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金本位制から気分本位制へ

作者: 鈴木美脳

 人間社会の過去と将来とは、金本位制から気分本位制への移行として捉えることができる。

 つまり、私達の幸せとは、客観的な経済的結果のことであるよりも、まず主観的な気分である。

 そのことを見失えば、人間社会は道を迷い、気分は軽視されて、避けられた苦しみが生じるだろう。


 従来の社会は、物質的な結果の、計測した値を価値と見なしてきた。

 科学技術が未発達であったため、機械化が人間の内面に及ぶことはなかったからである。

 しかしすでにスマートフォンやSNSは広く使われていて、それらを人類が捨て去る見込みはない。

 将来さらに情報化は進展し、テクノロジは家庭や個人の内奥にまで浸透していく。

 統制は潜在的に強化され、自由はおびやかされやすくなる。

 それゆえ、議論の焦点は、物質的な結果よりも、各々に固有の気分へと移動していく。


 私達はみな異なる。

 「私」すらが、時によって異なる。

 例えば、欲求は変化する。例えば空腹時には食欲が強くなり、私達は言わば「食欲」という存在になる。

 例えば、時によって人懐っこい人が、時として上昇志向に満ちているかもしれない。

 ゆえに、「私」という言及は危うい。一貫性を保証された定数としての「私」などいないからだ。

 私達という存在の本質は、各々の中核にある「気分」だと言えるだろう。

 好意と嫌悪が織りなす私達の社会は、そのような気分同士がなす動的平衡である。


 私達はかくも気分だ。

 ゆえに、幸福の形も個人によって異なる。

 個人についてすら時々によりしばしば異なるのだ。

 そして、「価値」とは、最終的には「幸福」のことであるにほかならない。

 ゆえに、従来社会に多々見られた価値の表象は、集団的な信仰にすぎなかったとは言える。

 客観的な価値について、それが手段であると忘れ去られることは病理だ。

 価値が実在するところは、私達一人一人の気分である以外にありえないからだ。


 ゆえに、気分を本位に価値を計測する「気分本位制」が求められる。

 つまり、価値を物質的に測ろうとする従来思想は覆されるべきである。


 行き過ぎた物質的な幸福尺度の弊害はすでに現れている。

 その一例は、高齢化社会における尊厳なき終末医療だ。

 主観的幸福ではなく客観的生存を価値尺度とした社会保障は、既得権益を保身する経済構造にまでなって資源を食い荒らした。

 従来は当然に諦めていた生存は、科学技術によってどこまでも可能になり、肉体的な意味でのみ「生きている」傀儡の群れが作られる。誰の幸せのためにもなっていない部分最適。

 そのように、価値を物質的に測ってきたことを、人類は今や超克しなければならないのだ。


 他者を愛すること一般についてそれは言える。

 他者を愛するとは、相手の幸福を願うことだ。

 他者を幸福にすることは、社会通念上価値のあるプレゼントを手渡して終わりではない。

 形式的に満たしていても、精神的幸福について虐げることは可能だからだ。

 幸福にすることの本質は、相手の気分を無視しないことである。

 他者の気分を、自らの気分の一部として尊重する気分のことである。


 ゆえに、「私」が気分であるように、「他者」も気分だ。

 私達は、各々の主観において、異なる世界を生きている。

 その違いを認識することが知性的である。

 その違いを尊重することが倫理的である。


 かつて武器は石しかなく、鎧は皮しかなかった。

 だから人の身体を傷つけても心を傷つけても、恨まれる恐怖は等しかった。

 しかし都市は起こり法は整えられ、暴力は悪徳になった。

 しかし権力は肉体を尊重する価値観の反面、精神を損なう悪徳を見落としてきた。

 ゆえに、現代の邪悪は気分への悪徳としてこそ行われる。

 経済の道具として尊厳なく侮辱される個々人の気分において現代の危機はある。

 地位を願望する保身がなす常識への権威主義として、人々の悪徳はある。


 権威主義は、価値観の多様性への暴力である。

 そして気分への迫害は、もし甚だしければ、殺人にも等しい悪徳なのだ。

 他者の人生から笑顔を奪うことは、本来、その人を殺すことに劣らない罪である。

 その種の罪を現代人はむしろ平然と行うようになりつつある。

 そういった精神的な側面を軽視したことが、既存の物質文明の病理である。


 例えば、イジメの実態を隠蔽しようとする学校がある。

 それはなぜ起こるのだろうか?

 イジメを隠蔽した担当者を行政が厳しい損失で罰すれば次第に解決されるのだろうか?

 いや、そう考えることがその問題の由来である。

 弱者の気分が侵害されていても、自らの保身に影響がなければ不都合に思わない者が問題なのだ。

 弱者の気分が侵害されることについて、能動的に問題視する気分を持つ担当者こそ望ましいのだ。

 つまり、モラルは内発的でなければならない。

 それが内発的でなくして、社会のモラルの向上は、本質的には起こらない。


 物質的な価値にまつわる常識的な尊厳と貴賎。

 それがまだ大いに社会を覆っている。

 弱者を侮蔑して楽しもうとする風潮はまだ社会に残っている。

 一枚岩の価値が実在すると信仰する宗教心がまだ社会にある。

 そこにおいて、自身の気分を尊重できない弱者達は苦しみのうちに虐げられる。

 自分固有の幸福の最終的な守護者は、自分自身しかありえないからである。


 ゆえに、君の気分が価値だと、君の気分が君の世界だと、社会は子供に言わねばならない。

 そしてまた、他者も気分であり、それを尊重しない気分を私達社会は好まないと。


 気分本位制の完成へ。

 明日の人類へと、私達は成長していく。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  稚拙な言い方になってしまいますが、とても面白かったです。気分への迫害は、もし甚しければ、殺人にも等しい悪徳なのだ、とはまさしくその通りだと思います。  モラルは内発的でなければならない、…
2018/12/12 17:25 退会済み
管理
[一言] 失礼しました。 『公共の利益』というのをどうやら、私は読み切れていなかったようです。
[一言] 気分本位……なるほど、頷けます。『主観で生きている』正にだと思います。 まぁ……上記のように書けば、わかると思います。反対意見とまでは言いませんが、私は懐疑的です。 その主観が問題だと思う…
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