ソロモンの財宝の秘密
第一の殺人
平成8年6月10日、朝7時半。
常石神社、神殿の裏手、石垣の下で、磯部作次郎の撲殺死体が発見される。発見者は常石会館の管理人。彼は毎朝、築後間もない社務所の玄関や拝殿の扉を開ける。天気の良い時には神社の周囲の草むしりに精を出している。
社殿の西と北は苔むした石垣で囲まれている。
頭部は血に染まって、磯部の死体は石垣の下に蹲るように放置されていた。管理人は酔っぱらいがしゃがみ込んでいるのかと思ったという。側に血の付いた石を見つけて、あわてて警察へ通報する。
常石神社へは、東から車で出入りできる。北側に常滑東小学校がある。その下の方にユニー常滑店がある。
道路幅16メートルの国道が通る。繁華街の奥に常石神社がある。その為に酔っぱらいや、アベックなどのたまり場となっている。ビールの空き缶や、たばこの投げ捨てが多い。神社の清掃は専ら、管理人の仕事である。
警察の検視の結果、死亡時刻は6月9日夜10時から12時頃と断定。凶器の石は重さ8キロ。指紋は検出されなかった。死体場所は争った跡もなく、磯部作次郎のカーキー色の作業服の内ポケットには8万円入りの財布が手つかずのまま残っていた。物取りの犯行の線は斥けられる。怨恨説が有力となる。
常石神社は丘陵地帯にある。丘の下にある石の鳥居をくぐって、数十段の石段を登る。
鳥居の真南に約100メートルの道がある。道の左右は桜並木となっている。4月中旬の祭礼には、旧常滑市内の山車が勢揃いする。道が切れたところに石の鳥居があり、県道に面している。
昇り道の石段の前面は境内地となっており、駐車場、常石会館、奥条会館、常石保育園などが並ぶ。
駐車場には磯部作次郎の白のクラウンが放置してあった。磯部は9日の夜、10時前後のにここに車を置いて石段を登ったと思われる。拝殿前の広場には照明灯があかあかと輝いている。
下の鳥居からの石段の左右は鬱蒼たる樹木に覆われている。昼でも薄暗い。まして夜中に石段を上がるには、勇気がいる。
磯部作次郎は豪気な性格である。今年55歳。大柄で、若い時は柔道をやっていただけあって、体力や気力に恵まれて、押しの強い人物である。
彼に対する毀誉褒貶は甚だしい。彼をけなす者は、親の敵に会ったような、感情むき出しで嫌悪する。彼に好意を抱く者は、新興宗教の狂信者のように、絶大の信頼を置く。
磯部作次郎は土建屋である。若い頃から苦労をして、知多半島でも1,2を争う程に成長している。一旦口を切った事は、損と承知でも約束を守って実行する。代わりに、取引の相手が約束を守らなかった時の怒りはすさまじい。
客と擁壁工事を契約する。納期までには必ず仕上げる。客が値引きを強要しても、首を縦に振らない。契約金額通りに代金を請求する。客が支払期日までに代金を支払わなかった場合、彼はブルを動員して、仕上げた擁壁を壊してしまう。その上に建物を建築中であろうとなかろうと関係はない。無論警察沙汰になるが、彼は頑なに自説を曲げない。
もっともこういう事態になるのは、めったにない。ブルで擁壁を壊しにかかる。客が驚いて飛んでくる。彼の鬼のような形相をみて恐れをなす。詫びて代金を支払う事になる。
激しい気性だけに、情にもろい。
工事をお願いしたいが、払う金がないとか、1年後でないと払えないとか言う客もいる。その言葉に裏や駆け引きがないと知ると、黙って引き受ける。当然損になるが、彼はそれをおくびにも出さない。任侠的な親分肌の性格である。
それでいて、政治の駆け引きも上手い。頭もよく、いかつい顔に似ず、読書家である。常滑市役所の職員達とも顔なじみで、役所の発注する工事を請け負う、指定業者でもある。
道路工事に伴う、住民とのトラブルは、市の職員も悩みの種である。磯部は住民の苦情を一手に引き受け、市の代わりに解決する事が上手い。市役所に重宝がられている。
味方も多いが敵も多い。警察は怨恨説の線で、磯部作次郎の周辺を洗い出す。暴力団関係者との付き合いも噂されていて、警察もその線を重点的に調べていく。1ヵ月たち、1か月が過ぎても、容疑者が捜査線上に浮かんでこない。
磯部作次郎は、ユニー常滑店から約1キロ東に行った丘陵地帯の麓に、5年前に住居を構えている。妻、珠江、35歳。子供なし。
磯部作次郎
平成8年9月上旬、朝10時、自宅で寛いでいた坂本太一郎に、常滑警察の吉岡刑事から電話が入る。
磯部殺しの件で相談したい事があるが、今から伺いたいがどうだろうとの事。坂本は別にやる事もないので応諾する。
吉岡刑事が来訪する約30分の間、磯部について考えに耽る。
坂本は磯部と同年である。小学校、中学校と同級生で、高校は坂本は名古屋、磯部は半田に通っている。
坂本は幼い頃から脆弱な体質で、季節の変わり目には、熱を出して寝込んでいる。50人いるクラスの中で、体が一番小さく、気も弱い。よく虐められていた。
磯部は小さい頃から、強気を挫き、弱きを助ける性格だった。クラスで一番弱い坂本が虐められていると必ず助けてくれた。
小学校5年の時、坂本は別のクラスの者にいじめられた。磯部は彼を助け、虐めた相手を殴った。相手は中学1年の兄に助けを求めた。体力的に劣っていた磯部は、その兄に顔から血を流すほどに殴られた。磯部は殴られても泣き声1つもたてずに堪えていた。坂本が彼を介抱する。
「心配するな。こんなのかすり傷だ」何事もなかったように、涼しい顔をしていた。
磯部は中学1年生になった時、中学3年生になっていた殴った相手を呼び出す。磯部の成長は早く、体格的にも相手と見劣りしなくなっていた。
相手は磯部を下級生と見くびっていた。殴り合いが始まる。相手はケンカ慣れした磯部に恐怖心を抱いた。
上級生という立場上、参ったという訳にもいかない。口を切られ、息を切らしながらも,体面を保つためにも、へらへらと笑いながら、磯部を殴りにかかる。
ケンカは30分に及ぶ。相手の顔から笑いが消えていく。恐怖に引きつった眼で磯部を見るのみだ。腰をけられてどっと倒れる。磯部は相手の立ち上がるのを待つ。不意を突くのが嫌いなのだ。相手はよろよろと立ち上がる。
磯部のゲンコツが相手の顎に食い込む。口中血だらけにして倒れる。顔は恐怖で引きつっている。
・・・助けてくれ・・・両手で拝むようにして、磯部を見上げる。最早上級生の威厳など無くなっている。
「ケンカなら、いつでも受けてやる。かかってこいや」磯部は相手の顔に唾を吐きかける。
1年生が3年生を殴り倒した。噂は学校中に広がる。磯部は担任の先生に呼び出され、事情を聴かれるが、やった事実は認めるものの、その動機については一切喋らない。相手は学校に被害届を出さずに沈黙を守り通す。この事件は不問に付されたが、磯部の腕力に、上級性も一目置くことになる。
坂本の家は祖父の代から土管を作っていた。昭和30年代から40年代は景気が良かった。
磯部の家は貧しく、両親と兄の4人暮らし。学校の給食費も事欠く有様だった。磯部の父が坂本の工場で働いていた事もあり、温厚な坂本の父が磯部家に、何やかやと援助の手を差し伸べていた。
坂本は母から貰う小遣いでキャラメルを買う。半分を磯部に分け与えていた。
磯部が陽なら坂本は陰、磯部が殺されるまで、2人は強い絆で結ばれていた。
体格やいかつい風貌に似ず、磯部の学力は優秀だった。彼は常滑の隣町の半田高校に進学する。兄の作太郎は中学卒業と共に常滑の大手タイルメーカー伊奈製陶に就職する。経済的に少し余裕の出来た磯部家は、担任の教師の勧めもあり、作次郎を高校にやる事にしたのだ。作次郎は学問に精を出しながらも、朝夕の新聞配達で、小遣いを稼いでいた。
一方名古屋の私立高校に、かろうじて入る事の出来た坂本は、勉強もせずに、親から小遣いをせびる生活を送っていた。
「作次郎さんを見習え」両親から小言を言われる始末。
高校卒業後、磯部作次郎は半田の大手建設会社に就職。土木の仕事をしながら、建設に関する種々の資格を独学で取得。25歳で独立。
一方の坂本は高校を出て家業を手伝うものの、陶管の需要の減退のため、やむなく他に仕事を見つけようと磯部に相談する。
磯部はこれからは土地に関する仕事が期待できるという。いっそ不動産でもやって見てはと勧められる。ツテを求めて、坂本は名古屋の不動産屋に就職。28歳で独立。家業の方は坂本が25歳の時に廃止。運よく、知り合いの陶器屋さんが工場を借りてくれたり、借家に改造したりして、借家からの収入などで、両親は食うに困らなかった。
坂本が不動産、磯部が土建屋で、常滑で一家を成して手を握り合って、2人は助け合いながら財を成していく。
10時、玄関のチャイムが鳴る。坂本は回想から我に還る。玄関に出ると、吉岡刑事が、にこやかな顔で立っている。1か月前に事情聴取を受けて、顔見知りである。
吉岡刑事は今年45歳と聴く。黒縁の度の強い眼鏡をかけている。坂本も近眼で、眼鏡の度は強い。
吉岡は歳の割に若々しく見える。丸顔で眉が薄い。髪の毛がふさふさして、近頃めっきりと頭髪がうすくなった坂本は羨ましい。
坂本は独身である。15年前に両親が亡くなって、13年前に家を建て直してる。朝食と夕食は近所の、借家の主婦が作ってくれる。昼は会社で摂る。
この歳で独身と聞いて、知らぬ人はびっくりする。
「女は嫌いか」と問われて返事に窮する。嫌いなわけがない。何故結婚しないかと問い詰められて、更に窮する。相手が居ないと言ったら信用してもらえない。
坂本住宅は、坂本以下3名の従業員んがいる。年商、約8億。1人当たり2億円の売り上げは悪くはないのだ。その社長が相手が居ないからと返事しても誰も信じない。
磯部土建
坂本は薄くなった髪を気にしながら吉岡刑事を応接室に招き入れる。
坂本の家は南側の玄関を中心にして、西に一間の広縁、その奥に8帖の和室が2部屋。玄関を入ったすぐ奥に15帖の応接室。その奥に8帖の台所。玄関の東側に10帖の書斎。その奥に1間の広縁を有する和室の寝室がある。台所の奥に、取り壊しを差し控えた16帖程の蔵がある。
家は1人暮らしにしては寂しいほど広々としている。
坂本は台所からコーヒーを運んでくる。
「坂本さん、会社の方へ電話を入れたら、社長は今日は休みだとお聴きしたもんで・・・」吉岡刑事は商売人のように如才がない。口が軽いのかよくしゃべる。
「いえいえ、どうせ暇なもんで・・・」坂本はコーヒーを進めながら、どういう用件かと、吉岡刑事を見る。
「実はですな」吉岡刑事は度の強い眼鏡の奥から覗き込む。
磯部作次郎殺害に関して、関係者の事情聴取をしたがこれと言った犯人につながる手がかりは出てこない。
怨恨説の線で暴力団関係者を洗い出したところ、容疑者に近いと思われる者、数名が浮かび上がった。ここ2~3週間、彼らを徹底的に追及したが、確たる証拠になるものが出てこない。捜査本部では、もっと別な方面から捜査をし直す必要があるのではないかとの意見も出る。
「2日前、磯部さんの奥さんより電話がありましてな・・・」
吉岡刑事はコーヒーを飲むと一息入れる。
「きれいな奥さんですなあ」吉岡刑事は薄い唇を開けて感嘆する。
――何が言いたいんだ、この人は・・・――坂本は呆れた顔で吉岡刑事を見ている。
「ええ、きれいな人ですよ」やむおえず同意する。
「奥さん、あなたの事、すごく頼りにしているみたいで・・・」
磯部作次郎が亡くなって、一番困ったのは珠江夫人である。
仕事はほとんど夫が切り盛りしていた。彼女は仕事については蚊帳の外である。幸い2人の番頭格の社員が、社長亡き後も、仕事の段取りを切り盛りしている。
磯部の屋敷から5百メートル程南に行った所で、坂本住宅が宅地造成をしている。請負業者は磯部土建。社長が亡くなって、一時、工事がストップしたままだった。
磯部邸に、坂本と、2人の番頭格の社員が集まり、善後策を協議する。磯部珠江を代表者に添える。顧客への挨拶廻りを行う。今後の会社の運営は、坂本が磯部珠江を助けて取り仕切る事。
幸いなことに、磯部作次郎が築き上げた人脈は大きな財産となっている。磯部土建なら信用できると、仕事を依頼してくる客も多い。工事現場や下請け等の管理は2人の番頭格に任せた上で、見積りの作成や工事契約等は磯部珠江を立てて坂本が執行していく。
以上の事を、とりあえず当面の間行っていく。
坂本は自分の会社の他に、磯部土建の事務も見る。その上で磯部珠江を連れて取引銀行に挨拶回りをする。銀行は磯部土建の代表者が亡くなって、信用不安に陥っている。坂本住宅が保証人となれば安心する。
あれやこれやと、坂本は多忙な夏を過ごしていた。今日ようやく息が付けるようになったのだ。
磯部珠江
「坂本さん、近い将来、磯部の奥さんと一緒になるとか・・・、そんな噂がありましてなあ」
吉岡刑事は羨ましそうな顔をする。サラリーマン風の容貌に似ず、実によく喋る。
「はあ・・・」坂本は浮かぬ顔で答える。そんな噂は聞いた事がない。知らぬは当人ばかりとは事実のようだ。悪い気はしない。
「あんなきれいな未亡人と・・・」
吉岡刑事は羨ましさを通り越して、妬ましい表情に変わっている。
何度も同じことを言われると、嫌味に聞こえる。
「ところで、ご用件とは・・・」坂本の方が切り出す。
吉岡刑事はふさふさの髪に手をやる。今度は坂本が羨ましそうな顔をする。
「磯部未亡人に呼び出されましてなあ」
吉岡の言葉が険しくなる。以下彼の話。
磯部珠江は身辺がようやく落ち着いてきたので、夫の遺品の整理を始める。
磯部屋敷は築後5年しか経っていないので、遺品の整理も思ったよりも早く片付く。磯部屋敷は3百坪の敷地に80坪の建物が建っている。平屋造りで、南側中央の玄関の西側に、2間幅の広縁を持ち、8帖の和室が田の字型になっている。
玄関を上がると、2間幅の廊下が北の奥に続いている。玄関の東側に16帖と10帖の応接室と居間が控えている。その北奥に台所や風呂場、トイレ、洗面室が配置されている。
建物の北には、一間幅の廊下でつながった離れが2部屋ある。1つは磯部作次郎の書斎で、千冊以上の書物の並んだ書架がついている。
もう1つの部屋は常に鍵がかかっている。中には、大小様々の水晶や紫水晶が棚に並んでいる。その奥の壁際に、人が1人は入れるような大きな金庫がある。金庫の番号は磯部作次郎しか知らない。中に古代から伝わるという、磯部家代々の家宝が入っているという。
磯部珠江も1度は見たことはあるが、重さ40キロはある紫水晶の原石である。
磯部作次郎の遺品の中に手帳があった。その中に、金庫の番号が書いてあったので、珠江未亡人が開けてみたところ、空であった。
珠江は、夫殺しの犯人は、もしかすると、この紫水晶に関係しているのではないかと、吉岡刑事に連絡した。
「奥さんにも、ずいぶんと協力してもらいましてなあ」吉岡刑事の表情は冴えない。
磯部作次郎の交友関係は幅が広い。珠江は夫への郵便物、年賀状、住所録などを、捜査の資料として提供している。
磯部作次郎が殺された当夜、珠江は数人の知人と、和室で茶会を開いている。
珠江は数人の婦人とグループを組み、常石神社と、東小学校の間にある陶芸研究所に通い、焼き物づくりを楽しんでいる。抹茶茶碗を造ったりして、完成した茶器の土を持ち寄って茶会を開くのである。
当夜、夜8時半、「おい、ちょっと、出かけるでな」
磯部作次郎は和室に顔を出している。カーキー色の作業服のままだった。磯部が夜遅くぶらりと出かけるのは珍しくない。
「あら、お出かけ」珠江は声をかけるのみだった。
磯部作次郎は、いかつい顔に似ず愛想が良い。数人のご婦人方1人1人に丁寧に頭を下げて出ていく。
8時40分、ユニーから北に2キロ程北へ行った所の、居酒屋、谷川に現れる。ここは常滑焼の器で料理を食べさせてくれる。9時40分、谷川を出る。
その後の磯部作次郎の足跡については推測による。
9時50分ぐらいに、常石神社の鳥居下の境内地駐車場に車を止める。神社の石段を登り拝殿前に出る。夜の10時ごろと言えば、密会を楽しむアベックでも勇気がいる時間帯となる。夜間灯があるとは言え、周囲は樹木に覆われている。薄気味の悪いのを堪えてまで密会を楽しむ場所ではない。
拝殿と神殿がつながる形で、社務所が増築されている。神殿の裏は社務所増築の為に整備されているが、暗闇である事には変わりがない。
犯人と神殿の裏手に回り、殺される。
ここに2,3の謎がある。
1つ、拝殿と社務所前は、砂利を敷いた境内地となっている。駐車場があり、10台ほどは駐車できる程広々としている。何故ここに直接車を乗り入れなかったのか、鳥居の下に車を置いて、数十段もある石段を登るのは大の大人でも息が切れる。
2つ、神殿の裏手に言った理由。犯人に言葉巧みに誘われていったものなのか、行く必然があったのか。
3つ、待合場所が、何故常石神社なのか。
人目を忍ぶ待ち合わせであったとしても、常滑市役者の駐車場とか、常滑市保示町の一六の広場でも、捜せばいくらでもある。
吉岡刑事は以上の事を、坂本に説明した後、珠江未亡人から、紫水晶が亡くなっている事と、主人が常石神社で殺されたのは、磯部家家宝の紫水晶が常石神社と関係があるからではないかと言われたと話す。
紫水晶の秘宝
紫水晶について、珠江は作次郎から伝説めいた話を、度々聴かされている。
その話によると、磯部家は古代まで遡ると、スサノオ尊まで行き着く。その先の先祖はイスラエルの王としての、ソロモン、ダビデの名前が出てくる。それで終わりかと思うと、始祖はモーゼに行き当たる。紫水晶はモーゼが出エジプトの際、エジプト王の司祭の宝であったのを、持ち出したものだと言う。
珠江は作次郎の現実離れした語りに、信じる信じないというよりも、呆れ果ててついていけないというのが実感だった。
珠江は宝石に詳しい人に、重さ40キロの紫水晶の原石の価値を尋ねた事がある。40キロもあるものは珍しいのだが、それでも価値としては3百万円くらいではないかとの事。
「せめてダイヤモンドの原石なら、眼がくらんだかも知れないけど、紫水晶じゃあねえ」
珠江は吉岡刑事に語っている。
「いやあ、実にきれいな奥さんですなあ」吉岡刑事は、うるんだような珠江の瞳に引きこまれそうになったという。
彼女は35歳という歳の割には若く見える。中肉中背の肌の白さが目立つ。薄い眉が、両親などの血縁関係の薄さを表す。大きな瞳にそいだような形の良い鼻。主を染めた唇。豊かな頬が知性の高さを表している。
珠江は亡夫の途方もない話には興味を持たなかった。たとえ、それが真実であったとしても、今の生活に何の影響ももたらさないからだ。
紫水晶と常石神社とどういう関係があるのか、吉岡刑事はは珠江に尋ねている。
「ただ、何となくですわ。主人の口から、常石神社の名前がよく出ましたので・・・」頼りない返事だった。
それ以上突っ込んでも詳しい事は判らないという。
紫水晶や亡夫については、むしろ、坂本太一郎さんにお尋ねになった方が良いと言う。
彼は亡夫とは兄弟以上の付き合いをしている。ここにある紫水晶も白水晶も、坂本さんの紹介で購入している。亡夫の事は、誰よりもよく知っている筈だという。
