水色
あらゆるものは水色でなければならない。私はそのような観念に取り憑かれていた。
青でもない。白でもない。水色。
そもそも水に色なんてないじゃないか、などというツマラナイことを言うつもりはない。我々が青と白の中間色を水色と言えば、それは水色なのである。細かいことを気にする必要はない。
早速私はあらゆるものを水色にし始めた。まずは服。次に家具。自家用車も水色に買い替えた。仕事場のあれこれも入れ替えたり塗り替えたり。そして家の外装も内装も水色に。
モノの次はイキモノだ。というわけでペットも水色に。これには時間がかかった。なにせ生きている物の色を変えるなんて前代未聞のことだ。
それでも知恵と工夫を凝らしてなんとか水色にすることができた。コツは焦らないことと、計量スプーンを上手く使うことだ。
あとは同じ要領で配偶者と子どもも水色に仕上げた。ペットのときの経験が活き、それほど時間はかからなかった。
自分のものを全て水色に。となれば次は自分以外のものを水色にするしかない。
家の前の道路。側溝。側溝の蓋。なんだかよくわからないメーター。広告のビラ。フェンス。ブロック塀。烏。野良猫。
隣家。隣家の住人。隣家のリビングのテレビのリモコン。隣家の隣家。隣家の隣家の娘の部屋の机の引き出しの中の文房具。
コンビニ。スーパーマーケット。自動販売機。家電量販店。牛丼屋。国道沿いのカーディーラー。ホームセンター。
街。国。地球。そして宇宙。
全てを水色に塗り終えた時、私は深い満足感に浸っていた。
しかし私の心には何か引っかかるものがあった。
視界にうつるあらゆる物質を水色に変えた。でもまだ水色になっていないものがあるんじゃないか。
すぐに私は「それ」に気づいた。
「それ」とはあらゆる概念であり、あらゆる言葉であった。あらゆる概念と言葉を水色に変えなければ、私の水色は完了したとは言えなかった。
だからすぐにその作業に取りかかった。とほうもなく長い時間がかかった。なにせ「時間」という概念すら水色に変えなければならないのだから。
結果、どうなったか。それはこれを読んだ人ならばわかっていることだろう。
あらゆる概念と言葉を水色にする。それは即ち、あらゆる概念と言葉を水色にしない、ということと同義であった。
全ては水色であり、かつ水色ではない。その境地こそが、わたしの水色であり、水色に水色だった。
長い長い探求の末そのことにたどり着いた私は、全ての肩の荷をおろし、白いベッドの上で、赤い布団を被って深い眠りにつくことにした。
いまや白は水色であり、赤もまた水色だった。空には青空が広がり、街には木々の緑と、色とりどりな人々の営みがあった。他に必要なものは何もなかった。