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第十二話「白のち、夏」

 七月に入ると、空の色が変わった。


 梅雨の灰色が少しずつ退いて、隙間から真夏の青が覗くようになった。日差しは確実に強くなり、千雪の鞄の中の日焼け止めは大容量のものに替わった。帽子とサングラスは必需品。白い肌が夏の光を浴びる時間は、できるだけ短くしたい。


 でも——今年の夏は、去年までとは少しだけ違う気がした。


 朝。洗面台の鏡の前。千雪は白い髪をブラッシングしながら、今日の髪型を考えていた。


 小夏に「下ろしたままが一番好き」と言われてから、下ろす日が増えた。でもアレンジをやめたわけではない。千雪にとって毎朝の髪型選びは、自分自身との対話だ。今日はどんな自分でいたいか。誰に会いたいか。何を伝えたいか。


 今日は——編み下ろし。後頭部から一本の三つ編みを作って、そのまま前に垂らすスタイル。小夏に最初に教えた三つ編みの、応用形。


 鏡の中で白い編み目が背中に流れた。毛先にリボンを結んで——いつもは使わないけれど、今日は特別だ。薄い水色のリボン。夏の空の色。


「ちーちゃん、リボン。——ちーちゃんがリボン使うの、何ヶ月ぶり?」


 寧々がキッチンから顔を出した。


「……最後に使ったのは中三の冬だと思う」


「一年半ぶりじゃん。今日なにかあるの?」


「……終業式」


「終業式でリボン使う? 普通」


「普通」


「絶対普通じゃないけどまあいいや。いってらっしゃい」


 千雪は帽子を被って家を出た。七月の朝は六時半でもう明るい。日差しが白い髪を透かして、リボンの水色を際立たせていた。


 教室に入ると、小夏がいつもの席にいた。


 千雪の姿を見た瞬間、小夏の口元がほころんだ。ゆっくりと、花が開くように。


「おはよう、千雪ちゃん。——リボンつけてる」


「おはよう。うん」


「めっちゃ似合う。空の色みたいな水色で——夏っぽくてええな」


「……ありがとう」


 二人の間に流れる空気は、一ヶ月前とは決定的に違っていた。同じ教室、同じ距離、同じ言葉のやりとり。でもその全てに、名前のついた感情が染み込んでいる。表面上は何も変わっていないのに、千雪の世界の色が変わった。


 小夏が少しだけ声を潜めて言った。


「今日、終業式終わったら——ちょっと時間ある?」


「ある。なにかあるの」


「渡したいものがあって」


「渡したいもの?」


「うん。放課後まで待って」


 小夏がにっと笑った。秘密を抱えている時の、少し悪戯っぽい笑顔。千雪はそれ以上聞かなかった。小夏のペースに任せる。それが二人のルールだ。


 終業式は体育館で行われた。校長の話を聞き流して、夏休みの注意事項を聞き流して、大掃除をして、教室に戻る。通知表を受け取って、学活が終わる。いつもの手順だ。


 ただ、今年は一つだけ違うことがあった。


「千雪ちゃん、通知表どうやった?」


 小夏が自分の通知表をひらひらさせながら聞いてきた。


「……見せないけど。悪くはなかった」


「千雪ちゃん絶対成績いいやろ」


「小夏ちゃんは?」


「英語だけ良くて、あとは普通。転校多いと授業の進度がズレるから、毎回追いつくのが大変やねん」


「わからないところあったら教える」


「えっ、ほんま? 千雪ちゃん先生の授業受けたい」


「先生はやめてって何回——」


「何回言われてもやめへん。だって千雪ちゃんの教え方好きやもん」


 好き。教室の中で、さらりとその言葉を使う。二人だけに通じる周波数。他のクラスメイトには恋愛の意味だとは伝わらない。ただの友達同士の「好き」に聞こえる。でも千雪にはわかる。小夏の目の温度で。


