後日談「名前のつづき」
八月十五日。夏の真ん中。
ハイエースは海沿いの国道を走っていた。窓の外には青い海が広がっている。湘南の海岸線を抜けて、西へ。カーステレオからは寧々が選んだプレイリストが流れていて、千雪の知らない曲と、たまに知っている曲が交互にやってくる。
助手席には千雪。後部座席には小夏。いつもの配置。いつもの旅。ただし、バックミラー越しに目が合う回数が、四月の伊豆旅行の時よりも格段に増えていた。
「ちーちゃん、バックミラーばっかり見てると前が見えないよ」
「……運転してるのは寧々姉でしょ」
「助手席のナビ役が後ろばっかり気にしてたら道間違えるでしょうが。はい、次の信号左ね」
千雪は渋々前を向いた。スマートフォンの地図アプリを確認して「左です」と復唱する。寧々が「それさっき姉ちゃんが言ったやつね」とツッコんだが、千雪は聞かなかったことにした。
後部座席で小夏がくすくす笑っている気配がした。
「千雪ちゃん、ナビ役あんまり向いてへんな」
「……向いてる」
「さっきから三回、曲がるとこ通り過ぎてるで」
「それは寧々姉の判断ミス」
「姉ちゃんのせいにするな! ナビが遅いからでしょ!」
三人の声が車内に響く。窓の外の海がきらきらと光っている。
今日の行き先は三浦半島。日帰りのドライブ。寧々が「夏休みに一回くらい海を見に行こう」と提案して、千雪が小夏を誘って、あっさり決まった。もう三人での外出に躊躇いはなかった。
寧々に二人の関係を伝えてから一ヶ月半が経っていた。あの日以来、寧々の態度は——ほとんど変わらなかった。変わったのは、小夏への呼び方が「天野ちゃん」から「小夏ちゃん」になったことと、千雪をからかう頻度が三割ほど増えたことくらいだ。
「ちーちゃんと小夏ちゃんの馴れ初めを姉ちゃんの視点でブログに書いていい?」
「ダメに決まってる」
「タイトルはもう決めてあるんだが。『妹が白髪美少女だったので転校生に一目惚れされた件について~姉のレポート~』」
「長い。却下。あと書いたら家出する」
「家出先は小夏ちゃんちだろうからすぐ見つかるんだが」
「……否定できないのが悔しい」
後部座席の小夏が声を上げて笑っていた。千雪はバックミラーを——見ないようにした。見たら、また小夏の笑顔に意識を持っていかれる。
三浦半島の先端に近い小さな漁港に車を停めた。ドアを開けると、潮の匂いと夏の熱気が一気に流れ込んできた。千雪は帽子を深く被り、サングラスをかけ、腕にアームカバーを通した。完全防備。八月の日差しは千雪にとって最大の敵だ。
「千雪ちゃん、日焼け止め塗り直す?」
小夏が鞄からスプレータイプの日焼け止めを取り出した。自分の鞄に千雪用の日焼け止めを入れている。いつの間にかそうなっていた。最初は千雪が自分で管理していたのだが、ある日小夏が「うちの鞄にも一本入れとくわ。千雪ちゃんが忘れた時用に」と言って、それがそのまま定着した。
「……ありがとう。首の後ろだけ塗り直したい」
「了解。——髪上げて」
千雪は今日の髪型であるポニーテールの結び目を少し持ち上げた。うなじが露出する。小夏がスプレーを軽く振って、千雪のうなじに吹きかけた。ひんやりとした霧が肌に触れて、反射的に肩が上がった。
「冷たかった?」
「少し。——大丈夫」
「はい、おしまい。よく馴染ませて」
千雪が指先で首の後ろを軽く押さえていると、寧々がハイエースのトランクから折りたたみ椅子を出しながら言った。
「小夏ちゃん、すっかりちーちゃんの専属マネージャーだね」
「マネージャーっていうか——彼女としての義務感?」
「義務感で日焼け止め塗る彼女、最高すぎない? 推せるんだが」
「寧々姉、推すとか言わないで」
「事実を述べてるだけなんだが?」
千雪はため息をつきながら漁港の堤防に歩いていった。コンクリートの堤防は日差しで白く焼けていたが、端のほうに漁船の影ができていて、そこだけ涼しかった。千雪はその日陰に腰を下ろした。
小夏が隣に座った。寧々は少し離れた場所に折りたたみ椅子を広げて、スマートフォンで何かを撮影し始めた。海と空の境界線を撮っているらしい。
