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第十一話「白と琥珀の温度」

 手を繋いだまま、どれくらいの時間が経っただろう。


 雨音が部屋を満たしている。窓ガラスを伝う雨粒が、曇った光を不規則に揺らして、小夏の部屋の壁に淡い影を落としていた。


 千雪は自分の右手を見つめていた。小夏の左手と繋がっている。指と指が交互に組み合わさって、白と肌色が交互に並んでいる。体温の差がまだある。千雪の指は冷たく、小夏の指は温かい。でも——触れている境界線のあたりだけ、少しずつ同じ温度になりかけていた。


「……千雪ちゃん」


「うん」


「手ぇ繋いだままやけど——これ、いつまで繋いでてもええの」


「……いつまででも」


「いつまででも。——それ漫画のセリフみたいやな」


「漫画じゃない。現実」


「うん。——現実やな」


 小夏が千雪の手をきゅっと握り直した。その力加減が優しくて、千雪は目を伏せた。


 泣いた後の小夏の顔は、まだ少し赤かった。目元に涙の跡が残っている。でもその表情は——千雪が今まで見た小夏のどの顔よりも、穏やかだった。隠し事をしなくていい人の顔。全部を差し出した後の、軽くなった顔。


「千雪ちゃん」


「うん」


「ひとつ聞いてもええ?」


「いいよ」


「いつから——うちのこと、好きやったん」


 千雪は少し考えた。いつから。明確な起点があったかどうか。


「……わからない。気づいたのは、五月の終わり頃。姉に聞かれて——自分の中で名前をつけた」


「名前をつけた。——千雪ちゃんらしいな。なんて名前?」


「名前はつけてない。気持ちに。ただ——『好き』だって、認めた」


「ああ、そういうことか。名前をつけたっていうのは——ラベルを貼ったってことやな」


「うん。でも、好きになり始めたのはもっと前だと思う。たぶん——最初から」


「最初から?」


「小夏ちゃんが転校してきた日。教壇の横から私を見た時。——あの視線が、今まで受けてきたどの視線とも違った。それが、ずっと引っかかってた」


 小夏が息を呑んだ。


「あの時——うち、千雪ちゃんの髪を見て、頭が真っ白になってん。白いのは髪のほうやのに、うちの頭が真っ白。——綺麗すぎて、何も考えられへんくなって。気づいたらずっと見てた」


「知ってる。視線が逸れなかったから」


「バレてたんや……」


「私は視線に敏感だから。——でも、小夏ちゃんの視線だけは嫌じゃなかった。それが不思議で、ずっと考えてた」


「考えた結果が——好き」


「……うん」


 雨音が少しだけ弱まった。窓の外の灰色が、ほんの少し明るくなった気がした。


「千雪ちゃん。うちも——いつからか言語化してみるわ」


「うん」


「たぶん、好きって自覚したのは——伊豆の旅行の時。竹林で、千雪ちゃんに『全部ひっくるめて好き』って言った時。あの時は友達としてって言い直したけど——言い直した瞬間に、嘘やなって自分でわかった」


 千雪は目を瞬かせた。あの時。竹林の木漏れ日の中で、小夏が言い直した瞬間。千雪自身も、安堵と失望を同時に感じた瞬間。


「——わかっていたなら、なんで言い直したの」


「怖かったから。千雪ちゃんに拒絶されるのが。——あと、うちが好きなのが百合アニメの影響なんちゃうかって。現実と創作を混同してるだけなんちゃうかって。自分の気持ちが本物かどうか、自信がなかった」


「今は?」


「今は——本物やって思う。だって漫画のキャラに手汗かかへんもん。今めっちゃ手汗かいてるもん」


「……確かに少し湿ってる」


「言わんといて!!」


 小夏が繋いだ手を引っ込めようとして、千雪がそれを握り返した。静かに、でも確実に。


「離さないで。——手汗くらい気にしない」


 小夏の動きが止まった。


「……千雪ちゃんのそういうとこ。反則やって」


「何が反則なの」


「全部」


 小夏が空いているほうの手で目元を拭った。また少し泣きそうになっていたらしい。千雪は黙ってそれを見ていた。小夏が泣くのを見るのは、もう何度目だろう。でも今日の涙は——今までのどれとも違う温度をしていた。