 ——こういう時間が、ずっと続けばいいのに。


 そう思った瞬間、胸の奥にかすかな影が落ちた。夏休みが来る。四十日間。学校で毎日会えるこの距離感が、一旦途切れる。


 もちろんLINEはあるし、会おうと思えば会える。寧々が車を出してくれれば旅行にも行ける。でも——教室のこの席で、隣り合って弁当を食べるこの時間だけは、九月まで失われる。


「千雪ちゃん、何考えてるん?」


「……何も」


「嘘。眉間にちっちゃい皺が寄ってた」


「寄ってない」


「寄ってたって。千雪ちゃんは考え事する時に右の眉がほんの少しだけ上がるねん」


 千雪は少し驚いた。自分の癖を指摘されたのは初めてだった。


「……よく見てるね」


「千雪ちゃんが言ったやん。気になるから自然と見えてしまうって。——うちも同じ」


 千雪は文庫本で顔を隠した。教室の中だ。赤くなっている場合ではない。


「——放課後、屋上で待っとるから。来てな」


 小夏がそう言って席を立った。教室を出ていく後ろ姿を見送りながら、千雪は文庫本を閉じた。


 放課後。終業式の日は部活動もない。


 千雪は教室で荷物をまとめてから、屋上への階段を上がった。普段は立入禁止だが、終業式の日は清掃のために解放されることがある。今日もドアは開いていた。


 屋上に出ると、夏の風が白い髪を攫った。リボンがはためく。空は——青かった。梅雨明け間近の、透き通るような青。雲が少しだけ浮かんでいて、その輪郭が日差しに白く光っている。


 小夏がフェンスの近くに立っていた。風で茶色い髪が舞っている。千雪が来たことに気づいて振り返った。


「来てくれた」


「来てって言ったのはそっちでしょ」


「そうやけど——断られたらどうしようって、ちょっとだけ思ってた」


「断る理由がない」


「……千雪ちゃんのそういうとこ、ほんまに好き」


 ここには二人しかいない。教室の中と違って、声を潜める必要がない。「好き」がそのままの温度で空気に放たれて、七月の風に乗っていく。


 小夏が鞄の中から、何かを取り出した。


 小さな紙袋だった。手のひらサイズの、白い紙袋。リボンがかけてある——千雪の髪と同じ、水色のリボン。


「……被った」


「えっ」


 千雪が自分の編み下ろしの毛先に結んだリボンを指差した。同じ水色。小夏の紙袋にかかっているリボンと、全く同じ色。


 二人で数秒見比べて——同時に吹き出した。


「なんで被るねん……。千雪ちゃんが今日リボンつけてるの見た時、めっちゃ焦ったわ」


「私も焦ればよかった?」


「焦らんでええけど——はい、これ」


 小夏が紙袋を差し出した。千雪は受け取って、中を覗いた。


 小さな箱が入っていた。開けると——ヘアクリップが一つ。銀色の細い金具に、小さな透明の石がいくつかあしらわれている。華美ではない。でも光を受けるとほんのり虹色に輝く。


