罪深き者よ、汝 こめかみに銃口あて 引金を引け!
かつて恋した男から愛を告げられた瞬間、吐き気を催した。
何を驚くのだろう? 心が壊れるほどの生き地獄を、女に与えたのに?
「……今さら、なにを言ってるの?」
今となっては、あの頃の自分に一欠片も共感できないけれど。5年前のあの日、あの決別の瞬間まで、たしかに私はこの男に恋をしていた。
男の名はアレクセイ。かつては『アレクセイ・ラフマニノフ』と名乗っていた。陸軍元帥ラフマニノフ侯爵の次男だった。
私の名はマリヤッタ。平民だから苗字はない。
アレクセイと出会った頃は、貴族だった。ユハニ・ソーミ子爵のひとり娘だった。
ソーミ子爵領は永世中立国と武国という、ふたつの大国と国境を接する小さな領地だ。
染料にも甘味料にもなる青い花の栽培が盛んで、花を栽培する農家、染物屋、羊飼いが多かった。
王都のようなきらびやかな豊かさはないが、同じ王都の貧民街のような絶望的な貧しさもない。
つまり、平凡だった。
ソーミに生まれた私も、故郷同様に特徴のない娘だった。
榛色の瞳に、栗色の髪。
容姿に欠陥はなく、整ってはいる。だが、それだけだ。王都の貴族ならば、この程度の器量は珍しくもない。
そんな私がデビュタントを迎えた当時、武国との緊張が高まっていて、軍部の中枢が度々領地を訪れていた。
アレクセイは学生だったけれど、長期休暇を利用して閣下の付き人をしている、という、触れ込みだった。
アレクセイは、誰もが認める美丈夫だ。
まるで、絵本の中から出てきた王子さまみたいな。
黄金を細い糸に紡いだみたいな金髪を、短く切っていた。王都の貴族は髪を伸ばしている人が多いけど、この計画の為にあえて切ったのだろう。
ソーミでは、髪の長い男性は同性愛者とみなされる傾向がある。ハニートラップを仕掛ける以上、標的に同性愛者と思われては本末転倒。だから、「片田舎でモテる風」によせてきたのだ。
案の定、侍女や従姉妹たちが、みんなしてポーっと見惚れた。
彼のお世話や話し相手を巡って、ちょっとした女の戦いが勃発するくらいには、気さくで魅力的な男だった。
一方、デビュタントを終えた直後だった私は、従姉妹たちのように「あわよくば」な夢は見なかった。
社交界での私は、悪目立ちするほど見劣りはしないかわりに、美人という評価はもらえない。よく言えば清楚、正直にいえば凡庸。
文化的で洗練された会話もできない田舎娘。
だから、アレクセイから夜会のパートナーに指名されても、秘書的な役割を求められても、浮かれる理由にならなかった。
ダンスを踊れば情熱的に見つめられ、続けて踊ろうとして閣下に窘められても。
窘めた閣下から「息子がせっかちで、すまないね」と意味深に謝罪されても。
『都会的な美人がいないからだな』としか思えなかった。
ソーミで1番身分の高い娘は、教養を持つ娘は、美しい娘は、私だった。自惚れではなく、事実だ。私だったから、従姉妹たちも納得した雰囲気だった。
男の色気が通じなくて、焦ったのだろう。
アレクセイはとんでもないことを言い出した。
「マリヤッタ嬢は聡い。王都の貴族学園に編入できる学力があるのに、勿体ない」と。
これには、参った。私は、学ぶことが好きだ。王都の学生が手こずるという、永世中立国と武国の言葉を普通に読み書きできた。マナーはいまいちだが、武国に侮られない為にも身につけたいと思った。
お父さまは反対した。兄同様に育った従兄に後継教育を施しているとはいえ、直系の血族がいなくなるからだ。
王都のきらびやかな暮らしに馴染み、帰ってこなくなる懸念をした。
「息子はどうやら、マリヤッタ嬢に一目惚れしたらしい。うちは後継の長男に男児が3人おる。次男のアレクセイを婿入りさせても、なんら問題ないよ」
ラフマニノフ閣下のひと言で、あっさり婚約が決まった。
「マリヤッタ嬢とアレクセイには、領地経営学を学ばせる。この地は武国対策の重要な拠点になるからな」
つまり、軍部が常駐するってことだ。
当時の私は素晴らしいことだと思ったけど、今なら違うとわかる。ソーミは、独自の距離感で武国の侵略を退けてきた。武力で敵う相手ではないからだ。それだけに、武国相手の政治だけ明るかった。
そこに中央貴族が口出しすれば、どうなるか。
お父さま自身、双国の国境周辺の政治しかわからない末端貴族だ。とてつもなく嫌な予感がしたのだろう。
それでもお父さまは、私のために「承りました」と頷いた。
実際、私たちは武装した兵士に囲まれていた。彼らの拍手に迎えられて、断る選択肢なんかなかっただろう。
学費はもちろん、衣食住の負担も、全て侯爵家で出すよう、アレクセイが強く主張してくれた。
してくれたと思っていたのだ。デビュタントを終えたばかりの小娘は。
ラフマニノフ閣下は「アレクはせっかちだな」と笑い、アレクセイは照れて耳まで赤くなった。
アレを演技だと見破れるほど、私は世故けていなかった。現地妻ではなく伴侶に望まれ、果てなく浮かれた私を、誰が責められよう?
