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第十話「雨よ、まだ」

 六月に入ると、空気が変わった。


 湿度が肌にまとわりつくようになり、朝の天気予報に傘マークが並ぶ日が増えた。梅雨の入口。千雪にとっては一年で最も過ごしやすい季節の始まりだった。曇天の柔らかい光は目に優しく、肌への負担も少ない。雨の日は世界が一段階おとなしくなるから、好きだ。


 ただし——髪の管理は難しくなる。


 湿度が高いと髪が水分を吸って膨らむ。千雪の髪は細いからうねりは出にくいが、それでもスタイリングの持ちが悪くなる。朝のセットに使うヘアミストを湿気対策用に切り替えて、仕上げのスプレーも変えた。細かい調整だが、これが仕上がりに大きく影響する。


 今日の髪型はハーフアップのくるりんぱ。上半分をまとめてくるりんぱにして、下ろした髪はそのまま。シンプルだが、くるりんぱの捻りが立体感を出してくれる。


 ——小夏に教えた技法だ。


 あの日から二ヶ月近くが経っている。最初は後ろが見えないと騒いでいた小夏が、今では自力でくるりんぱも三つ編みもできるようになった。先日は「ハーフアップのくるりんぱ挑戦してみた」と写真が送られてきて、少し歪んでいたけれど形にはなっていた。千雪は「七十点」と返した。小夏は「厳しい! でもありがたい!」と返してきた。


 教室に入ると、小夏が窓際の千雪の席の前に立っていた。髪を後ろで一つに結んでいる——くるりんぱだ。しかも昨日の写真より格段に上手くなっている。


「見て見て。今日のくるりんぱ、自己最高やと思うねん」


 背中を向けて後ろ頭を見せてきた。千雪は目を細めて確認した。捻りの位置、ゴムの隠れ具合、毛束の引き出し方。


「……八十五点」


「おっ、過去最高! あと十五点はどこで引かれた?」


「右側の毛束の引き出しが多すぎる。左右で量を揃えて」


「なるほど。明日修正する」


 小夏が真面目な顔でスマートフォンにメモしていた。「右の引き出し減らす」と打っているのが見えた。


 千雪は鞄を下ろしながら、小さな満足感を覚えた。自分が教えた技術が、小夏の手の中で育っている。それは——自分の一部が小夏の日常に組み込まれているということだ。


 その事実が、静かに嬉しい。


 昼休み。曇り空の教室で弁当を広げる。今日の千雪の弁当は、鮭と大葉の混ぜごはん、茄子の煮浸し、枝豆入りの卵焼き、プチトマト。


「千雪ちゃんの弁当、いつも季節感あるよな。茄子って夏の野菜やんな」


「もう少しで旬になる。走りのものを使うのが好き」


「走りって何」


「旬の始まりのこと。出始めの時期。走り、旬、名残りの順に季節が進む」


「へえ——走り、旬、名残り。なんかそれだけでもう物語みたいやな」


 小夏がおにぎりを頬張りながら言った。最近はコンビニおにぎりの代わりに、自分で握ってきていることがある。中身は鮭フレークか梅干しの二択で、形はいびつだが、努力が見える。


「自分で握ったの」


「うん。千雪ちゃんの影響で、ちょっとだけ料理に興味出てきてん。まだおにぎりしか作れへんけど」


「おにぎりが作れるなら大丈夫。あとは数をこなすだけ」


「千雪ちゃんに太鼓判もらえたら心強いわ。——ところで、千雪ちゃん」


「うん」


「来週の日曜日なんやけど——うちの家、来ぇへん?」


 千雪の箸が止まった。


「……小夏ちゃんの家」


「うん。親が出張で一日いないから——あ、いや、変な意味ちゃうよ? ただ漫画とか貸したいやつまだあるし、うちの部屋で一緒に読んだり、アニメ見たりできたらなって。前から考えててんけど、なかなかタイミングなくて」


 小夏の部屋。小夏の生活空間。小夏が毎日過ごしている場所。


 千雪の心臓がとくんと鳴った。


「——行く」


「ほんま? やった。じゃあ場所送るな。駅から歩いて十分くらいやねんけど——あ、日焼け止めとか帽子とか、いつものやつ忘れんといてな」


「……わかってる」


「わかってるやろうけど念のため言いたいねん。千雪ちゃんの肌のことは——うちも気にしてるから」


 そう言う小夏の声に、もう遠慮の色はなかった。最初の頃は千雪の体質に触れることを慎重に避けていたのに、いつの間にか——自然な気遣いとして定着していた。


 それは小夏が千雪を理解しようとしてくれた時間の集積だった。千雪は視線を弁当に落として、茄子の煮浸しを口に運んだ。出汁の優しい味が、舌の上でほどけた。


 その日の放課後、千雪は料理研究部でマドレーヌを焼いた。以前作った「レモンの方舟」の改良版。今回はレモンではなくオレンジの皮を使い、仕上げにほろ苦いマーマレードのグレーズをかけた。