 窓の外で雨が小降りになっていく。灰色の空に、薄い光が差し始めていた。


 しばらくして、二人は手を離した。自然に。どちらからともなく。


 小夏が台所でお茶を淹れてきてくれた。麦茶。氷の入ったグラスが二つ。千雪は受け取って一口飲んだ。冷たい液体が、熱を持った体の内側をゆっくり冷ましていく。


「なあ千雪ちゃん」


「うん」


「うちら——これからどうなるん?」


 千雪は麦茶のグラスを両手で包んだ。結露した水滴が指先を濡らす。


「……どうなるんだろう」


「カップルになる……ってこと? 付き合うってこと?」


 付き合う。その言葉を口にした小夏の声が、少し上擦っていた。


「……そう、なるのかな」


「『なるのかな』って——千雪ちゃんはどうしたいん?」


 千雪は考えた。どうしたいか。好きだと伝えた。好きだと返された。ここから先は——。


「……一緒にいたい。今までみたいに。お昼を食べて、帰り道を歩いて、LINEして。それに加えて——」


「加えて?」


「……手を、繋いだりとか」


 声がどんどん小さくなった。最後はほとんど吐息だった。耳が熱い。白い肌の上の赤が、自分でわかるくらいはっきりと浮かんでいるはずだ。


「——千雪ちゃんが手繋ぎたいって言ってる……。やば。やばい。心臓が百合アニメ最終回並みに暴れてる」


「……百合アニメで例えないで」


「ごめん。でもうちの語彙はそこにしかないねん。——うちも、同じ気持ちやよ。一緒にいたい。今までの全部を続けたい。プラス、手繋ぐのとか——えっと、他にも——」


 小夏が言葉を探している。千雪も同じものを探していた。二人とも、恋愛の語彙を持ち合わせていなかった。千雪は寡黙すぎて、小夏はアニメの語彙しかなくて。


「——じゃあ、付き合おう」


 千雪が言った。


 自分で驚いた。こういう時に先に動くのはいつも小夏のほうだったのに。でも——待っているだけでは、二人ともいつまでも言葉を探し続ける。だから、千雪が踏み込んだ。


「うん。——付き合おう」


 小夏が頷いた。声が震えていた。でも笑っていた。


「千雪ちゃんから言ってくれるとは思わんかった。——うちが言うべきやったのに」


「どっちが言っても同じ」


「同じやな。——うん。同じや」


 二人の間に、新しい沈黙が降りた。さっきまでとは質の違う沈黙。緊張でも気まずさでもなく——満たされた静けさ。


 雨が上がっていた。窓の外に、薄い光が差し込んでいる。雲の切れ間から覗いた空は、灰色と水色のあいだの、名前のつけにくい色をしていた。


「あ——雨止んだ」


 小夏が窓のほうを見た。千雪も同じほうを見た。二人の視線が同じ空を辿っている。


「千雪ちゃん」


「うん」


「今日のこの雨に——名前つけた?」


 千雪は少しだけ目を瞠った。まさか聞かれると思っていなかった。


「…………つけた」


「聞きたい」


「恥ずかしいから嫌」


「ええー。千雪ちゃんのネーミング、いつも好きなのに」


「今回のは——いつもと違うから」


「違うって?」


 千雪は麦茶のグラスに目を落とした。氷がほとんど溶けていた。


「いつもは、見たものに名前をつける。でも今回は——自分の気持ちに名前をつけた。だから——人に聞かせるようなものじゃない」


「自分の気持ちに名前をつけた」


 小夏がその言葉を噛みしめるように繰り返した。


「——もし千雪ちゃんが聞かせたいって思った時には、聞かせてな。うちはいつでも聞く準備できてるから」


「……うん」


 千雪は心の中で、その名前をもう一度転がした。


 恋雨。


 いつか——もう少しだけ、この温度に慣れたら。声に出しても恥ずかしくないくらい、この気持ちが自分の中に馴染んだら。その時に、伝えよう。


 夕方になった。千雪は帰る支度をした。


 小夏が玄関まで見送りに来た。靴を履いて、ドアノブに手をかける。振り返ると、小夏が廊下に立っていた。


「今日——来てくれてありがとう」


「うん。カルボナーラ、また作る」


「うちの家で?」


「……小夏ちゃんが来てくれたら、うちでも」


「千雪ちゃんの家? ——寧々さんがおるやん」


「……そう」


 二人の間に、同じことが浮かんでいた。寧々にどう伝えるか。


「言わないと、いけないよね」


 千雪がぽつりと言った。


「寧々さんに——うちらが付き合ってるって?」


「……うん」


「千雪ちゃんは——言いたい?」


「言いたいかどうかというより——隠したくない。姉には」


 小夏が小さく頷いた。


「うちも——隠したくない。寧々さんは千雪ちゃんの一番大事な家族やから。その人に嘘つきたくないし——」


「でも、怖い?」


「正直に言うと——ちょっとだけ」


 千雪は理解した。小夏にとって、寧々はまだ「千雪の姉」であり、「審査をした人」であり、「自分を受け入れてくれるかどうかわからない大人」だ。百合の趣味を友人に否定された過去を持つ小夏にとって、カミングアウトはいつだって恐怖を伴う。