「……綺麗」


「千雪ちゃんの白い髪に合うと思って。——あの、店で三十分くらい迷ってんけど、シンプルなほうが千雪ちゃんらしいかなって」


「うん。——すごく、いい。ありがとう」


 千雪はクリップを手のひらの上に載せた。銀色の金具が夏の光を反射して、白い肌の上に小さな虹を落とした。


「つけてもいい?」


「もちろん」


 千雪は編み下ろしの結び目の少し上——耳の横あたりに、クリップを挿した。銀色と透明の石が、白い髪の中で控えめに光る。


「——どう?」


 小夏の返事が来なかった。見ると、小夏が口元に手を当てたまま固まっていた。目が潤んでいる。


「……似合いすぎて言葉出ぇへん」


「大げさ」


「大げさちゃう。——千雪ちゃんの髪に馴染みすぎて、最初からそこにあったみたいに見える。買ってよかった——ほんまに」


 千雪はクリップに触れた。指先に冷たい金属の感触。小夏が選んでくれたもの。三十分迷って、千雪のために選んでくれたもの。


「——私も、渡したいものがある」


「え」


 千雪は自分の鞄を開けた。中から取り出したのは——小さなタッパーだった。


「昨日の夜、焼いた」


 蓋を開けると、中には小さなクッキーが並んでいた。白い生地にレモンの皮が散っている。雪のような粉糖がかかっている。一つ一つが星の形をしていた。


「……かわいい。星の形——しかもめっちゃ綺麗に揃ってる」


「型で抜いた。レモンのスノーボールクッキー」


「名前は?」


 千雪は少し迷った。この名前は——もう決めてある。昨日の夜、最後の一枚を焼き上げた時に浮かんだ名前。今までで一番、自分の気持ちに近い名前。


「……『夏のはじまりに降る雪』」


 小夏が息を呑んだ。


「夏のはじまりに降る雪——。夏に、雪……」


「七月に焼いた、雪みたいな白いクッキーだから。それと——」


 千雪は言葉を探した。自分の気持ちを正確に描写する語彙がいつも足りない。でも今日は——足りなくてもいいから、全部出す。


「——私は冬の名前を持ってる。千雪。千の雪。小夏ちゃんは夏の名前。小さな夏。冬と夏が出会うなんて、本当ならありえない。でも——出会った。出会って、好きになった。夏の始まりに雪が降るみたいに——ありえないけど、ここにある」


 小夏の目から涙がこぼれた。今度は拭わなかった。


「千雪ちゃん——」


「言葉が下手だからうまく言えないけど——小夏ちゃんに出会えたことが、嬉しい。すごく」


「——うちも」


 小夏が涙を流しながら笑った。千雪がこの世界で一番好きな笑顔。泣きながら笑う、小夏だけの顔。


「うちも——千雪ちゃんに出会えて、ほんまによかった。白い髪を見た瞬間に世界が変わった。大げさとかちゃう。ほんまに変わったんよ。うちの世界に——千雪ちゃんの白が入ってきて、全部が明るくなった」


 千雪は唇を噛んだ。泣きたくなかった。泣いたら言葉が出なくなる。まだ——もう少しだけ、言いたいことがある。


「小夏ちゃん」


「うん」


「前に——雨の名前をつけた日があったでしょ。小夏ちゃんに聞かせたいって思った時に聞かせてって、言ってくれた」


「うん。覚えてる」


「あの時の名前——今なら言える」


 小夏が目を見開いた。涙が頬に筋を作っている。風が屋上を渡って、二人の髪を揺らした。白と茶色が入り混じって、空に溶けていく。


「——恋雨」


 声に出した。心の中でしか転がしたことのなかった名前を、初めて。


「こいさめ。——小夏ちゃんの部屋で、手を繋いだ日の雨の名前。恋の雨って書いて、恋雨」


 小夏が両手で口を覆った。涙が指の隙間からこぼれ落ちていた。


「——あかん。千雪ちゃんのネーミングセンスが天才すぎて泣いてまう」


「泣かせたくて言ったんじゃないんだけど」


「わかってる。わかってるけど——恋雨って。あの雨に、そんな名前つけてくれてたんや」


「あの日からずっと。——小夏ちゃんにだけ、聞かせたかった」


 小夏が涙を拭って——一歩、近づいた。


「千雪ちゃん」


「うん」


「予告。——抱きしめてもええ?」


 千雪の心臓が跳ねた。屋上には二人しかいない。七月の風と、青い空と、遠い蝉の声だけが証人だ。


「……いいよ」


 小夏の腕が、千雪の体を包んだ。


 温かかった。手の温度よりもずっと広い面積で、小夏の体温が千雪を包んでいた。頬の横に小夏の髪が触れた。柑橘系のシャンプーの匂い。心臓の音が——二人分、聞こえた。どちらが速いのかわからないくらい、両方速かった。


 千雪の腕が、ゆっくりと小夏の背中に回った。自分から人に触れる。その行為が、千雪にとってどれほど大きな一歩なのか——小夏は知っている。知っているから、体が微かに震えた。