 焼き上がりを一口食べて、頷いた。苦味と甘味のバランスがいい。大人っぽい味になった。


「名前は?」


 矢島先輩がいつもの問いかけをくれた。もうすぐ引退の先輩にこうして聞いてもらえるのも、あと何回だろう。


「……『橙の手紙』」


「手紙かあ。千雪ちゃん、最近の名前はどんどん人間味が出てくるね」


「そうですか」


「宇宙の小惑星から、手紙になった。——届けたい人がいるんでしょ」


 千雪は返事をしなかった。代わりに、マドレーヌを二つ多く包んだ。


 帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、千雪はスマートフォンを開いた。ネット上の友人たちのグループチャットに、未読のメッセージが溜まっていた。


『ちーちゃん最近ログイン少ないけど元気?』

『リアル充実してるんでしょ、例の転校生と』

『で、結局あの子のことどうなったの? 前に「友達とそれ以上の違いって何」って聞いてたけど』


 千雪は画面をスクロールして、最後のメッセージを見つめた。あの質問をしたのは一ヶ月以上前だ。その時は答えなかった。今なら——。


『答え、出た』


 送信した。すぐに反応が返ってくる。


『おおっ!? ちーちゃんが答え出したの!?』

『どっちだったの? 友達? それ以上?』


 千雪は数秒迷って、短く打った。


『それ以上だった。——ずっと前から、たぶん』


『!!!!!!』

『ちーちゃんおめでとう!! って言っていいの? まだ言ってないんでしょ?』

『寧々さん知ってるの?』


『姉は察してる。でも直接は言ってない。——誰にも、まだ言ってない』


 打ちながら、自分の指が少しだけ震えていることに気づいた。文字にするだけでこんなに緊張するのに、声に出せる日が本当に来るのだろうか。


『いつ言うの?』


『……わからない。でも、もうすぐだと思う』


『ちーちゃんが「もうすぐ」って言うの初めてじゃない? 今まで全部「分類中」だったのに』


 そうかもしれない。分類はとっくに終わっている。出力の準備も——たぶん、できつつある。あとは、きっかけだけだ。


 電車が来た。スマートフォンをポケットにしまって乗り込む。車内の窓に映る自分の顔を見た。白い髪にハーフアップのくるりんぱ。小夏と共有している技法。


 ——この髪で、伝えに行く日が来る。


 その想像が、怖くて、でも少しだけ温かかった。


 日曜日。


 朝から雲が厚かった。天気予報は午後から雨。千雪にとっては悪くない条件だ。


 髪型を決める。今日は——迷った末に、編み込みカチューシャにした。初日に小夏と出会った日と同じスタイル。あの日は意識していなかったが、今日は意識して選んだ。原点に戻るような気持ちだった。


 寧々はリビングでノートパソコンに向かっていた。日曜日だが、レポートの締め切りが近いらしい。


「ちーちゃん、今日は天野ちゃんちに行くんでしょ」


「うん」


「何時に帰る?」


「夕方には」


「了解。——あ、ちーちゃん」


「何」


「今日の髪型、入学式の日と同じだね」


 千雪は玄関で足を止めた。


 ——覚えているのか。入学式の日の髪型を。いや、寧々なら覚えていてもおかしくない。あの人は千雪の髪型を二年半分データ化している。


「……偶然」


「偶然かあ。——いってらっしゃい」


「いってきます」


 小夏の家の最寄り駅は、千雪の家から電車で二十分の距離だった。改札を出ると、小夏がすでに待っていた。白いTシャツにカーキのワイドパンツ。髪を一つに結んでいる——三つ編みだ。


