帰り道の無い生き方
抜けるような青い空と真っ白な雲。
もうすぐ夏本番の空を、ベッドに横たわって窓越しに眺める、
一人の女子生徒がいた。
その女子生徒は生まれつき体が弱く、
一日のほとんどをベッドの上で過ごす日々。
何度も病院に入退院を繰り返し、
高校生になった今も学校にはあまり登校できていない。
幸い、友人関係には恵まれていて、
たまに学校に登校した時などは、友人たちに温かく迎えられ、
趣味のおまじないや占いに付き合ってもらったりなどもした。
しかし、その友人たちとも、最近は会えずにいる。
このまま学校を卒業して友人たちと離れ離れになりたくない。
いつまで生きていられるかもわからない身なのはわかっている。
それでもせめて一夏の思い出が欲しい。
だからその女子生徒は祈った。
真っ暗な夜。
外国の怪しげな書物を参考にして、摩訶不思議な呪いをした。
「願いを叶える悪魔よ、我が希求に応じ賜え!」
真っ赤な魔法陣の真ん中で、その女子生徒が叫ぶ。
静寂の時が流れ、やっぱり呪いなど無意味だったかと思い始めた時、
落胆するその女子生徒の声に応える者が現れようとしていた。
「俺を呼んだのはお前か?」
どこからか声が聞こえる。
いやらしくて意地悪そうなその声は、
遥か遠く地の底から聞こえてくるような気がした。
姿無く声だけの相手に、その女子生徒は言った。
「聞こえる、聞こえるよ。
まさかあなたは、本当に悪魔なの?」
「ああ、そうだ。
この俺が人間に呼び出されるなんて久しぶりだ。」
悪魔だと名乗ったその声は、ちょっとからかうような声色で応えた。
まさか、呪いで本当に悪魔を召喚してしまうなんて。
あるいはこれは誰かのいたずらだろうか。
その女子生徒は周囲を探るが、しかしやはりそこには誰もいない。
自室にはその女子生徒が一人っきりで、部屋の外や窓の外にも誰もいない。
今は深夜だから、きっと両親は部屋で眠っていることだろう。
正真正銘、ここにいるのは自分だけ。
そこに声がするのだから、それは自分が召喚した悪魔なのだろう。
もしも違ったとしても、せいぜい赤っ恥をかくだけだ。
そんなことを考えていると、
悪魔だと名乗った声がその女子生徒をけしかけた。
「お前、よっぽど深い想念を抱えてるみたいだな。
願いを叶えて欲しいんだろう?
言ってみろよ。
ただし、叶えてやっても良いが、条件があるぞ。」
「条件?」
「ああ、そうだ。
まず、俺が叶えられる願いは、願う者が自力で実現可能なものだけだ。
翼を生やして空を飛ぶとか、人間界を滅ぼすなんてのは無理だ。
それは願う者が自分の力では成し遂げられないことだからな。
賢くなりたいとか、大金が欲しいとかいうのは可能だ。
それは願う者が自分の力で成し遂げられる可能性があるからだ。
俺ができるのは、可能性の一つを選んで実現すること。
可能性が0の願いは叶えられない。
そして、願いを叶え終わった後は、お前の魂を喰わせてもらう。」
「魂を?魂を食べられたらどうなるの?」
「無だ。無がやってくる。
この世では、死は終わりではない。
死んだ後にも続きがあるのは、人間も知ってることだろう。
それが無くなる。
魂を喰われた人間はそこで終わり。
以後の可能性を全て失うというわけだ。
悪魔との契約は絶対。
必ず履行されなければならない。
それでも良ければ、願いを言うが良い。」
死んだ後には無が待っている。
その女子生徒はぶるっと身震いを一つした。
もしそれが本当だとしたら、願いを叶える代償には大きすぎるかもしれない。
でも。
友人たちと一緒にいられるのは、今しかない。
あの世や来世で友人たちと再会できるとは限らないのだから。
脳裏に浮かぶ友人たちの笑顔が、その女子生徒になけなしの勇気を与えた。
「わたしは、友達のみんなと一緒に夏の思い出を作りたい。
普通の人と同じように、みんなと海に行って楽しく過ごしたい。
だから、わたしは願う。
わたしをみんなと一緒に海に行けるようにして欲しい。」
一言一言を噛みしめるような、その女子生徒の願いの言葉。
すると悪魔だと名乗った声は、やや改まって応えた。
「お前の願いは、友人たちと海に行くこと、だな。
よしわかった。
その願い、叶えてやろう。
ただし覚えておくが良い。
その願いが叶った後は、お前の魂を喰わせてもらうぞ。」