「まあ、そんなわけで、お邪魔した訳でして」吉岡刑事は度の強い眼鏡の奥から、覗き込むように言う。
「そうですか・・・」
坂本は珠江が自分を頼りにしてくれている事を嬉しく思った。磯部作次郎殺害犯人を捜し出すのに、出来るだけ協力しようと思った。
9月とは言え、暑い日が続く。
台所の西側にある和室の窓が開けはなしになっている。涼しい風が海の方から吹き上げてくる。
坂本の自宅は、傍示の漁港から2キロほど東に行った丘陵地帯にある。近い将来、常滑沖に飛行場が出来るという。坂本は個人的には飛行場建設には反対である。市や県は飛行場が出来ても、公害や騒音は少ないと力説する。坂本はそれを信じていない。
吉岡刑事がコーヒーを飲み終わるのを待つ。
「例の紫水晶ですが・・・」坂本が口を切る。
「生前の磯部作次郎から、耳にタコが出来る程聴かされています」
坂本は語る。磯部珠江の言う通り、作次郎の話が、途方もなく、信じろという方が無理である。
ただし、と坂本は吉岡刑事を見詰める。
磯部はほら吹きでもなければ、空想家でもない。彼は彼なりに調べ上げた上での話だと付け加える。
「紫水晶は磯部家の家宝である事は間違いありません」
戦前戦後、磯部家は食にも事欠く程の極貧状態だった。それでも、家宝だけは決して人手には渡さなかった。
「それが失われたって事は・・・」
「磯部家にとって重大な事件でしょうな」
吉岡刑事は腕組みをする。
「紫水晶については、後でお聞きするとしてですな」坂本を見つめる。
「紫水晶がそれ程のものだって、知っている者は・・・」
「今では私と珠江さん・・・、ぐらいなものでしょう」
坂本は言って、はっとする。
「いるとすれば、亡くなられた磯部作太郎さん。作次郎さんの4つ違いの兄さんですが、その奥さんぐらいでしょうか」
「ほう・・・、しかし磯部家にはもう身寄りがいないとか・・・」
「その通りです。作太郎さんが亡くなられた後、奥さん、確かとめさんと言われたと思いますが、5つになる男の子を連れて家を出ています」
「何処へ行かれたんですか・・・」
「家を出たまま、今日まで消息が不明です。もし彼女が生きているとしたら、紫水晶の重要性は、作太郎さんから聞いている筈です」
「どうして・・・」
「家宝は長男が継ぐものと聴いておりましたから」
「その家宝を作次郎さんが受け継いだと言う訳ですな」
「いえ、奪ったと聞いています」
「じゃあ、家宝について、何かゴタゴタがあって、とめさんが家を出てしまったという事ですか」
「詳しい事は私にも判りません」
坂本はメモ用紙に磯部作次郎の生家の住所を書く。
「常滑市保示町・・・」吉岡刑事は読み上げる。
「ここの住所の、古い人達なら、知っていると思います。何せ、作太郎さんは、作次郎さんに殺されたという噂があるんですから。とめさんは身の危険を感じて姿をくらましたとも噂されています」
「ほう・・・」吉岡刑事は手帳にメモを取る。
坂本を見据えて厳しい声で言う。
「こんな重要な情報、どうして今まで話さなかったんですか」
坂本はムッとする。
「まさか、紫水晶と殺人事件が関連しているとは、思いもよらなかったんですわ」
坂本は一息つく。
「それに、33年も前の事ですよ。とめさんが、今生きているかどうかも判らないんですよ」
「いや、言い方が悪かったですな。お詫びします。紫水晶と殺人が関連しているという証拠もありませんしな」
吉岡刑事は柔和な表情になる。
「ちょっと失礼・・・」言いながら内ポケットから携帯電話を取り出す。
「ああ、吉岡だけど、山本君いる?」喋りながら、坂本が話した事を伝えている。
「君、すまんが、近所の聞き込みをやってくれる?」
携帯電話を切ると、「保示のね、磯部さんがいた家の近所の聞き込みと、磯部とめさんの行方を捜しますわ」
「ところで・・・」吉岡刑事は居ずまいを正す。
「紫水晶について、知っている事、教えてもらいますかな」度の強い眼鏡の奥から覗き込むように言う。
坂本は頷くと「こちらへ」吉川刑事を案内して、台所の奥に入る。
「ほう、これはすごい!」
蔵の中に入るなり吉岡刑事は感嘆の声をあげる。
蔵の中は16帖程の広さがある。中には大小さまざまの水晶が置いてある。奥の壁には、大きな紫水晶を移したパネルが掲げてある。蔵の中央は空間になっている。床にはイスラエルの国旗の紋章、一般にダビデの星と言われるカゴメ紋が描かれている。
「いやあ、こりゃ、磯部さん宅と同じくらい、すごい数の水晶ですなあ」
坂本はは答える。10年位前から、さる古物商と知り合いになり、水晶を手にする機会が出来た。磯部にも勧めたところ、「お前が言うなら」と収集が始まった。
「いつの間にか、こんなに集まってしまって・・・」
坂本はいい訳みたいに言いながら、紫水晶のパネルを外す。足元にある水晶を数個手にする。
「どうぞ、こちらへ」坂本は吉川刑事を促しながら、応接室に戻る。
紫水晶のパネルをターブルに置く。
「この実物が、磯部家の家宝の紫水晶です」
写真の大きさは実物大であると伝える。紫水晶にの高さは45センチ、幅が18センチある。6角形で、頂上がピラミッド型になっている。
「この紫水晶の謂れについては、磯部作次郎からの、受け売りですが・・・」坂本は断ってから話し出す。
これは磯部家の家宝というより、本来は国家の宝と言ってよい。それだけの価値がある。
古代から伝わるフル一族の家宝である。
「何です。そのフルとは・・・」
「大和朝廷が近畿地方に進出する以前に、日本を支配していた一族と聞いています」
「何か、すごい話ですなあ」
吉岡刑事は、ふさふさとした髪に手をやる。髪の薄い坂本に見せびらかしているような仕草に見える。
「つまりですね、紫水晶には国宝級の価値があるという事ですわ」坂本は度の強い眼鏡を拭きながら言う。
「でも、そんなすごいものが、何故世に隠されてきたんですかな」
坂本は笑う。
「代々、人に見せぬ事、言外せぬ事、厳重に秘匿されてきたと聞いています」
坂本は吉岡刑事の若々しい顔を見る。
「こんなすごいものが、磯部家に伝えられたのも、それなりの理由があるからです」
坂本は蔵を出る時に持ってきた、数個の水晶をテーブルに並べる。
「紫水晶ですけどね、大変なお宝というよりも、もっと実用的な価値があるんですよ」
坂本は握りこぶし大の透明な水晶を手に取る。
「刑事さん、ちょっと、手を出してください」
坂本は吉岡刑事の手のひらに、水晶のとがった方を近づける。
「何かピリピリした感じが伝わってきますね」
「水晶パワーってやつですよ」
「ほう・・・」
水晶に限らずトルコ石、メノー石、方解石など貴石、半貴石などは、それ自体から、眼には見えないが、気のエネルギーが出ている。水晶はそれが特に顕著である。人によっては暖かく感じたり、涼しい感触が伝わる場合もある。
「今、刑事さんの持っているの、クリア・クリスタルと言います」
吉岡刑事は六角形の棒が1つの根から幾つも枝分かれしているのを、しげしげと眺める。
「これがシリトンです」
坂本は別の水晶を取り上げる。六角形の形が整っていて透明度が高い。日本人好みの水晶である。
「次にファントム」坂本は別の水晶を取り上げる。形はシリトンとよく似ているが、六角形がやや崩れて、透明度が低い。全体に白く濁った形である。
「そしてこれ・・・」
レコード・キーパー、シリトン形の水晶であるが、頂点のピラミッド型が崩れている。
「これが紫水晶」
バレーボールほどの大きさの球体を2つに割ったものだ。外面は青銅色の殻で覆われている。内側に、小さなピラミッド形の紫水晶がびっしりと張り付いている。
「ほう、きれいなもんですなあ、見ていて、飽きがこない」吉岡刑事の評は最もである。
紫色の水晶が群生している様は神秘的である。吉岡刑事は手を触れて見る。
「これは爽やかな感触ですな。いや気持ちがいい」
紫水晶は普通、卵型の形で地下から掘り出される。業者はそれを2つに割って売り出す。
「こういうのが普通でしてねえ。このパネルにある様な大きな紫水晶は珍しいんです」坂本は付け加える。
「ところで、この水晶はいくらぐらいするんですか」
吉岡刑事は現実的な問題に立ち返る。
「このファントムなら、1キロぐらいの重さで、4万円程度でしょうか」
「ほう思ったよりも安いですなあ」
「原石は安いんです。加工すると高くなりますよ」
水晶球は無傷で、直径5寸ぐらいになると、5百万円が相場と言われる。
「そりゃすごい、宝石なみだ」
吉岡刑事の感嘆に、坂本は苦笑する。
「水晶だって宝石なんですよ」
日本では昔から信州方面が水晶の産地と言われている。昨今、あらかた掘り尽くして、メキシコやその他の国から輸入しているのが現状という。大きな物は入手しにくくなっている。
水晶の5寸球を加工するのに、少なくとも50キロの、それも透明度の高い物が必要になる。値段が高くなるのも当然なのだ。
坂本は紫水晶のかけらをテーブルの下から取り出す。親指程の大きさしかないが、それでもピラミッド型をしている。
「刑事さん、酒、飲む機会ありますか?」
「ええ、酒好きですから。仕事の用がなけりゃ、毎晩やってますが。もっとも、女房の頭に角が出る前にやめますがね」笑って、ふさふさした髪に手をやる。
「これあげます。これをね、酒の中にいれて飲むと、悪酔いしないんです」
「本当ですか」吉岡刑事は、紫水晶をつまみ上げる。紫水晶のことね、アメジストって言うんです」
坂本は話す。
アメジストの語源は”酒”を意味するギリシャ語のアメシストに由来する。
酒神バッカスは気にくわないことがあったので、最初に出会った人間を、連れていた虎に襲わせようと考えていた。出会ったのは清純な乙女アメシストであった。
危機を感じた少女はとっさに神に祈った。たちまち少女は白い石に変わる。この異変に驚いたバッカスは石に酒を注ぐ。白い石は美しい紫色に変わった。この神変にバッカスは深く悔いた。
古来より、アメジストを入れた酒を飲むと悪酔いしないと言い伝えられている。
もともとアメジストは邪と悪魔を祓う力があると信じられている。瞑想の時、手の甲にアメジストを持つ。やがて、気分が落ち着いてくる。柔らかなバイブレーションが全身を包み込む。人によっては全身が暖かくなる。
ストレスを解消し、良心と知恵を高め、気力を充実させる。感情の嵐を鎮め、霊的の目覚めと、第六感を強める。紫水晶は瞑想家の内で特に珍重される宝石である。
「そんなすごい能力はともかくとして、酒に悪酔いしないのは良いですな」
吉岡刑事は紫水晶をポケットにしまい込む。
「ところで・・・」と言葉を改める。
「ここに沢山ある透明の水晶、何に使われるんですか」
余程興味があるらしい。あわよくば1つもらって行こうという下心を見せる。
「一言で言えば・・・」坂本は微笑して答える。
「心身の浄化に利用する・・・」
「はあ?」吉岡刑事は、意味の飲み込めない顔をする。
以下坂本の説明。
ヨーロッパや東洋に限らず、水晶は氷の化石、水のパワーの結晶と考えられている。水があらゆるものを洗い清めるように、心を浄化し、身体内の毒素を体外に排出する。
気持ちのざわつきを鎮め、瞑想や心身のトレーニングに適した意識状態に導いてくれる。いわば自分の目的とする方向へ、心を向かわせる事が出来る。
また、クリスタルは”場”の浄化にも役に立つ。勉強などで、1つの事に集中できるようになる。
「それに・・・」坂本は強調する。
クリスタルは対立したものの結合を助ける。
例えば心、心は外での出来事に、あれこれと揺れ動く。その為に集中力が欠けたり、決断力が損なわれる。イライラが募って、ストレスがたまるようになる。
クリスタルはこうした心と外界との対立を解消する。クリスタルを常時手にしていると、心が穏やかになり、集中力が高まるのはこのためである。
「その上ね・・・」坂本は付け加える。
波長の合わない人っているじゃないですか。吉岡刑事の豊かな髪に眼をやりながら話す。
「嫌な相手とも上手く付き合う事が出来るようになる。身体を活性化するので健康にも良い」
「ほう・・・」吉岡刑事は感心したまま、坂本の次の言葉を待っている。
坂本は答える。
坂本と磯部のように、大量に水晶を集めているのは、マニアぐらいなものだろう。坂本が水晶を集めているのは、会社の社員や友人にも話してはいない。秘密という程ではないが、話せば、他の人に話すだろう。坂本の真意通りに伝わればよいが、人のうわさ程当てにならない。
「いや、いい話を聞きました」
吉岡刑事は、無駄話を交えながら、1時間ばかり話しこんでいく。磯部作次郎の実家意外に大して収穫がないと知ると、話題は、今、建売は儲かるかとか、自分もそろそろ土地と建物を購入しないと、定年してから苦しくなる。どこか、安くて良い所を捜してくれとか、虫の良い話になる。それで、お開きとなる。
乾家
9月25日、午後3時、磯部邸にて。
応接室で、磯部珠江、坂本太一郎、磯部土建の番頭格の内の1人。岸田洋。3人が膝を突き合わせている。
珠江はワンピースの艶めかしい肢体をさらしている。白い肌が剥き出しである。
その月の下旬に、3人は磯部邸に集まる事にしている。
岸田は、現場の進捗状況を説明する。同時に受注の現況をも報告する。市役所の入札状況も欠かすことが出来ない。まず1年ぐらいの仕事量があると報告。
岸田は9年前から磯部土建で働いている。磯部作次郎と珠江が結婚したのは10年前。珠江に乞われて、三重県多気郡明和町から常滑にやってきた。
彼は三重県の建築大学を卒業後、伊勢市の建設会社に勤務していた。歳は40歳。実直で、誠意に溢れた態度が作次郎の信頼を得ている。もう1人の番頭格の男は、磯部が半田の土建会社に勤めていたころの仲間で、彼と一緒にその会社を辞めている。
岸田は先輩たちには、へりくだった態度で接していたので、会社の仲間内からは好感を持たれている。岸田が入る前は、測量や見積り等は磯部作次郎が1人で仕切っていたので、彼は多忙を極めていた。
土建工事に有能な岸田が入って、磯部は市役所の入札などに専念できるようになった。
もう1人の番頭格の男は、専ら下請けや現場の工事の進捗具合をチェックする仕事についている。
岸田は35歳で結婚している。相手は常滑出身の女だ。岸田が、伊勢の大手建設会社の現場監督の地位を捨ててまでも、常滑の、野とも山とも判らぬ磯部土建に入ったのも、それなりの理由がある。
結婚前の珠江の姓は乾。
彼女の家は伊勢神宮の外宮の北西の方角にあったので乾家と呼ばれていた。
乾家は戦前、戦後までは、宏大な敷地を有する旧家だった。
明治の初め、乾家は明治天皇に縁ある某宮家と縁を結んでいる。その為に、華族につながる上流階級の人達や華族と縁を結びたいと願う中流の資産家が数多く訪れる場所となっていた。
神宮参拝は、まず外宮を参拝して、内宮に赴くのが慣例である。それは、神宮が出来てから、千数百年なるが、その時から守られている。
乾家は旅館ではないが、お伊勢参りをする、華族や上流、中流の資産家が腰を休める場所となっていた。
乾家の裏庭に湧き出る泉でも沐浴して、衣服を改める。気持ちを正してから外宮に赴くのである。
珠江の話によると、彼女の母は、宏大な屋敷で育てられて、離れから離れに歩くのに、決して土を踏まなかったという。
戦後、時代が激変する。収入の道が閉ざされ、乾家の財政は窮する。それでも珠江は華道や茶道など、女のたしなみは、母から厳しく仕込まれて育っている。
彼女が生まれた昭和36年は、高度経済成長のブームに乗ろうとしていた時代でもあった。数千坪あった敷地は切り売りされて、珠江が中学校を出る頃には千坪程になっていた。それでも乾家は名門中の名門として、伊勢市内では1目置かれていた。
岸田の家は代々、乾家に仕える身分で、執事のような存在だった。陰,ひなたに、乾家を支えていた。
珠江が16の時、悪質な高利貸しの餌食になる。
高利貸しは言葉巧みに、珠江の父にすり寄って、金を貸し付ける。世俗の苦労を知らぬ珠江の父は、高利貸しの言葉を信じて、数百万円の金を借りてしまった。数か月後法外な利息と元金の取り立てに、父は発狂死する。
残された母と娘は、追われるようにして、住み慣れた土地を後にする。岸田の父が奔走して土地と建物を取り戻そうとしたものの、高利貸しの敵ではなかった。
岸田はせめてもと2人を自分の家に引き取ることにした。岸田のお陰で高校まで通う事が出来た珠江は、18歳の時、松阪のデパートの売り子になる。半年後、同市の洋装店の店員に変わる。
彼女の言によると、色々な職種について、人生経験をしたかった。小さい頃から苦労の中で育っている。辛い経験には慣れている。色々な経験を積み重ねて、これはというものをつかみ取りたかったという。
珠江が20歳の頃に母が死亡。それを機会に、明和町の岸田の家を離れる。もっとも居場所だけは連絡している。
職を転々として、四日市の和服専門店で働くようになる。23歳の時、桑名のレストランで働く。
24歳の時、そこで働いていた同僚が結婚で常滑に行く事になった。後日、その同僚から連絡が入り、常滑のレストランで働かないかという誘いを受ける。応諾し、24歳の春、ユニー常滑店の前のレストランで住み込みで働くことになる。
ここで、彼女は磯部作次郎と運命的な出会いをする。
彼女は天性の明るさを持っている。生まれ持った美貌と、ハキハキとした行動力が彼女の魅力である。苦労の中で成長しているので、ものの考え方が現実的で、意志もしっかりしている。
彼女の勤務するレストラン”ウイング”は常滑市内でも大きなレストランである。経営者と磯部は知友なので、磯部は毎日のようにここを利用する。
珠江を見た磯部は、一目で惚れてしまった。
以下珠江の供述。 店長が紹介したい人がいるが会ってみないかと言われた。店長の機嫌を損ねたくないので、了解する。まさか店の常連の磯部とは思っていなかったのでびっくりする。
とにかく付き合って見ろと言われたので、仕方なく交際する事にしたが、内心はビクビクものだった。
磯部はいかつい顔をしているし、近寄りがたい威風もあるので、酷いことをされないかと恐れていた。
付き合って驚いた事は、外見に似ず優しいし気配りの出来る事だった。大変な読書家とかで、とにかく、学識の深さには感心した。
磯部とは20歳の年の差があり、初めの内、結婚にはためらいがあった。何度か付き合っている内に、この人なら自分の将来を託せる人だと、安心して胸の内に飛び込める気持ちになった。
今度は坂本が述懐する番である。
2人の結婚式は半田の瑞雲殿で行われた。磯部には身内と呼べる者がいない。仕事仲間や友人が招待される。珠江の方も身内が居ない。
坂本が驚いたのは、岸田洋の祖父が乾家のかっての部下や世話になった者を50人も引き連れて来た事だ。
名前を見ると伊勢で名のある経済人や弁護士、役所の地位のある者など、錚々たる人物が顔を揃えた事だ。
岸田の祖父が祝辞を述べる時、坂本は再度驚く。
岸田の祖父は、齢95歳。白髪の、白い髭を蓄えた、骸骨のような体をしているが、全身から漲る気力は会場内を圧倒した。