解せない表情のままのお父さまに、「3年で帰ってくるのよ?」と、あちらの陣営の先鋒に立つことすらした。
さらに、どこまでもおめでたい私は、大好きな場所に、領地の全てが見渡せる高台の廃墟に、アレクセイを案内した。私が1番好きな場所。
青い花が、領地を覆うように咲き誇る季節だった。
「花畑が海みたいだ」
アレクセイは、目を細めて笑った。
「海?」
「ラフマニノフの領地を訪れたら、見せてあげるよ。青くて広くて、どこまでも続いている。でも、僕は海よりこの花畑が好きだな」
アレクセイは、傍に立つ私の肩を抱いた。
「君の全てを、象徴しているから」
常緑樹の瞳に見つめられ、「目を閉じて」と囁かれた私に、逆らう術なんてあったのだろうか。
青い花が咲き誇るソーミ領と、武国との国境を隔てる大河と、永世中立国との国境を隔てる森を見下す廃墟は、かつて武国と戦った時に作られた大理石の要塞だ。
160年近く、野晒しにされている。160年もの間、武国との均衡を守ってきた証だ。
今では、薬師が薬草を干しにきたり、ピクニックに来た領民がバーベキューをしたり、旅人が雨宿りしたりしている。走り込みや自主鍛錬に来る若者もいる。
初めてのキスを交わした日の夕刻は、、不思議と誰もいなかった。一生の宝物だと思った。
私は本当にバカだ。人払いをされてロマンティックな場面を演出されていた可能性に、まるで思い至らなかったのだから。
正式な婚約が交わされ、侯爵家に下宿することになった私は、なんとも微妙な扱いを受けた。
食事は侯爵家の皆さまとご一緒した。左利き用のデザートスプーンが出されたり、パンの中に砂糖の塊が入っていたり、ひとりだけ肉の部位が絶妙に劣っていたり、たいそう地味な嫌がらせを受けながら。
貴重な砂糖を嫌がらせに使うなんて、馬鹿だなと思いながら。
アレクセイが気がついた時は、スマートに庇ってくれたけど。あれも計画の一端だったのだろう。
「マリヤッタがきてくれて1ヶ月だけど。僕の婚約者が左利きだと勘違いしたままの使用人に、配膳係は向いてないよ。もっと大雑把な現場を斡旋したいんだけど。どうかな?」なんてね。
アレクセイの家族からは大切なお客様扱いされつつ、歓迎もされていなかった。
都会の貴族は狡猾だ。直接手を下すなんて、絶対にしない。そのかわり、下々のものが主人の意を汲む。
私付きの侍女は、王都育ちの貴族令嬢ばかり。
絶妙に似合わない色味のドレスや、絶妙にダサいアクセサリーで身を飾り「お美しいです」と賛美する種類の嫌がらせを受けた。
私の部屋の窓に汚物をかけるとか、シーツに虫を仕込むととか、アグレッシブな嫌がらせをするのは、下級の使用人だけ。
平民の使用人が貴族の使用人に忖度し、嫌がらせをして、アレクセイに見つかっては、配置換えになる。クビにはならない。すこぶる茶番だ。
ただ、私はバカだったから、素直に首を傾げた。
「都会の使用人は、田舎の使用人より程度が低いのね。こんなにお掃除ができない人たち、ソーミ子爵家なら門前払いだわ?」
「ねえ。悪いかなと思って言えなかったんだけど、侍女って軽い色盲なんじゃないかな? 選ぶ服の色味がいつも……ね? 視力検査を受けた方がいいわ」
アレクセイは、その度に爆笑した。
「君は最高だ」と。
私の肩を抱いて、アレクセイに懸想する侍女たちに見せつけるようなキスをくりかえした。
孤立した人間は、手を差し伸べる者に依存する。アレクセイたちは、それを狙っていたのだろう。
でも、私は負けなかった。というか、相手にしなかった。
武力に勝る相手に、武力では喧嘩を売らない。相手が得意な土壌では、絶対に戦わない。ソーミに根づいた価値観が、王都に味方のいない私を守ってくれていたなんて、ね。
