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第一話「視線の温度」

 四月の朝は、まだ少しだけ肌寒い。


 洗面台の鏡の前に立つと、白が映る。透き通るような白い髪、白い睫毛、ほんのり桜色の瞳。見慣れた自分の姿だ。けれど──何度見ても、飽きない色だと思う。


 花守千雪は鏡の中の自分に小さく頷いてから、朝の儀式を始めた。


 まず丁寧なブラッシング。猪毛のブラシで毛先からゆっくり梳かし上げて、昨夜のトリートメントの成果を確認する。指の間を白い絹糸が滑っていく感触。静電気もなく、枝毛もなく、毛先まで均一に潤いがある。今日の髪はとても機嫌がいい。思わず口元が緩んだ。


 次に、今日のスタイルを決める。千雪にとってこの瞬間が朝のハイライトだった。


 昨日は低めの三つ編みにした。一昨日はハーフアップ。その前は左右の耳元で緩く結んで、リボンを巻いた。この髪は世界にたったひとつの自分だけの白だ。毎日同じ型にはめ込むなんてもったいない。


 鏡の前で髪を持ち上げて、右に流してみる。それから左に。後ろに束ねてみて、ポニーテールの高さを変えてみる。うん、今日は──。


「編み込みカチューシャで」


 こめかみの上から細い三つ編みを作り、耳の後ろに沿わせるように反対側へ渡す。もう片方も同じように。後頭部でアメピンを二本使って固定すると、白い編み込みが花冠のように頭上を飾った。残りの髪はそのまま下ろして、毛先だけ指で軽く外にはねさせる。


 仕上げにヘアミストを二回。さらりとした手触りと、微かに甘い香り。


 ──完璧。


「ちーちゃーん。朝ごはんガチで冷めるよ。このままだと姉ちゃんが先に全部食べるフェーズに突入するんだが?」


 廊下の奥から、緊迫感の方向性がおかしい声が飛んできた。姉の寧々だ。


「あと三十秒」


「ちーちゃんの『三十秒』は信用度Eランクだって姉ちゃん知ってるからね。ログによると平均二分半の遅延が発生してまーす」


 ログって何。しかも平均値を出しているということは、毎回計測していたのか。身内ながら底知れない人だ。


 千雪はヘアミストのボトルを棚に戻し、最後にもう一度だけ鏡を確認した。編み込みの左右対称、後れ毛のバランス、全体のシルエット。よし。


 今日も、私の白は綺麗だ。


 そう確認してから、洗面所を出た。


 リビングに入ると、小さなダイニングテーブルの上にはもう朝食が並んでいた。こんがり焼けたトーストに目玉焼き、レタスとミニトマトのサラダ。寧々はすでに自分の席に着いて、片手でトーストを齧りながら、もう片手でノートパソコンのキーボードを叩いていた。画面にはどう見ても大学の講義資料ではないウィンドウが映っている。


「お、出た。本日の所要時間一分四十五秒、過去最速タイ記録おめ」


「……そのデータ、いつから取ってるの」


「ちーちゃんが中三の秋に髪のセットに目覚めてからずっとだが?」


 二年半分のデータが蓄積されているらしい。千雪は小さくため息をつきながら椅子に座った。絶対にスプレッドシートか何かにまとめている。この人はそういう人だ。


 トーストを一口齧る。外はかりっと、中はほんの少しだけもちっとした食感。毎朝同じトースターで同じ時間焼いているだけだと本人は言うけれど、寧々のトーストは不思議と安定しておいしい。料理全般は千雪のほうが得意なのに、パンの焼き加減だけは姉に敵わなかった。


「あ、ちーちゃん今日の髪型めっちゃいいね。編み込みカチューシャ? ティアラみたいで超エモい、推せる」


「……ありがと」


 褒められるのは嬉しい。とりわけ髪のことは素直にそう思える。ただ、寧々の語彙があまりにもネット寄りなので反応に困ることが多い。エモいはまだわかる。推せるは……何を? 誰を? いや、意味は知っている。知っているけれど──この語彙が自分にも少しずつ浸食してきているのが最近の悩みだった。先日、出来上がったマフィンを見て思わず「神か?」と呟いた時は、さすがに自分で自分に引いた。


