第二話「距離と独り言」
翌朝、千雪は髪を低めのポニーテールにした。
結び目の位置を耳の高さより拳ひとつ分下げて、後れ毛を左右対称に残す。リボンではなくシンプルなヘアゴムを選んだのは、今日の制服のリボンがえんじ色だからだ。装飾が重なると白い髪の印象がぼやける。引き算の日があってもいい。
鏡の中で、白い尾がさらりと揺れた。うなじが涼しい。
「本日のちーちゃん、ポニテ。戦闘力高め。姉ちゃん的には激推し案件」
「……朝からうるさい」
トーストを齧りながら寧々が親指を立てているのを視界の端で確認して、千雪は玄関に向かった。靴を履いて、鞄の中身を最終確認する。日焼け止め、帽子、サングラスケース、水筒、ハンカチ。
「いってきます」
「いってらー。あ、ちーちゃん。今日の紫外線指数——」
ドアを閉めた。
教室に入ると、天野小夏はもう席にいた。
昨日より早い。窓から差し込む朝の光の中で、茶色い髪が柔らかく揺れている。頬杖をつきながら何かぶつぶつ呟いていて、千雪が自分の席に鞄を置く音で顔を上げた。
「——あ」
その一音に含まれた感情の量が、やけに多かった。
「おはよう、花守さん」
「……おはよう」
昨日と同じだ。天野小夏はまっすぐにこちらを見ている。その目が千雪の髪に移動して、数秒とどまって、また顔に戻る。
「今日ポニーテールなんや」
「……うん」
「昨日と全然ちゃうやん。めっちゃええな、うなじのとことか——」
そこまで言いかけて、天野小夏が自分の口を片手で押さえた。耳が赤い。
「——いや、うなじって。なに言うてんねん自分」
最後の一文は明らかに独り言だった。自分に突っ込みを入れるように小声で呟いて、ぱたぱたと手で自分の頬を叩いている。
千雪は首を僅かに傾げた。
——変な人だ。
「……毎日変えてるから」
「え?」
「髪型。毎日違うのにしてる」
天野小夏の目が見開かれた。
「毎日? マジで? それってめちゃくちゃ大変ちゃうん」
「大変じゃない。好きでやってるから」
「すっご……。じゃあ明日はまた違うん?」
「たぶん」
「え、なにそれ。めっちゃ楽しみなんやけど」
楽しみ。明日の自分の髪型を楽しみにする他人という存在を、千雪は今まで想定したことがなかった。寧々は毎朝褒めてくれるけれど、あれは姉としての惰性——いや、愛情の一環であって、純粋な「楽しみ」とは少し違う。
「……別に、見ても面白くないと思うけど」
「いや絶対面白い。っていうか面白いとかそういうんちゃうくて——綺麗なものが毎日違う形で見られるって、めっちゃ贅沢やん」
さらりと言ってのけた。天野小夏自身は何気ない一言のつもりだったのかもしれないが、千雪の耳にはやけに鮮明に残った。
——綺麗なものが毎日違う形で見られる。
その表現は、千雪が鏡の前で毎朝感じている感覚にとても近かった。
返す言葉を探しているうちに、予鈴が鳴った。天野小夏は「あ、やば」と呟いて席に戻りかけ——途中で振り返った。
「花守さん、お昼って誰かと食べてる?」
「……一人で食べてる」
「じゃあ、一緒に食べてもええ?」
断る理由が見つからなかった。見つからないことに、少し戸惑った。普段なら「一人が楽だから」で済ませる。それは嘘ではないし、相手もそれ以上踏み込んでこない。
けれど、天野小夏に対してその言葉が出てこなかったのは——昨日の「綺麗」が、まだ胸の中に残っていたからかもしれない。
「……いいけど」
「ほんま? やったあ」
やったあ、という喜び方が小学生みたいだなと思った。天野小夏は弾むような足取りで自分の席に戻り、着席してからもう一度こちらを見て、にこっと笑った。千雪は文庫本を開いて視線を落とした。
胸の奥がざわざわする。