「——綺麗やなあ」
小夏がぼんやりと海を眺めていた。水平線が空と溶け合っている。波が堤防の下でゆるく砕けて、白い泡を立てている。
「千雪ちゃんと海を見るの、伊豆以来やな」
「うん」
「あの時は——まだ友達やったんよな。いや、うちの中ではもうちょっと違ったけど」
「私も——もうちょっと違った」
「そうやったん? あの時点で?」
「あの時点では、まだ名前はつけてなかったけど。でも——吊り橋で袖を掴まれた時に、何かが動いた気がする」
「あー、あの時うちめっちゃ怖くて——無意識に掴んでもうて。ごめんな」
「謝らないで。——嬉しかったから」
小夏が千雪のほうを向いた。千雪はサングラスの奥から海を見つめたままだった。白い髪がポニーテールの下から風に遊ばれている。
「千雪ちゃん」
「うん」
「サングラス、一瞬だけ外して」
「……なんで」
「千雪ちゃんの目の色が見たい。海の光の中で」
千雪は少し迷ってから、サングラスを外した。強い光に眩しさを感じて目を細めたが、小夏の顔は見えた。
桜色の瞳に、海の青が映り込んでいた。
「——うわ」
小夏が息を呑んだ。
「千雪ちゃんの目に——海が映ってる。桜色の中に青があって——宝石みたいや」
「……恥ずかしいからサングラス戻していい?」
「あと三秒だけ」
「長い」
「短いわ。——はい、いい。ありがとう」
千雪はサングラスを戻した。耳が赤い。帽子の下からはみ出した部分が、自分でわかるくらい熱を持っている。
「千雪ちゃんって——ほんまに、綺麗やな」
「小夏ちゃんは、初日からずっとそれを言ってる」
「だってずっと綺麗やもん。毎日新しく綺麗になるから、毎日言いたくなるねん」
「毎日は聞き飽きる」
「嘘つき。嬉しそうな顔してるのに」
「……してない」
「耳見たらわかるって」
千雪は帽子を引き下げた。無駄な抵抗だと知りながら。この体質はどうにもならない。色素が薄いせいで、感情が全部肌に出る。小夏の前では特に。
寧々が離れた場所から「おーい、お昼どうする?」と声をかけてきた。千雪は立ち上がって「漁港の食堂があるから、そこで」と返した。
「千雪ちゃん、下調べしてたんや」
「昨日の夜、この辺りの飲食店を調べておいた。漁港直営の食堂があって、しらす丼と金目鯛の煮付け定食が評判いい」
「千雪ちゃんのリサーチ力すごいな。寧々さんのスプレッドシート管理が遺伝してる」
「遺伝じゃない。学習」
三人で漁港の食堂に入った。小さな店で、テーブルが五つだけ。壁にはその日の水揚げが手書きで書かれたホワイトボードが掛かっている。
千雪はしらす丼を、小夏は海鮮丼のわさび抜きを、寧々は金目鯛の煮付け定食を頼んだ。伊豆の時と同じ組み合わせだ。
「なんかデジャヴやな」
「前回と同じもの頼んでるからね」
「好きなもんは変わらへんってことやな」
料理が運ばれてきた。しらすが山盛りに載った丼を前にして、千雪はほんの少し目を細めた。透明に近い白いしらすが、白い米の上に積もっている。
「……雪みたい」
「え?」
「しらす。白くて細くて、積もってるみたいに見える」
「——千雪ちゃんの髪みたいやな」
「……しらすと髪を一緒にしないで」
「ごめん。でもどっちも綺麗な白やから」
千雪は箸で一口すくって食べた。新鮮なしらすの繊細な甘みが舌の上で溶ける。前に伊東で食べた時と同じように——いや、あの時よりも、おいしく感じた。
たぶん——何を食べても、小夏と一緒のほうがおいしい。
寧々が金目鯛の身をほぐしながら、ふと言った。
「ねえ、二人とも。夏休み終わったら——もう二年生の後半だよ。あっという間に三年生になって、受験が来る」
千雪の箸が一瞬止まった。
「……わかってる」
「小夏ちゃんは——進路どうするの?」
小夏がわさび抜きの海鮮丼を食べる手を止めた。
「まだ決めてないです。——でも、できれば東京の大学に行きたいなって思ってます。千雪ちゃんと同じ街にいたいから」
「親御さんの転勤は?」
「今のところ——来年度も東京の予定って言ってました。でも正直、わからへんです。前もそう言って急に変わったことあるんで」