「千雪ちゃん——腕、回してくれたん」


「……うん」


「嬉しい。めっちゃ嬉しい。——千雪ちゃんの手、冷たい」


「ごめん」


「謝らんでええ。——気持ちいいから」


 前にも同じことを言われた。最初に髪に触れた日。あの時と同じ言葉が、今はまったく違う重みを持って、千雪の耳に届いた。


 どれくらいそうしていたかわからない。たぶん長くはなかった。でも千雪にとっては、永遠みたいに長く感じた。


 ゆっくりと体を離した。二人とも顔が赤かった。色素の薄い千雪のほうが、たぶんひどかった。


「……見ないで。今すごい顔してると思う」


「見る。——千雪ちゃんが赤くなってるの見るの、うちの特権やから」


「特権って何」


「彼女の特権」


 ——彼女。


 その単語が、七月の風に乗って耳に届いた時、千雪の中で何かが決定的に着地した。ずっと宙に浮いていたものが、ようやく地面に触れた感覚。


「……彼女、か」


「あかん?」


「あかんくない。——ちょっと、慣れるのに時間がかかるだけ」


「ゆっくり慣れたらええよ。うちもまだ全然慣れてへんし。自分に彼女がおるっていう事実が——まだ夢みたいで」


「夢じゃない。現実」


「うん。——現実のほうが、夢よりずっといい」


 小夏がまた笑った。泣いた後の目が夏の光を受けて、琥珀色に透けていた。


 千雪はタッパーを差し出した。


「食べて。感想聞かせて」


「あ、クッキー。忘れるとこやった」


 小夏が星型のクッキーを一つ摘んで、口に入れた。


 咀嚼。沈黙。千雪はいつもの緊張感——自分の料理を食べてもらう時の、あの一瞬を待った。


「——おいしい」


 小夏の声が、柔らかく震えた。


「レモンの酸味と——粉糖の甘さが——あとバターの風味が——って、うちの語彙じゃ全然足りひんわ。とにかくめっちゃおいしい。今まで千雪ちゃんに作ってもらったお菓子の中で一番好き」