「乾家は、遠く遡れば、神武東遷のおり・・・」と長々しい講釈から始まり、
「近年に至っては、かしこくも、明治大帝の御血筋にあらせられる宮家の姫君が御降嫁あらせられ・・・」と続く。
「世が世なれば、珠江お嬢様は・・・」と声をふるわせる。
「聴くに、磯部家も、昔を遡れば、ニギハヤヒ大王に祖をおくと聞きおよびます」
岸田の祖父は、老いにもかかわらず、朗々たる声を張り上げる。
「お嬢様のご婚儀をめで、我ら一同、粛々と祝賀申し奉ります」
その声が終わるなり、50名が一斉に立ち上がる。
「おめでとうございます」深々と新郎新婦に向かって首を垂れるのであった。
あっけにとられた磯部側の招待客は、時代がかったシーンに息を飲む。
珠江と会うたびに、坂本は「いやあ、あれにはびっくりしました」大袈裟に声を張り上げる。
「いやだわ、私、すごく恥ずかしかったの」珠江は顔を赤くして笑う。
戦前の乾家が、いかにすごいものであったか想像できた。
それから1年後、岸田洋が磯部土建に来たのも、珠江の要請もあるが、祖父から「お嬢様を終生お守りしろ」との厳命による。
岸田は幼い頃から父や祖父の厳しい教育を受けている。言われた事は忠実に実行する。口数は少なく、質問されない限り、自分の方から話かけはしない。
この日、岸田は自分に与えられた業務報告を済ますと、席を立つ。
「洋さん。これ、幾世さんに」珠江は岸田の妻にと、貰い物の乾燥の椎茸のセットを差し出す。
岸田は丁寧にお辞儀をすると、うやうやしく、珠江の手から受け取る。
坂本はその有様を、不思議そうに眺めている。
岸田は大柄で、太い眉の下の、切れ長の目で、相手をじっと見る。口数が少なく、陰気そうな感じだが、含み笑いをしている唇が、顔全体に柔和な印象を与えている。
磯部の結婚式の時に、はじめて会ったが、まさか、長い付き合いになろうとは坂本も思いもよらなかった。
以前工事現場で「珠江さんの家柄ってすごいんですね」坂本は率直な感想を述べている。伊勢市を代表する錚々たる人物が50人も集まった。
岸田はハリネズミのような頭をゴシゴシと掻く。裏と表が判らないような真っ黒に日焼けした顔をほころばせて、白い歯を見せる。
「いやあ、あれは、祖父が、お嬢様の一世一代の晴れ舞台だという事で、無理やり頼んだんです」
無理に頼んだにしても、よく集まったと、坂本は感心する。それ程、乾家の影響力は大きかったという事になる。
岸田は直立不動のままで「私はこれで・・・」一言小さく言うと、応接室を出ていく。
岸田と珠江との関係は、社長と社員というよりも、殿様と家来という感じだ。珠江の事には絶対服従している。落ちぶれたとは言え、伊勢市内の旧家の間では乾家の事を知らぬ者はいない。結婚相手だとて、名門の家柄と彼女の美貌をもってすれば、玉の輿ははいて捨てる程あった筈だ。
就職でも、わざわざ松阪のデパートの売り子にならなくても、もっと条件の良い所に入れた。
珠江はそれらすべてを断っている。自分の足で歩き、自分の手で、自分の将来を掴みたかったという。
「私、お嬢様に惚れていました・・・」
いつぞや、居酒屋で坂本と一杯やっていた時、岸田は心の内を吐露している。彼が珠江の側にいるのも、祖父に命ぜられただけではないと、坂本は確信している。
午後4時、岸田が帰って、広々とした応接室は珠江と坂本の2人だけとなる。
・・・この家は珠江の為に建てたんだ・・・磯部作次郎が自慢するだけあって贅を尽くしている。
床は欅の1枚板で敷かれている。壁は杉の板で張り巡らされている。ソファやテーブルも大層な金がかかっている。室内の隅に置かれた黒檀の調度品も一流品のものが収まっている。
「坂本さん、夕食、ご一緒で、よろしいわね」
珠江は薄い柳眉の下の大きな瞳で坂本を見る。
「有難う御座います」坂本はソファに腰を降ろしたまま軽く会釈する。
「そんな、他人行儀な挨拶、嫌ですわ」
珠江はすねた様に、顔をしかめ、きれいな唇を尖らす。
「別にそんな意味では・・・」
坂本は返事に困ったように珠江を見る。彼女は、坂本の表情をおかしそうに見ている。
珠江は奥の台所から紅茶を運んでくると、坂本の側にべったりと腰を降ろす。
「ねえ、お聞きしたい事があるの」珠江のうるんだような眼が、坂本を釘付けにする。
「何でしょう」坂本は抱きしめたくなるような衝動を抑える。
「紫水晶の事なんですけど・・・」
珠江は吉岡刑事に、坂本に聞いてくれと話している。
坂本は吉岡刑事とのやり取りを、包み隠さず珠江に話している。
「磯部家にとって、あれは、すごく大事なものだったんですのね」
「すごいどころじゃないです。命より大切な宝と聞いています」
珠江は、しばらくテーブルの上を眺めていた。
「実はね・・・」彼女は顔をふせたまま以下のように話し出す。
珠江が磯部と結婚すると言い出した時、岸田の祖父が頑なに反対した。結婚相手が、どこの馬の骨とも判らぬ土建屋と聞いて、「乾家の後継ぎともあろうお方が・・・」
伊勢の方へ強引に連れ戻しかねない勢いだった。
珠江とても、岸田の祖父の意見は無視できない。父が発狂死し、母が死んだ後、名実共に乾家は滅んだと言っても過言ではない。家柄だけを前面に押し出しても”昔は昔”とそっぽっを向かれる世の中になっている。
そんな社会の風潮の中でも、岸田の祖父は、乾家の”当主”として、珠江の行く末を案じてくれた。岸田の祖父としては結婚相手は、名もあり、財もある家柄に嫁いでほしかった。その為に、彼は彼なりに奔走していたのであるが、珠江の方が、岸田の申し入れを断っている。
そして・・・、よりにもよって、一介の土建屋と一緒になりたいとは・・・、岸田が反対するのも無理はなかった。
珠江も恩義ある岸田の反対を押し切ってまで、結婚するのにためらいがあった。
彼女は磯部に苦衷を打ち明ける。
磯部は「俺に任せて」と安心させる。磯部が岸田に会う。彼は明和町の岸田邸まで、家系図と紫水晶を持って訪問する。
「おじいさまはね・・・」珠江は岸田の祖父をこう呼ぶ。
家系図など当てにならない。偽の家系図など作ろうと思えば、いくらでも出来る。実際にその道のプロもいると聞いている。
岸田家の系図は、スサノオの5番目の子供と言われるニギハヤヒを祖としている。これが事実なら、天皇家と遜色のない家柄という事になる。もしこれが直系の子孫ならそれ以上かも知れない。
どちらにしても、こんなすごい家系図を見たのは、生まれて初めてだ。
「おじいさまが家系図を疑ったのも当然だったわ」
磯部は不信感をあらわにする岸田に臆する気配を見せない。
「これをご覧いただき、信用してもらえないなら、これで引き取ります」磯部はいかつい顔の炯炯たる眼で、岸田を直視する。
「これは!」岸田は瞠目する。
「おじいさまは、紫水晶の価値を知っていたの」
古代から伝わる紫水晶、ニギハヤヒ大王を祖とする者しか持つことが出来ないと言われる宝物である。
ただし、紫水晶の価値を知る者はほとんどいない。
戦前までは、一部の神主か、超古代に興味のある者しか知らなかったという。
人知れずに代々伝えられている事は、岸田も噂程度で知っていたようだ。
それが現実に、目の前にある事に、第1に我が目を疑った。第2に一介の土建屋風情が所有している事に、どうしても納得がいかなかった。
磯部が紫水晶の謂れを堂々と述べるに及んで、信じざるを得なくなった。
「お嬢様がニギハヤヒ大王の子孫とご一緒になるのは、大王のの神慮なのかもしれませぬ」
岸田は結婚に応諾する。
「私ね・・・」珠江は、男のようにカッとした髪を、さらりと撫でると、顔を上げる。
「おじいさまから、紫水晶が大変なものであるときかされても、別に興味を抱かなかったわ」
珠江にとって、関心ごとは、一生自分を大事にしてくれる相手を見つける事だった。
岸田が紹介する結婚相手は皆申し分のない者ばかりだった。地位といい、財力と言い、玉の輿に違いがなかった。それでも珠江は断った。彼らは一応に珠江の美貌と名門乾家に惹かれている。
珠江がいくら美人でも、歳をとれば醜くなる。果して一生愛し続けてくれるかどうか不安だった。
磯部と付き合って、その該博な知識と、それに裏づけされた教養、外見に似ず心配りの細やかさを知る。彼もまた苦労の中で育っている。
珠江は高校を卒業してから職を転々としている。その中で人を見る目を養っている。
「この人なら・・・」珠江は磯部のプロポーズに応じたのだ。
磯部珠江は開いた唇を、いったん閉じる。大きな瞳を坂本に向ける。豊かな頬がピクリと動く。むき出しの両腕を胸の下に組む。
「私ね・・・」珠江の唇から、小さいがはっきりとした声が漏れる。
磯部作次郎が死んで、今日まで3ヵ月。色々な事があった。坂本の協力を得て、磯部土建を何とか存続させる道も出来た。
磯部の遺品を整理している内に、磯部が何かに憑りつかれるように、紫水晶の秘密の解明に没頭していたのが何となく理解できるようになってきた。
「磯部にとって、紫水晶は、家宝であるという以上に、ニギハヤヒ大王の子孫の証という誇りがあったの」
坂本は頷く。耳にタコが出来る程、磯部から聴かされている。彼の書斎にある千冊以上の書の大半は日本の古代の資料で占められている。
「それに・・・」珠江は言葉を改める。
没落したとはいえ、旧家の出であるが、珠江は小さい頃から、名門意識など持っていなかった。どこに勤めても、おくびにも出さなかった。煩わしいし、口に出せば人によっては嫌味に受け取られる事もあろう。
「でも、磯部に死なれてみて、自分は名門乾家の血を受け継いでいるって、意識しているの」
珠江の瞳は熱っぽく、坂本に訴える。
坂本は頷くものの、肌では理解できない。坂本家は、江戸末期までは水飲み百姓だった。明治になって、庄屋に呼ばれて姓を付けてもらっている。
――お前んとこは、坂の下に住んどるから、坂本にしとけ――4代前のご先祖がうやうやしく姓を頂いたと聞いている。
珠江の今の心境は、磯部家と乾家を何としてでも存読させたい事だ。子供がいないので、養子を貰ってでも両家の再興を図りたいと言う。
「坂本さん、お願い、私の力になって・・・」
坂本は再度頷く。
坂本は磯部作次郎が見込んだ通り、不動産で成功している。彼は磯部のような読書家ではないが、自分がこうと決めたことはとことんやり抜く、粘り強さを持っている。
根が真面目で、人との約束も破らない。不動産の免許を取る時も、営業の忙しい中、1日3時間もやりくりして勉強に勤しんでいる。
坂本なら自分の後ろ盾になってくれると、珠江は見込んでいる。
「家宝の紫水晶が見つかると良いんだが・・・」
坂本は磯部を殺した犯人が、紫水晶を持っていると考えている。
犯人は作次郎の兄の嫁のとめとその子供ではないかと推測している。それは警察に任せておけばよい。いずれ犯人は逮捕されるだろう。紫水晶も戻ってくるだろう。
ただ1つ、不安がある。犯人がとめとその子供だったら、当然紫水晶の価値を知っている。自分達が捕まったとしても、紫水晶をやすやすと手放すだろうか。やけになって、破壊してしまうか、何処かに隠したまま永遠の闇の中に消えてしまう事も考えられる事だ。
坂本はこの不安を話す。珠江は一瞬眉を曇らすが、
「太一郎さん、磯部から、紫水晶の秘宝って、聴いた事ない?」話題を切り替える。その声に親しみが籠もる。もはや坂本とは呼ばなかった。
紫水晶の秘宝
坂本は何度か聞かされている。
――ソロモンの財宝が、伊勢のどこかに隠されている――というものだ。
磯部の話は現実離れしていて、まともな気持ちで拝聴出来ない。磯部はそのカギを握るのが紫水晶だという。
「何度も聞かされていますが・・・」坂本は浮かない顔になる。珠江もこんな話を信じているのか、そう思うと、少々ウンザリしてくる。
「太一郎さん、私ね、初めの内ね、磯部の戯言かと、軽く聞き流してたの」
珠江は坂本の側に寄る。彼女の体臭が伝わってくる。珠江を抱きしめたい気持ちに駆られる。それを我慢して珠江を見る。彼女の大きな瞳がキラキラしている。
「磯部は戯言や、悪意のある冗談を言う男じゃないわ」
坂本は頷く。珠江のきれいな唇が動く。
「彼にはね、彼なりの確信があったと思うの」
坂本は納得する。磯部は暇があると、妻も連れずに、あちらこちらとドライブに出かけている。特に伊勢方面によく出かけている。
「私も一緒に連れていって」珠江の懇願も耳を貸さなかった。妻を信用しないという事ではない。山の中に入ったり、野宿したりで、そんなドライブに妻を同行させたくなかったという。
「それでね、太一郎さん。お願いがあるの」
珠江はキス出来る程顔を近づけてくる。
「紫水晶の秘密を解いて欲しいの」
「どうやって?」
「磯部の書斎に、千をこえる本があるでしょう。大学ノートも数十冊あるわ。メモがびっしりと書いてあるわ。あなたの手で、調べてほしいの」
「どうして、私に・・・」坂本は戸惑う。手伝う事で、珠江が一層身近になる。有難い話だが、つい疑問が口をついて出る。
珠江はつっと身を退く。膝がしらに乗せた手をじっと見ている。
坂本が磯部と無二の親友である事。坂本なら絶対に信用出来る事。磯部家の秘密の解明に、自分と2人で共有したい事。将来、磯部土建と坂本住宅を1つの組織として、2人で経営していきたい。珠江は暗に結婚を匂わせる。
坂本は珠江を抱きしめる。彼女と一緒になれるなら、火の中、水の中にでも飛び込んでいける。抱きしめる腕に力がこもる。
紫水晶の秘密
10月2日、磯部家の書斎にて、夕方5時。
坂本はここ1週間、1日平均1時間を磯部家の書斎で過ごしている。紫水晶の秘密を解明するためだ。
来年4月に消費税のアップが発表されている。駆け込み需要で、坂本住宅も忙しくなっている。
特に、磯部邸から約5百メートル南に行った所で、分譲住宅をやっている。その造成地の西に古社のささやかな祠がある。5百年前、この一帯が神社の境内地だったと聞いている。
神様の住んでいた跡地のせいかどうか判らないが、14棟の分譲住宅が、羽の生えたように売れていった。
ユニー常滑店まで、徒歩3分という地の利もあって、お客に評判の良い場所だ。
坂本は多忙の中、時間をやりくりしている。坂本住宅は磯部家から北へ、車で3分ぐらいで行ける。半田と常滑を結ぶ横断道路の出口の近い所にある。仕事上、時間には融通が利く。ただし、決まった時間には訪問できないので、玄関の鍵を1つ、珠江から預かっている。
坂本は、書斎の千冊以上の本や資料、大学ノートから紫水晶のに関するもののみを拾い出している。難しい仕事かなと思って取り組んだが、本や資料は、きちんと整理されている。意外と早く事が進んでいく。
これぐらいの事なら、珠江1人でもこなせるはずだと感ずる。
彼女は坂本と磯部家のものを共有したいと言う。その為に坂本にわざわざやらせていると、改めて思う。
珠江はまだ帰ってこない。彼女が日中家にいる事は珍しい。婦人会や趣味の会などの付き合いが広い。それに時々伊勢にも出かけるらしい。高利貸しに騙されて、大半の敷地を手放したとはいえ、岸田の祖父のお陰で、百坪あまりの本宅だけを何とか取り返している。
1ヵ月に一度は行って、掃除などをしてくると言う。もっともよく行くようになったのは、ここ1年ぐらい前と聞いている。それ以前は、岸田の長男が、父の意志を継いで、家も管理をしていた。
今日は、夕食を共にしながら、坂本が調べ上げた紫水晶に関する事項を報告する事になっている。
6時、珠江が帰ってくる。30分遅れて、岸田洋がやってくる。彼は珠江の忠実な部下であり、坂本以上に信頼できる幼友達でもある。彼を同席させる事は、珠江のたっての願いである。
暑くもなく寒くもない。1年で一番快適な季節である。応接室でささやかな宴が開かれる。珠江の手料理で舌鼓を打つ。酒も上手い。
一杯やりながら、坂本は話し出す。
「結論から言うと、紫水晶そのものには、ソロモンの財宝の在処を示しているという証拠はありません」
珠江はナイトガウンを纏っている。湯上りの後の一杯で、顔が上気している。35歳とは見えぬ程、若々しい肌である。少しはだけた胸元が艶めかしい。
彼女の顔に失望の色が浮かぶ。やはり・・・、そんな表情で頷く。彼女も彼女なりに調べていたのだろう。
「でも、磯部の本の中で、1つだけ、ひっかかりを見つけました」
「ひっかかり・・・」
「そう、財宝の在処は不明だが・・・」
多分と坂本は言う。
ソロモンの財宝が伊勢のどこかに隠されているとするなら、洞窟の中か、地下しか考えられない。岩か石で封印されていると思われる。それを解くのが紫水晶ではないかと、坂本は言う。
2人は顔を見合わせる。岸田はカーキー色の作業服のボタンを外している。白いシャツが鮮やかだ。
「それで・・・」珠江の大きな瞳がきらりと光る。
「とにかく、紫水晶がどんな方法で磯部家に渡ったのか、その歴史も含めて話したいと思うが・・・」
坂本の言葉に、2人は大きく頷く。珠江は紫水晶の謂れは知っている。もう1度坂本の口から聴けば、新たな発見があるかもしれなと期待した。
ソロモンの財宝
紫水晶はもともとはエジプト王国の宝物だった。それを持ち出したのがモーゼである。
旧約聖書 出エジプト記
エジプト王パロはイスラエルの民がふえ、その力が侮れない程に強くなったのにおそれを抱き、
「へブル人に男の子が生まれたならば、みなナイル川に投げ込め・・・」パロは命じる。
モーゼの母は3ヵ月の間モーゼを隠していたが、隠し切れなくなり、パピルスで編んだカゴにモーゼを入れてナイル川の岸の葦の中に置いた。
ときにパロの娘が身を洗おうと、川に降りてきて、カゴの中のモーゼを発見する。
パロの娘のうばが、モーゼが成長するまで育て、成長後はパロの娘のところに連れていった。
その後、モーゼはミデヤンの祭司のエテロの娘、チッポラを妻とする。
モーゼはエテロの羊の群れを飼っていたが、神の山ホレプに来た。ここでヤハウエ神に会う。これがきっかけで、モーゼはヤハウエ神の使者としての使命に目覚めていく。
旧約聖書には記載されていないが、エジプトは魔術発祥の地である。西洋魔術の根源はエジプトにある。秘密結社の多く、例えばフリーメーソン、薔薇十字団などは、エジプトの神々を信仰の対象としている。
当然モーゼは義理の父、エテロより、魔術を学んでいる。
旧約聖書には、モーゼがエジプトの魔法使いと魔法比べをする場面が登場する。
磯部作次郎の大学ノートには、モーゼはエテロより紫水晶を授かったと記してある。紫水晶の秘密を知ったモーゼは、その力を得て、神ヤハウエと交信できるようになた。
モーゼは出エジプトを果たす。モーゼの跡継ぎとしてアロンが、次にアザルに・・・。こうして代々、イスラエルの祭司が紫水晶を受け継ぐ事になる。
旧約聖書に出てくるアーク(神との契約の聖櫃)は神ヤハウエが、モーゼを通じてイスラエルの民に与えたものである。
紫水晶は神ヤハウエとの交信を可能にするもので、モーゼ、アロン、アザルと続く祭司以外に知る者はいない。
一子相伝で、紫水晶が渡される時、その使用法方法は口伝で伝えられるのみである。