千雪はしらす丼に視線を落とした。転勤。転校。小夏の人生にはいつもその不確実性がつきまとっている。今こうして隣にいられるのは当たり前ではない。いつか——予告なく引き離される可能性がある。
「——その時はその時」
千雪が言った。小夏と寧々が同時にこちらを見た。
「転校になったとしても——前に言った。距離は関係ない。繋がっていたいと思うかどうかだけ」
「千雪ちゃん……」
「ネットの友達は二年以上、顔も本名も知らないまま繋がってる。小夏ちゃんとなら——顔も名前も知ってて、声も聴けて、手も繋げる。距離が離れたくらいで、途切れたりしない」
小夏の目が潤んだ。千雪は「食堂の中で泣かないで」と小声で付け足した。
「泣いてへん。——泣いてへんけど、ちょっと鼻がツンとしただけ」
「それを泣いてるって言うんだが」
寧々がぼそりとツッコんだ。小夏がはにかみながら目元を拭った。
千雪は海鮮丼のまぐろを箸で一切れ取って、自分の小皿に載せた。それを小夏のほうに差し出した。
「——前に、これもらったから。返す」
「あ。伊豆の時の——覚えてるんや」
「全部覚えてる」
小夏がまぐろを受け取って口に入れた。咀嚼しながら、目を瞬かせて——笑った。泣き笑いの顔。千雪が世界で一番好きな笑顔。
寧々が金目鯛をつつきながら、もう片方の手でスマートフォンを操作していた。画面をちらりと確認すると、テキストファイルが開いていた。何かを打ち込んでいる。
「寧々姉、何書いてるの」
「レポート」
「嘘でしょ」
「嘘じゃないが。テーマは『現代における姉妹間コミュニケーションの変容と外部要因の影響』」
「それ絶対大学のレポートじゃない」
「バレたか。——ちーちゃんと小夏ちゃんの観察日記」
「やめて」
「愛——」
「数値化しないで!」
小夏がけらけら笑っている。千雪は頭を抱えた。この姉は一生こうなのだ。一生データを取り続け、一生ネットスラングで話し、一生千雪のことを宇宙一かわいいと言い続ける。
でも——それでいい。それが寧々だから。
食堂を出て、漁港の堤防に戻った。午後の日差しは午前より強くなっていて、千雪は日陰を選んで歩いた。小夏が自然にその隣を歩いて、さりげなく日陰側を空けてくれる。もう言葉にしなくても伝わるルール。
寧々が「ちょっとお土産屋見てくる」と言って、また一人で消えた。伊豆の修善寺の時と同じだ。この人は意図的に二人の時間を作ってくれる。
堤防の端に座った。足をぶらぶらさせると、数メートル下の海面がゆるく揺れていた。潮の匂い。カモメの声。遠い波の音。
「千雪ちゃん」
「うん」
「夏休み——あと二週間くらいやな」
「うん」
「この夏——うちにとって、人生で一番いい夏やった」
千雪は海を見つめた。水平線に小さな船が浮かんでいる。白い点。
「……私も」
「千雪ちゃんは、去年の夏は何してたん?」
「……姉と旅行して、料理して、ネットの友達とチャットして。——それだけ」
「寂しくなかった?」
「寂しいとは思わなかった。それが普通だったから」
「今は?」
「今は——小夏ちゃんがいない夏が想像できない」
小夏が隣で息を呑んだ気配がした。千雪は相変わらず海を見つめていた。こういう言葉は、相手の顔を見ながらだと言えない。横を向いて、海を見て、風に乗せるように口から出す。そのほうが——嘘がない言葉になる。
「千雪ちゃん」
「うん」
「うちな——ずっと考えてたことがあんねん」
「何」
「千雪ちゃんの名前のこと。千の雪。白い名前。冬の名前。——千雪ちゃんのお母さんとお父さんが、なんでこの名前をつけたんか」
千雪の指先が、膝の上で微かに強張った。
両親の話は——ほとんどしたことがなかった。小夏にも、寧々以外の誰にも。幼い頃の飛行機事故で二人を失ってから、千雪の中で両親の記憶は遠い場所にしまわれていた。思い出さないのではなく——思い出すための取っ掛かりが少なすぎるのだ。事故の時、千雪は三歳だった。
「……名前の由来は、聞いたことがある」
「聞いた? 誰に?」
「おばあちゃんに。——私を育ててくれた、母方の祖母に」