ただ、私のやり方が通じたのは、侯爵家の中だけだ。私の立場が賓客で、ある種の規律を持つ「まともな」集団だったからだ。
同じ年頃の選ばれし者が集う学園では、そうはいかない。もっと原始的な謀略が、もっと単純な暴力が、あふれていた。
この私が、魂を削られてしまうほどに。
搾取される側に落ちたのは、アレクセイの所為だ。
私のカリキュラムを全て決め、全ての授業に同行し、放課後は生徒会室に連行された所為だ。
私と同じように地方の領地から来た子女や、ソーミの近郊貴族の子女とは交流したかったのに。
「あなた、けっこうなヤキモチ焼きなのね?」と笑った自分を、殴り飛ばしてやりたい。
「ごめん、束縛強くて。情けなくて」と眉を下げたアレクセイの顔面に、風穴を空けてやりたい。
彼は会計監査を任されていて、私にその雑務をさせた。
バカなわたしは、領地経営のミニ版ともいえる執務を楽しんでしまった。
地方貴族で爵位を継ぐ女性は、王都の貴族学園を避ける傾向がある。デビュタントと同時に親や家令に習って領地経営をはじめるし、王都なんてデビュタントと爵位継承くらいしか用がないからだ。
つまり、私には学園に通う子女の常識が、学ぶ環境が、まるでなかった。というか、アレクセイが学ばせないよう、立ち回っていた。
生徒会室には、高位貴族の子息がひしめいていた。
侯爵家の次男の婚約者とはいえ、本来ならば口を聞くことすら許されない、王侯貴族や聖職者の子息と、普通に会話を交わしてしまった。
局地的な令嬢マナーを知らない私は、違う星から来た謎の生物に見えたのだろう。
見下されつつ、愛玩動物枠で愛でられた実感がある。
資料室で鍵をかけられて、第三王子殿下に唇を奪われたことも。
激怒したアレクセイが決闘を申し込んで、王子殿下をボコボコにした。あれは私への愛じゃなくて、殿下への私怨だな。
後日、王子殿下から受けた謝罪と告白は、たぶん冒頭だけが本音だった。
「身分の低い娘だから、アレクの愛人だから、好きにしていい女だと思った。でも、アレクと戦って気がついたんだ。キミが初恋だったんだって。すまない。忘れてくれ」なんてね。
どうやら、生徒会室の執行部員たちは、全員私が好きだったらしい。そういうシナリオだったんだろう。
大告白大会になって、アレクセイがキレた。
「マリヤッタは、俺の婚約者だ!」って、皆の前でキスをしたのが、最たる茶番だったと思う。
結果、私は学園に通うほぼ全ての令嬢に嫌われた。
それまで以上に陰湿で証拠のない、もはや犯罪まがいの暴力を受けるようにもなった。
恐怖心と無力感に囚われた私は、アレクセイとふたりきりになると、ベソベソと泣いてすがってばかりいた。
ひとりになるのが怖くて、どこに行くのもアレクセイと一緒を望んだ。退学するって選択肢は、思いつきもしなかった。意識がそちらにいかないよう、洗脳されていたのだろう。
依存を狙っていた男の企みが、2年越しで成功したってわけだ。
ある時、アレクセイのほんの一瞬の隙をついて、ひとりの令嬢に接触された。
クセニヤ・シュミリナ伯爵令嬢。陸軍大佐の娘だ。
「マリヤッタさま。かつて私は、アレクセイさまの婚約者に推薦されておりました。現在も候補を取り消されておりません。嫌な予感がします。どうか純潔だけは死守なさってくださいまし。貴女の故郷はわかりませんが、王都の男は決して人前で口吸いをなさいません」と。
クセニヤさまは私の手をひき、耳元でそう囁いて去っていった。
奇しくも私は、その前の週に純潔を捧げていた。
あまりにつらくて。抱きついて、泣いているうちにそういう流れになったのだ。嬉しくて、切なくて、縋りつく度に、幸せすぎて涙が出た。タウンハウスの彼の部屋は、まるでふたりの秘密基地みたいに思えた。
