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失いかけた記憶をもとめて

作者: 近藤京

「<あれ>、なんていうんだっけなあ」

「<あれ>って?」

「ほら、<あれ>だよ、<あれ>。えーっと…」

 男は必死に<あれ>を思い出そうとする。しかしなかなか思い出せない。「やばいな。ど忘れした」


 こうした「ど忘れ」は誰もが経験したことがあろう。しかし「ど忘れ」は通常の「忘却」とは異なり、われわれが持つ記憶の倉庫に絶対的に保管されている。これは紛れもない事実であり、だからこそある刹那に「はっ!」と思い出すことができるのだ。

 では、なにゆえにわれわれは記憶を「ど忘れ」し、ある瞬間に突発的に思い出すのであろうか。この物語はその流れを垣間見る物語である。


 私が勤めているのは記憶屋。記憶屋は仕入れた情報を意味のある「情報」として処理し「記憶」という媒体に変換してシステムに入力、保管する。保管庫は脳内の至るところに散在し、記憶屋で処理された「記憶」はジャンルごとにそれら保管庫へと運ばれていく。

 そして私は記憶屋にて「記憶」の運搬を担当している。

 脳内にはり巡らされた道路を駆使して「記憶」を別の保管庫へ輸送する。こうすることで保管庫は整理整頓され秩序ある保管庫としてその機能を保ち得、ご主人が使いたい記憶を即座に取り出すことを可能にするのだ。

 私はそんな記憶屋の運搬業務を指揮する部長的なポジションでもあった。


 ある日、緊急事態を知らせる警報が突如として記憶屋に鳴り響いた。

「ご主人が使おうとしている記憶が然るべき保管庫にありません!」

 保管庫の管理担当者が叫んだ。場内は騒然とする。あるべきところに記憶がないということは重大な過失だ。

「担当はどこだ!?」

 私は叫ぶ。

「前頭前皮質です!」

「担当者は!?」

「志那です!」

 志那は所属したばかりの新人運搬者だ。どこかおどおどした感じがあって、大丈夫かこいつと思っていた矢先の出来事であった。

 志那がすぐに連れてこられた。目には涙が浮かんでいる。

「保管するときには全部あったのか!?」

「あったと思います…」

「思いますって。リストは確認しただろうな!?」

「したはず、です…」

 志那は俯きながら曖昧に答える。彼の受け答えにうんざりしそうになったが、そんなことで時間を無駄にしている場合ではない。

 「手が空いている奴をかき集めてこい!急いで記憶を探すんだ!!」

 記憶屋内がばたばたと動き始めた。

「保管庫管理部はどこまで「記憶」があったのかログを辿ってくれ!」私はそう指示するとすぐに運搬車両に乗り込んだ。


 車両に乗り込むとすぐに、前頭前皮質にある保管庫の職員から電話がかかってきた。聞けば、ご主人が「記憶」を取り出そうと保管庫の「記憶」を探し回っているようで、保管庫内は見るに耐えない悲惨な状況になっているらしい。

「もうめちゃくちゃです」

 職員は悲鳴をあげた。「システムがオーバーヒートしかけていて、このままではここに有る全ての記憶が失われます!」

「散らかった「記憶」をなるべく迅速に片付けてくれ!少しでも放熱するんだ!!」

 電話を切るとすぐに保管庫管理部から電話がきた。保管庫に入るときにはすでに「記憶」は失われてた、という旨の連絡だった。となればそこに向かうまでの道のどこかで落としたはず、と私は考えた。「記憶」の運搬する際に使用する経路はあらかじめ定められている。前頭前皮質までの経路を辿れば必ずや見つかるはずだ。

 私は経路表を取り出しすぐに出発した。


 ある程度進むと車体がぐわんぐわんと揺られ始めた。なんだなんだと思って車から降りてみると、本来はきちんと舗装されてある道路があちこち歪み凸凹している。「記憶」を運ぶ側としてはたまったものではない。

 私は脳内インフラ部に連絡をとった。しかしつながらない。いったいどうなっているのか。

 二、三度かけなおすとようやくつながった。私は怒りのあまり電話先の相手を激しく詰問した。

「申し訳ありません」と電話の向こうにいる彼は謝罪し状況を説明した。

 そもそもはご主人の寝不足に端を発する。規則正しい生活を送っていただけあって、この不測の事態に脳内インフラ部も対応ができなかったらしい。

「あちこちの運搬車から道路の凸凹に対するクレームの電話が殺到しています」

「だからつながりにくかったのか」

「左様でございます。ただいま迅速な復旧を試みております。しかし、如何せん脳内のインフラというものは複雑で、ご主人がお休みにならないと修復班が活動できない状態でして…」

 電話の相手は元気なく答える。「しばらくはこの状態が続くかと思われます」

 どうやら「記憶」を失くしたとか落としたという事案があちこちの保管庫で発生しているらしい。今のところご主人が探しているのは志那が失くした「記憶」だけであるからいいものの、いつご主人が別の「記憶」を取り出そうとするかわからない。そうなってしまえば、ご主人は阿呆の権化と成りその醜態を衆目に晒してしまうことにもなりかねない。

