今日は料理研究部の活動日ではないので、このまま帰る予定なのだが——。
「傘、持ってへんの?」
天野小夏が鞄を肩にかけながら聞いてきた。千雪は黙って頷いた。
「うちは持ってきてるけど——って言おうとしたけど、折り畳みやから二人で入るのは厳しいな。でも駅までそんな遠くないし、ぎゅっとすれば——」
「ぎゅっとしなくていい」
「やんな。ごめん」
天野小夏が頬を掻いた。
「……コンビニで買えばいいだけだから。大丈夫」
「あ、そっか。じゃあ途中まで一緒に行こ。うち、花守さんと同じ路線やし」
同じ路線だったのか。千雪は少し意外に思ったが、考えてみれば通学圏が被っていても不思議ではない。
昇降口で靴を履き替えて外に出ると、雨の匂いが鼻を掠めた。アスファルトと土と、かすかに花の匂い。四月の雨は冷たいけれど、冬のそれとは質が違う。空気に湿度が混ざって、世界の輪郭が少しだけ滲んでいる。
天野小夏が折り畳み傘を開いた。紺色の、シンプルな傘だった。千雪は自分の鞄を頭の上に掲げて——
「ちょ、鞄で雨防ぐのはあかんて。教科書濡れるやん」
「……コンビニまでだから」
「何分かかるん」
「五分くらい」
「五分の雨でも髪濡れるで。花守さん、せっかく綺麗にしてるんやから」
天野小夏が、自分の傘を千雪のほうに差し出した。傘の中心が完全に千雪側に寄っている。
「……天野さんが濡れる」
「ええねん。うちは濡れても乾くし」
「それは誰でもそう」
「じゃあ問題ないやん」
理屈が破綻しているのに、妙に堂々としていた。千雪は数秒の攻防の末、半歩だけ傘の内側に入った。完全に入ったわけではないので、右肩はまだ雨に晒されているが、髪は守られている。
並んで歩き始めた。傘の下は狭くて、肩と肩が時折触れそうになる。千雪は無意識に半歩分の距離を保ちながら、濡れた路面を見ていた。
「——雨の日って、なんか落ち着くよな」
天野小夏がぽつりと言った。
「世界が静かになるっていうか。普段の音が全部雨に持っていかれて、自分の声だけが近くなるみたいな」
千雪は少し驚いて横を見た。いつもの弾けるような調子ではなく、穏やかな声だった。雨粒が傘を叩くリズムに合わせるように、言葉がゆっくりと落ちてくる。
「……わかる」
と、千雪は言った。
「私も、雨の日は少し楽」
「楽?」
「——光が優しいから」
言ってから、しまったと思った。「光が優しい」というのは、自分の体質に直結する表現だった。普通の人は光の強弱で日常の快適さが変わったりしない。
でも天野小夏は「光が優しい、か」と反芻しただけで、理由を聞き返さなかった。代わりに空を見上げて、灰色の雲をしばらく眺めてから言った。
「ええ言い方やな。花守さんの言葉って、たまにすごく綺麗やと思う」
「……別に、普通のことを言っただけ」
「普通のことを綺麗に言えるのがすごいんやって」
千雪は返事に困って黙った。沈黙を雨音が埋めてくれるのがありがたかった。
コンビニが見えてきた。千雪は「ここで傘を買うから」と言って、傘の下から出ようとした。
「あ、花守さん」
「なに」
「あの——LINE、交換せえへん?」
天野小夏がスマートフォンを片手に、もう片方の手で傘の柄を握っていた。雨に半身を晒しているせいで、左肩がすっかり濡れている。それなのに気にする素振りもなく、少し緊張した顔でこちらを見ていた。
千雪は瞬きを一つした。
LINEの交換。クラスメイトとのそれは経験がないわけではないが、自分から求めたことはなかった。大抵はグループチャットに入れられて、そのまま個別のやりとりに発展しないまま終わる。
「……いいけど」
スマートフォンを取り出してQRコードを表示すると、天野小夏が画面を読み取った。ぽん、と通知音が鳴る。
「やった。——あっ、花守さんのアイコン、お菓子の写真?」
「……マフィン」
「自分で作ったやつ?」
「うん」
「すっご。プロフ画像からしてもう料理人やん」
