宰相候補の後悔 〜会話は時間を稼ぐもの〜
僕の兄上は優秀な人だった。
それがずっとコンプレックスで、比較されるのが嫌で。
だからというわけではないけれど、僕は人と会話することがずっと嫌いだったー…。
僕はジョゼフ・ガリベンナー。
代々、宰相を輩出するガリベンナー一族の末っ子だ。
僕と兄上は、同じ家に生まれながら性格はまるで正反対だった。
社交的で友達の多い兄上。
10歳ほども歳の離れた兄上は、王立アルデンテ学園で学生として学びながらも、既に周囲の人望は厚く、貴族平民を問わず色々な人から好かれてとてもキラキラして見えた。
僕には兄上のような朗らかさも気安さもない。
得意なことは勉強だけ。だから必死で勉強した。
人と関わる時間を全て勉強にあてた。
それで皆が褒めてくれた。
けれど、人と関わらなかった僕は他人との接し方がますます分からなくて。
たまに話す機会があっても、
「どういう意味?」
「難しくて言っていることがよく分からない」
などと言われ、僕はどんどん人と関わるのが怖くなった。
兄上は、勉強ばかりしている僕を見てもっと人と関わらないと、とよく眉を顰めたけれど僕は閉じこもったのだ。
この頃になると僕は会話は無意味だと思うようになっていた。
そうして気分転換にと兄上に連れられた王立図書館で僕は遭遇してしまったのだ。
運命の悪戯にしてはタチが悪すぎる、そんな出会いに。
人と相容れない孤独感を埋めるよう、いつものように本を貪り読む僕の耳に扉が開く音が飛び込んできた。
そして聞こえてくる、日陰者とのセリフ。
まさか僕のことか?
咄嗟に憎まれ口を投げつけ、視線を上げて僕は驚いてしまった。
重い石造りの扉を開けて現れたのは華奢な1人の少女だった。
彼女と視線があい、僕は息が止まりそうだった。
彼女繊細な美しさときたら、ひと目見た瞬間、まるで時が止まってしまったかのような感覚になってしまったのだ。
「…な、なんです?」
咄嗟に何か言わなくてはと思って僕が絞り出した声は情けなく震えていた。
家族以外の人間と話すのは久しぶりで、しかもそれがこんな妖精のような女の子とは。
気恥ずかしくて彼女の表情を見ていられず、僕は目を逸らした。
でも今なら分かる。
目を逸らすのは最悪だ。
自然界でも動物と会った時、目を逸らしてはいけないと言われている。
理由は簡単。
襲われるからだ。
僕がちゃんと彼女の顔を見ていればきっと気付いたはずだ。
おそらくその表情が異様な歓びに満ちていたということに。
そして彼女は妖精なんかじゃない、僕を捕食しようとするモンスターだということに。
あの頃の僕はまだ恥じらいがあった。
今、過去の自分に言うならこうだ。
そんなものはかなぐり捨てて死ぬ気で逃げろ。
彼女は、僕に教えてあげる、と言って近づいてきた。
良い香りがフワッと香った。
僕はドギマギしてずっと石の床の割れ目を睨みつけていた。
僕の知らないことを知っている、という彼女の台詞に顔をあげ、僕は度肝を抜かれた。
先ほどのガラス細工のような儚げな顔はどこへ。
呪われた蝋人形のような不気味な表情でニタニタと笑う彼女。
そこにはおよそ知性のカケラもない。
なんだか知らないけれど気に入られていることは辛うじて分かる。
ただ純粋なる欲望で僕をとって食おうとする、その姿はまさにアンデッドだ。
僕は自分が致命的なミスを犯したことを悟った。
無駄話などせず、早く逃げるべきだったのだ!!!
僕は彼女を遠ざけるために声を張り上げた。
会話をして少しでも時間を稼ぐんだ。
そして遠くに…。
彼女は言語を教えるといってにじり寄ってきた。
それが良くなかった。
現在進行形で理性というよりも本能に支配されている彼女から、言語学という知性的な単語が出てきて思わず思考が一旦停止した。
しかし、次の瞬間、僕は罠だと気づき、盛大に断った。
…はずだった。
あろうことか彼女は、僕の「結構だ」という断り文句を大変都合よく解釈して喜んで飛び掛かってきた。
彼女の腕が僕の首裏に当たり、僕の意識は落とされた。
薄れる意識の中で僕は思った。
言葉が通じない相手というのは存在するのだ。
コミュニケーションの不具合は、必ずしも僕だけが悪いわけではなかったのだ。
きっと大事なのは伝えようとする強い意志。
そしてそれ以上に誤解された時には…
特にそれで命の危険がある時なんかはとにかく全速力で逃げること。
とにかく会話は必要だ。
なぜなら敵を知らなければ何をされるか分からないのだから。
たくさん会話をして情報をひきだし、対策して逃げるのだ。
誤解がなんだ。
命の危機と比べればそんなの大したことじゃないのだ。
こうして、僕は人生で最も重要な生存方針を学んだのだ。