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平井のエッセイ・雑学&考察系

古典的一人称となろう的一人称

作者: 平井敦史

 小説の書き方には、大きく分けて一人称形式と三人称形式がある、というのは皆さんご存知のことと思います。


「私は~~した」、「僕は~~と思った」などのように、作中に登場する人物の一人(多くの場合主人公)の視点を借りて――つまり語り手として、叙述するのが一人称形式。

 特定の人物の視点を借りることなく、完全に第三者視点で叙述するのが三人称形式ですね。


 そして、ここ「小説家になろう」に投稿されている小説の多くが、一人称形式で書かれています。


 といっても、語り手を完全に一人に固定しているケースはまれで、ほとんどの場合、途中で他の人物の視点に切り替わったり、三人称形式を交えたりしていますね。


 一人称形式は読者が感情移入しやすいという長所がある一方、語り手が知り得ないこと、特に他の登場人物の心情などを描写できないという短所があり、それを埋め合わせるための工夫です。

 安易に用いると、今誰視点で語られているのか読者が混乱したり、主人公の活躍が読みたいのに別の人物の語りが入ることに対しイライラしたり、といった弊害も生じますが、作品への没入感を確保しつつ、こぼれ落ちる部分をカバーする、という点で、有効な手法だと思います。


 数ある小説論の中には、「視点を変えてまで描写しなければならないことなど存在しない(だから語り手は固定しろ)」などと乱暴なことが書いてあるものもありますが、それはいささか極論というものでしょう。



 さて、この、読者の感情移入を高めるという長所を持つ一人称形式。今まさに語り手がその場面に直面しているかのような臨場感をもたらすわけですが――よくよく考えてみるとこれってちょっとおかしくない?と思える書き方がしばしば見られます。

 例えば――


 ※※※※※


「ふうん、陰キャっち、今一人暮らしなんだぁ?」


 ギャル子は小悪魔じみた笑顔を浮かべ、俺の目をまっすぐ見つめながらそう言った。おいおい、こいつは一体何を言い出すつもりなんだ?


「じゃあ、あーしがご飯作りに行ったげる♡」


 はぁ? 冗談じゃない! 俺の平和な一人暮らし生活はどうなっちまうんだよ!?


 いや待て落ち着け俺。きっとからかわれているだけだ。

 自慢じゃないがコミュ障ぼっち(本当に自慢じゃないな)な俺なんかのために、料理を作りに来てくれるような奇特な女の子がいるわけないだろ?


「さ、じゃあ行こっか」


 自問自答する俺の左腕に、何やら柔らかいものが触れる。気が付くとギャル子が俺の腕を取り、ぴとっと身を寄せていた。


「え? え? え? 行くって何処に?」


「もちろん陰キャっちの(うち)だよ」


 えーっと、マジっすか?


 ※※※※※


 えー、はい。まあ内容についてはさておきまして(笑)。

 叙述の仕方に違和感を覚える方はほとんどいらっしゃらないでしょう、多分。実際、ここ「なろう」でも一般的に見られる叙述方法だと思います。


 しかし、冷静になって考えてみると、この文章は誰がいつ書いたのでしょうか? 「そりゃあ作者(あんた)が書いたんだろ」というツッコミは無しで。


 語り手たる陰キャっちが書いたのだとして、彼はギャル子に迫られている真っ最中に執筆していたのか? そんなわけないですよね。

 普通に考えれば、後になって、少なくともその場を離れてから、書いているはずです。

 にもかかわらず、今まさにその場にいるかのような書き方をするのって、ちょっとあざといと思いませんか? え、思わない?


 言われてみたら確かにそうかもだけど、それって普通じゃん?――そう思われる方がほとんどでしょう。私自身、違和感を覚えるかと言われれば別にそういうわけではありません。


 むしろ逆に、「俺は混乱のあまり、その場で気を失った」とか、「まさかその場面を幼馴染子に見られており、後に修羅場が待っていようとは、その時の俺には知る(よし)もなかった」なんてことが書かれていたら、そちらに対して違和感がある、という方もいらっしゃるようです。

 気絶してしまったら書けないだろ、とか、何で未来のことがわかるんだよ、とか。


 実際、そういった違和感を表明するエッセイがここ「なろう」にも投稿されており、それらを読ませていただいて、色々考えたことをまとめてみたのが本稿です。



 いささか長くなってしまいましたが、ここまでは前置き。

 タイトルに挙げた「古典的一人称」についてです。これは私の造語ですが、「いや、ちゃんとそういうのを表す用語あるから」ということであれば、やんわりとご指摘いただければ幸いです。


 一人称小説の元祖は何か、というのは浅学の身ゆえ不明なのですが、代表的なものを挙げるなら、19世紀末から20世紀初頭にかけて執筆された『シャーロック・ホームズシリーズ』ということになるでしょう。もっと古くてかつ有名な作品があるようでしたら、やんわりと以下略。

 この作品群はご存知の通り、その多くが語り手たるジョン・H・ワトスン(ワトソン)の一人称で書かれています。名探偵シャーロック・ホームズの助手であり友人であるワトスンが、ホームズが解決した事件を書き綴った、という体裁です。


 この、「一連の出来事が決着した後に、語り手が、当時のことを振り返って著述した(という体裁の)小説」を、ここでは「古典的一人称」と呼ぶことにします。この場合の一人称は、未来からの視点、つまり「一人称未来視点」となります。


 小説の登場人物の一人である語り手が書いた、という体裁を取ることにより、あたかも実際に起きた出来事であるかのような雰囲気を醸し出すこと。それが、一人称小説の本来の目的であったと考えられます。