天野小夏のアイコンをちらりと確認した。夕焼けの空の写真だった。どこかの旅先で撮ったのだろうか、オレンジと紫のグラデーションが鮮やかだった。
「天野さんのアイコン、綺麗な空」
「ああ、これ。前に広島行った時に撮ってん。尾道の展望台から見た夕焼け」
「尾道」
「ええとこやで。坂が多くて、海が見えて、猫がおって。——花守さん、旅行とか好き?」
「……姉に連れ回される」
言い方が不穏になったことに気づいて、千雪は小さく付け足した。
「嫌いじゃないけど」
「お姉さん旅行好きなんや。ええなあ、姉妹で旅行って」
天野小夏が少し羨ましそうに笑った。それから「じゃあまた明日な」と手を振って、雨の中を歩いていった。紺色の傘が小さくなっていく。左肩がびしょ濡れのまま。
千雪はコンビニの軒先に立って、それを見送った。
——傘を返し忘れた。いや、返す傘はない。自分は傘の下に少しだけ入れてもらっただけだ。なのに、なぜか何かを返さなければいけないような気持ちになっている。
透明のビニール傘を買って外に出た。雨の勢いは変わらない。傘を差して歩き出すと、さっきまで天野小夏の傘の下にいた右肩が急に寂しくなった。
——寂しい?
千雪は立ち止まって、自分の感覚を検分した。寂しい。寂しいだろうか。一人で歩くのはいつものことだ。今日だけ特別に何かが欠けたわけではない。
でも、さっきまであった温度が消えると、その分だけ空白が目立つ。
これは——知らなかった種類の感覚だ。
千雪は小さく息を吐いて、足を速めた。駅はもうすぐだ。
帰宅すると、寧々がリビングのソファで毛布にくるまっていた。ノートパソコンは膝の上、画面にはアバターが走り回るゲーム画面。ヘッドセットをつけて、誰かとボイスチャットをしているらしい。
「——いやだからそこのバフは先にヒーラーに乗せろって言ってんだろ。タンクに乗せてどうすんの。火力が——あ、ちーちゃんおかえり。ちょっと待ってタイムタイム」
ヘッドセットを片耳だけずらして、寧々が振り返った。千雪の姿を上から下まで確認する。右肩が少し濡れているのを見て、眉が動いた。
「傘は」
「朝持っていかなかった。途中で買った」
「ちーちゃんさあ、天気予報チェック用のアプリ入れてあげたでしょ。通知来なかった?」
「……通知切ってた」
「なんで切るのそれ! 姉ちゃんが厳選した神アプリを!」
「通知が多すぎて」
「多いのは愛ゆえなんだが?」
千雪は制服の肩を手で払いながら、「着替えてくる」とだけ言って自室に向かった。
部屋着に着替えて、濡れた髪をタオルで丁寧に押さえる。サイドテールを解くと、白い髪がふわりと肩に散った。毛先を確認する——雨で少しうねりが出ている。ドライヤーで軽く乾かして、ヘアオイルを毛先に馴染ませる。白い糸がさらりと指の間を通り抜ける感触に、肩の力が抜けた。
スマートフォンが震えた。
LINEの通知。表示された名前は「天野小夏」。
『今日はありがとう! 一緒に帰れて楽しかった(^^) 肩濡れてなかった?大丈夫?』
千雪は画面を見つめた。
自分から送ってきたのか。しかも早い。別れてからまだ三十分も経っていない。
返信を打つ。
『大丈夫。天野さんのほうが濡れてた』
送信してすぐに既読がつく。
『ちょっと濡れたけどもう乾いたで! さっきドライヤーかけた笑』
『そう。よかった』
ここで会話が終わるかと思った。用件は済んだ。互いの無事を確認して、終了。千雪のLINEはいつもそういう使い方だ。
だが、天野小夏からメッセージが続いた。
『そういえば花守さん、明日の髪型もう決めた?』
千雪は少し考えた。まだ決めていなかった。いつも朝、鏡の前で決める。
『まだ決めてない。朝決める』
『ライブ感や! ますます楽しみ笑』
また「楽しみ」と言っている。千雪は画面の中のその二文字を、何秒か見つめた。
『天野さんは毎日同じ髪型だよね』
送ってから、これは余計な一言だったかもしれないと思った。同じ髪型で悪いのかと受け取られたら——