「ところでさ、今日から新学期じゃん。クラス替えとかあるんでしょ。転校生来たりすんのかな」


「さあ。知らない」


「もし来たら即レポよろ。ちーちゃんの環境変数は全部トラッキング対象だから」


「……怖いんだけど、それ」


「愛なんだが?」


 なんでもかんでも愛で片づけないでほしい。千雪は目玉焼きを箸で切り分けながら、半熟の黄身がとろりと流れるのを見つめた。


 不意に、寧々がパソコンを閉じた。


「ちーちゃん」


 声の温度が変わる。千雪は顔を上げずに、「うん」とだけ返した。


「日焼け止め——」


「塗った」


「帽子——」


「鞄に入れた」


「サングラ——」


「ケースに入れてある」


 間髪入れずに返すと、寧々はぱちぱちと目を瞬かせてから、ゆっくり椅子の背にもたれた。


「完璧じゃん……。姉ちゃんの出る幕、マジでゼロ?」


「毎朝同じこと聞くから、そろそろ先回りもできる」


「む。じゃあさ、今日の紫外線指数は——」


「寧々姉」


 短く、でもはっきりと遮ると、寧々は口を閉じた。テーブルの上で指先がわずかに動いたのを、千雪は視界の端で捉えた。何かを握りしめようとして、やめたような動き。


「……大丈夫だから」


「——うん。りょーかい」


 数秒の沈黙のあと、寧々はいつもの軽い笑顔に戻った。笑い方がわずかに柔らかいのは、安堵の証拠だと千雪は知っている。


 姉が心配する理由は、わかっている。アルビノの自分は光に弱い。瞳も、肌も。生まれつきメラニン色素が少ないせいで、紫外線には人一倍気を配らなければならない。それを一番近くで見てきたのが寧々だ。


 だけど、もう高校二年生になる。自分の体のことは自分が一番わかっている。日焼け止めの塗り直しのタイミングも、目が辛くなる光量の閾値も。


 ——それに、自分の体質をあれこれ気にされるのは、少しだけ居心地が悪い。大切にされていることはわかっている。わかっているから余計に、心配をかけている自分が申し訳なくなるのだ。


 食器を流しに運び、鞄を手に取って玄関へ向かった。つま先をとんとんと床に当てて靴を履き、振り返ると、廊下の奥から寧々が手を振っていた。


「いってらー。今日もちーちゃんが宇宙一かわいい」


「……範囲が広すぎる」


「事実なんだが?」


 ドアを閉める寸前、口の端が少し上がったのは——たぶん、姉には見えていない。


 四月の風はまだ穏やかで、白い髪をそっと揺らすだけの優しさだった。


 通学路を歩きながら、千雪は自然と視線を足元に落としていた。長年の癖だ。正面を向いて歩くと、すれ違う人の目線がわかってしまう。


 白い髪は、目立つ。


 日本人の黒い髪の中で、千雪の白は否応なく視界に飛び込む。小さい頃からずっとそうだった。公園の砂場で、スーパーのお菓子売り場で、バスの中で。


 ——あの子、髪が白いよ。


 子供の無邪気な声は、悪意がないぶんどこまでもまっすぐに届く。その度に手を引いてくれた祖母の掌の温度を、千雪はまだ覚えている。


 嫌いなのかと聞かれたら、違うと答える。この髪は好きだ。鏡の前の自分は、心から好きだと言える。だけど、鏡の外で他人の瞳に映る自分は、少しだけ心許ない。


 他人の視線には種類がある。千雪は十七年かけてそれを学んだ。


 珍しいものを見る目。気味悪がる目。同情の目。不躾に観察する目。それから——なんとなく目を逸らす目。どれも違っていて、どれも少しずつ、皮膚の薄いところに触れてくる。