時代が下り、イスラエルが国の形を成してくる。政治=国王、宗教=祭司がそれぞれ分離していく。それでも祭司は神の予言者として、絶大な権力を持っている。国王とても、祭司を無碍に扱う事は出来なかった。
イスラエル王国が最も繁栄を極めたのは、ソロモン大王の時代である。ソロモン大王死後、イスラエルはしばらく命脈を保っていたがバビロンの王ネブカドネザルにより滅ばされる。
一般にイスラエル12支族の内、⒉支族を省いて、イスラエルの民は世界各地に散っていく。
その内の1つの支族がインドに渡る。彼らの一部はその地に定着するが、残りは中国を通り朝鮮半島に辿り着く。そこで国を成した後、日本の出雲に渡る。
彼らこそが、スサノオの父であり、その後を継いで、出雲、九州を征服したスサノオである。スサノオ亡き後、近畿、中部地方、関東の一部さえも勢力範囲に組み入れ、実質的に日本の大王となったのがニギハヤヒである。
「紫水晶は、イスラエル王国崩壊後、インドに逃れた磯部家の先祖によって運ばれたと思われます」
珠江と岸田は黙って坂本を見ている。2人の顔には、そんなことはとっくに承知していると書いてある。
坂本は2人の意図は判っている。イスラエル王国崩壊後、紫水晶と共に、莫大な財宝が持ちさられているのである。それが日本に渡り、伊勢の地に秘匿されている。そのありかが知りたいのだ。
「これは、私の推測ですが・・・」坂本は断る。
ソロモンは、アークを納めるために至聖所を造った。その宮の内と外は純金で覆われた。本殿と至聖所の間を純金の鎖で隔てた。
神のための宮殿が完成して、アークを至聖所に運び入れる。この役は祭司達による。
アークに接する事の出来るのは祭司のみとなる。神の宮殿は、拝殿以外は厳重に警戒されて、祭司と王以外は立ち入ることが許されなかった。
至聖所の入り口はソロモン王といえども簡単に開けることは出来なかった。モーゼ、アロン・・・と続いた祭司の持つ紫水晶を扉にはめ込む事で、入り口は開いた。
「つまりですね、紫水晶は部屋のドアの鍵なんですね」
坂本は2人に眼をやる。2人は顔を見合わせる。戸惑いの表情が見える。
「それって、本当なの?」珠江が疑問を呈する。坂本はあくまでも自分の憶測だた強調する。
ソロモンの神殿が建立されたのは紀元前10世紀。アークをを納める目的で造られている。現在ソロモンの神殿のあった場所は”岩のドーム”となっている。
岩のドームの名はユダヤ教徒がシェテイヤー(礎の意)と呼ぶ巨大な石が内部にある事に由来する。紀元前900年中葉、この真上にソロモンの神殿が建てられた時、アークはシェテイヤーの上に置かれていた。つまりシェテイヤーは至聖所の床になっていたのだ。
「つまりですね、地面の底から盗もうとしても無理だったわけでして、誰もが入る事の出来ない構造になっていた・・・」坂本の言葉は続く。
「それに・・・」坂本は一息つく。
磯部作次郎が紫水晶を隅から隅まで調べ上げている。その事は坂本も珠江も聞いている。どんなに調べても伊勢の地の、財宝のありかを示す形跡は見当たらない。
「それじゃダメってこと?」
珠江の失望の声に、坂本は微笑する。
「いえ、たった1つだけ可能性がありますよ」
「本当?」珠江の眼が輝く。喜怒哀楽の情が顔に出る。
「磯部作次郎がやった方法をやるだけですよ」
2人は意味が解しかねるのか、顔を見合わせる。
坂本は説明する。
磯部の書斎にある夥しい本のほとんどは、日本の古代史に関する物ばかりだ。
以前磯部作次郎は言った事がある。父や兄が、紫水晶の秘密の一端でも明かしてくれていたなら、こんなに苦労しなくても済んだのに・・・。
磯部はソロモン大王死後から、磯部家の先祖が常滑にやってきた時までの歴史を調べ上げている。その歴史を通じて、ソロモンの財宝の秘密を探り出そうとしていた。
「磯部はね、ソロモンの財宝のありかを解く鍵は、常滑の地名にあると言っていた・・・」
「ええ、私も聞いていますが・・・」珠江は同意する。
坂本も珠江も、おとぎ話みたいな話を信じる気にもなれず、磯部の話を、馬の耳に念仏よろしく、聞き流している。このような事態になることが判っていれば、真剣に聞いているのにと残念がる。
「太一郎さん、お願いね」珠江は熱っぽい眼で訴えかける。
「でも、時間はかかりますよ」
磯部の書斎にはすべての資料がそろっている。1週間に1回はこのような席を設けて、調べた結果を報告する事で、酒宴はお開きとなる。
岸田はずいぶんといける口らしく、珠江のすすめる盃を断りもしない。体も大きく、体力的にも頑丈に出来ている。若い頃は1升は飲めたと豪語している。どんなに飲んでも、ほとんど顔に出ない。終始無言で、坂本と珠江の会話の聞き役に徹しているようだった。
珠江は泊まっていけと、坂本を引き留めようとする。坂本は、紫水晶の話をしている時に、心に引っかかるものを感じている。片付け仕事があるからと、アルコールを帯びた体で車を走らせ、自宅に帰る。
家に入っても出迎える者もいない。寂しい玄関の明りを付ける。酔い覚ましに、水をがぶ飲みする。
書斎に入る。書架には3百冊ばかりの本が並んでいる。宗教、神秘思想、ヨガ関係の本ばかりである。
”紫水晶は神との交信の道具”磯部の書斎で調べていた時は気にも留めなかった。珠江たちの話をしていた時に、あっと思ったのだ。
珠江たちがこの事で質問するかと、2人を見詰めていたが、そんな事には関心はないようだった。
磯部も宗教や神秘思想には関心は持たなかった。紫水晶はに隠されたソロモンの財宝と、磯部家の再興。彼の関心はこの2つに尽きる。
磯部亡き後、珠江は乾家と磯部家の復興を願っている。ソロモンの財宝はそのための必要不可欠な道具となる。珠江も宗教や神秘思想には関心を持っていない。
紫水晶はの持つ神秘的なパワーについては、坂本は触れずじまいだった。
・・・たとえ、話したところで、そんな事、どうでもよいと言われるのがおちだ・・・
磯部たちは、坂本が瞑想とか神秘思想に凝っている事は知っていたが、ついぞ興味を示さなかった。坂本も無理にひけらかす気持ちもなかった。
――紫水晶が手に入ったら、是非自分の側に置きたい――
書斎のソファーに仰向けになりながら、天井を眺めなめる。坂本は暑い吐息を漏らす。
坂本はソロモンの財宝には大して興味はなかった。お金はないよりもあったにこした事はないが、有りすぎても災いの元になる。
――それよりも死後の事の方が大事なんだ――
観音教会
坂本太一郎が坂本住宅を興したのは28歳の時。
5年間、名古屋の不動産屋で建売を扱っている。その経験から、建物を主、土地を従としている。独立するまでは、両親も健在で、経済的に困ることはなかった。独立後1~2年は順調に運んでいく。自分には実力があると過信して、5~6人の営業社員を入れる。宣伝費も湯水のように使うが、売り上げは芳しくなかった。実力のある社員は辞めて、自分で不動産屋を開く始末。
36歳の時、1億の借金を背負う事になる。悪い事は重なるもので、37の時に両親が死亡。磯部作次郎の協力もあり、会社は何とか運営出来たが、事務の女の子を残して、全員辞めてもらう。1からやり直しで、ふんどしを締め直す。
眠れぬ夜が続く。朝から晩まで動き回るものの売り上げは芳しくない。莫大な借金が精神的に苦痛の種となっていた。
そこからどうやって這い上がるか苦悶する。解決策はない。磯部にも相談するも、とにかく頑張るしかないじゃないか、しっかりしろと肩を叩かれる始末。
38歳になった年の初め、喫茶店でコーヒーを飲みながら、週刊誌を開いた。1ページの大々的な広告が目に入る。
”観音教会”管長杉山良典、10年の苦行の末、念力で火をともす超能力者になる。開運、家内安全、商売繁盛の祈祷行います”の文句が目に付く。
その後に、実力がありながら、不運に嘆く人。運を開くには、悪因縁を絶つしかない。その秘法を教授するとの文面が続く。東京本部の他に名古屋市緑区大高町に道場がある。
坂本は引き付けられるものを感じて、住所と電話番号を手帳にメモする。喫茶店を出て、公衆電話する。
「週刊誌で見たが、1度お伺いしたいが」と問う。
「毎日、朝8時から夕方8時まで受付しているから」若い女の声に、その日、仕事を終えると、夕方4時に行く。
道場は緑区の外れの丘陵地帯にある。2階建ての鉄骨の建物である。外壁全体が濃い茶色で覆われている。
玄関を入ると、すぐ左手が受付になっている。
「今日、電話した者だが・・・」という。受付の女の子は、こちらへと別室に案内する。受付の向かい側に百帖敷きの道場がある。その奥が祭壇となっている。数名の男女が座禅を組んだり、般若心経を唱えたりしている。
個室のような部屋に通されて、5分もすると、大学生と思しき背の高い男が入ってくる。
坂本は週刊誌の広告でみた事と、仕事が上手くいかないので悩んでいる事を話す。
若い男は澄んだ目で坂本を見ている。
「私は修行の身ですから、あなたの悩みに答える資格はありません」
男の薄い唇が滑らかに動く。男は言う。
商売の繁盛を願うにしろ、家内安全を願うにしろ、今のあなたがここにいるのは前世の結果なのだから、因縁解脱の修法を行う事を勧める。今すぐに状況が好転する事は無理としても、1年ぐらいでよくなる人もいる。
「因縁解脱?」
「はい、千座行と言いまして、千日間、1日も休まずに修法する行です」
「それを行うにはどうしたら」
男は答える。入会申し込みをしてもらう事。
月の第3土曜日の3時から月例祭が催される。その時に、東京本部から、管長猊下がお見えになる。密教の護摩をお焚きになる。これにはこれから千座行を行う人たちの御加護が籠められている。この日をもって、千座行が許される。
「それと・・・」若い男は肩にかけた袈裟を引き延ばす。
「お悩みがあるなら、お伺い書をお出し下さい。商売繁盛を特に願うなら、特別修法を行っています」
坂本はここまで来たのだから何でもやってみようという気になる。受付に入信申し込み費用1万円。特別修法の祈祷料5千円を払う。受付の横に書架がある。そこには観音教会の管長杉山良典の本がズラリと並んでいる。
先ほどの背の高い学生風の男が坂本の側に立つ。
「管長猊下のご本は読まれるとよろしいですよ」柔和な表情で勧める。
彼の名は向井純。21歳。名古屋の某私立大学の3年生。杉山良典の教義に惹かれて、大学1年の時に入信。3ヵ月前に千座行が満了となる。2回目の千座行に挑戦中という。
「すごいですね」坂本の感嘆にも、素っ気なく、10年以上千座行を続けている信者もみえますからと答える。
1週間目の第3土曜日の午後2時半頃に観音教会に行く。百台は駐車できる宏大な敷地も、すでに8分ほどの車が駐車している。杉山管長はすでに名古屋道場に来ており、3時からの密教の護摩修法に備えているという。
坂本はこの1週間、杉山管長の本を5冊ばかり読んでいる。その本の中には、京都の五社の滝での寒風の滝行の事やら、1人山に籠っての断食や、求聞持法という密教最高の秘法と言われる、虚空蔵菩薩を本尊とする記憶力を増大させる修法を百日間行ったという話が載っている。
別の本には、念力で火を灯すことができるようになったとか、1日3時間の睡眠で、京都から東京まで車で往復しても疲れないとか、とにかくスーパーマンぶりの体力を強調している。それも密教修法のお陰という。
その他、ずばり”念力”という本には、信者のお伺い書の封を切らなくても、何が書いてあるのか、透視能力で判るとか。信者の相談にはズバリ答える。結果については1度も誤った事はないと自信一杯に述べている。
特に商売がうまく行っていない人、色々な厄介な問題が起こる人は、それは前世の結果なのだから、その悪因縁を断ち切るしか救われれる道は無いと説く。
坂本は一応の知識を身に着けて今日の護摩修法の場に臨んだ。
午後3時、百帖敷きの道場も6分くらいの人で埋まる。金色の袈裟で正装した杉山管長が道場の奥の管長専用の部屋から登場する。道場の西奥に金と黒檀で出来た護摩壇が設置されている。その側に山と積まれた護摩木が見える。護摩木は1本50円で売られている。木は縦10センチ、横2センチぐらいの板で、そこには名前と願望を書くようになっている。
坂本は10本買い求め、名前と商売繁盛を書き込んでいる。この際、藁にもすがる思いで、何でも手を出している。
護摩壇の奥に、高さ10センチほどの、黄金の密教の諸仏の像がびっしりと並んでいる。
杉山管長が信者を背にして座を占める。同時に4人の導師と呼ばれる先達が、赤の袈裟を着て官長の左右に座る。その内の1人が護摩壇の奥から、マッチ棒を大きくしたような木に火を点けてくる。
諸仏像の前に、油を入れたガラス瓶がある。そこから芯が出ていて、小さな火がついている。後で聴いたところ、その火こそ、杉山管長が東京本部道場で念力で火を点けたものだ。
護摩壇の中には、すでに山積みされた護摩木が用意されている。その木の下に油紙か何か、燃えやすいものが入っているのだろう。長い棒の火を差し入れると、火は勢いおいよく燃え上がる。火焔は天井にまで達する。
杉山管長はマントラを唱えたり、九字を切ったり、彼の背中しか見えないのでよく判らないが、身体が忙しなく動く。4人の導師によって護摩木が次々にくべられる。その木もなくなりかけた頃、杉山管長による護摩修法も終わる。その間約30分。
彼は入場する時は威風堂堂として、銀色の総髪の頭を後ろにそらし気味だったが、退場する時は額から流れ落ちる汗を拭きもせず、疲れ切った表情での速足である。
15分の休憩後、紫の袈裟に改めた杉山管長が入場。これから約2時間、彼の講話が始まる。先ほどの厳しい表情はない。話好きなのか、無駄話を交えながら、信者の質問にも答えていく。それが終わると、今月の入信者の名前が呼ばれる。護摩壇の右手に設置された棚に、今日出席の信者や入信者の”ご宝塔”と称する握り拳大の家の形をした焼き物が置かれてある。
赤の袈裟を着た導師が入信者の名前を呼ぶ。坂本も呼ばれて前へ出る。入信者は坂本も入れて15名。
1人1人のご宝塔が管長の手から入信者に手渡される。近くで見ると、杉山管長は日に焼けて浅黒い顔をしている。柔和な表情の中に、眼だけがキラリと光る。
管長の講話が終わると、入信者たちは別室に集められる。
赤の袈裟を着た向井純が、高い背中をちぢこませるようにして、
「皆さんは今日から、観音教会の信者になりました」1人1人に目配せするように言う。
15名中、年配者は5名。後は大学生か若い社会人。女もいる。
向井はご宝塔を前において、千座行の修行法を説明する。
方法は真言を呪しながら契印を切るのである。1本線香を灯しながら行う。線香が燃え尽きるのが約20分。千座行も大体それくらいで終わる。
千座行の特徴は、毎日欠かさず千日間行う事にある。9百99日目で行を怠ると、千日目は1座として、初めから始める事になる。
1日20分程だから大したことはないと言うものの、実際にやってみると、続ける事の難しさを身に染みる事になる。坂本は根が真面目だから、何とかやり遂げる事が出来たが、周囲の信者に聞いてみると、挫折する者が多いと言う。
その甲斐があったかどうか、半年ぐらいたってから、会社の業績は少しずつ良くなっていく。
千座行をやっていて、自分の悪い因縁が消えていくのかどうか判らないが、真言や般若心経を唱える事で心の統一が図れる事は事実のようだ。
坂本は杉山管長の本ばかりでなく、他の宗教家の本も読み漁る。宗教には人を救うという共通の目的があるものの、考え方や、方法については違った見解がある筈だと考えたのである。
1年もたつ頃には、坂本の宗教観や神秘思想の知識も豊富になる。
観音教会名古屋道場は坂本が入信当時、信者は2百名に満たなかった。1年後百名ばかり増えた。これは雑誌への宣伝広告によるものである。信者の呼び込みはやっていなかった。
それからまた1年後の春、杉山管長の要請でチラシ配りが信者に押し付けられる。強制ではないが、各家庭にチラシを配布することが功徳になると称して、管長自らが講話の席で熱っぽく語りかける。無垢な信者たちは教祖の言葉を信じ、チラシ配りに奔走する事になる。
チラシはB4の大きさ。表には、護摩修法中に、火焔の中に、観音菩薩が出現したと称する写真が一面に載っている。その側に、九字を切る杉山管長の厳しい顔が載る。
チラシの裏面には――現代の超能力者、杉山管長――と題する文句が大きな文字で示される。後は病気で苦しむ者、商売繁盛を望む人とか、色々な悩み事が、ずらりと書き並べられる。
――何月何日、どこどこで、杉山管長のビデオの説明会がある――と結ぶ。
坂本は1か月に1回か2回、名古屋道場に赴く。大学生の向井と妙に気が合って、不明な事を色々尋ねたりしている。個人的にも親しくなっている。
信者には大学生が多い。彼らのほとんどは、杉山管長のの説く、――超能力の獲得法――に引き付けられて入信している。滝行をやる者もいれば、断食、ヨガ行と色々いる。
坂本は千座行しかやっていなかったし、それ以上やるつもりもなかったが、向井を通じて彼らの話を興味深く聞いている。
向井から、チラシ配りを勧められる。
年配の信者達が、1枚1枚、郵便受けに入れやすいように折っていく。見ていると、実にゆっくりと、心を込めて折っている。
・・・こんなものは適当に折ればよいのに・・・坂本は思うものの口には出さない。彼らの真摯な態度に、言う事が憚られる。
向井のすすめで、1週間に1回、チラシ配りを行う。総勢30人が1組となって、各家庭を回る。時間は約2時間。
その甲斐あってか、3ヵ月後には入信者の数が膨れ上がる。半年後には百帖敷きの道場に入りきれなくなる。その為に道場の隣の50帖敷きの瞑想室を潰して、道場の一角とする程になる。
坂本が入信して2年後、名古屋道場だけで、信者数が2千人を超える。チラシ配りは全国規模で行っているので、信者数は、観音教会の総計によると10万人弱という。
その頃から向井の表情が冴えなくなっていく。
彼は酒が好きで、坂本を誘って名古屋の彼のアパートで一杯やる機会を持っている。
ある時「坂本さん、ヨガやってみない?」言いながら1枚のパンフレットを手渡す。そこには”超宗教心理研究所”と銘を打って、古代のインドで発生した、真実のヨガを実践する会とあった。坂本は向井を見る。
「1度、一緒に行ってみません?」向井は端正な表情で言う。
彼の言によると”超宗教心理研究所”は本部が東京の三鷹市井之頭公園の側の光玉神社にある。この研究所の所長が光玉神社の神主だが、杉山管長など問題にならぬ程の超能力者でもあるという。
彼は前の教祖で、生まれつきの霊能者の母の指導で、5歳の時から滝行に励んでいる。大学卒業と同時に、古代インドのヨガに注目し、自らも実践し、信者にも教えている。信者や会員数も全国的に見て千人前後、観音教会のような派手な宣伝はしない。教祖の山井博が発行する本でその存在を知るのみ。
坂本は勧められて、月の1度の会合に出席する。場所は名古屋市中区にある名古屋神社の神社会館。トレーニングウエアを用意していく。