「——一緒に言おう」


「え?」


「私と小夏ちゃんで、姉に一緒に伝える。私が隣にいるから」


 小夏の目が潤んだ。今日何度目の涙だろう。でも、もう拭わなかった。


「……千雪ちゃんは、ほんまにズルい」


「よく言われる。小夏ちゃんに」


「うちしか言ってへんやん」


「うん。小夏ちゃんにしか言われたことない」


 小夏が泣き笑いの顔で「反則」と繰り返した。千雪は小さく笑って、ドアを開けた。


「じゃあ、また明日」


「うん。また明日。——あ、千雪ちゃん」


「うん?」


「明日の髪型——何にするか、もう決めた?」


 千雪は少し考えた。


「……まだ。でも——小夏ちゃんが好きなの、何かある?」


「えっ、リクエストしてええの?」


「一回だけ」


「一回だけ!? 貴重すぎるやん……。えっと、えっと——じゃあ、下ろしたまま。今日の編み込みカチューシャも好きやけど——全部下ろしてるのが、一番好き」


「……下ろしたまま」


「うん。千雪ちゃんの白い髪が全部見えるのが——一番綺麗やから」


 千雪は俯いた。前髪の隙間から白い睫毛が震えていた。


「……わかった」


「ほんまに?」


「明日は、下ろす」


「——楽しみにしてる」


 ドアが閉まった。廊下を歩いて、階段を降りて、マンションの外に出た。雨上がりの空気は湿っていたが、清潔な匂いがした。洗われたアスファルト。洗われた空気。


 駅まで歩きながら、千雪は自分の右手を見つめた。さっきまで小夏の手が繋がっていた手。温度は消えかけていたが、感触はまだ残っていた。


 嬉しいのか、怖いのか、不安なのか。全部だ。全部が同時にある。


 でも——一番大きいのは、嬉しさだった。圧倒的に。


 電車に乗って、帰宅した。玄関を開けると、リビングからキーボードを叩く音が聞こえた。


「おかえりー。どうだった?」


 寧々がソファからひょこっと顔を出した。千雪はリビングに入って、鞄を下ろして、姉の向かい側に座った。


「寧々姉」


「ん?」


「来週——小夏ちゃんと、一緒にここに来る」


「おっ、いいじゃん。ご飯作る? 姉ちゃんは何もできないけど場所は提供するよ」


「うん。その時に——話したいことがある。二人で」


 寧々の指がキーボードの上で止まった。画面を見つめたまま、数秒の沈黙。


「——二人で」


「うん」


「ちーちゃんと天野ちゃん、二人で」


「うん」


 寧々がゆっくりとノートパソコンを閉じた。椅子の上で体の向きを変えて、千雪のほうを向いた。その表情を、千雪は正面から見た。


 姉の目は——どこか遠い場所を見ているようだった。千雪の向こう側の、もっと奥。何年も前の記憶を辿っているような、そんな目。


「——ちーちゃん」


「うん」


「姉ちゃん、たぶんもう答え知ってるよ」


 千雪の心臓が跳ねた。


「……いつから」


「ゴールデンウィークの伊豆。帰りの車の中で、ちーちゃんが天野ちゃんの寝顔を振り返って見た時。——あの目は、友達に向ける目じゃなかった」


 見抜かれていた。あの時から。千雪は——知られていたくないと思っていたのか、知っていてほしいと思っていたのか。たぶん、後者だ。寧々に隠し事をしている自分が嫌だった。


「でもね、ちーちゃん。知ってることと、本人の口から聞くことは違うから。——来週、ちゃんと聞くよ。二人の話」


「……怒らない?」