嫌な感覚ではない。ないから、余計に落ち着かない。
昼休み。
千雪は自分の席で弁当箱を広げた。今朝自分で作った弁当だ。出汁巻き卵、ほうれん草の胡麻和え、鶏つくねの照り焼き、ミニトマト。ご飯の上には自家製の昆布の佃煮を少しだけ。
「おっ、お弁当めっちゃ美味しそう! 自分で作ったん?」
天野小夏が椅子を引きずって隣にやってきた。手にはコンビニの袋。中身はおにぎり二個とペットボトルのお茶。
「……うん」
「すごいな、料理できるんや」
「まあ……少し」
少しどころではないのだが、初対面に近い相手に「得意です」と言い切れるほど、千雪は自己主張が強くない。
天野小夏はおにぎりの包装を剥きながら、ちらちらと千雪の弁当を盗み見ていた。隠す気のない視線だった。
「卵焼きの巻き方めっちゃ綺麗やな。うち、卵焼き作ると毎回スクランブルエッグになるねん」
「……巻き方にはコツがある。卵液を入れる量と、フライパンの温度を——」
言いかけて、口を閉じた。料理の話になると気がつけば長く話してしまう。相手が興味を持っているかどうかも確認せずに。
「——ごめん、聞いてないよね、こんな話」
「いやいや、聞きたい聞きたい。なんの話でも聞くで」
天野小夏がぶんぶんと首を横に振った。「なんの話でも」という範囲の広さに若干の不安を覚えたが、その目は本気で興味がありそうだった。
「……フライパンは中火でしっかり温めてから、一度濡れ布巾の上に置いて温度を均一にする。卵液は三回に分けて流し入れて、半熟のうちに巻く。完全に火を通してから巻くと割れる」
「おお……なるほど。メモしたいレベルやな」
「あと、出汁を入れすぎると巻く時に崩れやすくなるから、出汁の代わりにマヨネーズを少し入れると——」
「マヨネーズ!? 卵焼きに?」
「ふわふわになる。冷めても固くならない」
「えっ、天才やん」
天才は言い過ぎだ。料理をする人なら割と知っているテクニックだと思う。でも、天野小夏の驚き方にはおべっかの気配がなくて、純粋な感嘆がそのまま声になっている感じがした。
「花守さん、料理部とかに入ってるん?」
「料理研究部」
「おお、やっぱり! どんなことすんの?」
「基本は自由。各自作りたいものを作って、試食して、改善点を話し合う。たまにテーマが出る」
「へえ……。花守さんは何作るんが好きなん」
「お菓子が多い。昨日はチーズタルトを作った」
「チーズタルト! うち大好きなやつ。なんて名前のタルト?」
千雪の手が一瞬止まった。
「……名前?」
「え、名前ないん?」
「——ある。あるけど」
「教えてや」
「…………」
千雪は箸で出汁巻き卵を小さく切りながら、数秒の逡巡を経て、観念したように呟いた。
「『黄金の小惑星ベルト』」
沈黙が落ちた。
天野小夏がおにぎりを持ったまま完全に静止していた。
——やはり引かれたか。先輩にも毎回言われる。「千雪ちゃん、味は百点なんだけどネーミングだけは何とかならない?」と。わかっている、自分でも少しずれていることは薄々——
「——最高やな」
「……え?」
「小惑星ベルトって。チーズタルトに小惑星ベルト。そのセンス、めっちゃ好き」
天野小夏が目を輝かせていた。嘘をついている顔ではなかった。
千雪は思わず相手の目をまじまじと見た。好き、と言ったのか。このネーミングを。初めてだった。料理研究部の先輩も、寧々も、いつも笑うのに。
「……本気で言ってる?」
「本気やって。だってチーズタルトって黄金色やろ? で、小さい丸い形がベルト状に並んでるんやったら、それはもう小惑星ベルトやん。ロマンあるわ」