「おはよう、千雪ちゃん。——あ、今日のやつ! 初めて見た時と同じやん!」


 覚えていた。千雪は少し目を瞬かせた。


「……覚えてるの」


「忘れるわけないやん。うちが千雪ちゃんを初めて見た時の髪型やもん。——あの時はほんまにびっくりした。教室に入った瞬間、白い髪が目に入って——息止まったもん」


 小夏がけらけらと笑いながら歩き出した。千雪は半歩遅れてついていく。


「息止まったって……大げさ」


「大げさちゃうよ。ほんまに止まった。——で、その後ホームルームで花守千雪って名前聞いた時に、千雪ってそういうことかって。白い雪。雪みたいな白さ。名前と見た目がぴったりすぎて、もうなんていうか——」


 小夏が言葉を切った。いつもの癖だ。何かを言いかけてやめる。


「——なんていうか?」


 千雪が聞き返した。珍しく、踏み込んだ。


「…………運命やなって、思った」


 小さな声だった。小夏は前を向いて歩いていて、横顔しか見えなかった。耳が赤い。朝の曇り空の下で、その赤さだけが鮮やかだった。


「運命って——大きく出たね」


「百合アニメ脳やからな。すぐ運命とか言いたくなんねん。——ごめん、キモかったよな」


「キモくない。——全然」


 千雪は自分の声が少し震えていないか確認した。大丈夫。まだ平静を保てている。


 ——運命。小夏がそう思ってくれたこと。それは友情の範疇の言葉なのか、それとも。


 考える前に、小夏が「こっち」と路地を曲がった。住宅街の中の、落ち着いた通り。三階建てのマンションの前で足を止めた。


「ここ。二階の角部屋」


 階段を上がって、ドアの前で小夏が鍵を開けた。「散らかってたらごめんな」と言いながら中に入る。千雪は「お邪魔します」と小さく言って、靴を脱いだ。


 玄関を入ってすぐのリビングは、思っていたよりも整頓されていた。転校が多い家庭だからか、家具は最低限で、物が少ない。引っ越しの度に持ち物を削ってきた生活の跡が見える。


「うちの部屋こっち」


 案内された小夏の部屋は六畳ほどの洋室だった。ベッド、勉強机、本棚。壁にはポスターが一枚——アニメのキービジュアルだった。二人の少女が夕焼けの中で手を伸ばし合っている構図。先日一緒に観た映画の作品だ。


「あ——ポスター、外したほうがよかった?」


「なんで外すの」


「いや、オタク部屋感がすごいかなって——」


「別にいい。小夏ちゃんの部屋なんだから、好きなものを飾ったらいい」


 小夏がほっとした顔をした。


 本棚に目をやると、漫画がぎっしり並んでいた。背表紙を見る限り、大半が百合作品だ。千雪に貸してくれた三巻完結の作品も、端のほうに丁寧に並んでいた。


「これ全部——」


「うん。全部百合。——引かんって言ってくれたから、隠さんでええかなって」


 千雪は本棚の前にしゃがんで、背表紙を一冊ずつ目で追った。知らない作品ばかりだ。でも、一冊一冊が小夏の好きの集積なのだと思うと、どれも特別なもののように見えた。


「千雪ちゃんに読んでほしいの、何冊かピックアップしてあるねん。——はい、これとこれ」


 小夏が本棚から二冊抜き出した。一冊は水彩画のような淡い表紙、もう一冊はモノクロームのシャープな表紙。


「こっちはほのぼの系。こっちはちょっとシリアス。千雪ちゃんの好みに合いそうなほう、先に読んで」


 千雪はモノクロームの方を手に取った。


「こっちから読む」


「お、シリアス派? 千雪ちゃんらしいわ」


 ベッドの端に千雪が座り、小夏はクッションを抱えて床に座った。千雪が漫画を読み始めると、小夏は自分のスマートフォンで何かを見ていた——と思いきや、しばらくすると手が止まって、千雪のほうを見ていた。


 視線を感じる。いつもの、あの分類できない——いや、今はもう分類できる。あの目は。


 千雪は漫画に目を落としたまま、小さく言った。


「……見てる」


「あっ、ごめん。つい。千雪ちゃんが漫画読んでる顔、なんか——真剣で、綺麗やなって」


 綺麗。小夏はよくその言葉を使う。髪が綺麗。名前が綺麗。今度は漫画を読む顔が綺麗。


 千雪は漫画のページをめくった。物語の中では二人の少女が図書室で出会っている。一人が本を読んでいて、もう一人がその横顔を見つめていた。


 ——今と同じだ。


 漫画と現実が重なる瞬間が、最近やたらと多い。


 一時間ほど静かに過ごした。千雪が漫画を読み、小夏がたまに話しかけ、千雪が短く返す。その繰り返しが心地よかった。他人の部屋にいるのに、緊張感がほとんどなかった。小夏の空間は小夏の匂いがして、小夏の温度があって、千雪にとっては不思議と落ち着ける場所だった。