ソーミでは、家族や友人は頬や額に、夫婦や恋人たちは唇に、挨拶のようにキスを交わしている。
婚約者同士の婚前交渉だって、当たり前だ。というか、夜の相性が悪くて別れるなら、婚約中に限るってくらいだ。アレクセイはそれを知っていた。知っていたから、ソーミ風に手を出したのだろう。
だけど、私は知らなかった。王都の貴族は、婚約者であっても口づけ以上の接触が許されないことを。口づけさえ、結婚まで交わさない夫婦が少なくないことも。
人前でのキスを許す私が、とんでもないアバズレだと認識されていたことも、知らなかった。アレクセイが知らないはずがないのに。
次の日から、クセニヤさまが学校に来なくなった。
そのまま退学して、遠縁の楽隠居に嫁がされたという。何を嗅ぎつけ、始末された結果なのか。
任務のためとはいえ、女を弄ぶアレクセイなんかと結婚したくなくなったのかもしれない。ハニトラクソ野郎よりは、楽隠居のエロジジイの方がマシと思ったのかもしれない。
わからない。わかったことは、この王都で私に嘘をつかなかったのは、身を案じてくれたのは、あの人だけだってこと。
取り巻きを使って、教科書を隠されたり、持ち物を汚されたりしたから、好きか嫌いかでいったら大嫌いだけど。
それから1週間後、生徒会室でアレクセイを手伝っていた私は、逮捕状を持った騎士たちに包囲された。
「人身売買と麻薬密輸の疑いで、ユハニ・ソーミ子爵を逮捕した。令嬢は関与していないと、調べはついている。調書を取るから、ついてきなさい」と。
混乱した私は、「どういうこと?!」とアレクセイを見上げた。アレクセイは気まずげに目を逸らし、私の身柄を騎士に預けた。
「嘘よ。お父さまは、そんなことしない……!」
国境近い武国南部では、10歳未満の男児が罹ると死に至る風土病がある。ゆえに、ソーミや永世中立国で10歳ごろまで育て、武国に帰国させるビジネスが、確かにある。
けど、人身売買なんかじゃない。むしろ、それがあるから侵略を免れてきた側面もあるくらいだ。
使い方次第で麻薬になる鎮痛剤なら作っているけど、とっくに特許をとっている。
取調室で何度無実を訴えても、判決は覆らなかった。
私を愛していると言ったアレクセイは、一度も面会に来なかった。
一目見ることも、会話すらも許されないまま、お父さまは処刑された。
お父さまから教育を受けた従兄のサウリも、連座で。
痛みのない種類の毒だったのか、案外安らかな顔だった。
毒殺されたことすら、知らなかったのかもしれない。
どちらにしろ、罪人に墓はない。教会の裏で、他の罪人たちと一緒に燃やされた。
年老いた司祭が、お父さまのタイピンとサウリの万年筆を渡してくれた。聖水をふりまいて、遺体を清めてもくれた。
「大きな声じゃ言えないけどね。見目が安らかな人は、だいたい冤罪なんだよ」……と。
「どうして……?」
踊るように燃えさかる炎を見つめながら、ただただ涙が止まらなかった。
私は遅くに生まれた一人娘だ。体の弱かったお母さまは出産に耐えられず、儚くなったと聞いている。
お父さまは、私が生まれるずっと前から従兄のサウリに教育を施していた。
だから、将来はサウリと結婚するんだろうなと思っていた。サウリもたぶん、そのつもりだったと思う。12歳も離れていたから、いまいち実感なかったけれど。
私が旅立つ朝、サウリは青い花の押し花をくれた。
「お幸せにね」なんて、まるで遠くに嫁入りするみたいに。
サウリは見た目は実直だけが取り柄の田舎貴族で、その実ずば抜けて頭がよかった。もしかしたら、お父さまより先に陰謀を嗅ぎ当てていたのかもしれない。