 駅を降りて、桜並木の通学路を歩く。八分咲きの桜が風に揺れて、淡い花びらが白い髪の上にひとひら落ちた。


 校門をくぐると、新学期のざわめきが体を包んだ。クラス替えの結果に一喜一憂する声、春休みの報告をしあう笑い声。千雪はそのどれにも加わらず、昇降口の掲示板の前に立って名簿を確認した。


 二年三組。名前の並びをざっと目で追う。知った名前がいくつか。親しいと呼べるほどの人はいないけれど、あからさまに距離を置いてくる人もいない。いつも通りの、ほどよい距離感。千雪にとってはそれが一番楽だった。


 教室は三階の角。入ってみると、窓際の後ろから二番目に自分の名札があった。窓から差す光の角度を確かめる——直射日光は当たらないが、明るさは十分ある。悪くない。


 鞄を机に下ろし、椅子に座る。窓の外では桜の枝が青空に白い線を引いていた。


 始業式のために体育館へ移動し、校長の長い話を聞き流して、教室に戻ってくる。ここまでは毎年変わらない新学期の手順だ。


 席についてぼんやり窓の外を眺めていると、担任の先生が教壇に立った。咳払いをひとつ。


「えー、新学期早々ですが、今日からこのクラスに転校生が加わります」


 教室に小さなさざめきが走った。千雪も視線だけを教壇に向ける。——転校生。朝の寧々の言葉が脳裏をよぎって、姉の妙な勘の良さに少しだけ感心した。


「では、入ってきてください」


 廊下側のドアが開いた。


 最初に目に入ったのは、肩より少し長い茶色の髪だった。ゆるくウェーブがかかっていて、春の光を受けて柔らかく跳ねている。次に、大きな目。琥珀に近い明るい茶色。それから、口角が自然と上がった唇。全体的に日に馴染んだ健康的な肌の色。千雪とは何もかも対照的だなと、ぼんやり思った。


 その女子生徒は教壇の横に立つと、教室を一望して——にかっと笑った。教室の空気がふわりとほどけるような、そういう笑い方だった。


「天野小夏です! 前は大阪におったんですけど、親の仕事の都合でこっちに引っ越してきました。えーと、趣味は——」


 ほんの一瞬、言葉が止まった。唇が何かの形を作りかけて、飲み込まれた。


「——旅行です! 色んなとこ行くのが好きで、前の学校でも休みのたびにあちこち回ってました。東京はまだ全然わからんので、おすすめの場所とかあったらぜひ教えてください。よろしくお願いします!」


 ぱちぱちと拍手が広がる。隣の席の女子が「関西弁だ、かわいい」と小声で囁いているのが聞こえた。


 千雪は拍手の波に小さく手を合わせながら、心の中で静かに分析していた。この子は大丈夫だろう。場の空気を読んで、初対面の壁を自分から壊せるタイプだ。転校生という立場は放っておけば孤立しやすいけれど、この明るさと距離の詰め方なら、一週間もあればクラスに馴染む。


 自分にはないものを、いくつも持っている人だ。


 そう思った瞬間——目が合った。


 天野小夏が、千雪を見ていた。


 教壇の横から、まっすぐに。


 ——ああ、また。


 千雪は反射的に視線を落とした。白い髪が目に入ったのだ。この教室の中で千雪の髪だけが異質に白い。転校生なら尚更驚くだろう。初めて見る色に引きつけられて、じっと見てしまう。何度も経験してきた反応だ。