天野小夏のほうが、千雪よりも的確にネーミングの意図を読み解いていた。そう、その通りなのだ。一口サイズのタルトを天板に並べた時、黄金色の小さな円が弧を描いているのが太陽系の小惑星帯に見えた。それをそのまま名前にした。ただそれだけのことなのに、今まで誰も理解してくれなかった。
「——ありがとう」
声が少しだけ小さくなった。自分でもわかるくらい、耳が熱い。
天野小夏は嬉しそうに笑って、「他にもどんな名前つけたん?」と身を乗り出してきた。千雪は迷った末に、過去のレシピノートから記憶を引っ張り出した。
「……苺のショートケーキは『紅玉の初雪』。抹茶のシフォンケーキは『深緑の雲海』」
「うわ、全部ええな。詩みたいや。花守さんの中にそういう世界があるんやなって感じがする」
——花守さんの中にそういう世界がある。
その言葉が、胸のどこかに静かに沈んだ。重くはない。温かいわけでもない。ただ、水面に石を落とした時のように、小さな波紋が広がっていく感覚があった。
自分の内側を覗き込まれた気がした。それなのに、不快ではなかった。
千雪は弁当の蓋を閉めながら、窓の外に視線を逃がした。四月の空は高くて青い。
「——天野さんは」
「ん?」
「……何か、部活入るの」
聞いてから、自分でも少し驚いた。千雪から他人に質問を投げるのは珍しい。
「ああ、まだ決めてへんねん。前の学校ではどこにも入ってなかったし。転校多いと途中から入るのめんどくさくなるんよな」
「転校、多いの」
「うん。小学校二回、中学で一回、今回で四回目。引っ越し慣れだけはプロレベルやで」
笑いながら言ったが、その笑い方には昨日の自己紹介の時と同じ微かな翳りがあった。千雪はそれに気づいたが、踏み込まなかった。他人の領域に土足で入るのは好きではない。自分がされたくないことは、しない。
「……料理研究部、見学だけでもできるよ」
言ってしまってから、また驚いた。今日は自分の口がやけに勝手に動く。
天野小夏が目を丸くした。
「え、ええの? 見学」
「部長に聞いてみないとわからないけど。たぶん大丈夫」
「行きたい! 花守さんのお菓子食べてみたい——あ、いや、食べるのが目的みたいになっとるけど、ちゃうねん、花守さんが作ってるとこ見たいっていうか——」
また語尾が尻すぼみになった。自分の言葉に自分で焦っている。
「……食べるの目的でも別にいい。試食係は多いほうが助かる」
「ほんま? じゃあ遠慮なく」
天野小夏がにぱっと笑った。
——この人の笑顔は、種類が多い。
昨日の自己紹介の時の笑顔。髪を褒めた時の笑顔。さっきネーミングを褒めた時の笑顔。全部少しずつ違う。同じ「笑顔」というラベルには収まらない。
千雪は人の感情を分類するのが得意なはずだったが、天野小夏の表情は仕分けが追いつかない。
五限目の終わり、千雪が教科書を鞄にしまっていると、背後から小さな声が聞こえた。
「——いやこれ完全に運命の出会いパターンやん……転校先で白髪の美少女って……三話くらいで海辺のシーン来るやつ……」
振り返ると、天野小夏が自分の机に突っ伏したまま何かを呟いていた。顔は腕に埋もれていて見えないが、耳が真っ赤だった。
——何の話をしているんだろう。
「……天野さん」
「ひゃいっ!?」
天野小夏が弾かれたように顔を上げた。目が泳いでいる。
「な、なに? なんも言うてへんで? 独り言とか全然してへんし——」
「してた」
「——してたか。どこから聞こえた?」
「……途中から」
具体的にどこからとは言わなかった。「白髪の美少女」が自分のことを指しているのは明白だったが、それを指摘するのも空気が悪くなりそうだったので黙っておいた。
「あー……うちな、独り言多いねん。変な癖やねんけど、考えてることがつい口から出てまうっていうか……。気にせんといて」