千雪は膝を抱えた。帽子のつばの下から、海を見つめる。
「私が生まれた日——雪が降ってたんだって。二月の東京で、珍しく大雪が降った日。で、生まれてきた私の髪が——真っ白だった」
「……うん」
「両親は——私がアルビノだって知って、最初は戸惑ったみたい。でも、雪の日に生まれた白い髪の子供を見て——『千の雪が降る日に来てくれた子だから、千雪にしよう』って。おばあちゃんがそう教えてくれた」
波の音が、沈黙を埋めた。
「……ええ名前やな」
小夏の声が静かだった。いつもの弾けるような調子ではなく、深い場所から出てくる声。
「千雪ちゃんの白は——お父さんとお母さんからの贈り物やったんやな」
「……うん。だから——この髪が好き。両親の記憶はほとんどないけど、この名前と、この髪だけは——二人がくれたものだから」
千雪の声は震えなかった。泣いてもいなかった。ただ——事実を、静かに手渡すように話した。自分の根っこにあるものを、小夏に見せた。
小夏が何も言わずに手を伸ばした。千雪のポニーテールの毛先に、指先がそっと触れた。
「——予告」
「遅い」
「ごめん。でも——触りたかった」
「……いいよ」
小夏の指が千雪の髪を一房すくい上げた。白い糸が指の間を通り抜けていく。夏の光を受けて、ほんのりと虹色に透けていた。
「千雪ちゃんの髪——光に透かすと虹色になるんや。知らんかった」
「白い髪は光を全部通すから。色素がないぶん、光がそのまま透ける」
「綺麗……」
「ずっと言ってるね、それ」
「ずっと言うよ。——一生」
一生。その言葉が、冗談ではない響きを持って、千雪の耳に届いた。
高校生の「一生」なんて、大人が聞いたら笑うかもしれない。先のことは誰にもわからない。千雪も小夏もまだ十七歳で、受験があって、進路があって、小夏の親の転勤があって——未来は何一つ確定していない。
でも、今この瞬間に「一生」と言える気持ちは本物だ。千雪はそう信じることにした。
「……じゃあ、私も一生言う」
「何を?」
「小夏ちゃんの笑顔が好きだって」
小夏の手が止まった。千雪の髪を持ったまま、固まっている。耳が——赤い。
「——千雪ちゃんが自分から好きって言うの、まだ全然慣れへん」
「私も慣れてない。でも——言いたいから言う」
「言いたいから言うって——あの雨の日にも同じこと言ってたな。千雪ちゃんは変わらへんな」
「変わったよ。小夏ちゃんに会う前とは——全然違う」
小夏が千雪の髪から手を離して、代わりに千雪の手を取った。堤防の上で、二人の手が繋がった。白と肌色。冷たいのと温かいの。
「——おーい、二人ともー。お土産買ったよー。干物と、あとソフトクリーム買ってきたけど食べるー?」
寧々の声が遠くから聞こえてきた。両手に紙袋とソフトクリームを持って、堤防のほうに歩いてくる。
千雪と小夏は手を離さなかった。寧々の前では——もう、隠さなくていいから。
寧々が近づいてきて、二人の繋いだ手を見て——にやりと笑った。
「あーあ。姉ちゃんの目の前でいちゃつくの、データ取られるって知ってて?」
「取ればいい」
「おっ、ちーちゃん開き直った。——はい、ソフトクリーム。バニラとチョコ、どっちがいい?」
「バニラ」
「千雪ちゃんらしいな。白いやつ選ぶところが」
「……色で選んでない。味が好きなだけ」
「はいはい。小夏ちゃんはチョコね」
「ありがとうございます、寧々さん」
三人で堤防に座って、ソフトクリームを食べた。千雪のバニラが夏の日差しであっという間に溶け始めて、慌てて舐めた。小夏がそれを見て笑った。寧々がスマートフォンで写真を撮った。
「寧々姉、撮らないで」
「これは家族アルバム用なんだが。大事な記録だよ」
「家族アルバム……」
「小夏ちゃんはもう家族みたいなもんだから。入籍はまだ先だろうけど——」
「寧々姉」
「冗談冗談。——半分本気だけど」
千雪はソフトクリームで口を塞いだ。何か言い返そうとしたが、バニラの冷たさが頭にキーンときて、それどころではなくなった。
「千雪ちゃん、食べるの急ぎすぎやって。頭キーンなってるやろ」
「……なってない」