アレクセイと婚約させることで、私を逃がそうとしてくれたのかもしれない。
確かめる術はない。
私が受けるはずだった連座を、サウリが受けたのだから。
恋ではなかった。だけど、愛していた。
ソバカスまじりの赤ら顔も、クセの強い巻き毛も、ソーミ貴族にありがちな榛色の瞳も、「可愛いマリヤッタ姫」とからかってくる優しく声も、大好きだった。
同じ家で育ち、勉強を教えてくれた、私だけのお兄さまだった。
お父さまとサウリは、失われた故郷の象徴だ。
―――ねえ、アレクセイ。私、あなたなんかにうつつを抜かさず、サウリと結婚すればよかったわ。そうしたら、お父さまやサウリと一緒に死ねたのだから。
こうして、私とクソ野郎との婚約は、あっけなく白紙になった。
爵位を没収された罪人の遺児と、我が子の結婚を許す貴族なんかいない。
平民なら一生暮らせるかなって程度の金子と、アレクセイから贈られた宝石を持たされて、ラフマニノフ侯爵家から追い出された。平民用の旅行鞄やシワにならないドレスまであつらえられていて、悪意と用意の良さに笑った。
アレクセイとは、会えないまま。
クセニヤさまと接触して以来、さまざまな疑惑が浮かんでは爆発して、心がどす黒く染まっている。
会って確かめたいことは、山ほどあった。
だけどあの時、あのタイミングで私に会いにきてくれたら。騙してごめんと頭を下げてくれていたら。
数発ぶん殴るだけで、彼を許したかもしれない。あの時はまだ、アレクセイを愛していたから。
本当の裏切りを、知らなかったのだから。
侯爵家のタウンハウスを追い出されて、まずは図書館に足を運んだ。
乗り継ぐ馬車の時刻表を調べるためだ。
辻馬車の乗り場には、国境のソーミまで網羅した時刻表なんかない。
ムカつくくらい空は晴れていて、風は気持ちよくて、角のベーカリーからは馴染みの良い匂いがしていた。
図書館も、古い本の匂いと変わらない静寂に包まれていた。
父と従兄が死んで天涯孤独になっても、日々は続いてゆく。残酷なほど、当たり前に。
メモを取ろうと万年筆を手にした瞬間、金具がはずれた。小さく折り畳んだ手紙が入っていた。
『決起せよ』
サウリの遺言で、疑念のパーツが繋がった。
私は数ヶ月分の新聞を流し読みして、ある情報を意図的に与えられなかった事実を知った。毎日読んでいた新聞が、毎日細工されていたってことだ。ご苦労なことに。
こっそり紙面を切り抜いたその足で、ギルドに向かった。アレクセイから贈られた宝石を換金し、全財産を支払にあてて個人経営の飛行船操者を雇った。
辻馬車では半月近くかかるが、飛行船なら明日の朝にはソーミに着く。青い花が咲き誇る故郷に。
王国の歴史は、割譲の歴史だ。
生産性のない僻地を武国に押し付けることで、新陳代謝を図ってきたというか。
『戦争か、国土を分譲して同盟を維持するか』
数十年ぶりに武国から脅された王国は、国境の子爵領の割譲を決めた。王国としては大した価値がない、武国としては甘味料の取れる片田舎を。
割譲で領地を失うなら、国はソーミを補償をしなくてはならない。だが、領主が罪人だったら? 罪なき領民も、その罪に利用されていたとしたら?
ようするに、お父様は嵌められたのだ。
休暇の度にソーミを訪れ、お父さまから仕事を教わっていたアレクセイが、書類を改竄して告発した。
冤罪をでっちあげるための婚約だった。なんて素敵な、国ぐるみの茶番!
そりゃあ、学ぶ学問も、社交も、情報も、制限されまくるわ!!
―――だけどね、アレクセイ。私は恋に堕ちたバカ女だったけど、お父さまたちはバカじゃないのよ。
敵に回してはいけない人間を敵に回した気分はいかが?