「別に気にしてない」
嘘ではなかった。独り言を言う人間は珍しくない。寧々はゲーム中にずっと喋っている。それに比べれば天野小夏の独り言は可愛いものだ。——可愛い? いや、軽微だ。軽微なものだ。
「ただ——」
「ただ?」
「『三話くらいで海辺のシーン』って何」
天野小夏の顔から、一瞬で色が引いた。そしてすぐに、それを上回る勢いで赤が戻ってきた。
「あっ、えっ、そこ聞こえてた!? いやあれはな、えーと——最近見てるドラマの話で——」
「ドラマ」
「そう、ドラマ。海辺で告白するシーンがあって、ええ話やなーって——」
嘘だろうな、と千雪は思った。根拠はないが、天野小夏は嘘をつくと瞬きが増えるということに、二日目にして気づいていた。今、明らかに瞬きが多い。
でも追及はしなかった。他人の隠し事を暴く趣味はない。
「——ドラマ、好きなんだ」
「う、うん。まあ、映像作品全般というか……」
映像作品全般。漠然とした括りだなと思ったが、それ以上は聞かなかった。
六限目の開始を告げるチャイムが鳴って、二人は前を向いた。千雪はノートの端に小さく「天野小夏:独り言が多い、嘘をつくと瞬きが増える」とメモする——わけがない。そんなことを書き留めたら、寧々と同じ部類の人間になってしまう。
ただ、頭の中の「天野小夏」のフォルダに、新しい観察記録が追加されたのは確かだった。
放課後。料理研究部の部室は家庭科室の隣にある小さな調理実習室で、窓から西日が差し込む温かい空間だった。
今日のテーマは自由制作。千雪はレシピノートを広げて、先週から試作を重ねているレモンのマドレーヌの改良に取り組むことにした。前回は生地が少し重かったので、アーモンドプードルの配合を五グラム減らして、代わりにコーンスターチを加える。焦がしバターの温度ももう少し攻めたい。
エプロンを結んで、計量を始める。薄力粉、砂糖、卵。バターを小鍋に入れて弱火にかけ、ヘラでゆっくり混ぜながら色の変化を見守る。泡が細かくなって、ナッツのような香ばしい香りが立ち上がってきたら——
「千雪ちゃん、今日も真剣だねえ」
隣の調理台で米粉のシフォンケーキを仕込んでいる部長の矢島先輩が、のんびりした声をかけてきた。三年生で、穏やかな性格の人だ。千雪がこの部に居心地の良さを感じている理由の三割くらいは、この人の存在にある。
「焦がしバターの見極めが難しくて」
「前より色が濃いね。攻めてる?」
「少しだけ。ヘーゼルナッツ色まで持っていきたいんですけど、あと十秒が怖い」
「わかるー。焦がしと焦げの境界線って、人生の岐路みたいだよね」
大げさだなと思ったが、バターを焦がしたことがある人間にしかわからない実感がこもっていたので、千雪は小さく頷いた。
「あ、そういえば。先輩、ひとつお願いがあって」
「なあに」
「今度……見学に来たいっていう人がいるんですけど、大丈夫ですか」
「見学? もちろんいいよ。誰?」
「同じクラスの転校生で、天野さんっていう——」
入り口のドアが控えめにノックされた。
「——あの、すんません。見学って今日でも大丈夫ですか?」
天野小夏が顔を半分だけ覗かせていた。
「……今日来たの」
「いや、善は急げっていうやん?」
悪びれない笑顔。千雪は小さくため息をついたが、その息が呆れではなく別の何かを含んでいることには気づかないふりをした。
矢島先輩が「どうぞどうぞ」と手招きして、天野小夏は調理実習室に足を踏み入れた。室内をぐるりと見回して、目を丸くしている。
「わあ、めっちゃいい匂い。バターの匂いがする」
「千雪ちゃんが焦がしバター作ってるからね。見学なら、そこの椅子座ってていいよ」