午後1時、神社会館に入る。指導料として2千円支払う。和室は50帖程の広さがある。三三五五、人が集まりかけている。周りをみると観音教会の信者が多くいる。
1時半、光玉神社の教祖であり、超宗教心理研究所の所長でもある山井博が黒板を背にして立つ。顔は面長で浅黒く、総髪の白い髪で、「こんにちは、よくきてくれたね」一通りの挨拶の後、「今日初めての人、いる。何人?」実に気さくに喋る。
手を上げた数人を見て、「ヨガ行をやった事ない?」1人1人に尋ねる。
坂本は呼吸法や足の組み方などは観音教会で教えられている。
「判らない人は、1人1人、指導するからね」
出席者は総勢で30人くらい。お尻の下に、2つ折りした座布団を敷く。パンフレットが配られる。そこには、色々な呼吸法が載っている。別のパンフレットには、体操のような、ハタヨガが載っている。
その中から、2~3の呼吸法とハタヨガの実際をやって見せる。和室の後ろに控える指導員が、出席者の中で不慣れな人や、やり方を知らない人に指導して回る。
「呼吸法やハタヨガはね、毎日続けることが大切だからね」山井所長は1人1人に語り掛けるように言う。そこには杉山管長のような威厳などない。近所のおじさんといった親しみが感じられる。山井所長の説明の後、瞑想の時間となる。
山井所長は黒板に向かって座り、足を組む。坂本は西の窓際に座を占める。窓の向こうには、名古屋神社の神殿が建っている。
「1分くらいでいから、今教えた呼吸法をやってから瞑想に入るようにね」山井所長は後ろに控える30人に言う。天井の蛍光灯が消灯され、室内の明りは西の窓からの明りのみとなる。
坂本は内心苦慮していた。観音教会に入って2年経つとはいうものの、1日20分の千座行しかやっていない。瞑想の経験がない。見よう見まねで座禅を組み、眼を瞑ってみる。精神集中とは言うものの、難しい事だと判る。普通の人が精神集中できる時間は、せいぜい2~3分と言われている。それを過ぎると、色々な思いが湧き上がってくる。仕事の事、人間関係など、次から次へと走馬灯のように、頭の中を駆け巡る。はっとして気を取り直して、また精神集中する事になる。
――ヨガとは固定する。縛るという意味がある。いつもころころとして、変転極まりない心を固定する作業をヨガによって計る――
後々、坂本は、ヨガの呼吸法を通じて、集中力を養う事になる。
10分や20分の時間が実に長く感じられる。足を組んだ経験がないので、足の太股のあたりが痛くなってくる。足を組み替えたりして、何とか時間を稼ぐ。
1時間の瞑想も、40分くらい経つと、足の痛みに、雑念の浮かぶ余裕がなくなる。精神集中というよりも、意識朦朧となってくる。初めの内は、眼を瞑っても、窓の明るさが気になっていたが、その頃には、瞑った目の前は真っ暗となる。無間地獄のような苦しみの中、突然前方から強い光りが射し込んでくる。眼を瞑っているのに、皮膚感覚を通り越して、直接に眼の感覚に照り付けてくる。それも10数秒続く。
後で向井に聞くと、山井所長は瞑想をしながら、1人1人に気のパワーを送っているのだという。白い光りとして感じられるというのだ。山井所長の霊能力がいかにすごいものかを力説する。
1時間の瞑想後、ヨガや宗教その他人生相談のような質問が出る。山井所長は車座の30人の中心に座を占める。お茶を飲みながら、雑談する感じで質問に答えていく。
30人の約半数が観音教の信者である。坂本はチラシ配り以外、信者同士の交流を計った事がない。向井や一部の信者以外、何処かで見たような、そんな感じしかなかった。
雑談形式の質問の中で、観音教会では得られなかった知識を得る事が出来た。
超宗教心理研究所に入会して約2年。宗教界の裏話や、町の書店では得られない神秘思想の購読法など、坂本は宗教の本物に触れる事が出来たと自負している。
特に観音教会は組織が拡大するにつれて、弊害が出てきている。向井に連れられて、名古屋神社会館に行った時からその兆候があらわれている。
2~3の例を挙げる。
――観音教会の夏季修練会で、密教の秘法、釈迦招来の祈祷法を伝授してもらった。以後、体調が思わしくないし、何となくおかしなことが次々と起こる。仕事の苦情が多くなり、家の中が何となく陰気臭くなっている。どういう理由によるものか――
観音教会は8月の1週間富士山麓にある建設大学の校舎を借りて、密教の秘法を伝授している。
杉山管長の言によると、これらの秘法は、高野山では最低15年の修行を経た修行者にしか授けられない。その他の秘法の中には20年以上の修行を経た者にしか、授けられないものもあるという。
観音教会に入会する者の多くは、杉山管長の超能力獲得という宣伝文句につられている。1週間の合宿による密教伝授には、会費が20万という金額にもかかわらず、5百名近い信者が集まってくる。
この質問は、坂本も見覚えのある若い夫婦である。
観音教会の時に、学生結婚して、3ヵ月前に観音教会を脱会、同時に超宗教心理研究所に入っている。この2人は、山井所長に、訴えるように質問する。
――釈迦招来の祈祷法は、高野山では、15年以上の修行者のみに伝授される秘法で、これさへ体得しておけば、釈迦の霊力によって、超能力のすばらしい力が、短期間で開発されるものという――
密教ではおびただしい数の仏達が存在する。超能力開発にしろ、悟りの境地に至るにしろ、自力では難しいとされている。諸仏の力を借りて目的を達成しょうとする。
――実際に、家で釈迦招来法をやってみて、杉山管長の言うような能書きは現れてこない。来ないだけならまだしも、精神的にも、仕事の上でもご難続きだ――
これに対して山井所長は、君達は釈迦を招来しているつもりだろうが、実際には、君達の欲望に合った霊が寄ってくるにすぎない。人間にもピンからキリまであるように、霊でも高級霊から、人間に悪さをする低級霊まである。
高野山で15年以上の修行をした者でないと伝授しないというのも、充分に密教の修行を積んで、その人の精神状態が物欲から脱しきれたと見計らった頃に伝授するものだ。
君達に言っておくが、神社仏閣や某宗教団体が、太陽神を祀ろうが、アマテラス大神を祀ろうが、宇宙神を祭祀しようと、その神社仏閣や宗教団体の心的状態に合った霊しか寄ってこない。
山井所長の話し方は朴訥としている。杉山管長のように、身振り手振りで、面白ろおかしく笑わせながらの話し方とは対照的。無駄がないし、聴きようによっては、面白みがないが、1時間の講話は充実している。
彼は続けて言う。
たとえ霊威の高い神社にお参りしたとしても、願い事によっては叶えられない事もある。たとえ叶えられたとしても、その神社に鎮座する神様が叶えたのではない。その神社周辺にたむろする、霊的に低い地縛霊に憑りつかれて、願い事が叶っているにすぎない。このような霊に憑りつかれると、後々、願い事を叶えられた代償を払わねばならなくなる。
例えば好きな人と結婚したいという願いが叶っても、その後、家庭内でいざこざが起こったり、不良の子供が生まれたり、何らかの障害が発生する。
2つ目の質問は、中年の紳士。彼も観音教会の古くからの信者だったが、数か月前から観音教会の例祭には出席しなくなっている。
彼は言う。
3年ぐらい前、観音教会名古屋道場も人数が少なく、杉山管長自らが瞑想や呼吸法の指導を行っていた。
彼の家は名古屋市南区の新幹線の高架下に住んでいる。新幹線が通過するたびに激しい騒音と揺れが住まいを襲う。JRから騒音の保証金やら、代替え地を提示されていた。生まれ育った家に愛着心があるので、立ち退きもせず、今日までずるずると過ごしてきていた。
3年前、杉山管長の講話の中で、瞑想するのに、家の狭い人は、家族の協力を得て、畳1枚分の広さがあればよいので、囲いを作って、その中でやるように、その間、テレビやラジオのスイッチを切ってもらう様に、それも無理ならば、名古屋道場にきて行う様にと言っていた。
30秒おきに、家の真上を新幹線が通る。箪笥の上に物を置いておくと、振動で落ちてしまうので、JRから補償金を貰って、郊外に立ち退こうかと迷っている。1年前に、杉山管長に今の我が家の状態を説明して、こんな家の中で瞑想するのはどんなものなのだろうかと質問した。
杉山管長曰く。そのような稀有な場所で瞑想できるようになれば素晴らしいと、一言さらりと言ってのけたのだ。
彼は失望の余り、観音教会を離れる。
山井所長曰く。仕事を中心に考えるならば、騒音を耐え忍ぶしかない。瞑想を生活の中心に置くならば、郊外に移転すべき。特にあなたの場合は騒音によって、精神的にも動揺が見られる。早く移転したほうが良い。
瞑想するには、場所を選ぶべきで、環境の悪い所や、よく事故が起こったり、おかしな事が生じたりする場所では、決して、瞑想をしてはならない。
こんな場所での瞑想は、悪い霊に憑りつかれたリして、気分的におかしくなったりする。
清々しい場所での瞑想が好ましい。
次の質問は、向井純である。
自分は今学生だが、大学卒業後、東京の家の装飾の仕事を手伝う事になる。
子供の頃から超能力に興味があり、その事で観音教会に入った。
超能力開発に励んでいるが、杉山管長の言うような超能力はなかなか現れない。一生懸命に言われた通りにやっているのだが、努力が足りないとか、チラシ配りにもっと精を出せと言われるばかり。
山井所長は言う。
君は前世から密教の修行を積んでいる。それが縁で観音教会に入った。だが杉山氏の言う呼吸法や千座行をいくらやっても、超能力開発はおぼつかない。
それに瞑想とか呼吸法を、超能力開発の為に行うという考えを捨てねばいけない。
人間は神様から生まれて、長い遍歴を経て、また神様の元に還って行くものだ。還って行く時には神様と同じような状態になっていないと帰れない。瞑想や呼吸法はその精神的向上の為に行うものだ。超能力はその過程で得られる副産物にすぎない。
たとえ超能力を得られたとしても、それを持てば、自分の欲望を満たすために利用するだけだろう。そうなると、新たなカルマ(因縁、業)を作り出して、来生にはその報いを受ける事になる。かえって精神的進化の妨げになる。
君は私と一緒に滝行をしなさい。霊能者の中には、苦行など必要としないと説く人もいるが、それは間違っている。人間、何もしなくて神様の元に還るには、大体1億年かかる。ヨガや滝行をすれば1万年で、仏教でいう、成仏が出来る。
坂本は山井所長の話を聞いていて、眼が開かれる思いになっていた。
組織というものは大きな矛盾をはらんでいる。特に宗教はそれが言える。教団が小さい頃は教祖を中心として、真摯な者たちが集まる。彼らは人間的に向上しようと、修行に励む。精神的にも高い者の集まりとなる。
教団が大きくなるにつれた、教祖と信者との人間関係は希薄になっていく。教祖は神のように崇められ、教団の実質的な運営はその下で働く幹部たちの手に委ねられる。幹部たちは本来は修行に専念する身にであるものの、それが棚上げされて、教団の運営という俗事に奔走する事になる。
信者の数が増えると共に、修行という目的から、現世利益へと、趣旨の本質が変化する。信者の質は確実に低下していく。宗教の低俗化に拍車がかかる。
山井所長はその事を知っているので、宗教の組織化には消極的だった。
坂本の千座行も後60日ぐらいで満行となる頃、観音教会に、杉山管長の悪い噂が流れる。
杉山管長は睡眠時間を3時間ぐらいしかとらないと豪語していた。それだけで、東京から大阪まで自分で車を運転しても疲れを見せないと言っていた。
ところが、噂話では彼は1度も自分で車を運転した事がないとか、名古屋道場にくるのは新幹線だが、車中、疲れの為に眠りぱっなしという。
その内、噂はもっとひどくなる。
3時間の睡眠というのは嘘で、実際は夜11時から朝6時まで寝ているとか、密教修行者は食事を穀物にするようにと、信者に激励しておきながら、自分は秘かにホルモン焼きを食べているとか、話が大きくなっていく。
ついに、念力で火をつけたという、本人の自慢話は嘘だと、ヒソヒソ話の声も大きくなってくる。
彼の著書では、山にこもり、密教の秘法で念力で火をつけるまでに、大変な苦行をしたとなっている。
彼が滝行をしたという、京都の五社の滝では、そこの管理人が、杉山管長が滝行に精を出した事は証言している。だが、念力で火をつける修行については誰も見ていない。
杉山管長にとって不利な事は、公に、念力で火をつけたのは東京の本部道場で1回きりである事。その他の場で何故行わないのかという質問に対して、あれを行うには、体力の消耗が激しいからと答えている。
これに対して内部告発としての噂話は、それは塩酸か硫酸を使用して、護摩木の下に、それらと反応して発火する物を置いていたから、つまり手品だったという説が出た来た。しかも、古参の幹部たちが手伝っている。彼は杉山管長から何かにつけて疎んじられるようになったので、内部告発をしたのだという。
悪い噂はまだまだ出る。杉山管長は高野山で密教修行をしたと伝えられるが、高野山側がそれを否定した事が公になった。
彼は確かに密教の修行法については詳しいが、霊能力には疑問があると主張しだした。
坂本が入信して2年ぐらいして、チラシ配りの効果が出て、信者の数はうなぎのぼりに増加していく。名古屋道場でも百枚敷きの祭壇場が手狭になり、その隣の50帖の瞑想室を改造して、祭壇場の一部としてしまった。お陰で、瞑想を楽しみにやってくる信者は失望の色を隠さなかった。
その後、数カ月して、京都のはずれに花山霊廟を造営している。敷地1万坪、建物は5百坪、10メートルの高さの観音像を配置して、その前庭、約5千坪の敷地で大護摩法要が催される。
1年に1回、節分の日に、護摩木百万本が焚かれる。名古屋道場にも10万本が割り当てられる。半ば強制的に、1人の信者に百本が振り分けられる。1本百円になっていたので、大変な額の金が教団の懐に入る。この頃の教団の信者数は、公称10万人と言われた。
その発展と共に、教祖の悪い噂が大きくなっていく。
坂本が千座行を終わる頃には、彼の著書には”超能力”と言う言葉が見られなくなる。専ら、霊とか祈祷とか、そんな言葉ばかりが目に付くようになる。
坂本の千座行が、あと20日で終了する日、彼は最後の例祭に出席する。この日百台は駐車できる広場も、車が置けない程に盛況となる。半年ぶりに杉山管長が名古屋道場に来るからだ。
それ以前は、管長はほとんど名古屋道場に姿を見せなくなっていた。道場の管理を任せられている、名古屋の商事会社の社長が、管長に代わって護摩木を焚いていた。彼は古参の1人で、杉山管長の忠実な部下である。
坂本は千座行が満行になった後、観音教会を離れるつもりでいた。向井純はすでに4ヵ月前に脱会して、坂本とは1ヵ月に1回、超宗教心理研究所の会合で顔を合わせる程度になっていた。
坂本はチラシ配りもやめていた。例祭の準備の無料奉仕や、その他の教団への奉仕から、一切手を引いていた。
教団は奉仕する事が最大の功徳なると強調している。無垢な信者やそれを信じて、なかには家庭を放り出して、奉仕に専念する者もいる。
久し振りに見る杉山管長は、立錐の余地もない程に、ぎっしりと詰まった信者を見回して、胸をそらして、得意満面である。彼の講話は、教団への奉仕の重要性を説く。その一方で、数々吹き出している悪い噂の打ち消しに時間を割く。
曰く、自分は高野山の側の某寺で修行したのであって、1度たりとも高野山で修行したとは言っていない。
念力で火をつけた事は多くの信者が見ている事で、嘘ではない。その他、自分は悩み苦しむ衆生を救う目的で教団を設立したのであって、一部の信者の超能力開発を手伝うためにしたのではない。
坂本は杉山管長の講話を無感動で聴いていた。この教団には何の未練もない。入信したのは、不振だった商売を何とか盛り上げたい。藁でも掴む思いからだ。
仕事が順調に推移している。観音教会のお陰だと言われるならば、チラシ配りでお返ししている。
観音教会は目の色を変えて信者獲得に奔走している。教団創始の頃は、超能力開発を教える為に始めたと聞いている。その目的で教祖に従ってきた信者たちは戸惑いを隠さない。
坂本が観音教会を離れて3ヵ月目、古い幹部連中や、教祖のやり方についていけない信者がどっと脱会している。教団は膿を出し切ったと見ているようだ。
それから3年ばかり、坂本は超心理研究所に所属する。神秘学の本やヨガ、易の本まで読み漁る。
坂本43歳の時、ヨガの数ある呼吸法の内の1つだけを体得して、超心理研究所からも身を退く。1日平均1時間を呼吸法と瞑想に費やす。心に生じる変化に気を配りながら専念する。
3ヵ月、半年とやっている内に尾骨のあたりが熱くなってくる。それが背骨のあたりを通じて上昇してくる。
数年間の呼吸法と瞑想の結果、胸の上のあたりまで熱いものが上昇してくるのが感じられるようになる。体力的にはほとんど変化がないものの、精神的にはゆったりとした気持ちに浸る事が出来るようになった。
その頃から、伸び悩みの状態が続くようになる。いくらやってもそれ以上の変化が感じられない。坂本は限界を感じるようになる。
古物商と知り合ったのは丁度その頃である。
ある冬の事、坂本は何気なく、幡豆郡のさかな広場に出かける。海産物が安いとの評判で、磯部にも分けてやろうと出かけたのである。その広場の一角で、相撲取りのような古物商が露店を開いていた。象牙や壺、黒檀の家具に混じって、水晶の原石や紫水晶、その他の宝石がずらりと並んでいる。
「これだ!」坂本は水晶パワーについてはよく知っている。水晶ブームで、プロ野球の選手も水晶ネックレスをして評判を呼んでいるご時世だ。その手の雑誌も書店に並んでいる。
水晶は場の雰囲気を浄化するパワーを持っている。玉やネックレスのように加工したよりも原石の方が効果がある事も判ってきた。しかもその方が安い。
坂本はあるだけの金をはたいて水晶を買求める。古物商に名刺を渡して、もっとあったら買うと知らせる。
蔵を整理して、水晶を回りに置く。その中で呼吸法や瞑想を行う。著しい効果が期待出来て、坂本は”場”作りがいかに大切か身に染みて知る。
紫水晶
磯部家の財宝の紫水晶の瞑想用としての価値は判っていたが、4~5年前までは水晶の大きな物ぐらいの認識しかなかった。
瞑想や呼吸法を修行する者は、大半は超能力開発を目的としている。その手の雑誌の広告にも、1週間やれば超能力に目覚めるとか、お金を出したくなるような文面が目立つ。若い購読者が多いと見えて、当社製作の水晶を身に着けると、たちどころに恋人が出現するとか、思わず笑ってしまうような広告も目につく。
坂本が瞑想や呼吸法に注目し、宗教に関心を持ったのは、商売繁盛を願ったからだ。仕事さえ順調であれば、後は何も不足はなかった。
坂本が50の坂を超えた時、――ヨガ行は、死の準備の為に行うのだ――超心理研究所の山井所長の言葉が判るようになってきた。彼の元に来る人達は、山井所長が世に隠れもない超能力だと知っている。彼の元で修行して、超能力開発を目指す者が多い。山井所長はそんな彼らに釘を刺したのだ。