『そうやねん! うちは不器用やから何もできへんのよ……。花守さんが羨ましいわ』
不器用。あの手際よく教室の空気を回す人が、自分を不器用だと言うのか。千雪は少し意外に思った。
『簡単なアレンジなら教えられるけど』
打ってから、送信ボタンを押す指が一瞬止まった。これは踏み込みすぎだろうか。自分から提案するなんて、らしくない。
でも——昼休みに「離れなくていい」と言った時と同じ感覚が、指先にあった。言わないほうが居心地が悪い、という感覚。
送信した。
既読がついてから返信が来るまで、十秒ほど間があった。天野小夏にしては長い。
『えっ まじで!? 教えてくれるん!? めちゃくちゃ嬉しい!!!』
感嘆符が多い。千雪は少しだけ口元が緩むのを感じた。
『簡単なのだけ。くるりんぱとか、三つ編みアレンジとか』
『くるりんぱ! 名前は聞いたことある! やったことはない!』
『やったことないのに名前は知ってるんだ』
『……動画で見たことあるから……』
動画。料理動画とか、ヘアアレンジ動画ということだろう。千雪もたまに参考にすることがある。
『じゃあ、いつか』
『いつかって言われたら明日って答えるで!?』
『……明後日にして。準備するから』
『準備ってなに!? 気になる!!』
『秘密』
そう打って、スマートフォンを伏せた。
準備というのは、教えやすいように手順をまとめるということだ。自分が感覚でやっていることを他人に伝えるには、言語化が必要になる。それには少し時間がかかる。
——別に、深い意味はない。
クラスメイトにヘアアレンジを教える。それだけのこと。
なのに心臓が少しだけ速い気がするのは、きっと、さっきまでの雨の冷たさが体に残っているからだ。
そういうことにしておいた。
リビングに戻ると、寧々がゲームを終えてキッチンのテーブルに移動していた。ノートパソコンの画面にはブラウザが開いていて、何かを検索しているらしい。
「ちーちゃん、今日のご飯何にする?」
「……まだ考えてない。冷蔵庫に何がある?」
「えーと、豚バラと豆腐と長ネギと——あと卵」
「じゃあ肉豆腐にする」
「わーい。ちーちゃんの肉豆腐は至高。SSR級のうまさ」
「……ランク付けしないで」
千雪はエプロンをつけて冷蔵庫を開けた。豚バラを取り出し、まな板の上で食べやすい大きさに切る。豆腐は手のひらの上でさいの目に。長ネギは斜め薄切り。包丁のリズムが心地よい。
鍋に出汁を取りながら、千雪はちらりと寧々の画面を盗み見た——見るつもりはなかったのだが、視界に入ってしまったものは仕方がない。
画面には、SNSのプロフィールページが表示されていた。名前は読み取れなかったが、ヘッダー画像に見覚えのある夕焼けの写真が——。
「……寧々姉。何見てるの」
「ん? ああ、ちーちゃんの同級生の子のSNS」
悪びれもせずに言った。千雪の手が止まった。
「……なんで」
「いや、天野小夏ちゃんでしょ。ちーちゃんが最近毎日話題にする子」
「毎日は話題にしてない」
「してるよ。姉ちゃんのログによると、この二週間で十七回名前が出てる」
「計測しないで」
「愛なんだが?」
千雪は鍋に向き直った。出汁が沸いてきたので、醤油と酒とみりんを加える。甘辛い香りが立ち上がった。
「……で、何を調べてるの」
「べつに大したことじゃないよ。公開情報を確認してるだけ。ちーちゃんと仲良くしてくれてる子がどんな子か知りたいのは、姉として当然の権利だし」
寧々の声は軽い。でも、その軽さの下に硬いものが潜んでいることを千雪は知っている。
「天野さんは普通の人だよ」
「普通の人なら安心するんだけどね。——ちーちゃん、その子のSNS見た?」
「見てない。今日LINE交換したばかり」
「ふーん。LINE交換したんだ」
寧々がノートパソコンを閉じた。椅子の上で体の向きを変えて、千雪の背中をじっと見つめる。その視線の重みを、千雪は背中で感じた。