「ありがとうございます! お邪魔します」
天野小夏は作業台から少し離れた場所の椅子に座った。千雪は焦がしバターに意識を戻す。色を確認——よし、ここだ。火から下ろして、冷水を張ったボウルの上に鍋を移す。温度の急降下で色の変化を止める。
「すご……花守さん、なんか雰囲気全然ちゃうな」
背後から声が聞こえた。
「何が」
「教室におる時と。なんていうか——すごい集中しとるっていうか、目つきがちゃうっていうか」
「……料理してる時はいつもこう」
「かっこええなあ」
かっこいいと言われたことも、あまりない。千雪は返事の代わりに生地の混ぜ方に集中した。粉を三回に分けてふるい入れ、ゴムベラで底からすくうように合わせる。泡を潰さないように。でも混ぜ残しがないように。
「あの……質問してもええ?」
「手を止めないけど、いい?」
「うん。花守さんは、なんで料理始めたん?」
手は止めなかった。ゴムベラの動きを一定に保ちながら、少しだけ記憶を遡った。
「……姉が、あまり器用じゃないから」
嘘ではない。寧々はトーストだけは完璧に焼くが、それ以外の料理は壊滅的だ。中学一年の時、寧々が作った肉じゃがを食べて、千雪は悟った。——自分が作ったほうが、二人とも幸せになれる。
「お姉さんおるんや」
「大学生。同居してる」
「へえ、姉妹で暮らしてるんや。……ご両親は?」
千雪の手が、ほんの一瞬だけ止まった。〇・五秒にも満たない停止。すぐに動きを再開したが、天野小夏がそれに気づいたかどうかは——
「——あ、ごめん。立ち入ったこと聞いてもうた」
気づいていた。
千雪は静かに首を横に振った。
「いい。……いないの。二人とも」
それ以上は言わなかった。天野小夏も、それ以上は聞かなかった。
代わりに、少しだけ低くなった声で言った。
「——花守さんのご飯、食べられるお姉さんは幸せもんやな」
その言い方が、妙に大人びていた。さっきまでの弾けるような明るさとは違う、静かな声。千雪は振り返らずに、生地をマドレーヌ型に流し入れた。
「……姉は大袈裟に褒めるから、参考にならない」
「大袈裟なくらいがちょうどええやん。素直に喜んどき」
さらりと言われて、千雪は少しだけ口元が緩むのを感じた。
オーブンの予熱が完了した。型を天板に並べて、庫内にスライドさせる。百九十度、十二分。タイマーをセットして、千雪はようやく天野小夏のほうを振り返った。
天野小夏は椅子の上で少し猫背になって、千雪の作業を——正確には千雪自身を、じっと見ていた。
また、あの目だ。
昨日のホームルームで向けられたのと同じ種類の、分類できない視線。好奇心の角度ではない。もっと——熱量があるのに、攻撃性がない。見つめているのに、覗き込んではいない。
視線に敏感な千雪にとって、分類できない目は最も落ち着かない対象だった。相手の意図がわからないということは、適切な距離の取り方がわからないということだ。
「……何」
「え? あ、いや——焼き上がり楽しみやなって」
絶対にそれだけではない。千雪にはわかる。でも問い詰めるほどの材料がないし、問い詰めたいわけでもない。
十二分後、オーブンが甲高い電子音を立てた。
扉を開けると、レモンとバターの香ばしい匂いが広がった。マドレーヌの表面はきつね色に焼き上がり、中央がぷっくりと膨らんでいる——いわゆる「おへそ」がしっかり出ている。生地の配合変更は成功だ。
「おお、綺麗に焼けてるね。おへそばっちり」
矢島先輩が覗き込んできた。千雪は型から外したマドレーヌを網の上に並べて、粗熱を取る。
「試食、いい?」
「どうぞ。天野さんも」