『決起』―――それは、故郷を捨てる合図だ。
永世中立国と武国と国境を接するソーミは、政情以外にも不安要素がある。それは、北の大河の氾濫と、数十年前から続いている地盤沈下だ。
大河が冠水したら、この地は深く水に沈むだろう。
『決起』とは本来、天災からの避難を指した。
それを従兄は、人災に発動せよと遺言したのだ。
ソーミに戻った私は、暫定的な子爵となることを宣言し、父の無実とアレクセイの裏切りを人民に訴えた。
地区ごとの代表に新聞の切り抜きを見せてまわし、『決起』を宣言した。
常駐する軍人に止められたけど、舐めてんのかってくらい少人数だ。数の暴力が勝利した。増長して威張り散らした余所者と子爵の娘じゃ、信用度がまるで違う。
私を送ってくれた飛行船操者が、捕縛を手伝ってくれた。
『お嬢さん、美人で金払いいーから。これ、オマケね』って。ちょっとだけときめいたのは、内緒だ。
きっと、一生忘れないだろう。
何千何万の羊の群れが、いっせいに西に向かう光景を。
いつもと違うルートに戸惑い、羊と飼い主の間を何度も行き来する牧羊犬の瞳を。
馬車には老人と乳飲み子が乗り、騾馬に移動式のテントを積み、多くの者は徒歩で新天地をめざした。
国に騙され、無実の罪で領主を失った領民たちが、『決起』に賛同したのだ。
その数三千人。
死が近い病人すら旅路の途中で弔い、全ての民が永世中立国に移住した。
これには譲渡した王国も、された武国も驚いただろう。
けれど、少し調べればわかるはずだ。
ソーミの暮らしは、越境のゆるい中立国に支えられていたことに。青い花の染料は羊毛と相性が良い。美しく青く染まった毛織物は、温暖な気候に恵まれた王都より、冷涼な中立国でよく売れた。
ソーミ貴族は、自国より中立国の貴族に嫁ぐケースが多い。王族に嫁いだ先祖もいる。平民同士の婚姻も盛んだ。『決起』の為の避難地が、そここそに整備されていた。
数百年前まで、ソーミは永世中立国の一部だったのだ。生活習慣や風習、名づけの好みも、ほとんど変わらない。
逆に、侵略を匂わせる武国側の国境は、常に緊張状態だった。武国は、戦争は得意だけど統治がイマイチだ。風土病から逃れるために預かった子どもたちが、帰りたがらなくて困るくらいに。
祖国に見捨てられた民が、武国民になどなりたいものか。そもそもが親戚のような中立国を選んで当然だ。
ラフマニノフ侯爵主導で国がこの地を捨てる準備をしている間、ソーミの民は国を捨てる準備をしていた。
首都のきらびやかな議事堂で割譲のサインが交わされた頃、羊一頭残さずに民は消えた。持ち運べなかった薬草を燃やし、機織り機を燃やし、青い花の糖蜜を作るレシピを燃やし、肥料は全て川に流して。
捨てる側はなぜ、捨てられる側にも捨てる権利があることに、思い至らないのだろう。
割譲が避けられなかったなら、騙し討ちで補償金をケチるような真似をしなければよかったのだ。割譲地に残るにしろ、移住するにしろ、三千人の生活基盤を補償すればよかっただけのこと。払えないわけではなかっただろう。着服したかっただけで。そんなことの為に父は冤罪をかけられ、従兄は連座で処刑され、私は青二才に騙されたのだ。
笑えない。いや、笑うしかない。
「話が違う」と怒り狂った武国が、王国を制圧したのは言うまでもない。もはや、ザマアミロとしか思わなかった。
「だからね。アレクセイ。ずっと私を愛してたなんて妄言、やめてくださる? 気色悪い」
あれから五年。世界地図から祖国が消えて四年。
軍門のトップの息子がよく生きていたなあと思ったけど、それだけだ。
相変わらず、アレクセイは麗しかった。
ただただキラキラしていた青年貴族の面影はなく、人生の荒波に翻弄された人間だけが持つ、陰鬱な諦観を身にまとっていた。それがある種の色気となって、女たちの目を惹くのだろう。
「吐くなら見るなよ。オレだって、憎まれてるとしか思ってネェし。もうひとつ言わせてもらえば、『決起』を、アンタがするとは思ってなかった。投獄前のユハニがしたのかと」
アンタにオレ、ね。
貴公子を捨てて生き永らえてきたのでしょうけど、随分口が悪くなったこと。