「お昼、何か作ろか。——って言ってもうちが作れるのおにぎりくらいやけど」


「キッチン借りていい?」


「え、千雪ちゃんが作ってくれるん?」


「冷蔵庫に何があるか見せて」


 キッチンに移動した。小夏の家の冷蔵庫は千雪の家より寂しかったが、卵と玉ねぎとベーコンがあった。パントリーにパスタがある。


「カルボナーラにする」


「カルボナーラ!? 家で作れるもんなん!?」


「作れる。難しくない」


 千雪はエプロンを持ってきていなかったので、小夏から借りた。少し大きいサイズのエプロンが、小柄な千雪の体をすっぽり覆った。


「ちっちゃ……千雪ちゃんエプロンに着られてるやん。かわいい——えっと、なんでもない」


「最後まで言えば」


「…………かわいい、です」


 千雪は返事をせずに玉ねぎを切り始めた。耳が赤い。自覚がある。エプロンに着られていてかわいいと言われて赤くならないほうが無理だ。


 パスタを茹でながら、ベーコンと玉ねぎをオリーブオイルで炒める。卵黄とチーズと黒胡椒でソースを作り、茹で上がったパスタに絡める。火加減が重要だ。強すぎると卵が固まってスクランブルエッグになる。ここは弱火で、余熱で。