 可及的速やかに対処せねば。


 車体に激しく揺られながら私は鵜の目鷹の目で「記憶」を探していると驚くべき光景が目に飛び込んできた。道の先に本来あるはずの橋が崩壊しているのだ。どうやら橋の下を流れる川がご主人の寝不足によって氾濫し橋脚を流してしまったようだ。

 他に迂回路はない。向こうへ行くにはここを渡るしかあるまい。

 私は車を降り近くの太い木にロープをくくりつけて、その先を自分の体に硬く結びつける。氾濫する川の前で私は仁王立ち、ゆっくりと深呼吸をする。ごうごうと音を立てる川の濁流が私の耳を覆う。

 私はえいやと濁流に身を投じた。瞬間に濁流が私の体を横殴りする。負けるものかと自分を奮い立たせて定期的に向こう岸を確認する。ときおり木の枝や落ち葉、小石が私の体にぶつかった。水もたくさん飲み込んでしまい何度も窒息しかけたが、なんとか対岸までたどり着くことができた。

 振り返ると、川へ飛び込んだ地点が右側にあった。さすがにまっすぐに泳ぎ切るというのは困難を極めるもので、私は自然と曲線を描いて泳いでいたらしい。

 いや、そんなことはどうでもいい。私はロープをほどいて「記憶」を探し始めた。

 

 道をいくにつれて、足元はどんどん悪くなっていく。

 この道路状態をみるに、「記憶」はおそらくこの辺りで車の荷台から落ちたのであろう。私の直感はそう訴えていた。

 道から外れ沿道の草原を私は血眼になって探した。土をさらい、草をかき分け、倒木をどかし、手は切り傷で溢れ身体は土で茶色く汚れ、私は血と土と汗まみれになっていた。

 それでもなかなか見つからない。

 ここじゃないのか─

 そう思って顔を拭い、ふらふらと大木の陰に身を寄せる。暑さに朦朧としながら樹間を除く青空を仰ぎ見る。二匹の鳥が私の頭に降り立った。つがいであろうか。こんな状況でなければきっと優雅な休みだったはずであろう。

 そんなことを考えていると、このつがいの鳥が私の頭をしきりにつつくのである。「痛い、やめてくれ」と追い払おうとしてもやめてくれない。ひとしきりつついたあと今度は私の頭上を飛び回る。どこかに案内しようとしているみたいだ。私はつがいの鳥について行った。

 草をふみわけていくと、先ほど氾濫していた川の支流である小川が流れているところにでた。小川は陽光を照り返しキラキラと煌めいている。

 その小川沿いの盛土の上に「それ」はあった。二匹の小鳥はその上に降り立ちぴいぴい鳴いている。

「あった…!」

 私は「記憶」を拾い上げた。するとその下に小さい穴があった。穴の中からはぴよぴよと可愛い声が聞こえてくる。

 なるほど、この穴は鳥の巣のようだ。「記憶」が穴を塞いでしまい親鳥は入れなかったわけだな。ごめんよ、君たちの生活を邪魔するつもりはなかったのだ。

 でも、どうして「記憶」がこんなところにまで飛ばされたのだろう。いや、そんなことを考えでもしょうがない。今はこれを戻すことが先決だ。私は「記憶」を見つけたことを報告しようとしたのだが、先の濁流によって携帯が流されてしまったらしい。車も置いてきた。こうなれば走って前頭前皮質の保管庫まで向かう他ない。

 私は全力で駆け出した。


 舗装されていた道は完全にオフロードと化し、私はトレイルランをしている気分になった。道の凹凸がときたまに足ツボマッサージのように足裏を刺激し激痛が走る。膝の関節も徐々に痛みだし己が運動不足を呪った。

 それでも「記憶」は落とすまいと右手に固く握りしめいていた。これは矜持だ。泥臭くてもみすぼらしくても、自分の信念を曲げてはいけないときがある。それがいまだ。私は自分を鼓舞した。

 何度も転んだ。その度に膝小僧を擦りむいた。同じところを擦りむくうちに傷口がどんどん広がり、肉が抉れ血が溢れた。しかし私は走り続けた。かの赤面した勇者のように。


 ようやく前頭前皮質の保管庫に辿り着いた。

 私は入り口のドアをガンガン叩いた。すぐに職員が出てきた。

「その格好、いったいどうしたんですか!?」

 職員は目をまん丸にした。私は彼の襟をつかんで言った。

「そんなことはいい!「記憶」を見つけた!しまう場所はどこだ!?」

「こっちです!」

 職員はすぐさま私を案内し、「ここです!」としまうべき場所を指差した。本来ならば正当な手続きを踏んでから「記憶」は片付けられるべきであるが、そんな悠長なことはしていられない。

 私は見つけた「記憶」を元の場所へしまった。


 

「あっ!思い出した!シミュラクラ現象だ!あーよかった」

 男が叫んだ。「あれ?でも似たような現象もあったよな。なんだっけ…」


 記憶屋に警報が鳴り響いたのはいうまでもない。

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