「……ありがとう」


「これ、毎日食べたい」


「毎日は作れないけど——たまになら」


「たまにで十分。千雪ちゃんが作ってくれるなら、なんでもおいしい」


 千雪は小夏の横顔を見つめた。クッキーを食べている横顔。幸せそうに咀嚼している横顔。


 ——この人のために、もっと作りたい。


 もっとおいしいものを。もっと色々な名前をつけて。小夏が笑ってくれる料理を。小夏が「ええな」と言ってくれる名前を。


 それが千雪の——これからの「好き」の形なのだろう。


「なあ千雪ちゃん」


「うん」


「夏休み、何する?」


「まだ決めてない。姉がたぶん旅行を計画してると思うけど」


「ハイエースで?」


「うん」


「うちも連れてって」


「聞いてみる。——たぶん、寧々姉は喜ぶと思う」


「三人で旅行かあ。——あ、いや。今はうちと千雪ちゃん付き合ってるから、寧々さん的にちょっと複雑やったりせぇへん? 三人目の居場所がなくなるっていうか——」


「姉はそういうのは気にしない。むしろ——小夏ちゃんと一緒のほうが、安心すると思う」


「安心?」


「……私の隣に誰かがいることを、姉はずっと望んでたから」


 小夏がクッキーの粉糖を指先から舐め取りながら、静かに頷いた。


「寧々さん——ほんまにええお姉さんやな。千雪ちゃんのこと、世界で一番大事にしてきた人」


「……うん。今でも」


「うちは——二番目でええから。寧々さんの次に、千雪ちゃんを大事にさせて」


「二番目じゃない」


「え?」


「寧々姉と小夏ちゃんは——種類が違うから。順番はつけられない」


 小夏がぱちぱちと目を瞬かせた。


「……同率一位?」


「同率一位は二つあってもいいって、前に言ったでしょ」


「言ってた。髪と料理の話の時に——。千雪ちゃんの同率一位に、うちも入れてもらえるんや」


「最初から入ってる。——気づかなかった?」


 小夏が俯いた。肩が小さく震えていた。笑っているのか泣いているのか——たぶん、両方だった。


「……気づいてた。気づいてたけど——信じるのが怖かった」


「もう信じていいよ」


「うん。——信じる」


 夏の風が吹いた。屋上のフェンスを越えて、二人の髪を一緒くたに攫っていった。白と茶色が混ざり合って、青い空に溶ける。


 千雪は空を見上げた。雲が少しだけ流れている。飛行機雲はない。代わりに、白い雲の端が日差しに透けて虹色に光っていた。彩雲だ。


「——あ」


 小夏も同じものを見ていた。


「綺麗やな。あれ何ていうん?」


「彩雲。雲の端に太陽の光が回折して虹色に見える現象」


「千雪ちゃん、詳しいな。——彩雲って、何か名前つけたくならん?」


「……もうついてる。彩雲っていう名前が」


「そうやけど——千雪ちゃんの名前でつけてほしいなって。ほら、今日のこの空に」


 千雪は空を見つめた。七月の空。終業式の日。屋上。小夏と二人。白いクッキーと銀のヘアクリップ。交わした言葉。流した涙。繋いだ手。触れた体温。


「——『白のち、夏』」


 小夏がこちらを向いた。


「白のち、夏。天気予報みたいやな。——曇りのち晴れ、みたいな」


「うん。白い曇り空が——やがて夏の青に変わっていく。そういうイメージ」


「白は千雪ちゃんで——夏は」


「……小夏ちゃん」


 小夏が目を見開いた。口が薄く開いて、何か言おうとして、言葉にならなくて。代わりに——ゆっくりと、噛みしめるように笑った。


「——最高や。千雪ちゃんの名前の中で、一番好き」


「……ありがとう」


「白のち、夏。——白い世界にいた千雪ちゃんのところに、夏が来たってことやんな。うちが、千雪ちゃんの夏になれたってことやんな」


「……そう、だと思う。自分で言っておいてちょっと恥ずかしいけど」


「恥ずかしがるのも含めて最高やから安心して」


 千雪は帽子を深く被り直した。もう手遅れだった。顔が赤い。白い肌が全力で感情を裏切っている。


「……帰ろう」


「うん」


 屋上の扉に向かって歩き出す。肩が並ぶ。腕が触れそうになるたびに、互いの体温が空気を介して伝わってくる。


 階段を降りる前に、小夏が足を止めた。


「千雪ちゃん」


「うん」


「手——繋いでもええ?」


 予告制。最初に決めた二人のルール。あの日からずっと守られてきたルール。


「……いいよ」


 温かい手が、冷たい手を包んだ。指が絡まった。白と肌色が交互に並ぶ。体温が混ざり合って、二人だけの温度が生まれる。


 階段を降りた。誰もいない廊下を、手を繋いだまま歩いた。昇降口に着く手前で手を離した。校門の外には人がいるから。まだ——二人の世界を、全部の人に開く準備はできていない。でも、それでいい。今はまだ。


 靴を履き替えて外に出ると、夏の光が二人を出迎えた。千雪はサングラスをかけた。小夏がその横顔を見て、くすっと笑った。


「サングラスの千雪ちゃん、やっぱりかっこいいわ」


「かっこよくない。日差し対策」


「実用とおしゃれの両立。——最初に会った時にも言ったな、それ」


「覚えてるんだ」


「全部覚えてる。千雪ちゃんのこと、全部」


 校門を出て、通学路を歩く。桜並木の桜は、四月の白い花びらの代わりに、濃い緑の葉を茂らせていた。木漏れ日が二人の上に斑模様を落とす。白い髪と茶色い髪に、光と影が交互に踊る。


「夏休み——長いなあ」


「四十日」


「四十日も千雪ちゃんに毎日会われへんの、しんどいわ」


「毎日は無理でも——会える日は作る」


「うん。あと、LINEは毎日する」


「してる。今も」


「今以上にする。朝のおはようから夜のおやすみまで」


「……今とほぼ同じでは」


「同じでええねん。同じことをずっと続けていきたいだけやから」


 千雪は足を止めた。小夏も止まった。


 振り返った千雪の顔を、小夏が見上げた——いや、千雪のほうが小さいから、正確には千雪が見上げている。サングラスの奥の桜色の瞳と、琥珀色の瞳が向かい合った。


「小夏ちゃん」


「うん」


「好き」


 二回目の「好き」。でも、雨の日の部屋で言った一回目とは違う響きだった。あの時は震えていた。絞り出すようだった。今は——穏やかだった。日常の中に溶け込んだ「好き」。これからもずっと言い続ける「好き」。