天野小夏が目を輝かせて椅子から立ち上がった。マドレーヌを一つ手に取り、ふうふうと息を吹きかけてから、一口齧る。
咀嚼。沈黙。千雪はその表情を観察した。料理の感想を聞く瞬間は、いつも少し緊張する。
「——おいしい」
天野小夏の声が、小さく震えていた。
「外がサクッとしてて、中はしっとりで、レモンの香りがふわって……。なんやこれ、お店のやつよりおいしいんやけど。なに、花守さん何者なん」
「……ただの高校生」
「ただの高校生がこんなん作れるわけないやろ。これ名前あるん?」
「……まだつけてない」
「じゃあ、つけてや。聞きたい」
千雪はマドレーヌを見つめた。貝殻型の焼き菓子。きつね色の表面。レモンの黄色い皮が生地に散っている。
「…………『レモンの方舟』」
「——ええな」
天野小夏がまた、あの笑顔を見せた。千雪の名付けを、迷いなく受け入れる笑顔。
矢島先輩が「方舟……?」と小さく首を傾げていたが、千雪はもう気にならなかった。
一人でいい。一人でも、自分のネーミングを「ええな」と言ってくれる人がいるなら、それでいい。
——そう思ったことに、自分で驚いていた。
他人の評価なんて、気にしないはずだったのに。
帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、千雪はスマートフォンを開いた。
メッセージアプリの通知が三件。すべて同じグループチャットからだ。
寧々の紹介で繋がったネット上の友人たち。顔も本名も知らないけれど、もう二年以上やりとりを続けている。千雪にとっては、教室の誰よりも気楽に話せる相手だった。
『今日のちーちゃんの髪型どうだった? 寧々さんがめちゃくちゃ褒めてたけど』
『ポニテだって。写真ないの?』
『ちーちゃんは自撮り文化ないから……』
千雪は片手でぽちぽちと返信を打った。
『ポニーテール。低め。シンプルな日。あと転校生が来た』
送信してすぐに返事が来た。
『転校生! イベント発生じゃん。どんな人?』
千雪は数秒迷ってから、端的に打った。
『関西弁。明るい。変な人』
『変ってどう変?』
どう変か。
千雪はホームのベンチに座ったまま、少しだけ考えた。何が「変」なのかを言語化しようとして、うまくいかなかった。
髪を褒めてくること自体は変ではない。ネーミングを肯定してくれることも、独り言が多いことも、それぞれは変ではない。
でも、全部を合わせると——千雪の知っている「普通の他人」の輪郭からはみ出す。何かが余っている。何かが多い。その「何か」の正体がわからないから、「変」としか表現できない。
『——わからない。まだ分類中』
送信して、スマートフォンをポケットにしまった。
電車が来た。乗り込んで、ドア際に立つ。窓に白い髪の自分が反射している。
今日だけで、天野小夏は千雪の髪を二回見た。一回目は朝、二回目は部室で。そのどちらも、千雪が今まで受けてきた視線とは温度が違った。
——もし明日も来たら。
もし明日も、あの分類できない目で見られたら。
千雪は窓の中の自分に向かって、小さく呟いた。
「……明日は、何にしよう」
髪型の話だ。それ以外の意味はない。ないはずだ。
でも——鏡の中の自分の耳が、また少しだけ赤くなっていることには、気づかないふりをした。
電車が動き出す。四月の夕暮れが窓の外を流れていく。白い髪に、オレンジ色の光が溶ける。
天野小夏という名前が、頭の中でもう一度だけ転がった。
——夏。
季節の名前をもらった人は、きっと冬生まれだろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、千雪は目を閉じた。
電車の揺れが、少しだけ心地よかった。