「まさか、あなたが『決起』を、知っていたとはね」
「オレも、ユハニの後継者だったからな」
「ハッ! 裏切り者が笑わせるわ!」
ちなみに、さすがの私も丸腰ではない。拳銃の銃口を、常に彼に向けている。
会うつもりなんか、サラサラなかった。
底冷えする石造りの小屋で、両手両足を鎖で繋いで、かつ全裸の状態なら会ってやると言ったら、実現してしまっただけだ。
解せない。それを実行した部下も、甘んじたこの男も。
「で、何しに来たの? 殺されに来た?」
「アンタに殺してもらえるなら、本望だけど。ユハニ・ソーミの遺言状を届けに来た。必ず手渡ししろって厳命されていてな。コートの裏に縫い付けてある」
そんな良心がこいつに付属してるなんて、誰が信じるだろう。自分しか頼る存在のない女を他者に虐げさせて、慰めて、貪り尽くした鬼畜が。
だが、遺言状は確かにあった。律儀にも封は閉じたままだ。懐かしい、お父さまの字だった。
「これで用はないわね。さよなら」
「ああ……すまなかった」
石造りの小屋を出て行こうとする私に、アレクセイは頭を下げた。深く深く下げて、しまいには土間に額をこすりつけた。わたしは右手の鎖だけを撃ち抜いて、惨めな裸体に拳銃を投げてやった。残る実弾は1発。
鎖を撃とうが、自分を撃とうが、彼は自由だ。
親愛なる我が娘マリヤッタへ
この手紙が届いたということは、私もサウリも生きていないでしょう。
きみが愛する人と結婚して、可愛い孫を見せてくれる夢は、潰えたというわけです。
きみを拐った男に、どれほど傷つけられたでしょう。
ただ、その傷つけ方を教えたのは私だということを、ここに懺悔します。
婚約を申し出た日のアレクセイ・ラフマニノフは、全く信用ならぬ若造でした。しかし、マリヤッタ・ソーミの愛は、彼を改心させるだろうと思いました。
案の定ってヤツかな。
君を愛したアレクセイは、苦悩しました。どうしたら、ソーミの民を傷つけずに割譲できるのか。私に冤罪をかけさせない方法は? サウリやきみを連座にさせない術はないか、とね。
きみは、連座を回避するには賢すぎました。判断力を弱らせ、愚かな娘に仕立て上げる必要がありました。
遮断する情報の選択や学園に流した悪意は、甘っちょろいボンボンのアレクセイには思いつくまい。あれは、私とサウリの案です。
名誉を汚したくない、ちゃんと愛したい、幸せにしたいと泣くアレクセイを、「ならば、マリヤッタの死を望むのか?」と脅したのは私です。
結果、やり切ったであろうアレクセイは、バカなのか有能なのか。
娘を取られた鬱屈で軽くいびり、サウリときみが婿を守る未来図が、本当は見たかったのですが。ままならないものですね。
他の方法を思いつかなかった、愚かな父で申し訳ない。
許してくれとは言いません。
アレクセイなんか、一生許さなくていい。
ただ、きみには生きてほしい。生きて幸せをつかんでほしい。切なる願いです。
これは、父としての愛やエゴだけではありません。
『決起』を発動できる人間は、子爵家の後継者に限られています。きみの生存が、民の生存に直結しているのです。
だから、生かしました。生かす為に傷つけました。
アレクセイの本心を知り、愛しあった上で、冤罪の連座となる方が、きみは幸せだったでしょう。
ですが、三千の民の命を預かる長として、その選択肢はとれません。
民の為にこの命を投げ出せるなら、その為にきみに嫌われるなら、むしろ本望です。
私とサウリは地獄で待っているから、アレクセイにはせいぜい長生きして、逃げ足掻いてもらいたいのですが。
まあ、どうでもいいです。
彼はもう子どもではないし、恋人と生家を裏切った罪人です。情けをかける必要はないでしょう。
私は、私たちは、マリヤッタを愛しています。
心からの愛と謝罪を君に送ります。
どうか、幸せに生きてください。
世界で一番、愚かな父より。聡く美しい最愛の娘へ―――
アレクセイを閉じ込めた小屋から、銃声が上がった。
「アレクッ………?!」
ふり返り、走り出した私に驚いたのだろう。
草むらにいた野鳥が、バサバサと飛び去っていった。