我々は物質の世界にいる。死ねば肉体は無くなる。霊体となって”あの世”に行く。瞑想をしていると、自分は死んだんだのだなと判るようになると、山井所長は説く。
実はここが大切なところである。この世に執着心のあるうちは、死んでもこの世にしがみつこうとする。死んでも死んだ事を悟らず、普段通りに生活しようとする。その内におかしな事に気が付く。はじめて死んだ事が判って半狂乱となる。霊界に行くのが遅くなるし、魂としての進化が著しく遅れる。
自分が死んだと判って、この世への執着心がなければ霊界入りが早い。霊界には霊界での生き方があり、それを学ぶことも早くなる。魂の進化も早い。
普通、霊界での生活の期間は物質界の20倍から30倍という。その期間を過ぎるとまた物質界に降りて来るのだが、魂の進化と共に、その期間も短くなる。やがて、物質界への生まれ変わりも無くなり、進化した魂は神霊界へと移行する。
聖徳太子の言葉にもあるように、我々の本当の住まいは霊界であり、物質界は仮の世界なのだ。
山井所長は事あるごとに説くのであった。
坂本には親戚はいるものの、深い付き合いはしていない。独身で身軽な身分だ。ある程度の歳が来たら、会社ごと売り払って、どこどの田舎にでも引っ越しして、余生を瞑想と呼吸法に捧げようと思っている。
”あの世”に還った後の魂の進化の為の意識を持つべきだと考えていたのだ。
磯部作次郎が死んで、事態が一変する。秘かに思い焦がれていた珠江未亡人と一緒になれるかも知れない。そんな思いが坂本の心を支配するようになる。
磯部の資料を漁っている内に、磯部家の家宝の紫水晶が、坂本の予想をはるかに超えたものだと判ってくる。
紫水晶については、生前の磯部からは色々と聴かされてはいたが、坂本には磯部が大言壮語している様に思えて、大して興味を持っていいなかった。
磯部は資料の中でごく簡単ではあるが紫水晶とモーゼについて、以下のように語っている。
――モーゼはエジプト人であった。彼が何故イスラエルの民を先導してエジプトを出る事になったかは不明だが、1つ確かな事は、ただの人間であったモーゼが、旧約聖書中、際立った超能力者に変身したのは、紫水晶のせいと思われる――
坂本はこの一文に目を引かれる。
身の回りに山ほどの水晶をおいて、呼吸法を行じても、神のような霊能力者に変身するには、何世代もの生まれ変わりが必要だ。
だが、紫水晶の秘密を知れば、短期間の内に、目的が達せられるに違いない。弘法大師空海が説いた“即身成仏”生きながらにして神になる事も夢ではない。
磯部殺しの犯人もいずれ捕まるだろう。紫水晶も戻ってくるだろう。珠江未亡人は、伊勢のどこかに眠るという、ソロモンの財宝を求めようとしている。そんなものがあるかどうかは別として、珠江と一緒になる事で紫水晶は坂本のものとなる。珠江の夢を手助けしてやりながら、自分は紫水晶の秘密を解明しようと考えた。
今まで学んだ神秘思想が役に立つだろうし、磯部の資料の中にも、あるいは秘密を解く鍵が隠されているかも知れないと心躍らせるのであった。
坂本は磯部の遺した書籍やおびただしい数の資料に、精力的に取り組むのだった。
第2の殺人
平成9年1月下旬、吉岡刑事が血相を変えて、坂本の家に飛び込んできた。休日とあって坂本は午後の仮眠をむさぼっていた。玄関のチャイムが鳴るのも気が付かない。
吉岡刑事は玄関の引き戸を開けると「ごめんよ」奥に聴こえる程の声を張り上げる。
その声に坂本は仮眠から醒める。眠たい眼をこすりながら玄関に出る。不機嫌な顔をしていたのだろう。
「いやあ、無理に起こしたみたいですなあ」言いながら靴を脱いで上がり込む。
「まあ、こっちへ」坂本は少々朦朧とした頭を振る。相手が相手なので追い返すわけにもいかない。
応接室に引き入れて、お茶を出そうと、台所に行きかける。
「磯部幸一氏が殺されましてなあ」吉岡刑事は背中から声をかける。
「えっ?」坂本は一瞬判断に迷う。
「ほら、磯部作太郎さんの奥さん、とめさんとか言いましたなあ。その子供さんですわ」
吉岡刑事はオーバーを脱いで、ソファの横に置く。ネクタイの曲がりを気にしながら座に就く。
「本当ですか!」さすがに坂本は緊張する。ぼんやりしていた頭もはっきりする。
坂本がお茶を運んだり、ヒーターをかけたりしている間、吉岡刑事は1人舞台のように喋りまくる。
磯部幸一の殺害は1週間前と推定される。
「3日前の、ほら、テレビのニュースでやってたでしょう。久居市鳥木町の猟奇殺人事件、あの被害者ですわ」
「ひさい?あの松阪の北にある市・・・」
坂本は3日前のテレビのニュースを思い出す。
被害者は手の指を切断され、体中暴行を受けている。まれにみる猟奇殺人として報道されている。
「しかし、あの被害者、名前は確か、中村何とかさんでしたね」
「そうなんですわ。だから身元確認が遅れる事になりましてな」吉岡刑事はおいしそうにお茶で喉を潤す。
以下吉岡刑事の話。
被害者の名前は中村健治。殺害時の年齢は42歳。身元引受人無し。腹違いの弟がいるが、現在行方不明。
坂本が理解しやすいようにと、昨年の9月25日の時から話を戻す。
33年前に磯部とめの家出の原因を捜査する。
近所の聞き込みも、老人を中心に行う。結果、坂本が噂として聴いていた通り、磯部作太郎は次男の作次郎に殺されたのではないかとと、専らの評判。もっともその証拠がないので、大きな声では言えない。
磯部作太郎は温厚で真面目な性格で、周囲の者からも好かれていた。体は小さいが、身を粉にして働くタイプだった。
中学を卒業後、大手タイルメーカー、伊奈製陶所に就職したとはいえ父と弟の3人暮らしに、食事も欠く有様。彼はアサリを獲ったり、海藻を拾い集めては、生活の糧としている。
弟の作次郎とは元々は仲が良いのだが、磯部家の”家宝”の話になると、途端に口論に発展する。2人の罵り合う声は近所まで聞こえてくる。
磯部家は保示の知り合いの漁師から伝馬船を借りて、沖に出て縄を投げ入れて魚を獲る。兄弟2人が力を合わせて家計を助けていた。
作太郎が嫁をもらい、父が死ぬ。
作太郎26歳、嫁のとめ25歳。1人息子の磯部幸一5歳の時、磯部作次郎が22歳で、独立の一歩を踏み出す時だった。
磯部の家計も明るさが見えだしたころ、作次郎は兄を誘い漁に出る。この頃は魚を獲って家計の糧にするというよりも、兄弟が力を合わせて磯部家の発展を図るための儀式のようなものになっていた。
昼過ぎ、保示港に帰ってきたのは作次郎のみ。
作太郎が誤って海に落ちて溺死したと警察に届ける。死体の捜索が行われたものの、発見されたのは数日後だった。
警察は作次郎が殺めたのではないかと事情聴収を行うが、証拠もなく、無罪放免となる。
作太郎の妻とめや、作太郎を知る人々は、作次郎が誤って海に落ちておぼれ死んだと思っていない。
作太郎は泳ぎは達者である。中学時代、学校で開催された10キロの遠泳大会にも参加している。ましてや、溺死当日、天気は良く、海は穏やかであった。手綱で魚を獲るというものの、伊勢湾内から出る訳ではない。船で片道、せいぜい30分ぐらいの所、双眼鏡でもあれば、野間の灯台からも見降ろせる位置で漁をしている。
大人しい作太郎と違い、作次郎は気性が激しい。中学1年生の時、3年生を殴り倒した事件は有名になっている。気にくわないことがあると、相手がやくざであろうと、平気で突っかかっていく。土建屋として独立して間がないとは言え、暴力団との付き合いも噂されている。
”底の知れない”不気味な男”それが磯部作次郎への評価である。作次郎なら相手が兄でも殺しかねない。彼を知る者たちは一致して判断する。
――お前が作太郎を殺したんだろう――こんな言葉は誰も言えない。言ったら最後、何をされるか判らない。作次郎の底の知れない恐ろしさを知っているからだ。
磯部作太郎の妻とめは、武豊から嫁いできている。開拓部落と言って、武豊の西の丘陵地帯にある六貫山の外れにある、農家の出である。常滑市に隣接していて伊勢湾が遠望できる。
彼女の父は終戦後、この地に入植している。町からただ同然の場所を与えられ、農業に精を出す。入植当時は狐や狸が出たと言われるほどの寂しい場所で、陸の孤島ともいわれていた。両親と弟の4人暮らしだった。
昨年9月下旬、吉岡刑事は磯部作次郎殺害の事件の足掛かりを求める為に、とめの実家を訪問している。
今は周囲に住宅や会社の寮や社宅が立ち並んで、狐や狸が出たという面影はない。
入植当時は千坪程の土地を所有していたが、今は2百坪程の敷地を残すのみ。
とめの弟、牛田一成は今年56歳。姉とは2つ違いである。彼はがっしりとした体格をしている。専業農家として生きてきている。風雪に晒された浅黒い肌と深い皺がそれを物語っている。歳の割には老けて見える。白い髪と、しょぼついた眼が年寄りくさく見せている。
平成元年当時に土地を切り売りして、財を成す。10年程前から農業をやめて、弁当持ちで働いている。今は5人の孫に囲まれた平穏な生活を送っている。
吉岡刑事から事件の顛末を聞かされる。
彼は磯部作次郎を極度に嫌っていた。磯部が殺された事も知っていいる。
「あんな奴、殺されて当たり前だわな」彼はしょぼついた眼に憎悪の色をにじませる。
磯部作次郎が兄を殺したんではないかとの噂も承知している。「あいつならやりかねないわ」
暑い日差しの残る昼過ぎ、吉岡刑事にお茶を振舞いながら、「姉も、あいつに殺されると、おびえとった」核心に触れていく。
吉岡刑事はふさふさした髪に手をやる。彼の柔和な顔付は、端からみるとセールスマンが農家のおじさん相手にセールスをしている風に見える。
「その、とめさんの事、もっと詳しく教えてくれませんかなあ」
牛田一成は喉を鳴らしながらお茶を飲み干す。
「何でも磯部家に伝わる家宝の秘密だとか・・・」
姉のとめは1週間に1度は武豊の実家に来ては、食料を持っていく。とめが結婚して数年間はそれほどに磯部家は困窮の極みにあった。この時ばかりは、寡黙なとめが饒舌になる。苦労に慣れてはいるとは言え、食べ物にも事欠く程の貧困生活を送っている。ストレスも溜まるのだろう。
磯部家の家宝の秘密は一子相伝で、長男にのみ、口伝で伝えられる。一家を成した事で、磯部作太郎は父から紫水晶の秘密を受けている。
作次郎が兄に迫るのは、紫水晶の秘密を解いて、磯部家を再興しようという気持ちがあるからだ。
「姉が作太郎から聴いたところによると、財宝の価値は百兆円とか・・・」
牛田は言葉少なげに、ポツリと言う。
「百兆!」吉岡刑事が思わず声をあげる。
「まあ、話がでかすぎて、夢物語で・・・」
「しかし、百兆とは・・・」
「それも昭和30年代頃の事だからなあ、今ならさしずめ2百兆かなあ・・・」
牛田はどこまでも人を食ったような表情である。タバコを取り出すと、ぷかぷかやり出す。
「わしゃあ、作次郎の奴は嫌いだったが、彼の言う事も一理あると思うとるわ」
牛田は好き嫌いと、事の分別は別だという。
「百兆なんてべらぼうな額はともかくとしてだねえ・・・」
牛田は名前のように、ノロノロと話を進める。吉岡刑事は辛抱強く付き合う羽目になる。
「まあ、1億でも2億でもええがな」一言区切る。
作次郎は磯部家の財宝を捜し出して、往年の磯部家の隆盛を図るべきだと主張している。
これに対して作太郎は先祖の遺訓を守り、紫水晶の秘密を代々伝えていくべきだと言い張る。その理由として磯部家の莫大な秘宝は私するものではない。国家が危機に瀕した時に世に出すべきものだ。
兄の作太郎は大人しく、温和な性格だが頑なに家訓を守る一途な面も備えている。
兄弟2人は相譲らず、口論が絶えなかった。作次郎は父にも迫るが、作太郎同様、父も一子相伝だからと首を縦に振らない。
父の死後、2人の口論は激しくなる。
作次郎の性格は激しく、一度思いつめた事は必ず実行するタイプだ。中学の時上級生を殴り倒したのも、今に見ておれとの憎悪とも怒りともつかない感情の爆発の表れに他ならない。
作太郎が死んだとき、その不自然な死因に、当然作次郎に嫌疑がかかる。あ奴ならやりかねない。周囲の者の一致した評価だ。
「作太郎さんが死んでなあ、まだ四十九日も終わらんのになあ・・・」牛田は庭の盆栽に目をやる。
「姉が5歳になったばかりの幸一ちゃんをつれてなあ、姿を消しちまったんだわ」
その目は遠い所を見ている。以来1度もとめとは再会していない。
「数日たってなあ、姉から電話があったんだわ」
「それで・・・」吉岡刑事は先をせっつく。
常滑にいると、自分は作次郎に殺される。決して捜してくれるな。
とめは詳しくは言わない。今どこにいるのかと問うても「伊勢」と答える。また連絡する機会はあると思う。とめはそう言うのみ。
それでも牛田はたった1人の姉が恋しい。貧困の中で肩を寄せ合って生きてきた中だ。必死になって色々聞きだす。
牛田の切々たる思いに、とめは涙声で語る。
作太郎が死んで、悲しみの涙の乾く間もなく、作次郎は兄から何か聞いているだろうと、迫られる。
いかつい顔の作次郎の大きな眼は炯々としてすさまじい。声にも迫力がある。とめは気丈夫とは言え、夫が亡くなって心中は不安と苦痛に満ちている。
「幸一坊がどうなっても知らんぞ」作次郎の恫喝とも思える粘っこい声に、「殺される!」とめは恐怖する。
「実際なあ、あ奴はなあ・・・」作次郎を名指しして、牛田は口をへの字に曲げる。身内といえども幼い命さえも平気で奪う輩だと言い切る。
とめの失踪後、牛田のところに作次郎が現れる。
牛田は若い血のたぎりもあったろう。大男の作次郎を見上げる。負けじと眼を怒らす。
「あんたが作太郎さんを殺したんだろうがやあ!」
作次郎は仁王のように、眼をかっと怒らすが、すぐに平静な表情に戻る。
「姉さんが何処へ行ったか聞いとるんだわ」
作次郎の頭の良い所は、自分の置かれている立場を充分に弁えている事だ。体力もあり腕力もある。その上頭もよいときている。性格も豪気だ。33年前、20歳を出たばかりの牛田の小さな体と貧相な顔を見下している。
脅かせばペラペラ喋ると踏んでいる。
「知らん!たとえ知っていたとしても、お前みたいな奴には、誰が喋るか!」
牛田の剣幕に、作次郎は一瞬たじろぐ。すぐにも落ち着き払って、彼を見下す。
「知っている事言わんと、後々面倒な事になるぞ」
低いがドスのきいた声だ。
牛田は怒り心頭に発している。
「やれるものならやってみろ。お前を道連れにしてやる」挑むように見上げる。
牛田の精神状態が尋常でないことを悟るや、作次郎は薄笑いを浮かべてそのまま立ち去る。
吉岡刑事の話を聞きながら、坂本は今さらながらに、磯部作次郎の明と暗が極端である事を知る。明の部分が鮮明であればあるほど、暗の部分も闇に近くなる。
坂本の知る磯部作次郎は親分肌で、身銭を切ってでも人を助ける人物だ。
彼の頭の中には磯部家の秘宝を手に入れる事しかなかった。その為には手段を選ばなかった。
磯部作次郎――まるで古事記の中のスサノオだ。アマテラスの前では傍若無人ぶりを発揮しながら、出雲での彼は力強い英雄である。
吉岡刑事の話は続く。
「牛田さん、とめさんは、他に何か言ってませんでしたかな?」
牛田は目を上に上げる。
「そうだなあ」しばらく考える。
磯部家の秘宝は作太郎のみに伝えられている。父の死後、作次郎との口論が激しくなる。
律儀な作太郎は面と向かっては弟を非難しない。弟の言い分にも一理あると見ているからだ。
口論と仕事のストレスがたまる。夜など、とめの酌で一杯やる。つい愚痴が出る。その言葉の端々から、磯部家の秘宝の秘密が漏れる。それによると、財宝は伊勢のどこかに秘匿されている事。夫婦岩が秘密を解く鍵になる事。そのカギを説くも1つの鍵が”とこなめ”の地名にあること。それにもう1つ常石神社が深く関わっている事。とめが知り得た事はこれだけだ。
「とめさんが常滑を出てからの連絡は?」
「1ヵ月過ぎに3回ばかりあったけどなあ、それきりで連絡は途絶えてますわなあ。まだ生きているかどうか・・・」
牛田はむせび泣くような声になる。姉が恋しいのだろう。磯部作次郎が死んだ事だし、早く帰ってきて欲しいという。
「刑事さん、姉を捜してくださらんかな。生きているなら、一目会いたいと、わしが言っとったと・・・」
最後に涙声となる。
「牛田さんの話を聞いとりましてなあ」吉岡刑事が豊かな髪に手をやる。坂本に見せびらかすような仕草だが、単なる癖らしい。それでも坂本には気になる。
磯部作次郎が怖いなら、実家の牛田の家に逃げ込めばよいものをと、とめの行動に疑問を持った。牛田もその事は心に内にあったらしい。子供を連れて武豊に戻ってほしかったと述べている。
磯部とめは、とるもとりあえず、常滑を出奔している。家宝の紫水晶は40キロもあるから持ち運びは無理だ。早朝子供を連れて常滑駅を出発したらしい。以来1度も知多半島には寄っていないと見てよい。役所の住民票もそのままである。
磯部作次郎が怖かっただけではない。伊勢に行ったという牛田の証言から、彼女もまた、磯部家の財宝を手に入れようという目論見があったに違いない。吉岡刑事は自らの推理から、伊勢、松坂方面の警察の協力を要請する。
牛田家から磯部とめの写真を借りて、公共施設などに配布する。ただ――、30年以上も前の写真のため、彼女の発見に役立つか否かは心元ない。
役所関係にも彼女の名前が登録されていないかチェックする。
「いろいろ手を尽くしたんですがねえ、手がかりすら得られませんでした」吉岡刑事は金縁の眼鏡をたくし上げる。
「これからが本題ですがね」度の強い眼鏡の奥から坂本を見る。
磯部とめ
中村健治猟奇殺人事件発生4日後、三重県警より吉岡刑事に連絡が入る。
中村健治こと本名磯部幸一と判明、年令39歳。吉岡刑事は松坂署に飛ぶ。担当の刑事より以下の驚くべき事実を知らされる。
中村健治こと磯部幸一の住所は多気郡明和町北野。明和町にある斎宮跡の西2キロ先の住宅街にある。古びた家で、現在は住居者なし。
磯部幸一の死体から運転免許証や5万円入った財布などが出ている。
犯人は磯部の身分や住所の隠滅を計った形跡が見られない。異常者の犯罪かと推測される。この事件の状況については後で述べる。
三重県警の担当の刑事は磯部=中村の住所の近辺の聞き込みを行う。結果、6歳下の弟、中村作二が3ヵ月ほど前から行方不明。父中村健太郎は肺結核で近くの国立療養所に入院中である事が判明。
刑事は担当医の了解を得て、事件の状況を説明する。
中村健太郎は骸骨のようにやせ細った体で涙を流して説明に聞き入る。
彼は65歳という歳の割には老けて見える。皮膚は褐色で、艶がない。白髪も側頭部に僅かにあるだけで、小さな眼を瞬きもせずに、刑事の口元を見ている。薄く締まった口元から誠実さがあふれている。
刑事の説明が終わると、彼は突然号泣する。
「天罰じゃ、天罰が下ったんじゃ」
「天罰って何のことですか」刑事の声は優しいが、問い詰める厳しさに満ちている。
中村健太郎は篤実家として近所の評判も良い。