「ちーちゃん」
「……なに」
「姉ちゃんは別にその子のこと嫌いなわけじゃないからね。ただ——」
「心配してるのは、わかってる」
千雪は鍋に豚バラを入れながら、静かに言った。
「でも、自分で選ばせて」
沈黙が落ちた。肉豆腐の煮える音だけがリビングに響く。
やがて、寧々が長い息を吐いた。
「——りょーかい。ちーちゃんがそう言うなら、姉ちゃんは一歩引くよ。ただし」
「ただし?」
「今度その子に会わせて。一回でいいから」
千雪は鍋の中の豆腐をお玉でそっと押さえた。崩れないように。
「……考えておく」
「おっけー。それで十分。——あ、ちーちゃん。肉豆腐に名前つけた?」
「……つけてない」
「つけなよ。いつもの千雪ネーミングで」
千雪はしばらく鍋を見つめた。出汁の中で豚バラと豆腐が静かに揺れている。湯気が白く立ち上る。
「…………『甘雨の炊き合わせ』」
「甘雨?」
「今日、雨だったから」
寧々が少し目を丸くして、それからにっと笑った。
「ちーちゃん、今日の雨に名前つけたんだ。——いいね、それ。すごくいい」
いつもなら「草」とか「ネーミングのクセ強」と笑うのに。今日は素直に「いい」と言った。千雪は不思議に思ったが、聞き返さなかった。
夕食を二人分よそって、テーブルに運ぶ。向かい合って「いただきます」を言い、箸をつける。
肉豆腐は、悪くない出来だった。出汁の加減、肉の柔らかさ、豆腐の崩れ具合。合格ライン。でもまだ改善の余地はある。長ネギの投入タイミングをもう少し遅らせたほうが、シャキッとした食感が残るかもしれない。
「ちーちゃん」
「ん」
「その子——天野さんに、ちーちゃんから話しかけたことある?」
箸が止まった。
考えてみた。弁当を食べる時、放課後に声をかける時、さっきのLINEでのやりとり。どれも——天野小夏が先に来て、千雪が応じる形だった。でも、料理研究部の見学を提案したのは自分だ。LINEでヘアアレンジを教えると言い出したのも自分だ。
「……少しだけ、ある」
「ちーちゃんから?」
「……うん」
寧々が箸を置いた。じっと千雪の顔を見て、それから——ふっと、柔らかく笑った。
「そっか」
それだけだった。それ以上は何も言わず、寧々は肉豆腐の最後の一切れを口に入れた。
食器を洗って、風呂に入って、髪を乾かして。眠る前のヘアケアを済ませてベッドに入ると、スマートフォンの通知が光った。
天野小夏からのLINE。
『おやすみ! 明日も花守さんの髪型楽しみにしてる(^^)』
千雪は布団の中で画面を見つめた。
返信を打つ。消す。また打つ。消す。三度目に打った文面を、今度はそのまま送信した。
『おやすみ。天野さんも、明後日のアレンジ楽しみにしてて』
既読がついた。返信は来なかった。来なかったが——既読がつくまでの時間が一秒だったことを、千雪は何故かはっきりと覚えていた。
スマートフォンを枕元に置いて、目を閉じた。
暗闇の中で、今日の雨の音を思い出す。傘を叩く音。隣にいた体温。濡れた左肩を気にもしなかった横顔。
——甘雨。
今日の雨につけた名前を、もう一度心の中で転がした。
甘い雨。冷たいはずなのに、どこか温かかった雨。
その温かさに名前をつけたのは——自分でも気づかないうちに、あの傘の下の時間を残しておきたかったからなのかもしれない。
千雪はそこまで考えて、思考を打ち切った。これ以上考えると、分類できない場所に足を踏み入れてしまう。
明日の髪型を考えよう。
天野小夏が「楽しみ」だと言った、明日の髪型を。
——少しだけ、気合を入れてもいいだろうか。
白い髪が枕の上に広がる。暗い部屋の中でも、白は白のままだった。
雨音がいつの間にか止んでいた。明日は晴れるだろう。空気の匂いが、そう言っている。
千雪は小さく寝返りを打って、目を閉じたまま呟いた。
「……フィッシュボーン、やったことないな」
独り言だった。天野小夏みたいだなと思って、少しだけ、笑った。