地の底から重々しい声が返ってくる。
するとその女子生徒は胸を押さえてうずくまった。
胸が焼ける様に熱い。まるで焼き鏝を当てられたようだ。
皮膚が焦げる臭いがする。肉が焼ける臭いがする。
たまらず胸を覗き込むと、そこには、
まるで悪魔が踊っているような形の痣が浮かんでいた。
願いを叶える悪魔と契約を結んだ後、
その女子生徒はぐったりとベッドに倒れ込んだ。
気絶するようにして眠りに落ちて、夢を見た。
夢の中で、その女子生徒は、虚空に浮かんでいた。
虚空に浮かぶ体を、無数の闇が襲う。
細く伸びた無数の闇がその女子生徒の体を蝕んでいく。
体が熱い。体が痛い。
闇はその女子生徒の体を散々弄んで、胸の痣に収まった。
ハッとその女子生徒が目を覚ますと、そこはいつもの自室のベッドの上。
窓の外には雀の鳴き声。
どうやらその女子生徒は朝までぐっすりと眠っていたようだった。
うーんと伸びをして、その女子生徒は思わず我が身を見た。
「体が軽い。まるで体が治ったみたい。」
それは気の所為ではなかった。
その女子生徒が病院に行って検査を受けると、
確かにその女子生徒の体は全くの健康体になっていた。
やはりあれは夢ではなく、願いを叶える悪魔はいたのだと、
確信させられたのだった。
そんなことがあって。
その女子生徒は、普通の生徒と同じ様に学校に通うようになった。
友人たちとも再会して喜びを分かち合うことができた。
「君、体はもう良いのかい?」
「うん、お医者さんの許可も貰ってるの。
もう普通の生活をしても良いって。」
「わぁ、それは良かったね。」
「それで、みんなにお願いがあるの。
わたし、海に行きたい。
みんなと一緒に海に行って、夏の思い出を作りたい。」
「それは良いね。
よし、じゃあ夏休みになったら、みんなで海に行こう!」
「おー!」
その女子生徒が海に行きたいと言うと、友人たちは二つ返事で同意してくれた。
間も無くして海開きがやってきて、夏休みになって、
いよいよその女子生徒が友人たちと海に行く時がやってきた。
夢にまで見た、悪魔と契約までして掴んだ、夏の思い出作り。
しかし、その時、その女子生徒は、
自分が悪魔と交わした契約に重大な不備があることに、
まだ気が付いてはいなかった。
それから数週間後、夏休みの一日。
その女子生徒は、友人たちと一緒に海辺にいた。
夏の照りつける日差しの下、友人たちと水着ではしゃぎ合うその姿は、
ついこの間まで病院に入退院を繰り返していたようには見えない。
その女子生徒と友人たちが砂浜を楽しそうに駆け回り、
残った足跡を海の細波が洗い流していく。
念願の海をその女子生徒は精一杯に楽しんでいた。
どうせこの海から家に帰れば、自分の命はそこで終わり。
そういう契約だから。
それがなおさらその女子生徒を駆り立てた。
いつも以上に賑やかに、いつも以上に明るく振る舞う。
友人たちの輪を抜け出して、気になる男子生徒と二人っきりになったりもした。
しかし何事にも終わりはある。
楽しい夏の思い出が、間もなく終わろうとしていた。
夕暮れを迎える海辺の高台。
その女子生徒と友人たちは並んで夏の夕日を見ていた。
沈む夕日を見ながら、誰からともなく口を開いた。
「日、沈んじゃうね。」
「そうだね。」
「そろそろ帰ろうか。」
「帰りに夕飯を食べて行こうね。」
友人たちが一人また一人と、海に背を向けて帰っていく。
その女子生徒もそれに続こうとした、その時。
突然、胸に刺すような痛みが走った。
胸を抉られるような強烈な痛みに、その女子生徒はうずくまった。
水着の隙間から胸を覗くと、そこにはあの悪魔の形の痣。
水着で巧妙に隠した痣が、まるで踊るように動き出し、血が滲んでいた。
うずくまったその女子生徒に気が付いて、友人たちが駆け寄る。
「どうした!?」
「ねぇ、大丈夫?」
集まる友人たちを手で制して、その女子生徒は懸命に応えた。
「大丈夫、ちょっと疲れただけだから。
だからみんな、ちょっと先に行ってて。
すぐにわたしも追いつくから。」
「でも。」
「お願いだから!」
その女子生徒の強い言葉に、友人たちが顔を見合わせる。
仕方がなく、友人たちはその場を後にした。
友人たちと離れてから、その女子生徒は胸の隙間に向かって言った。
「これはどういうこと?