中村家は代々綿の打ち直しを業としている。伊勢市の中でも旧家に属する。外宮にも奉職した経験もある。宗教心の篤い事でも知られている。
生まれつき肺が弱い。綿の打ち直しは綿埃が工場内に充満する。肺が弱くなくとも、この業に就く者は肺の異常が多い。
昭和40年代後半になると、羽布団の普及や使い捨て寝具、ベッド等の進出で、綿の打ち直しの需要が激減する。55歳の時、家業を廃業。ガードマンや道路の交通整理の旗振り等を行っている。元来手を抜くことが嫌いな性分で、過労が災いして、肺結核を患い入院する。
妻豊子は10年前に亡くなっている。2人の息子、中村健治39歳、次男作二33歳の3人暮らし。2人の息子は腹違いで、健治は豊子の連れ子。健太郎が結婚して半年目に作二が生まれている。
取り調べの刑事は中村健太郎の家族構成を調べた上で面談している。
天罰と聞いた時、刑事は職業上の勘で問い詰めたのである。ましてや2人の息子の内、1人は無惨な殺され方をしている。もう1人は3カ月余の行方不明なのだ。同じように殺された可能性もある。
中村健太郎は30数年前に起こった驚愕すべき事実を話し出す。
昭和38年頃、中村家は伊勢市中島町に住んでいた。
当時中村健太郎35歳。70歳になる母と2人暮らし。父親は10年前に死んでいる。食っていくだけの需要はあるものの、先行きの見通しは暗い。同業者が廃業していく。
綿の打ち直しは機械の音が騒々しいので、工場は町から離れたところにある。父の代にある程度の財を成していたので、工場の規模を縮小して、余った敷地跡に借家を建てている。贅沢を言わなければ親子2人が暮らしていけるだけの収入はある。
綿の打ち直しは夏は暑く、綿埃の舞う中の作業のために人手が集まらない。昭和30年代の後半頃から、人手不足に見舞われている。給料も良く、きれいな職場へと人口が流れていく。
そんな中で、子連れの女が雇ってほしいとやってくる。磯部とめである。当時25歳。
中村健太郎は従業員募集の貼り紙を出している。それを見ての訪問である。
彼女は1週間前に外宮の側の宮前町にアパートを借りて住んでいる。1ヵ月前に主人が亡くなり故あって当地にやってきた。一生懸命に働くから何も聞かずに使ってくれないかという。
中村健太郎は人手はほしいが、どこの馬の骨とも判らぬ者を雇い入れるにはためらいがあった。
話を聞いてみると身振り手振りに卑下したところがない。体も丈夫そうだし、大人しく誠実そうに見える。しかも子持ちとは言え、若い女だ。取り立てて美人という程ではないが、目鼻立ちの整った清々しい表情をしている。
独身の中村は心が動く。
「綿の打ち直しはきつい仕事だよ」一応念を入れる。給料も安く、汚い仕事だ。働き手を雇い入れても長く働いてくれたためしがない。
「家の近くに綿屋さんありましたから、仕事の事はよく判っています」
磯部とめはハキハキと答える。
坂本は吉岡刑事の話を聞きながら、大きく頷く。
磯部とめの言う家の近くの綿屋とは、当然の事ながら、常滑市保示町の綿屋と思われる。保示の綿屋とは亡き母の実家である。15年程前から綿の打ち直しはやっていない。
坂本は小さい頃、工場内でその作業を見たことがある。
白煙のような綿埃が舞い上がる。1メートル先はかすんで見えない。機械の音も騒動しく、長くいると耳がおかしくなる。小さな窓があるのみで裸電球の作業所は薄暗い。
坂本の母も25歳で父と一緒になるまで働いていた。そのせいで塵肺になり、50歳の時に肺炎を引き起こして死んでいる。辛い仕事である事は坂本もよく知っている。
母の実家は磯部家から2百メートルも離れていない。
道路幅3メートルしかない道路を挟んで東側に真福寺がある。北側百メートル程行った所に正持院が大きな場を占めている。本能寺の変の際、伊賀越えをした徳川家康が足を止めた寺として有名である。
母の実家の百メートル周辺を昔から”かまなき”と呼んでいる。漢字で釜之脇と書く。磯部作次郎は、かまなきという言葉があって、それに似た漢字を当てたのだと言っていた。よって本当の意味は不明。
母の実家から百メートル程南に大綿津見神社が鎮座している。丁度磯部家と母の実家の中間に当たる。保示会館の一角に鳥居と社がある。あまりにもみすぼらしく、注意して見ないと判りにくい。夏はここで天王祭が開かれる。花火があがり、露店で賑わう。
かまなきと大綿津見神社が磯部家の秘宝に深い関係があるとは、この時の坂本には知る由もなかった。
吉岡刑事の話に耳を傾ける。
磯部とめは中村の工場で働くことになる。5歳の子供がいるので工場近くの中村の借家に住み込む。中村の母は当時70歳。健在というものの、毎日の食事の支度は荷が重い。磯部とめは仕事の合間を見て買い物に行ったり、中村家の食事も用意する。中村も驚くほど実によく働く。無口であるが、小まめで、仕事も嫌な顔1つせず精を出す。磯部幸一も右も左も判らぬ子供ながら、近くの八百屋への買い物が出来る程賢い。
1ヵ月、2ヵ月と立つうちに、中村は磯辺とめに好意を抱く。中村の老母も良い人が来たと喜び、3ヵ月程過ぎる頃、中村の好意は男女の割り切れない仲へと発展していく。
磯部とめが常滑の出である事、夫が死に、義理の弟に脅迫されて、やむなく家を飛び出した事情を聴きだす。中村は彼女に同情し、結婚を申し込むものの、磯部とめはここに戸籍を移す訳にはいかないと頑なに中村の求婚を拒む。
とはいうものの、困った問題が持ち上がっている。
磯辺幸一は来年には小学校に入らねばならない。嫌でも戸籍を移動させる必要に迫られる。そうなれば自分達の居場所が磯部作次郎に知られることになる。兄には伊勢にいると知らせたものの、それ以上の情報は与えてはいない。
磯部とめは一計を案じる。仕事が休みの日、伊勢から離れた地域、三雲町から久居町方面に出かける。
3ヵ月後、磯部とめは黒田豊子、27歳、磯部幸一を黒田健治8歳として、三重県松阪市西之庄町から、同県伊勢市中島町に戸籍を移す。
彼女は中村健太郎にその間の事情をすべて話している。その話は、中村健太郎が血の気を失う程怖ろしいものだった。
磯部とめは、松阪市の三雲町から久居市に至る郊外の比較的古い借家を歩いて、母子家庭の家を捜しまわる。
条件として、親戚縁者が居ない事、母は24歳から26歳くらいまで、子供は男の子で年齢は7~8歳までとする。
彼女は町内の事情に詳しい人を訪問しては、ある会社が住み込みの賄婦を捜していると説明する。約3ヵ月間歩き回った結果、松阪市内の南東にある、西之庄町の古いアパートに住む母子家庭に辿り着く。
その家の主、黒田豊子は故郷の熊本を中学卒と同時に出ている。職を転々として松阪市内の織布工場で働くうちに結婚。18歳の時である。同時に夫の職場が西之庄の近くの松沢万古焼の工場であったため、西之庄の現在の住所に居を構える。5年後主人は交通事故で死亡。
以後、松沢の万古焼の工場で絵付けの仕事で生活を送っている。
磯部とめの訪問を受ける。伊勢市内にある三菱の下請工場が住み込みで賄婦を捜していると聞く。給与と言い、住み込みの条件といい、黒田豊子の心を動かした。磯部とめは黒田家を度々訪問。寡黙で飾り気のないとめの人柄に魅せられる。
黒田豊子は意を決して、勤務先の工場に伊勢市の某工場に雇われる事になったと切り出す。
母子家庭で荷物も大したことはない。引っ越しの準備も簡単だ。
磯部とめは伊勢市の工場長には話はしてあるが1度面談したいとの先方の希望を伝える。
その上で、西之庄の西にある丘陵地帯の妙楽寺という寺に遊びに行かないかと誘う。
磯部とめに全幅の信頼を置いていた黒田豊子は1も2もなく応じている。頼る人もなく、心細い思いで生活してきた黒田は磯辺の暖かい思いやりがありがたかった。
妙楽寺は本居宣長の奥墓のあることで有名だ。ここからは松阪市内が見渡せる。西之庄から徒歩で40分位。暖かい日差しの中、ハイキングコースに最適である。
アパート暮らしとは言え、黒田豊子には近所付き合いも少ない。社交性に乏しい彼女は8歳になる健治と肩を寄せ合って暮らしている。磯部とめの勧めとは言え、母子で行楽に出かける事はそれまでなかった事だ。
妙楽寺は森閑としている。平日という事もあり、3人はのんびりと持参の握り飯を頬張る。食後、寺の裏手に入る。筍を掘り出そうと、磯部とめが誘っている。
妙楽寺の裏手崖下に大きな池がある。竹藪が拡がり、急斜面の坂を下る。下り切ると、数メートル程の平地がある。池は青く澄んでいて、気持ちが良い。
地面は岩が露出している。竹や苔などが密生している。
「あら、あそこに洞窟があるわ」黒田豊子は小柄な体で指さす。息子の黒田健治は8歳というという年齢に似合わず小さい。無口で母親にぴったりと寄り添っている。
黒田豊子はすでに絵付けの仕事を止めている。磯部とめが支度金を与えて、退職させている。黒田健治は小学校4年生。近日中に伊勢市内に移るという言う事で編入届も出している。これも磯部とめの計らいである。
黒田母子は崖下の洞窟を覗き込む。2人の後姿を、磯部とめは冷たい表情で眺めている。彼女の手にはスパナが握られている。その表情とは裏腹に、彼女の心の内は興奮の渦の最中にある。眼をかっと見開き、唇をかみしめている。中肉中背の彼女は、小さい頃から農業の力仕事に耐え、嫁いでは、漁業の肉体労働で鍛えられている。
磯部とめは2人に近づく。スパナを握りしめる手がぶるぶると震える。僅かなためらいの後、眼を瞑る。黒田豊子の後頭部に思い切り振り下ろす。とめの手に鈍い衝撃が走る。彼女は目を開ける。黒田豊子の体が洞窟に倒れる。黒田健治は目を真ん丸に見開いて、磯部とめを見上げる。とめは間髪を入れずに子供の頭を砕く。殺害は一瞬にして終わる。
彼女は2つの死骸を洞窟の奥に引き入れる。中はかなり深い。入り口を石でふさぐ。
翌日、黒田豊子のアパートに戻る。大家には月末までの家賃を払ってある。連れてきた運送会社の運転手と共に荷物を運び出す。これを中村綿屋の近くに借りた倉庫に運び入れる。箪笥や衣類などを分散して処分していく。
中村健太郎は磯部とめの話を聞き終わった時、目の前の大人しくて寡黙な女が悪魔のように思えた。思わず身震いする。怖ろしい事件に関わりたくなかった。
しかし・・・、中村健太郎にはためらいがあった。
磯部とめは実によく働く。老いた母にもよく仕えてくれる。仕事だけでなく中村家の家事全般にも彼女の手が行き届いている。
それにもまして、中村健太郎がためらうのは、磯部とめの25歳という若々しい肉体だった。2人はすでに情交を重ねる仲になっている。彼女の肉体に溺れている。
中村健太郎は温厚な人物で常識家である。たとえ磯部とめが必要な人物だとしても、人殺しの罪は罪として見過ごす訳にはいかないと感じていた。
――聞かなかった事にして、ここから出ていってもらおう――彼はそう判断すると、磯部とめを見る。
磯部とめは訴えるような眼で中村を見ている。
「自首しろと言われればそのようにします。でも私のお腹にはあなたの赤ちゃんがいます」
中村健太郎の眼に驚きの色が走る。
「赤ちゃん!」
「もうすぐ4ヵ月になります」
中村健太郎の人生はこの時から大きな重荷を背負いこむ事になる。彼は三重県警の刑事に、涙ながらに話している。
彼女のお腹に自分の子供が宿っていると知った時、大きな喜びと同時に、共犯者になったような張り詰めた気持ちを心の中にめぐらすことになる。
彼は意を決して、磯部とめ=黒田豊子を入籍させる。後日、彼は、磯部とめが人殺しを犯してまで身分を隠さねばならぬ訳を聞いている。
磯部とめは以下のように答えている。
主人、磯部作太郎が死んだとき、自分は義弟に殺されると、本当にそう信じた。言われるまでもなく、武豊の実家に逃げて帰れば済む事だった。
亡き主人が、酒の勢いで磯部家の紫水晶の秘法について喋った時、初めの内は話が余りにも大きすぎて信じるに足りなかった。主人の死後、義弟の執拗な脅迫じみた責められ方に、恐怖心が先立つものの、、紫水晶の秘宝は本当の話ではないかと思うようになった。
紫水晶を武豊の実家に預けようと考えたが、そんな事をすれば、義弟のことだ、実家はタダではすまないと思い、それはそのままにして、家にある古文書等だけを懐にして、出奔した。
常滑から伊勢に住民票を移す事も考えたが、頭の良い義弟の事だ、必ず何かをしでかすに違いない。
人を殺してでも身分を隠すのも義弟の追求を避ける事が第1、第2に、一生をかけてでも磯部家の秘宝のありかを捜し出したいがためだ。
亡き主人は代々口伝で伝える事が役目と言うが、現状の磯部家からみれば、義弟の主張通り、財宝を手に入れて、磯部家の再興を図るのが筋道と考えた。財宝のありかさえ判れば、義弟としても無碍な扱いはしない筈だ。
中村健太郎は磯辺とめと一蓮托生の人生を送らねばならぬと心に決めている。それでも心中に一抹の不安が淀んでいる。
殺した黒田豊子の身内が尋ねてきたらどうするのか、磯部とめは中村健太郎の心中を読み取っている。
黒田豊子が熊本を出たのは両親が亡くなった事と、頼るべき身内が居なかったことが原因だ。
彼女の結婚相手も青森から転々として焼き物の職に就いている。彼の死によって、青森の彼の生家の方とも付き合いもない。
松阪市近辺でも母子家庭は数百人にのぼる。その中で捜し出されない人物として、黒田豊子に的を絞ったのだ。彼女の身内や縁者、友人等が訪ねてくる確率は万に一つもない。もしそのような事態になった時は、中村家には決して迷惑をかけないと断言している。
中村健太郎は磯部とめを黒田豊子として入籍させたものの、殺人という呪われた行為に、真綿で首を絞めつけられるような、何とも言いようのない不安を心の底に宿すことになる。
磯部とめが毎朝妙楽寺の方に手を合わせるのを見て、少しは心が和らぐが、心にしみついた汚点は拭い去る事は出来ない。彼は秘かに仏壇の奥に、黒田豊子母子の位牌をまつり、朝夕両手を合わせていた。
吉岡刑事から常滑での磯部作次郎殺害事件の情報をもらった三重県警の刑事は、紫水晶の件も尋ねている。
中村健太郎は紫水晶の事は聞いているが、妻の豊子や子の健治が持っていたとは考えられないと答えている。
養子の健治と実子の作二は、昨年6月以降、ぷっつりと音信が途絶えている。それに、10年前に妻のとめは過労で倒れている。
中村健太郎は15年前から塵肺から肺炎を引き起こしている。体力の衰弱も激しく、入退院を繰り返し、寝たきりの生活を送っている。
綿の打ち直しをやめた後でも、とめは夫の看病と、日々の糧を得る為に、パートで働く。その間をぬって磯部家の財宝捜しに奔走している。その為就寝は夜12時を過ぎる。
とめが過労で倒れて不帰の人となってから、2人の子供に経済的援助を受けながら国立療養所に入る。
中村健治は母の跡を継いで、宝探しに奔走している。彼は母から磯部家の嫡男として、磯部家の財宝を捜し出すよう遺命を受けている。彼は独身で、養父中村健太郎がもうそろそろ世帯を持つよう言い聞かせていた。
彼は後2~3年で財宝の在り処が判明する。そのめどがついたら結婚すると言っていた。その矢先の事件である。
実子作二は、松阪市役所に勤務。義兄健治の財宝捜しに協力している。彼は昨年10月に結婚する予定だった。
2人とも昨年9月頃から病院に見舞いに来なくなっていた。伊勢市中島町から、明和町北野に引き移って久しい。病院から自宅に連絡をとってもらうものの、不在である。彼は警察に捜索願を出す。2人の行方は杳として知れなかった。
次に中村健治こと磯部幸一の殺害現場の説明を受ける。
吉岡刑事の表情は沈痛に満ちている。磯部とめと、その息子が最大の容疑者と考えていただけに、期待が裏切られ、事件はまた、霧の中へかすんでしまった。
坂本は吉岡刑事の心痛に同情を禁じ得ない。吉岡刑事の声に力がない。
迷宮入り
昨年の9月頃に中村健治こと磯部幸一と、中村作二が行方不明になる時と前後して、若い夫婦連れが松坂市三雲町の久保田良平の家を訪れている。彼は磯辺幸一殺害に使われた久居市鳥木町の住宅の大家である。
「あの家をお借りしたい」夫婦連れは近所から聴いたと言って、希望を述べる。
久保田にとっては願ったり叶ったりだが、初対面でいきなり家を貸してくれと切り出されて、不安が先立つ。久居市鳥木町の家は先祖代々が住んでいた大きな家だが、山の中の部落の一軒屋で、買い物も通勤にも不便である。
現在は交通が便利になったものの、昭和50年代初期には過疎化が著しくなっている。久保田もやむなく三雲町に引っ越す。数十軒あった部落も、昭和50年代後半には無人部落となる。
平成7年頃に、その南側の丘を越えた地域に大手ゼネコンが150棟の分譲住宅を手掛けるが、バブル崩壊後の影響もあって、現在の入居者は30棟のみ。
若い夫婦連れは名古屋の日本碍子名古屋支社から転勤を命ぜられた。会社の社宅に住もうと一時は腹を決めたが、自然の中で生活がしてみたいとの妻の希望もあり。物色していた。
大家は鳥木町から2キロ程行った高茶屋に日本碍子の工場がある事は知っている。仲介業者を入れようと、思っていたが、夫婦は若いが大人しく礼儀も弁えて、きちんとした態度をとっている。
それに、――日本碍子の社員なら――そんな先入観もある。その上、2人は大家の要求額の家賃や敷賃等をすんなりと飲んでいる。その上、家賃は1年分前払いにするという。
問題の建物は老朽化が進んでいる。手直しヵ所もあちこちある。補修はそちらでやってくれ、その費用まで負担はできないという大家の要求も受け入れている。大家の久保田良平は仲介業者も入れずに契約する。
まさか殺人事件の現場になるとは思ってもいなかった。三重県警は契約書から2人の名古屋市の住所、氏名を追う。日本碍子にも該当者の洗い出しをお願いする。結果、住所、氏名はすべて偽で、日本碍子もそのような社員はいないとの回答。
久保田良平は2人の人相について当惑気に答える。
2人とも縁の太い眼鏡をかけていた。女は中肉中背で、髪が長い。瓜実顔で唇が薄い。眼は狐目。男は髪を中央で分けている。面長で浅黒い。唇は厚く、眼が大きい。何せ5カ月も前の事だ。それ以上の印象は脳裡にはない。
似顔絵を作り、公共施設に配布する。磯部幸一の殺害現場が発見された経緯は以下の通り。
久居市鳥木町の殺害現場の南側に丘と呼ぶにふさわしい小山がある。その南側に大手ゼネコン会社が分譲した分譲住宅があるが、2年前に購入した米田という老人が毎朝犬を連れて、小山をぐるりと回って、散歩するのを日課とするようになる。
久保田の借家は昨年の9月前後から、家の外回りやら補修工事やらが始まっている。工事は近くの工務店で、久保田良平が面会した若い2人から、補修ヵ所を指定されて1週間くらいで工事を終える。この工務店の社長は、この若い2人はとにかく気前の良い人で、請求額をその場でポンと支払ってくれたという。
犬と散歩の老人は、工事中も毎朝家の様子を見ている。建物は古いが、建坪が80坪程ある。敷地は200坪ほど。駐車場のスペースだけで優に10台の車が置ける。