「できた」


 二皿に盛りつけた。黄金色のソースがパスタに艶やかにまとわりついている。仕上げに黒胡椒を多めに挽いた。


「……見た目からしてもうプロやん」


「プロじゃない。練習しただけ」


 テーブルに並んで座って、「いただきます」を言った。小夏がフォークでパスタを巻き取り、口に入れて——目を閉じた。


「——おいしい」


「よかった」


「おいしいって言葉だけじゃ足りひん。なんていうか——優しい味がする。コンビニのカルボナーラとは別の食べ物や」


「卵黄を余熱で絡めるのがポイント。直火で加熱するとクリーミーさが出ない」


「千雪ちゃんがうちの台所で料理してるの、なんか——すごい、不思議な気持ちやった」


「不思議?」


「うん。千雪ちゃんがうちの家にいる、うちのエプロンつけてる、うちの冷蔵庫の中身で料理してくれてる。それが——なんか、なんていうか——」


 また言葉を切った。


 千雪はフォークを置いた。


「——なんていうか?」


「……ドキドキした。あかん、また百合アニメ脳が出てもうた。同居エピソードみたいやなって考えてしまって——ごめん、忘れて」


「忘れない」


「えっ」


「全部覚えてる。小夏ちゃんが途中でやめた言葉も、全部」


 小夏のフォークが止まった。千雪は自分のパスタを見つめていた。黄金色のソースの上に、黒胡椒の粒がまだらに散っている。


「千雪ちゃん——」


「食べ終わってから。話したいことがある」


 小夏が黙って頷いた。


 二人とも黙々とカルボナーラを食べた。おいしかった。自分で作った料理がおいしいことと、小夏の隣で食べることの幸福感が重なって、味が何倍にも膨らんだ。


 食器を洗って、キッチンを片づけた。小夏の部屋に戻ると、窓の外が暗くなり始めていた。予報通りだ。午後の雨が近づいている。


 小夏がベッドの端に座り、千雪が勉強机の椅子に座った。二人の間に、一メートルほどの距離がある。


 窓の外で、最初の雨粒がガラスを叩いた。ぱつ、と一粒。続いてもう一粒。やがて、静かな雨音が部屋を満たし始めた。


 千雪は深呼吸をした。


 ——雨の日がいいと思っていた。光が優しい日に。世界が静かになる日に。


 今がその時だ。


「小夏ちゃん」


「うん」


 心臓がうるさい。全身の血が耳に集まっている。白い肌が赤く染まっているのがわかる。隠せない。隠すつもりもなかった。


「私——」


 声が震えた。一度止まった。


 漫画の中の黒髪の少女を思い出す。あの子は手紙に書いた。声に出せなかったから。でも千雪は——声で伝えると決めた。


「私、小夏ちゃんのことが——」


 雨が強くなった。窓を叩く音が大きくなって、千雪の声を覆い隠そうとする。


 でも、負けなかった。


「好き。——友達としてじゃなくて」


 言った。


 声に出した。自分の声で、自分の言葉で、小夏にだけ。


 部屋が静かになった。雨の音だけが、耳の奥で反響している。


 小夏は——動かなかった。ベッドの端に座ったまま、千雪を見つめていた。琥珀色の目が大きく見開かれて、唇がわずかに開いている。


 一秒。二秒。三秒。


 千雪は自分の膝の上の手を見つめた。指先が白い。いつもより白い。血の気が引いているのだ。


 ——返事が来ない。


 怖い。名前をつけた時よりも、漫画の告白シーンを読んだ時よりも、今この瞬間が一番怖い。


「千雪、ちゃん」


 小夏の声が、掠れていた。


「——今、好きって——」


「……言った」


「友達としてじゃなくて、って——」


「うん」


「それって——うちのこと、恋愛的に——」


「……そう」


 小夏が両手で自分の顔を覆った。指の隙間から、赤い肌が見えた。耳も、首も、指先まで赤い。


「——ちょっと待って。待って。処理が追いつかへん」


「……うん」


「千雪ちゃんが。うちのことを。好きって。——漫画のセリフちゃうくて、現実で。今。この部屋で」


「……うん」


「えっ、ちょっと待って——うちアニメやったらこの展開完璧に読めるのに——自分のこととなると全然——頭が——」


 小夏の指の隙間から、涙がこぼれた。


 千雪は立ち上がりかけた。泣かせてしまった。やっぱり言うべきではなかったのか。拒絶されたのか。それとも——


「ごめ——泣いてるのは——嫌やからちゃうから」


 小夏が顔を覆ったまま、必死に声を絞り出した。


「嬉しいから泣いてるねん。——うちも、千雪ちゃんのことが好きやから」


 千雪の世界が、一度止まった。


 雨音が消えた。自分の心臓の音が消えた。何もかもが静止した中で、小夏の声だけが、透明な水のように耳に流れ込んできた。


「——初めて見た時から。白い髪を見た瞬間から。運命やって思ったのは——綺麗やったからだけちゃう。千雪ちゃんの目を見た瞬間に、この人のことをもっと知りたいって——気がついたら、好きになってた」


 小夏が顔から手を下ろした。泣き腫らした目。赤い鼻。ぐしゃぐしゃの表情。でも——笑っていた。泣きながら笑っていた。


「でも——百合アニメが好きやからって、現実で女の子を好きになるのとは違うって思ってた。創作と自分は別やって。ずっとそう思い込もうとしてた。でも千雪ちゃんの隣にいるうちに——もう嘘つけへんくなって——」


 千雪は椅子から立ち上がった。一歩、小夏に近づいた。


「小夏ちゃん」


「うん」


「泣いてるから、距離詰めるね。——予告」


 小夏が泣き笑いの顔で「予告制」と呟いた。


 千雪はベッドの端に座った。小夏の隣。肩と肩が触れる距離。


 そして——右手を差し出した。掌を上に向けて。


 小夏がその手を見つめた。白い指。細い指。千雪の白。


「——手ぇ、繋いでええ?」


 小夏の予告だった。


「いいよ」


 温かい手が、千雪の手に重なった。指が絡まった。自分の冷たい指と、小夏の温かい指が、交互に組み合わさった。


 ——あの漫画の最後のシーンと同じだ。


 ただ手を繋ぐだけ。それだけで——世界が、全部変わった。


 雨が窓を叩いている。六月の雨。優しい光。静かな世界。自分の声だけが近くなる日。


「千雪ちゃん」


「うん」


「うち、ほんまに好き。千雪ちゃんのこと。白い髪も、変な名前つけるとこも、料理が上手いとこも、言葉が少ないのにちゃんと伝わるとこも、全部」


「……私も」


「全部好き?」


「全部好き。——小夏ちゃんの関西弁も、独り言も、百合アニメ脳も」


「百合アニメ脳まで含めてくれるん……」


「含める。——全部が、小夏ちゃんだから」


 繋いだ手に、少しだけ力がこもった。小夏の温度が指先から伝わってくる。千雪の冷たさも、小夏に伝わっているはずだ。冷たいのと温かいのが混ざり合って、二人の間だけの温度が生まれている。


 窓の外では雨が降り続いていた。千雪はその音を聞きながら、今日のこの雨にも名前をつけたいと思った。


 ——恋雨こいさめ


 口には出さなかった。でも、心の中でそっと、名前をつけた。

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