この痛みは、あなたの仕業なんでしょう。
まだみんなとやることがあるのに、ひどいよ。
みんなと海に行かせてくれるって約束でしょ?
海にいる間は手出しをしないでいてくれるって約束じゃなかったの?」
やるせなさに思わず声が大きくなる。
涙ぐむその女子生徒に、悪魔の痣がおどけて見せた。
「おおっと、勘違いしてもらっちゃ困るぜ。
お前の願いは、
わたしをみんなと一緒に海に行けるようにして欲しい、
ということだったよな?
この言葉には、帰り道については含まれていない。
俺がお前と交わした契約は、お前が海に行った時点で果たされたんだ。
お前の願いは海に来るまでに叶えられた。
つまり、帰り道の保証は無いんだよ。
もうちょっと待っても良かったんだけどな。
いい加減に腹も減ってきたから、ここでお前の魂を食うことにした。
悪魔の契約は絶対だからな。
悪く思うな。」
わたしをみんなと一緒に海に行けるようにして欲しい。
その言葉をその女子生徒は、みんなと海に行って帰ってくる、
という意味で使ったつもりだった。
しかし、悪魔の方はその言葉を文字通り、海に行くという意味で受け取った。
だから帰り道はもう契約の範囲外。
煮るなり焼くなり好きにして良いということになる。
夏の夜に花火を楽しむことも、
帰り道に楽しかった海の思い出話に花を咲かせるのも、
親しい友人たちと夕飯を囲うのも、
もう遥か遠く叶わぬ願い。
相手は悪魔だと名乗っていたのに、不用意な言葉を使ったのが運の尽き。
それでも。
願いは半分しか叶えられなかったが、それでも良い思い出になったと、
その女子生徒は思う。
だって、もしも悪魔に願いを叶えて貰わなければ、
自分はきっと今も動かない体でベッドの上に横たわっていただろうから。
今は再び動かなくなった体を抱えて、その女子生徒は観念して目をつぶった。
胸の悪魔の痣が伸びて広がって、影のように体を離れて、
その女子生徒に齧り付こうとする、
まさにその時。
周囲から人影が現れて、その女子生徒と悪魔を取り囲んだ。
「その話、ちょっと待った!」
その女子生徒が、悪魔に魂を喰われようとしていた、その時。
周囲から現れたのは、先に行ったはずの友人たち。
数人の男女生徒たちが現れて、その女子生徒と悪魔を取り囲んでいた。
「ちょっと待った!」
「話は聞かせてもらった。」
「その話、おかしいよ!」
どこに隠していたのか、
友人たちは手に、魔法陣の描かれた書物だの、御札だの、
数々のお祓い道具を持っている。
そのいずれかが効果あったのか、悪魔の痣は動きを止めて、
その女子生徒の友人たちに振り返って言った。
「貴様ら、何者だ?
悪魔であるこの俺の邪魔をするとは、良い度胸だな。
俺がこの娘の魂を喰うのは、契約で定められたことだぞ。」
すると友人たちは人差し指を立て、左右に振って見せた。
「ちっちっ、勘違いしてもらっちゃ困るな。
その子は契約でこう言ったんだろう?