 数秒もすれば視線は逸れる。そのうちクラスの誰かが「ああ、あの子は地毛だよ」と説明する。そこで相手の興味は薄れて、それきりになる。いつものことだ。


 ——のはずだった。


 視線が、逸れない。


 一秒。二秒。三秒。


 教室の喧騒の中で、一筋だけ温度の違う空気が頬に触れているような感覚があった。


 千雪はそっと、顔を上げた。


 天野小夏は、まだこちらを見ていた。


 目が合った瞬間、相手がわずかに息を呑んだのがわかった。驚いたような、見つけたような——見惚れているような。


 千雪の中の精密なセンサーが、静かに警告を上げた。この視線は、今まで受けてきたどの分類にも当てはまらない。珍しがっているのでも、怖がっているのでも、同情でも、観察でもない。


 では、なんだ。


 分類できない感覚に、千雪の指先がわずかに強張った。


「天野さん、席はそこの空いてるところね」


 担任の声で、天野小夏がはっと我に返ったように教壇のほうを振り返った。指定された席は、千雪から二つ隣だった。


「あ、はい。ありがとうございます」


 席に向かいながら、天野小夏がもう一度ちらりとこちらを見た。今度はすぐに逸らされたけれど——その横顔が、ほんのり赤く染まっていた。


 赤くなっていた?


 千雪は意味がわからなくて、小さく首を傾げた。


 ——なぜ。


 一限目が終わると、案の定、天野小夏の席には人だかりができた。


「ねえ天野さん、大阪ってやっぱりたこ焼き毎日食べるの?」


「いや、それステレオタイプすぎひん? ……まあ、週三くらいは食べるけど」


「週三って十分多いよ!?」


 笑い声が弾ける。天野小夏は質問の一つ一つに軽妙に返していて、まるで転校初日であることを忘れさせるような自然さだった。時折まじる関西弁のイントネーションが、会話にリズムを生んでいる。


 千雪は窓際の自分の席で、鞄から出した文庫本を開いていた。正確には、開いているふりをしていた。活字は視界に映っているのに、一行も頭に入ってこない。


 さっきの視線のことが、ずっと引っかかっている。


 あの目の正体がわからない。十七年間、他人の視線を浴び続けてきた。そのすべてを、千雪は無意識のうちに分類してきた。好奇心、嫌悪、同情、無関心——大抵はそのどれかに振り分けられる。


 でも、あの目はどこにも入らなかった。未知のラベル。空欄のまま保留されたデータ。それが小さな棘のように意識の端に残って、ちりちりと存在を主張している。


 考えても仕方ないか。他人の内心は他人にしかわからない——


「なあ、ちょっとええ?」


 関西弁が、すぐ横から聞こえた。


 顔を上げると、天野小夏が千雪の机の横に立っていた。近い。思っていたより背が高くて、座ったままの千雪は少し見上げる形になった。


 周囲の人だかりから抜け出してきたらしい。さっきまでの余裕のある笑顔は消えていて、代わりに落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。千雪の顔を見て、髪を見て、また顔に戻って。何か言いたいのに言葉を探しているような、そんな顔。


「……なに?」


 千雪が短く促すと、天野小夏は小さく唇を舐めてから——意を決したように口を開いた。


「髪、めっちゃ綺麗やな」


 言われ慣れていない言葉ではなかった。


 「白いね」「珍しいね」「染めてるの?」——この髪に関するコメントは、十七年分蓄積されている。中には「綺麗」という言葉もあった。ゼロではない。


 でも、その「綺麗」の後には大抵、何かが続く。


 ——でも大変でしょ。


 ——生まれつきなの?


 ——アルビノっていうんだっけ。


 千雪はその「続き」を待った。来るなら受け止める準備はある。


「ありがとう」


 短く返して、次の言葉を待つ。だが、天野小夏は何も足さなかった。代わりに、さっきとは違う——抑えきれないような笑顔になった。


「いやほんまに、あの、ホームルームの時に初めて見た時な、めっちゃびっくりして。なんて言うんやろ、こう——雪みたいっていうか、光が透けてるみたいっていうか。編み込みのとことかすごいなって、髪飾りみたいに光っとって……えっと、なんか変なこと言うてたらごめんな? でもほんまに綺麗やなって思って、それだけ伝えたくて」