「なってるって。眉間に皺寄ってるもん」
「……なってる」
「ほら。——ゆっくり食べな」
小夏がハンカチを差し出してくれた。千雪は口元を拭きながら、ソフトクリームの速度を落とした。
バニラの甘さが舌の上に残っている。夏の風が頬を撫でる。隣に小夏がいる。少し離れた場所で寧々がスマートフォンをいじっている。カモメが頭の上を通り過ぎて、海に向かって飛んでいった。
——幸せだ。
その実感が、波のように静かに、でも確実に、千雪の中に満ちていった。
四月の始まりから——数えてみれば、まだ五ヶ月も経っていない。たった五ヶ月。でもその五ヶ月の間に、千雪の世界は根本から変わった。
白いだけだった世界に、色が増えた。
小夏の琥珀色。寧々のいつもの笑顔。料理研究部の焦がしバターの茶色。漫画の中の少女たちの鮮やかさ。雨の灰色。海の青。夕焼けのオレンジ。
全部が——小夏と出会ったから、見えるようになった色だ。
「千雪ちゃん、何考えてるん?」
「……今日のこの時間に、名前をつけようとしてた」
「おっ、出た。千雪ちゃんのネーミングタイム。——聞きたい」
「まだ決まってない。考え中」
「じゃあ——うちも考えてみてええ?」
千雪は少し驚いて小夏を見た。小夏が名前をつける側に回るのは珍しい。
「……いいよ。聞かせて」
小夏はソフトクリームのコーンを齧りながら、海を見つめた。しばらく黙って——それから、ゆっくりと口を開いた。
「——『真夏の落としもの』」
千雪は目を瞬かせた。
「落としもの?」
「うん。真夏の日差しの中で見つけた、大事なもの。拾い上げたら——手の中で光ってた。もう落とさんようにって、ぎゅって握った。——そんなイメージ」
千雪は小夏の横顔を見つめた。いつもの快活な表情ではなく、少し恥ずかしそうな、でも誇らしげな顔。
「……いい名前」
「ほんまに? 千雪ちゃんに認められるのめっちゃ嬉しい」
「小夏ちゃんのネーミング、最初に聞いた『白月の団子』の時から好きだった」
「あの時のやつ覚えてるん!?」
「全部覚えてるって言ったでしょ」
小夏が照れたように笑って、最後のコーンを口に入れた。千雪も自分のソフトクリームを食べ終えて、指先をハンカチで拭いた。
寧々が立ち上がった。
「そろそろ帰ろっか。渋滞にハマる前に高速乗りたいし」
「うん」
三人でハイエースに戻る。千雪が助手席に、小夏が後部座席に座って、シートベルトを締める。寧々がエンジンをかけた。低い振動が車体を揺らす。
漁港を出て、海沿いの国道に戻った。窓の外に海がもう一度広がる。夕方に近づいて、光の角度が変わっている。海面が金色に染まり始めていた。
「千雪ちゃん」
後部座席から小夏の声。
「うん」
「九月になったらさ——学校で、また毎日会えるな」
「うん」
「千雪ちゃんの髪型、また毎日違うのが見られるんやな」
「うん。——小夏ちゃんのくるりんぱの進捗も確認しないと」
「厳しいな。——でも嬉しい」
千雪はバックミラーを見た。小夏の顔が映っていた。窓からの夕日に照らされて、琥珀色の目が金色に光っている。
目が合った。バックミラー越しに。千雪は今度は視線を逸らさなかった。
小夏が笑った。千雪も——少しだけ、笑った。
寧々がハンドルを握りながら、小さく呟いた。
「——白のち、夏。いい名前つけたね、ちーちゃん」
千雪は前を向いた。フロントガラスの向こうに、夏の空が広がっていた。白い雲の端が夕日に照らされて、金色に輝いている。
「……聞いてたの」
「聞いてない。ちーちゃんのスマホのメモ帳を偶然見ただけ」
「偶然じゃないでしょ」
「愛——」
「もういい」
寧々がけらっと笑った。小夏が後部座席で声を上げて笑った。千雪は呆れたふりをして窓の外を見たが、ガラスに映った自分の口元は——しっかり上がっていた。
ハイエースは夕暮れの国道を走り続ける。白い車体に夏の光が反射して、金色の尾を引いていた。
白のち、夏。
千雪の白い世界に、夏が来た。そしてその夏は——終わらない。季節が巡っても、名前が変わっても、距離が離れても。
千雪の隣には、夏がいる。
——ずっと。