若い夫婦が引っ越してきた当初は車は1台のみ。その内、3週間ぐらいたつと、早朝なのに、車が5台、6台と目に付くようになる。
住居者も若い夫婦のみならず、10人前後の人間が、家の周囲を掃除している。散歩の老人と目が合うと、丁寧に頭を下げる。
――実に感じの良い人達――老人は好印象を持って挨拶している。
秋も終わりになると、車の台数も増える。散歩の老人と度々目を合わせるようになると、庭の周囲に2メートルの高さの板塀が作られて、駐車場や家の周りの様子が見えなくなる。
老人は何か理由があるのだろうと、気にもとめない。雨の日以外は毎朝7時から8時頃に散歩に出かける。
冬も深くなる。板塀で囲ったとは言え、家の中に人がいるかどうかは雰囲気で判る。話し声が聞こえたり何となく活気が溢れてる。
平成9年の正月明け頃から、家の中の人気が消える。引っ越したのか、そう思って、板塀の隙間から覗いてみる。車もない。十数人いた家の中の人気が消える。
平成9年1月10日の朝、その家に近づくと、犬がしきりに吠える。何事かと、玄関に近づく。引き戸は閉まっていて開かない。犬の異様な吠え方に、老人は、何かあると思い警察に通報。磯辺幸一殺害が発覚した。厳冬の中で、遺体は犬の嗅覚に感じられるほどの悪臭を放っていたが、腐乱は免れている。
通報の老人の話によると、十数人の内、年配者は3人ぐらい。残りは若い男女。国産の高級車も何台か駐車してあったとかで、余程金に恵まれたグループか何かのたまり場のようだったと言う。
磯辺幸一殺人事件は暗礁に乗り上げている。
坂本は吉岡刑事の話を聞いていて、厳しい表情になる。磯部作次郎殺しの重要参考人が殺されて、紫水晶の行方が霧の中にかすんでしまった。
磯部とめとその子供、磯辺幸一は紫水晶を持っていない。
――誰が紫水晶を――坂本は事件が迷宮入りのなるのではと、危惧していた。
「この事は珠江さんは?」
「ここに来る前に、お邪魔してますが・・・」
彼女は磯部とめ親子の事は、亡夫から聴かされている。それでも2人が名前を変えて伊勢にいたと知った時、さすがに驚きの表情を隠さなかった。磯辺幸一が無惨に殺されたと聞いた時、磯部珠江の白い顔が蒼白になる。
「私も殺されるかしら」吉岡刑事の話を聞き終わった時、珠江は紅い唇から嗚咽に似た声を漏らす。
「えっ?」今度は吉岡刑事が驚く番だった。
「どういう事ですか?」思わず尋ねる。
「だって・・・」
珠江は答える。
吉岡刑事の話によると、磯辺幸一は人に恨まれるような人柄ではないという。
義理の父と弟とも仲が良く、人に対して親切だというではないか。綿の打ち直しを廃業した後、磯部幸一は松阪市内で職を転々としていた。
父の中村健太郎が国立療養所に入った後も、1週間に1回は義弟と共に見舞いに行っている。。
警察の近所の聞き込みでも、磯部幸一こと中村健治を悪く言う者はいない。
検死の結果、磯辺幸一は拷問を受けて死んでいる。殺され方は無惨でプロの手口ではないという。遮二無二に責めて殺したと見ている。
「私、幸一さんが、磯部家の財宝に関係して殺されたのだと思いますわ」
吉岡刑事はなるほどと頷く。もっとも中村健太郎の話では、磯部とめや幸一が磯部家の財宝の在り処をどの程度調べていたかは判っていない。
彼の話から推測できることは、磯部とめは寝食を惜しんで探し回っている。過労で倒れ、死の間際までその事が頭から離れなかった。母の意志を継いだ幸一も母に負けず劣らず財宝捜しに奔走している。
――ある程度の目星は点けていたんではないか――吉岡刑事はそう見ていた。
磯部幸一が口を割ったかどうかは不明だ。もし口を割っていなければ、犯人は磯辺珠江に手を伸ばす事も考えられるのだ。
「磯部未亡人からお聞きしたんですか・・・」
吉岡刑事は坂本を直視する。彼の表情に柔和さが消えている。このまま迷宮入りになるのか、そんな焦りが出ている。
「坂本さん、磯部家の財宝捜しに専念されているとか」
「えっ!」坂本は驚きのあまり声をたてる。
「そんな大袈裟な事ではないんですわ」
坂本は薄くなっ髪に手をやりながら弁明する。
磯部作次郎は磯部家の財宝探しを、古代の歴史に遡って調べていた。自分はそれを踏襲しているだけだと答える。
「ほう」吉岡刑事の顔に興味の色があらわれる。
坂本は続ける。
磯部作次郎は伊勢の地のどこかに磯部家の財宝が秘匿されていると確信していた。自分の先祖が常滑に来たのはその財宝に在り処を代々口伝で守るためだった。当然、常滑の地のどこかにそのヒントを残していると見ている。
先祖がどの様にして伊勢にやってきたのか、磯部家に伝わる古代史を繙く事で、その糸口を見出そうとしている。
「成程」吉岡刑事は頷く。
「だから、磯部作次郎がやっていたと同じ手法で古代史を研究しているんです」
坂本は吉岡刑事に同情している。磯部作次郎殺しの重要参考人が殺され、事件は混沌としている。そういう坂本も紫水晶の行方が消えて、気をもんでいる。
「私も、その研究会に立ち会いたいがよろしいか」
吉岡刑事の希望を坂本は応諾する。
雑談の後、吉岡刑事は、33年前の殺された本物の黒田豊子、同健治の白骨遺体が、中村健太郎の供述通り妙楽寺の北側崖下の洞窟から発見される。妙楽寺にお願いして供養してもらい、手厚く葬っていると話す。
「そうそう、紫水晶ですがな、磯部未亡人、一言も触れませんでした。興味がないんですかなあ」
帰り際吉岡刑事は話している。
古代史研究
平成9年2月上旬。
磯部珠江邸にて。磯部家に関する古代史研究の集まり。
出席者は当主磯部珠江、磯部土建現場監督岸田洋、坂本住宅社長坂本太一郎、常滑警察署刑事課吉岡刑事の4名。吉岡刑事が仲間に加わった事で、坂本は前回までの概略を述べる。
その上で、事件の解決の糸口が掴めるかどうかは判らない。せめて磯部家の財宝の在り処のヒントぐらいは得たいと思っているが、それも確証できない、と前置きする。
古代史の研究とは言え、ほとんどが亡き磯部作次郎が調べ尽くしている。自分はそれを整理して秩序立てるだけだ。手法としては、絵画や設計図を描くと同じで、まず全体の輪郭をつかんで、細部へと入っていく。
磯部家の先祖が伊勢にやってきた理由、常滑に永住の地を構えた訳などを調べていく。
磯部作次郎は磯部家に伝わる古文書を基にして、それらに関係のある神社を物色している。
考古学者は主として、地下から出てきた証拠物件で古代史の歴史を解明しようと試みている。磯部作次郎は神社に伝わる古文書、社伝に信頼を置いている。当然”定説”と言われる歴史的事実とは食い違いがでる可能性もある。
磯部作次郎に言わせると、歴史学者の言う定説程当てにならないものはない。
巷をにぎわしている邪馬台国も、九州の宮崎県西都市の西都古墳のある場所である。女王の卑弥呼という名前も、倭人伝を書いた陳寿が語音から勝手に付けた名前にすぎない。卑は卑しいという意味、弥は奴とか、あいつとかいう軽称。つまり卑しい国の女王という意味。
中国からみれは当時倭と呼ばれた日本は野蛮な国と思われていた。陳寿はこう書くのが妥当と思っていたのだ。
卑弥呼とは天照大神の本名日霊女である。娘の台与も現在伊勢神宮外宮に祭られている豊受大神である。
邪馬台国という地名も日本中のどこを探してもある訳はない。強いて言うなら大和が正しい語源ある。
磯部作次郎は確信をもって述べている。彼は彼なりに調べ尽くしての結論なのだ。それが学説的に正しいかどうかはこの際論外とすべきだ。
坂本の説に吉岡刑事は大きく頷く。
今日は休日で、吉岡刑事はジーパン姿で現れている。坂本は休日であろうと仕事であろうと、背広姿で、きちっとネクタイをつけている。現場監督の岸田はどんな時もカーキー色の作業服姿。真っ黒に日焼けした顔に、ばさばさの髪の毛は、生まれてこの方、1度も顔を洗った事がないという表情をしている。
磯部珠江は和服姿。室内は程よく暖房が効いている。応接室の奥は台所である。坂本の一応の説明が終わる。これからが本題である。
「コーヒーでも入れましょうね」珠江が奥に消える。
磯部家の先祖を辿ると、嫌でも2人の人物に突き当たる。スサノオとその子ニギハヤヒである。この2人の前では、伊勢神宮の内宮に祀らている天照大神(大和の女王日霊女=卑弥呼)も色褪せてしまう。
古事記に登場するスサノオは歴史的事実を歪曲している。当時の権力者が彼の存在の抹殺を計った証拠である。
実際に全国の神社に祭られている神の8割強がスサノオであり、ニギハヤヒ系なのだ。後の2割弱が現天皇家の先祖となっている。
橿原神宮の神武天皇などは明治になってから祀られている。
伊勢神宮内宮の天照大神も皇室の主祭神として崇められるようになったのも明治以降である。それまでは外宮優位の立場にあった。持統女帝以降、明治に至るまで歴代の天皇の行幸は行われていない。天皇家にとって、伊勢神宮は左程重要な神社ではなかった証左といえる。、もっとも伊勢神宮への奉幣は天皇のみで、天皇の許可がなければ、他の皇族といえども奉幣できない制度となっていた。
スサノオ
スサノオ=須佐之男命、全国で彼を祀る神社の数が圧倒的に多い。彼は天王さんと通称され、各地にある天王神の主祭神はスサノオである。
岐阜県七房町神渕神社、弥栄天王山ともいわれる。壬申の乱の時、天武天皇自ら祀られたとの記録がある。
後年、織田信長が厚い崇敬を寄せている。
天王という敬称から、古代スサノオが絶大な崇敬の的であった事が判る。
天王という称号は牛頭天王に由来している。牛頭=スサノオである。スサノオと言えば、日本固有の神様と思われがちだが、韓国では、スサノオは朝鮮の神様と信じられている。
現在でも朝鮮半島の農村には、村の入り口にスサルと言う呼び名の石や自然木がある。これは部落を厄災などから守る神聖なもので、伝染病などが流行すると、これに注連縄(日本のしめ縄)を巻き付ける風習がある。
一説にスサノオの語源は神農であったと言われる。韓国ではそのように信じられている。
神農は超古代中国の伝説に最初の帝として登場する庖犠(伏犠)と女神・女媧の間に生まれた。父の庖犠は顔は人だが牛の首に蛇の身体と虎の尾を持つ。母の女媧は首は人で身体は蛇。その子の神農は人間の身体を持ちながら首は牛で、頭に2本の角が生えていた。
伝説上のシンノオの出生地は湖北の烈山。ここは上海を河口とする揚子江の上流約1000キロの地点にある。さらに500キロ程遡行すると四川省の中心部、四川盆地が開けている。この一帯に伝わる神が牛の角を持つ牛頭明王である。
牛頭をゴズと呼ぶ謂れには所々あるが、有力な説として、エラム、シュメール、アッカドの地で牛(牡牛)をグドウまたはグウートと呼ぶ。グドウがゴドウに、さらにゴズに転化したものではないかと考えられている。
シンノウ、スサノオの語源も、昔エラム族の首都はスーサと呼ばれていた。これはギリシャ人が付けたもので、元々はスーシァンと呼ばれていた。このエラムの首都ではないかとも言われている。
日本における牛頭天王伝説として、
広島県福山市にある素盞神社の社記に、――当神社は御神素盞鳴尊出雲へ往来の途次、蘇民将来と巨亘将来の伝説により、尊の徳を敬仰して・・・――とある。
備後国風土記に以下のような逸話がある。
「昔、大神が南海に旅された時、途中で日が暮れてしまった。その土地に、蘇民将来と巨亘将来と言う兄弟がいた。兄の蘇民将来は貧乏で弟の巨亘将来は金持ちだった。
一夜の宿を乞われた大神に、巨亘は惜しんで宿を貸さず蘇民は心をこめてもてなしをした。
後年、大神は蘇民将来のところに立ち寄られた。
「私はお前の為に何かをしてやりたいが、子供や孫やいるか」と」と問われる。蘇民が「私と娘と妻だけです」と答えると、大神は「茅の輪を腰に着けておきなさい」と言われた。その言葉のままにつけていると、その夜の内に蘇民の家族以外の者は皆死に絶えた。
その時大神は「私はスサノオである。後世に病気が流行れば、お前は蘇民将来の子孫と言って、茅の輪を腰に着けなさい。そうすれば家の者は皆疫病から免れるだろう」と告げられた。
夏まつりには、茅結びを付けた大きな輪をくぐる”茅の輪祭り”が全国各地にある。
その他ホキ内伝、公事根源、九鬼文書では、沖縄を舞台として同様の説話が残っている。
朝鮮半島の田舎では、1年の終わりに小豆を煮てアンコにし、部落の鴨居に塗り付けて目印にするという祭祀がある。
続日本紀
昔、武搭神が南海の神の娘の所に夜這いに出かけたが途中で日が暮れてしまった。そこで蘇民将来と巨亘将来の兄弟がいた。武塔の神は一夜の宿を頼んだ。弟の巨亘将来ほ金持ちで、家や倉が百もあるのに惜しんで宿を貸さなかった。兄の蘇民将来は大変貧しかったが、宿を貸した。栗ガラで座る所を作り、栗飯をごちそうし、武搭神は無事出発する事が出来た。年月が流れ、武搭神は南海の娘との間に8人の子をもうけて戻ってきた。
武搭神はは兄の蘇民将来に再会して言った。
「弟の巨亘将来に報復しよう。お前の子が弟の家にいるか?」
蘇民将来の娘は弟の家に婦として侍っていた。すると武搭神は、
「彼女に茅草で作った輪を腰につけさせよ」と教えた。
武搭神はその夜、蘇民将来の娘1人を残し、弟の一族をことごとく殺してしまった。
そして「私は速須佐雄の神なり。後の世に疫病があれば、蘇民将来の子孫と言って茅草の輪を腰につけよ。そうすれば疫病をまねかれるであろう」と言った。
三国相伝陰陽宮轄ホキ内伝、吉備真備は以下のように述べている。
天竺吉祥舎城の王様を商賁帝と言った。彼は帝釈天に仕えて、牛頭天王とも言った。顔は牛のようで頭に角が生え、鬼のようであった。その為に妻もいない。あるとき帝釈天の使いが来て、
「南海の頗梨采女をもらえ」と言ったので牛頭天王は喜び勇んで南海へおもむいた。
8万里の行程の内、3万里におよばない鬼の国、広遠国で人馬ともに疲れてしまう。その国の鬼の王、巨亘の大王に一夜の宿を乞うが断られる。するとそこにいたはしためが、
「東の広野に蘇民将来の庵があります。貧しいけれど慈愛のある人です。そこで宿をお求めなさい」とすすめた。牛頭天王はそのはしために「急々如律令」と書いた桃木の札を与えた。
牛頭天王がそこへ行くと、蘇民将来は、乏しい食糧を彼に給し、歓待した。
翌日、「私の隼鶏という宝船で行くと速いでしょう」と自分の乗船を貸した。
牛頭天王は無事南海に着き、そこで21年を過ごした。
頗梨采女との間に8人の王子を得、眷属も8万4千6百54神になった。
やがて牛頭天王は后妃や一族を連れて広遠国に攻め入り、巨亘王の一族を殺し、あのはしためを助け出した。つまり「急々如律令」の文字を書いた桃木の札を袂に入れておいたのである。
牛頭天王は広遠国を蘇民将来に与えて、
後の世に寒熱の病気にかかれば、それは我々のせいである。だが、お前の子孫だけは病にかからないように二六の秘文を授けよう。五節の祭礼を違えず、二六の秘文を収めて厚く信敬せよ」
伊勢神宮の周辺地域には蘇民将来伝説がある。
この事実は神宮が形成される以前にスサノオ伝説が入り込んでいた事を表している。
蘇民将来伝説は遠く遡れば古代エジプトに突き当たる。
旧約聖書によれば、過ぎ越しの祭りはユダヤ教の春祭りで、その由来は、イスラエル民族がエジプトで奴隷として圧迫されていた時代に遡る。
モーゼはイスラエル民族を率いてエジプトから脱出しようとするが、エジプト王が許さない。絶望するモーゼに神の言葉が下る。
「この月の10日に、子羊を取り、14日に屠って、流れ出る血を戸口に塗れ、目印になるようにべったりと、そうして家に閉じこもっているように。その晩、私の使いがエジプト中を風のように過ぎ越して、目印のない家に生まれた男の初子たちをすべて殺していく。そしてお前たちはエジプトを旅立つことになる」
その夜、神の教えに従ったイスラエル人の家には何事もなかったが、目印のないエジプト人の家では、男の初子は皆死んでしまった。その事に脅えたエジプト王は、暁を待たずイスラエル人の出発を許した。イスラエル人はそれを記念して、未来永劫に過ぎ越しを祭る事を誓った。
旧約聖書の特徴として、生け贄の禁止やバァル信者の虐殺などに見られるように、1つの説話を繰り返し登場させる事にあるが、ヨシュア記にも同じような説話がある。
――その後苦難の末、カナンの地に着いたユダヤ人は難攻不落のエリコの城を攻撃した。斥候となった2人の男は場内に入り、遊女の家に客を装うって泊った。この時エリコの捜索隊から2人を匿った遊女に対して、斥候は彼女とその家族だけを助けると約束し、目印として紅の綱を長くたらし、干麻の茅をを積んだ部屋に隠れている様に言った。その通りにした遊女の一族をはぶいてイスラエルの軍隊はエリコの住民をことごとく殺してしまった。
アラビア半島のベドウィンの戦士は、もろもろの悪魔から保護されるために、門に血を塗り、血を食べる事を禁止する肉ナベのオルギアがあった。
以上の2つの旧約聖書から、牛頭天王=蘇民将来に宿を貸さなかった巨亘大王という事になる。
バァル神(牛頭天王)と死の神モートの争いを、モーゼとエリコの王という説話に、旧約聖書は置き換えているのである。吉備真備の著した蘇民将来伝説の東の広野の蘇民将来では、ソロモンの神殿を建てたフェニキア人の王でバアルの祭祀者ツロのことである。
ここでは説話の主人公はモーゼからソロモンに移って2つの神話が合成されたものである。従って、蘇民将来が与えた宝船とは、蘇民将来ツロがソロモンに与えたタルシシ船である。
牛頭天王=バアルとはエジプト人の牛頭オシリス(バアル)の神官オサルシフがモデルとなっている。よってタゴンの息子バァルとはモーゼの事である。
坂本は一旦ここで言葉を切る。
「ねえ、坂本さん?」
磯部珠江が浮かぬ顔で横槍を入れる。
「ヤハウエの神様が全然出てこないけど、どうして?」
彼女は続ける。
モーゼ、ソロモン、スサノオと、ユダヤ人系の人物が日本にやってきたならば、当然ヤハウエ信仰も付いて来る筈ではないか。
「珠江さん、その事については後で述べます」
坂本は額の汗を拭きふき答える。
「私ね、磯部作次郎のように頭が良くないんですよ」
坂本の言葉に珠江や吉岡刑事は突然何を言い出すのかと、怪訝な表情になる。
「磯部が調べ上げた膨大な資料を整理しながら喋っているんです。横槍を入れられると、頭の中がこんがらがってくるんですわ」
今まで喋った事も、1時間はかかっている。坂本としては、つっかえつっかえしながら話している。
「あら、ごめんなさい。先走りしちゃって・・・」
磯部珠江は白い歯をのぞかせる。無邪気な少女のようにぺこりと頭を下げる。
「いいでしょう。この際、ヤハウエ信仰とバァル信仰を述べましょう」坂本は急遽計画を変更する。愛する珠江のためだ。仕方がない。
――その2に続く――
お願い――この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組識等とは一切関係ありません。なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景ではありません――