 一息にそこまで言ってから、天野小夏は自分の言葉に追いついたのか、頬をぽりぽりと掻いた。耳の先が赤い。


 千雪は小さく目を瞠った。


 「続き」がない。


 髪が綺麗だと思った。それを伝えたかった。以上。そこで完結している。同情も追及もなく、ただ純粋な感嘆だけが差し出されている。まるで道端で綺麗な花を見つけた子供みたいだ、と思った。


「——変じゃない」


 気がつけば、千雪は首を小さく横に振っていた。


「私も、この髪好きだから」


 言ってしまってから、軽い驚きが走った。初対面の相手にこんなことを自分から言ったのは初めてかもしれない。普段ならもっと短く切り上げる。「そう」とか「どうも」とか、それだけで済ませるのに。


 天野小夏は一瞬きょとんとして——それから、今日一番の笑顔を咲かせた。


「そうなん!? えっ、めっちゃ——めっちゃええやん! 自分のこと好きって言えるの、ほんまにすごいと思う。うん、なんか、めっちゃ——ええな」


 語彙が崩壊しかけていた。「めっちゃ」が三回出た。でも、言葉が追いつかないほど感動しているのだということは、その表情を見ればわかった。


 その笑顔が、妙に眩しかった。


 千雪は思わず視線を窓の外に逃がした。桜の枝が風に揺れているのをぼんやり見るふりをして、自分の耳元に手を当てるのを堪えた。色素の薄い肌は感情の変化をすぐに裏切る。白い肌の上に赤が浮かべば、それは誰の目にも明らかだ。今、耳の端が熱い。たぶん赤くなっている。


 ——見られたくない。


「あ……ごめん、いきなり話しかけてなれなれしかったかな。初日からガンガン来られるの嫌やんな、普通」


 天野小夏が一歩引いた。声に自信のなさが滲んでいて、さっきまでの勢いが急速にしぼんでいくのがわかった。


 千雪は小さく首を振った。


「……大丈夫。ただ、あんまり慣れてないだけ」


「慣れてない? 何に?」


「——髪を、褒められるの」


 天野小夏がまた目を丸くした。何か言いかけて口を開いたところで、予鈴のチャイムが鳴り響いた。


「あ、やば。授業始まるわ。えっと——名前、聞いてもええ?」


 名札を見ればわかるのに。わざわざ声で聞くのか。少し不思議に思いながら、千雪は答えた。


「花守千雪」


「千雪ちゃんか」


「……いきなり下の名前」


「あっ、ごめん! つい——花守さん?」


「……別に、どっちでもいい」


 天野小夏はへへ、と照れたように笑って、小走りで自分の席に戻っていった。


 その背中を見送りながら、千雪は文庫本をゆっくり閉じた。


 さっきの視線の正体は、まだわからない。「綺麗だと思ったから見ていた」——それは確かにそうなのだろう。でもそれだけでは、あの頬の赤みの説明がつかない。


 考えても答えの出ないことを考え続けるのは非効率だ。千雪は思考を打ち切って、教科書を鞄から取り出した。


 でも、一つだけ。


 一つだけ、確かなことがある。


 あの視線は——冷たくなかった。


 放課後、料理研究部の活動を終えて帰宅すると、リビングでは寧々がソファの上で液状化していた。


 ノートパソコンは膝の上、手元にはエナジードリンクの缶。画面には大学の講義スライドと、明らかにそれではないゲーム風のウィンドウが同時に開かれている。効率を重視しているのか、ただ集中力がないのか。たぶん後者。


「おかえりー。ちーちゃん今日の部活何作ったの」


「……ひとくちチーズタルト」


「おっ、いいじゃん。名前は?」


「『黄金の小惑星ベルト』」


「ネーミングのクセが毎回強すぎて草」


 寧々がけらけら笑う。千雪は「おいしいのに名前で損してるって先輩に言われた」という事実を胸の内にしまっておいた。自分ではいい名前だと思っているのだけれど、なぜか毎回首を傾げられる。