 小夏の耳が赤くなった。目が潤んだ。でも泣かなかった。代わりに——今日一番の笑顔を、七月の太陽の下で咲かせた。


「——うちも、好き。千雪ちゃんのこと。ずっと」


 蝉が鳴いていた。夏の風が吹いていた。白い髪が揺れて、銀のヘアクリップがきらりと光った。


 千雪は歩き出した。小夏が隣に並んだ。手は繋がなかった。通学路には人がいたから。でも——肩と肩の距離は、指一本分。触れようと思えばいつでも触れられる距離。


「なあ千雪ちゃん」


「うん」


「九月になったらさ——二学期始まるやんか」


「うん」


「その時は——教室で隣の席になれたらいいなあ」


「席替えは運だから、約束できない」


「運かあ。——じゃあ、運がダメでも昼休みは隣やな」


「うん。それは約束できる」


「よし。——あと、千雪ちゃんのお弁当のおかず一個もらう権利も欲しい」


「一個だけなら」


「二個は?」


「欲張らないで」


「一個半」


「半分って何。——まあ、考えておく」


 小夏がけらけら笑った。千雪も——少しだけ、笑った。口角が三ミリ上がる程度の、小さな笑み。でもそれは、四月の初めには存在しなかった種類の笑みだった。


 駅に着いた。改札を並んで通る。ホームに降りると、電車が来るまであと五分。


「千雪ちゃん」


「うん」


「夏休みの間に——もっと好きになると思う。千雪ちゃんのこと」


「……もっと?」


「うん。今でも十分好きやけど、たぶんまだ足りひん。千雪ちゃんの知らんところが、まだいっぱいあるから。一個知るたびに一個好きになるから——夏が終わる頃には、今より四十個くらい好きが増えてると思う」


「四十個」


「夏休みが四十日やから。一日一個」


「……計算が単純すぎる」


「シンプルなほうがわかりやすいやろ」


 千雪は小さく息を吐いた。笑いなのか呆れなのか、自分でもわからない。でも——胸の中は、温かかった。


「私も——たぶん、増える」


「好き?」


「うん。——数えないけど」


「数えんでええよ。数え切れへんくらい増えたら、それはそれで幸せやから」


 電車が来た。乗り込む。今日は二人とも同じ方向だ。並んで座った。休日の車内は空いていて、座席にゆとりがある。でも二人の間に隙間はなかった。肩が触れていた。布越しに体温が伝わってくる。


 千雪は窓の外を見た。流れていく街並み。夏の光に照らされた屋根。走り去る電柱。その全てが、いつもより鮮やかに見えた。


 窓ガラスに映る自分の顔は——笑っていた。


 白い髪。銀のヘアクリップ。水色のリボン。サングラスの奥の桜色の瞳。


 鏡の中の自分は——幸せそうだった。


 寧々が言っていた。「最近すごくいい顔してるよ」と。あの時は否定した。今は——否定しない。


「千雪ちゃん」


「うん」


「窓に映ってる千雪ちゃん、めっちゃ笑ってるで」


「……知ってる」


「知ってて止めへんの?」


「——止めない」


 小夏が嬉しそうに目を細めた。


 電車が走っていく。白い髪と茶色い髪が、窓ガラスの中で並んでいる。冬の名前を持つ少女と、夏の名前を持つ少女が、肩を寄せて座っている。


 これから夏が来る。長い、四十日の夏が。


 その先には秋が来て、冬が来て、また春が来る。季節は巡る。何度でも。


 でも——どの季節にも、隣に小夏がいる。そう思えることが、今の千雪にとって一番の幸福だった。


 白のち、夏。


 白い世界に、夏が来た。


 千雪の世界は——もう、白いだけではなかった。

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