「何を怒るの」


「相手が——女の子だってこと」


 寧々がぱちくりと目を瞬いた。それから——ふ、と息が漏れた。笑ったのだ。柔らかく。


「ちーちゃん。姉ちゃんが怒ると思ってたの?」


「……少しだけ」


「怒らないよ。男でも女でも宇宙人でも——」


「宇宙人はいないって前にも言った」


「ちーちゃんが幸せなら、姉ちゃんは幸せなんだよ。それだけ。——それだけなんだよ、ちーちゃん」


 寧々の声が少しだけ揺れた。千雪は姉の目に薄い光が浮かんでいるのを見た。泣いてはいない。泣く手前の、ぎりぎりの場所にいる。


「姉ちゃんはさ——ちーちゃんが誰かを好きになる日が来るのを、ずっと待ってたんだよ。ちーちゃんは小さい頃から一人でいることが多くて——学校で友達ができなくても平気な顔してて。でもそれが平気じゃないことを姉ちゃんは知ってたから。いつかちーちゃんの隣に、姉ちゃん以外の誰かが立ってくれる日が来たらいいなって——」


 寧々が言葉を切った。目元を手の甲で乱暴に拭った。


「——なんで姉ちゃんが泣いてんだよ。ちーちゃんの報告イベントなのに。主役泥棒してどうすんの」


「……泣いていいよ、寧々姉」


「泣かない。泣いたら姉の威厳ゲージがゼロになる」


「もともとゼロでは」


「辛辣!!」


 寧々がぱたぱたと手で顔を扇いで、強引に表情をリセットした。数秒かけて笑顔に戻る。いつもの、軽くて温かい笑顔。


「——来週ね。わかった。姉ちゃんはリビングのソファに正座して待ってるから」


「正座はしなくていい」


「じゃあ胡座で」


「普通に座って」


 千雪は立ち上がって、キッチンに向かおうとした。夕飯を作らなければ。今日は——何を作ろう。特別なものがいい。今日という日に名前をつけるような、そんな料理がいい。


「……寧々姉」


「ん?」


「ありがとう」


「何が?」


「全部。——私を育ててくれたこと。私の髪を褒めてくれたこと。心配してくれたこと。今日、怒らないでいてくれたこと。全部」


 寧々が口を開きかけて——閉じた。もう一度開いて、また閉じた。三回目にようやく声が出た。


「——ちーちゃんが姉ちゃんに感謝の長文くれるの、人生初なんだが。ログに残していい?」


「好きにして」


「やった。スクショ——あ、音声か。録音——」


「録音はダメ」


 千雪はキッチンに立って、冷蔵庫を開けた。鶏むね肉がある。トマト缶、にんにく、バジル。チキンのトマト煮込みにしよう。


 にんにくをみじん切りにしながら、千雪は小さく呟いた。


「……『六月の約束煮込み』」


 リビングから寧々の声が飛んできた。


「聞こえた! 今日のネーミングも最高にちーちゃんだね!」


「聞こえてたの」


「姉ちゃんの耳は指向性マイクなんだが」


 千雪は包丁を動かしながら、口元が緩むのを止められなかった。


 翌日。月曜日の朝。


 千雪は、約束通り髪を下ろした。


 何もしない。アレンジなし。ブラッシングとヘアミストだけ。白い髪がそのまま、背中の真ん中まで流れ落ちる。


 鏡の前で——少しだけ、不安になった。


 毎日アレンジをするのは、白い髪をもっと好きになるための作業だった。でも同時に——素の自分を守る鎧でもあった。手を加えることで、「ただ白いだけの髪」ではなく「作品」にする。そうすることで、他人の視線から自分を切り離してきた。