わたしをみんなと一緒に海に行けるようにして欲しいって。」
「ああ、そうだ。
だから、今日こうしてこの娘は海に来ることができた。
帰り道の保証まではしていないのだから、
今ここで魂を喰らったとしても、問題はあるまい。」
「そんなことはないね。」
「何?」
怪訝な様子の悪魔の痣に、友人たちは顔を見合わせて頷き合い、
ニヤリと笑って言い放った。
「だって、夏は今年だけじゃないもの。
来年だって再来年だって、夏はやってくる。
その子がみんなと一緒に海に行くのは、今年だけじゃない。
私たちが友達でいる限り、これからも一緒に海に行く。
だから、今ここでその子の魂を食べてしまうのは契約違反。」
「その子の契約は、確かに、帰り道のことは触れてない。
だってそれは当然のことだから。
人の命が続く限り、夏は毎年やってくる。
人の生き方に帰り道なんてものは無いんだ。」
「もしも、生き方に帰り道なんてものがあったとしたら、
それはきっとやりたいことを全てやり終えた、
おじいちゃん、おばあちゃんくらいなものでしょうね。」
「じいちゃんばあちゃんだって、まだまだ元気な人はいるけどな。」
友人たちがカラカラと笑う。
それから友人たちはその女子生徒に目配せをした。
目と目が合って、友人たちの意思が、笑顔が、
その女子生徒に伝わっていく。
泣き顔に笑顔で頷いて、その女子生徒も口を開いた。
「そう、みんなの言う通り。
わたしは、わたしをみんなと一緒に海に行けるようにして欲しい、
というこの言葉を、
みんなと一緒に海に毎年行けるようにして欲しい、という意味で使った。
だから悪魔よ、どうか契約を守って!」
その女子生徒の声が駄目押しとなって、悪魔は動きを封じられた。
大きく広がっていた悪魔の痣は、見る見る縮んで元の場所へ戻っていった。
今はまた小さな痣となって、忌々しそうに声を出すだけだった。
「この人間風情が、悪魔である俺を封じるとは。
よかろう、今は引いてやる。
だが覚えておけ。
もしも、この娘の生き方が帰り道に差し掛かったのなら、
その時は、俺は容赦無くその魂を喰らうからな。
楽しみにしているぞ。」
怨嗟を固めたような声は、地の底へと沈んで行き、やがて聞こえなくなった。
後に残ったのは、手を取り合うその女子生徒と友人たちの姿だけだった。
そんなことがあって。
その女子生徒は無事に友人たちと海から帰ってくることができた。
男子生徒におんぶされていたその女子生徒も、
海辺から街に戻る頃にはもう落ち着いて、自分の足で歩けるようになっていた。
そうして、その女子生徒と友人たちの一夏の思い出は、
帰り道まで含めて、大切な思い出として心に仕舞われることになった。
それから夏が終わって、学校が始まって。
学校で楽しそうに語らい合う生徒たちの中に、その女子生徒もいた。
その女子生徒はすっかり健康体になって、
今では普通の生徒と同じ様に毎日学校に通っている。
悪魔の痣は今も胸に残っていて、たまに語りかけてくることがある。
「もうこの辺で良いんじゃないか?諦めたらどうだ。
お前の生き方はもう帰り道なんだろう?」
しかし、その女子生徒は諦めない。
人の命が続いていく限り、
人の生き方に帰り道なんてものはない。
その女子生徒が前に進み続ける限り、悪魔に魂を食べられることはない。
今日もその女子生徒は友人たちと共に前に進み続ける。
友人たちと楽しそうに過ごすその女子生徒を見て、
悪魔の痣は、悔しそうに地団駄を踏んでいた。
終わり。
小説家になろう公式企画、夏のホラー2023、
帰り道をテーマにこの話を書きました。
楽しければ楽しいほど、帰り道は寂しさを感じます。
人の寂しさに付け込む悪魔がいるなら、狙うのはこんな時だろう。
ずっとずっと帰り道が来ないで、楽しいことが続けば良いのに。
そんなことを考えて、この話を作っていきました。
作中で女子生徒は、帰り道を無事に切り抜けることができました。
でもそれには条件があります。
友人たちとずっと一緒に前に進み続けること。
この条件を達成し続けるのは、意外と難しいものです。
人によっては恐ろしく困難なことでもあります。
女子生徒はこれからも悪魔に魂を喰われずに済むのか、
あるいは見た目ほどには安泰では無いのかもしれません。
お読み頂きありがとうございました。