 もちろん、あくまで雰囲気です。作者は本気で読者を騙そうだなんて思ってないし、ほとんどの読者も、これ本当は作者の創作なんだよな、というのは承知の上で、楽しんでいるわけです。


 そう考えると、先ほど例に挙げたような、「後から回想して書いているはずなのに、あたかもその場で現在進行形で書いているかのような叙述」は、古典的一人称においてはほとんど反則と言っていいでしょう。

 当然、作品の途中で別人の視点や三人称に変わる、というのもNGです。語り手自身が書いたという建前を壊してしまいますからね。


 個人的な感想ではありますが、ヘイスティングズという人物の一人称で語られる名探偵ポアロシリーズの一作『ABC殺人事件』において、ヘイスティングズ視点ではない一節が挿入されていることに対して、初めて読んだときはかなりの違和感を覚えたものです。


 まあ、最近「なろう」で色々な作品を読み耽り、作中で視点がコロコロ変わるのにもすっかり慣れてしまった今となっては、そのぐらいノープロブレム……と言いたいところですが、やはり若干の違和感は否めません。

 それはやはり、「ヘイスティングズが綴ったポアロの事件簿」という形式が崩れてしまっているように感じるからなのだと思います。



 一方、今現在「なろう」に投稿されているような一人称小説。これらの中で、古典的一人称の形式を取っているものはかなり少数派と思われます。


 そもそも、異世界を舞台にした小説において、いくら語り手による一人称を徹底したところで、「いかにも実際にあった出来事」感を演出しようというのは無理があります。

 ここで重視されるのは、一人称形式の別の利点。そう、語り手に感情移入することで作品世界により没入しやすくなる、という点です。そのためには、今まさにその場面に直面しているかのような描き方――「一人称現在視点」も全然オッケー、むしろウェルカム。


 その一方で、一人称形式の作品を読み進める上でストレスになりかねない点、語り手が見聞きしたことしか描かれないため他の登場人物の心情や物語の裏で進行している出来事などが不明なまま、という点について、視点変更により情報を提示する、という手法でもって解決が図られます。もちろん、読者の混乱を避けるために視点が変更されたことをわかりやすく示す必要はありますが。


 これ一体誰がどうやって書いたんだよ、などという形式論よりも、その場のノリ重視。それが「なろう的一人称」なのです。

「その場のノリ重視」というのは決して小馬鹿にしているわけではなく、いかに読者を乗せられるか、というのはエンタメ小説においてとても重要な事です。


 まあ、そういった叙述法は「なろう」の専売特許じゃねぇよ、というご意見もあることでしょう。あるいは「Web小説的一人称」とか「ラノベ的一人称」といった言い方のほうが適切かもしれませんが、ひとまず本稿では「なろう的一人称」と呼ぶことにします。



 このように、一口に「一人称」と言ってもほとんど別物な古典的一人称となろう的一人称。

 それぞれに長所と短所があり、一見、色々と縛りの多い古典的に対して、自由度の高いなろう的、と思われるでしょうが、古典的では許されてもなろう的では避けた方がいい叙述法というものも存在します。


 それが先にも触れた、がっつりと現在進行形的な叙述をしている中に突然その時点では知り得ないような情報をぶち込むこと。つまり、「一人称未来視点」を安易に持ち込むことです。


 もちろん、すべて後になってから書いていると考えれば、決して「知り得ない」情報ではありません。

「後にあんなことになろうとは、その時の私は夢にも思わなかった」とか、「彼女の言葉の意味を深く考えなかったことを、俺は後に死ぬほど後悔することになるのだった」とか、先の展開に期待が膨らみますし、実際古典的一人称ではよく見られる手法です。


 ただやはり、今まさに作中の場面に直面しているような――リアルタイム実況的な書き方をしておきながら、突然、私はこの先の展開を承知してますよ的な書き方を混ぜ込むのは、読者の(きょう)()ましてしまうおそれがあります。

 絶対にダメだとは思いませんが、使い方には注意を払った方が良いでしょう。


 率直に言うと、私自身は古典的一人称に慣れた人間ですので、一人称形式で先の出来事を語られたりしてもあまり違和感は抱かないのですが、中には拒絶反応を示す方もいらっしゃるということです。


 逆に、古典的一人称形式に現在視点を持ち込むのもよろしくないので、要するに現在視点と未来視点は「混ぜるな危険」ということですね。



 というわけで、一人称形式の中にもスタンスの異なる叙述法が混在しているんですよ、というお話でした。

 正直、私は小説論や文学論をきちんと学んだことがあるわけではありませんので、論旨におかしな点があるかもしれませんが、何かお気付きの点がありましたら、感想などお寄せいただければと思います(どうぞお手柔らかに)。

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一人称における視点移動について論じた姉妹編もよろしく。『マルチ一人称だっていいじゃない』
― 新着の感想 ―
[一言]  最近、一人称小説の書き方を利用した、面白い小説を読んだばかりということもあり、感想を書きこまずにはいられなくなってしまいました。  私が一人称小説を書くにあたって、どれだけ頭を悩ませられ…
[一言]  古典的一人称、書いてます。  ただ、古典的一人称の作品でも、リアルタイムのような雰囲気で書いてある作品はなくはないのでは。タニス・リーのウルフタワーシリーズなんかは主人公の日記という設定…
[一言] 一人称作家、というとまず思い出すのは新井素子さんですが… 彼女もだんだんと三人称に移っていってしまいましたね。 そして、考えてみると吾輩は猫である、も完全な一人称小説ですね。視点変更なし、…
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