 今日はその鎧がない。むき出しの白。


 ——でも。


 小夏が「一番好き」だと言ったのは、この姿だ。何も足さない、何も引かない、そのままの千雪の白。


 深呼吸をして、洗面所を出た。


「——おお」


 寧々がトーストを咥えたまま固まっていた。


「ちーちゃん、下ろしてる。しかもアレンジなし」


「うん」


「誰かのリクエスト?」


「……そう」


「天野ちゃんだね」


 否定しなかった。


 教室に入った瞬間、空気が変わったのがわかった。クラスメイトの何人かが千雪を見て——見慣れない姿に小さく反応していた。千雪はいつも何かしらのアレンジをしている。完全に下ろしているのは、学校では初めてかもしれない。


 視線。いくつかの視線が千雪の髪に向けられる。好奇の目。驚きの目。千雪は反射的に肩を強張らせかけた——が、すぐに力を抜いた。大丈夫。今日は、見られるために下ろしたのだ。一人の人に。


 小夏の席を見た。まだ来ていない。千雪は自分の席に座って、文庫本を開いた。


 三分後、教室のドアが開いた。


 天野小夏が入ってきた。


 千雪は文庫本を持ったまま、顔を上げた。小夏と目が合った。小夏の足が止まった。


 昨日と同じだった。あの転校初日と同じだった。小夏の琥珀色の目が千雪を捉えて、動かなくなる。息を呑む気配。視線が千雪の髪をなぞって、白い毛先まで辿って、また瞳に戻ってくる。


 でも、あの日とは決定的に違うことが一つあった。


 今の千雪は——小夏の目の中にある感情の名前を、知っている。


 小夏がゆっくりと歩いてきた。千雪の席の横に立った。


「——約束、守ってくれたんや」


「リクエストだったから」


「……めっちゃ綺麗」


「ありがとう」


 短い会話。でもその奥で、昨日の告白の温度がまだ灯っている。言葉の端々に、二人だけが知っている秘密が滲んでいた。


 小夏が自分の席に向かいながら、小声で言った。


「——今日のうち、たぶんずっと千雪ちゃん見てるから。覚悟しといて」


「……いつものことでしょ」


「いつもよりひどいと思う」


 千雪は文庫本で顔を隠した。口元が緩んでいるのを、誰にも見られたくなかった。


 一週間は、静かに過ぎた。


 教室での二人は、傍目にはほとんど変わらなかった。昼休みに一緒に弁当を食べて、放課後に一緒に帰る。LINEのやり取りも、頻度は同じ。


 でも、微細な変化はあった。


 指先が触れる頻度が増えた。消しゴムを貸す時、プリントを渡す時、帰り道で並んで歩く時。どれも偶然を装えるくらいの、かすかな接触。でも二人にとっては——全部が意味を持っていた。


 LINEの中身も変わった。「おやすみ」の後に、小さなハートの絵文字が一つだけつくようになった。最初につけたのは小夏で、千雪は三日迷ってから自分もつけるようになった。寧々にスマートフォンの画面を見られた時は死ぬかと思ったが、姉は何も言わずにニヤニヤしていただけだった。


 金曜日の夜、千雪は小夏にLINEを送った。


『明日、うちに来て。寧々姉に話そう』


 返信は一分後に来た。


『うん。——緊張するけど、千雪ちゃんが隣にいてくれるなら大丈夫』


『大丈夫。私が隣にいる』


『……千雪ちゃん、最近めっちゃ男前なこと言うな』


『男前じゃない。女だから』


『そういうとこが男前って言うてんねん笑』


 千雪はスマートフォンを枕元に置いて、天井を見上げた。


 明日。寧々に伝える。二人で。


 姉は「もう知ってる」と言っていた。怒らないとも言ってくれた。それでも——声に出して伝えるのは、自分の中で確認作業でもある。口にすることで、自分の気持ちがさらに輪郭を帯びる。