「お持ち帰りは?」


「少しだけ」


 紙袋からタルトを二つ取り出してテーブルに置くと、寧々はソファから身を起こしてすかさず一つを口に放り込んだ。数秒の沈黙のあと、大きく目を見開く。


「……うっま。ちーちゃんガチでパティシエなれるって。マジで。これ販売したら初日完売するレベルだって」


「……どうも」


 大袈裟だなとは思う。けれど、寧々は料理の感想だけは嘘をつかない。本当においしくない時は「姉ちゃんの舌には合わんかった」と正直に言う人だ。だから褒められると、少しだけ嬉しい。


 エプロンを外して、自分の部屋に向かおうとして——ふと、足を止めた。


「寧々姉」


「ん?」


「……今日、転校生が来た」


 キーボードを叩く音が止まった。寧々がゆっくりとこちらを振り返る。


「へえ。どんな子」


「関西弁。明るい感じの子」


「ほう」


 短い相槌。それから、何気なさを装った声で。


「ちーちゃんに、何かした?」


 その問いの奥にある警戒を、千雪は聞き取った。「何かした」は字面通りの意味だけではない。姉が心配しているのは、もっと根の深い部分だ。千雪の髪を笑ったのか。避けたのか。何か心ないことを言ったのか——そういうことを、遠回しに聞いている。


「……髪を、褒めてくれた」


「褒めた。ちーちゃんの髪を」


 寧々が身を起こした。


「どういう褒め方」


「綺麗、って。……それだけ」


 しばらく沈黙が落ちた。寧々はエナジードリンクの缶を指先でくるくると回しながら、何かを考え込んでいた。千雪は黙ってその沈黙に付き合った。


 やがて、寧々がふっと息を吐いた。


「ふーん。……まあ、見る目はあるな、その子。ちーちゃんの髪が綺麗なのは宇宙の真理みたいなもんだし」


「……大げさ」


「大げさじゃないが? 姉ちゃんは宇宙規模の視座から常にファクトだけを述べている」


「絶対違う」


 軽口の応酬に戻ったことに、千雪は小さく安堵した。


 自室に戻り、鞄を下ろして、ベッドに腰を降ろす。制服のリボンを緩めて、窓の外を見た。空がオレンジと藍色の境目を静かに移動している。


 ——天野小夏。


 名前を心の中で転がしてみた。


 不思議な人だった。あの視線も、あの笑顔も、あの「綺麗」も。全部が、千雪の持つ分類表のどこにも収まらなかった。


 明日になれば、もう話しかけてこないかもしれない。転校初日のテンションと、珍しい白い髪への一時的な関心。それが薄れれば、天野小夏も他のクラスメイトと同じ距離感に落ち着く。過去にも似たようなことは何度かあった。


 でも——。


 千雪は自分の髪を一房すくい上げて、指先で梳いた。夕焼けに照らされた白が、ほんの微かに、琥珀色に染まっている。


 ——自分のこと好きって言えるの、すごいと思う。


 あの声を思い出すと、胸の奥が小さく揺れた。温かいとも、くすぐったいとも違う、名前のつけられない感覚。


 気のせいだ。


 千雪は立ち上がった。夕飯を作らなければ。今日のメニューは豚肉の生姜焼き——いや、ただの生姜焼きでは味気ない。もう少しひねりを加えたい。蜂蜜を足して、下にクレソンを敷いて——。


「……『蜂蜜琥珀の生姜グリル』。いや、長い。……『ジンジャーハニー・アンバー』? 違うな……」


 ぶつぶつ呟きながらキッチンに向かう千雪の足取りは、今朝家を出た時よりほんの少しだけ軽かった。


 四月の風が窓の隙間から入り込んで、白い髪をそっと揺らした。明日の髪型は、まだ決めていない。

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