 千雪は目を閉じた。白い髪が枕の上に広がる。


 ——明日は、何の髪型にしよう。


 少し考えて——やめた。


 明日も、下ろしたままにしよう。


 小夏が好きだと言ってくれた、このままの自分で。


 土曜日の午前十一時。チャイムが鳴った。


 千雪が玄関を開けると、小夏が立っていた。淡いピンクのカットソーにジーンズ。髪はくるりんぱ。手には紙袋——中身はお菓子だろう。


「おはよう。——えっと、お邪魔します」


「おはよう。入って」


 リビングに案内すると、寧々がソファに座っていた。普段の寝巻き同然の格好ではなく、ちゃんとした服を着ている。千雪は少し驚いた。


「いらっしゃい、天野ちゃん。——座って座って。お茶出すね」


「あっ、ありがとうございます。これ、お菓子持ってきたんで——」


「お、気が利くじゃん。ありがと」


 寧々がキッチンに立ってお茶を淹れている間、千雪と小夏はソファに並んで座った。二人の間に拳一つ分の隙間。学校にいる時と同じ距離感——だが、千雪の左手が太ももの上でわずかに小夏のほうに傾いていた。小夏の右手も同じだった。触れてはいない。でも、いつでも繋げる距離。


 寧々がお茶を三つ持ってきて、向かいの椅子に座った。


 リビングが静かになった。テレビは消えている。窓の外から鳥の声がかすかに聞こえる。


「——じゃあ」


 寧々が背筋を伸ばした。姿勢を正すと、普段の緩さが消えて、年相応の——いや、年齢以上の落ち着きが現れた。


「話って何? ちーちゃん」


 千雪は小夏をちらりと見た。小夏が小さく頷いた。


 千雪は前を向いた。姉の目を見た。


「寧々姉。私と小夏ちゃんは——付き合ってる」


 短く、はっきりと。


 寧々は微動だにしなかった。表情も変わらない。ただ、目だけが——深く、静かに、千雪を見ていた。


 数秒の沈黙。


 寧々の視線が小夏に移った。


「天野ちゃん」


「はい」


「ちーちゃんのこと——幸せにしてくれる?」


 小夏が背筋を伸ばした。


「はい。——うちにできることは全部します」


「ちーちゃんが泣いたら?」


「一緒に泣きます。——で、泣き終わったら笑わせます」


「ちーちゃんの髪が白いことで、嫌な目に遭った時は?」


「うちが間に入ります。千雪ちゃんの髪は——うちが世界で一番好きやから」


 寧々が目を閉じた。長い息を吐いた。


 そして——立ち上がって、二人の前に来た。


 千雪と小夏、それぞれの頭に、片手ずつ置いた。


「——よろしくね、小夏ちゃん」


 呼び方が変わっていた。天野ちゃんではなく、小夏ちゃん。


「ちーちゃんの隣にいてくれて、ありがとう。姉ちゃんだけじゃ——足りなかった部分を、小夏ちゃんが埋めてくれた。それが——」


 寧々の声が震えた。


「——すごく、嬉しい」


 千雪の目から涙がこぼれた。今度は——嬉しくて泣いた。隣で小夏も泣いていた。寧々も泣いていた。三人とも泣いていて、誰も止められなくて、リビングに鼻をすする音だけが響いていた。


「——なんで三人とも泣いてんだよ。誰か一人くらいツッコミ役やれよ」


 寧々が涙を拭いながら笑った。


「寧々姉が泣くから伝染した」


「千雪ちゃんが先に泣いたやん」


「小夏ちゃんが一番先だった」


「えっ、うち? ……確かに一番先やったかも」


 三人で顔を見合わせて——同時に笑った。泣きながら笑った。


 千雪はその瞬間を、心の中でそっと、名前をつけた。


 ——『六月の、三つの涙』。


 誰にも言わない名前。でも、忘れない名前。

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