第7話 白敷叶
どんな危機的状況にあろうとも、それはそれとして別に普段通りの日常が無くなったりするわけではなく、少しの猶予を得た葵蒼汰はいつも通り指定されているダークグレーのブレザーに袖を通し第二学年を表す白いネクタイを締め、通常通りの通学路を歩いて、平常通り馳道坂高校へと登校した。
正直そんなことをしている場合かとも考えたが、当の葵緋奈は何も知らずに自分の通う学校に登校して行ったし、核神と二人で家に居るというのも微妙な感じだったので、登校するという選択をしたのだった。
選んだ時こそ複雑な心境だったものの。
こうして登校してみるとそれは正解だったように思えた。
仲の良いクラスメイト達と普段通りの下らない談笑をし、いつも通り眠気と戦いながら授業を受けていると。
不思議と昨日起きてしまった事を冷静に考えることが出来た。
葵緋奈はパラドクスである。
その事実を蒼汰はもうしっかりと受け止めていた。
今朝分かったことだが、葵緋奈も他の普通の人間と同じように、核神の姿を見ることは出来ない。
パラドクスと《矛盾》の核神の関係性は、どうやら少し複雑らしかった。
葵蒼汰のような干渉者と核神では“どちらからも認識、干渉することが可能”であり、干渉者ではない普通の人間と核神では“核神から認識のみ可能”だが、核神とパラドクスでは“核神からのみ認識、干渉が可能”なのである。
つまり一方的に関与し、粛清することができるということだ。
天意によって、そう定義付けられている。
パラドクスは何も知らないままに、自分が“矛盾”であることも知らないままに、回収されてしまう。
いつか害を成すという存在だとしても、葵蒼汰には同情を禁じ得なかった。
だがしかし、『愛想・ド・真紅』と名乗ったあの核神にも悪意があるわけではないということも分かっている。
彼女、と言って良いのかは分からないが、彼女は、自分の役割を果たしているだけなのだ。
与えられた仕事を、ただ遂行しているに過ぎない。
それを誰が咎められよう。
人間社会の話ならともかく、だ。
それでも蒼汰は、どうしても緋奈を助けたかった。
一晩を経ても、その気持ちに変わりはない。
妹の存在が偽りでも、妹との思い出が嘘でも、妹への気持ちは真実以外の何物でもなかった。
古典の教師が教科書の解説をしている声をBGMにし、机に突っ伏しながら、日常から少し踏み外してしまった少年はふと想う。
“矛盾”の何がいけないんだろう、と。
* * *
「なあ、お前の中に矛盾した感情ってあるか?」
昼休み、屋上。
いつも通り幼馴染の白敷叶と二人で昼食を取った後で、紙パックのオレンジジュースを飲む合間に、蒼汰は気安く尋ねた。
「んと、急な質問だね?」
そう言って白敷叶は小首を傾げる。
こんなおかしな質問にも特に訝しむ様子はなく、それこそが長年の付き合いで築いた信頼の証だった。
蒼汰と叶は幼稚園で知り合ってから馳道坂高校に上がるまで、ずっと一緒だった。
元々身体が弱く、そのせいもあって友達を中々作れなかった叶を、蒼汰が気にして声を掛けた瞬間からこの友情は始まり、そして現在進行形で続いている。
白敷叶は地味ではあるものの、顔立ちは可愛らしい女の子である。
顔は小さいし、目は少し気弱そうではあるもののパッチリと大きい。
指定のグレーのセーラー服は蒼汰のブレザーよりも少し明るい色合いで、蒼汰と同じ学年色の白いスカーフも、あどけない表情によく似合っている。
黒いセミロングの髪を低い位置で二つに括り、それが首の横を通って、同年代の女子と比べると少し大きめな胸に掛かっていた。
「矛盾した感情、かあ」
蒼汰の言葉を復唱しながら中空を仰ぎ見て、考えている素振りをする叶の様子を、蒼汰はストローをくわえながらじっと見つめた。
「ちょっと重い話になっちゃうけど……」
と、やがて口ごもった幼馴染に、蒼汰は「いいよ」と軽く先を促す。
「じゃあ怒らないって、約束して?」
「怒らない」
そう安請け合いする蒼汰に、叶の方が頬を膨らませた。
「指切り」
そう言いながら右手小指を差し出す叶に半ば呆れつつ。
「信用ねえなあ……俺は怒らないって言ったら怒らないって」
そう言いながら、もうほとんど中身の入っていない紙パックを左手に持ち替えて、叶と小指を繋ぐ。
「知ってるけど、心配だから一応、ね」
真面目にそう言って小指を離すと、一拍置いてようやく叶は質問に答える。
「生きてたいけど、生きてて良いのかなって思うことは、たまにあるかなぁ」
少し物憂げな叶の表情を気にしながらも、蒼汰は特に驚くこともなく話を続けた。
「なんでそんなこと思うんだ?」
「うん、蒼ちゃんも知ってるでしょ? 私の身体のこと」
「ああ……」
知っていても、それによって叶がどういうことを考えているのかは、蒼汰には想像が出来なかった。
葵蒼汰は他人の気持ちを汲み取るということが得意ではない。
それは彼の欠点なのかもしれなかった。
腑に落ちない様子の蒼汰に説明するように、叶は。
「私は今、自分の力で生きてる訳じゃないから。本当はもう死んでいるはずで、本当はもう、生きてないはずだからさ。やっぱり、申し訳ない気持ちにはなっちゃうよ」
「そう、なのか。でも、お前は生きたいと思ってるし、お前は今生きてる。それが本当の本当だろ?」
「うん……そうだよね。分かってる。でもやっぱり、たまに考えちゃうんだよ」
「そうか……叶、死ぬなよ」
「死なないよ、蒼ちゃんが生きてる限りは」
「意味深なことを言わないでくれ……」
「あはは、冗談だよ、一応ね」
蒼汰のちょっとした不安は払拭されそうになかった。
「それより蒼ちゃん」
少し声のトーンを上げて、今度は叶が切り出した。
「ん?」
「何か、あった?」
鈍そうな癖に気付く幼馴染だ、と少し失礼なことを思いながら蒼汰は。
「何もない、くはないけど……まあ妹のことでいろいろな」
蒼汰は嘘を吐かないわけではないが、嘘を吐くのは好きじゃないし、得意でもなかった。
「緋奈ちゃんのこと?」
「ん、ああ……」
自分の中に緋奈の記憶が構築されていのと同様に、周囲の人間にも同じように虚構の思い出があるらしいことを、蒼汰はようやく実感した。
皆覚えていて、皆知ってるのに『生まれていない』なんて、そんなの矛盾している。
だからこそパラドクスなのだと、あの白い核神は言っていたけれど。
「まあ、家族のことだから、あんまり口外するのもな」
「それはそうだね……でもそれだけじゃない、よね?」
「え?」
「蒼ちゃん、何か見なかった?」
「何か……」
概念の具現化、事象の可視化、理の権化。
思い当たるとしたらあの核神くらいしかなかったが、それの説明の仕方も分からなかったし、そもそも説明していいものなのかも、蒼汰には分からなかった。
「いや、何も、見てねえけど……」
「そっか」
この時点で叶は蒼汰が苦手な嘘を吐いたことは察知していたが、それでも追求をしなかったのは蒼汰が『言うべきじゃない』という判断をしたことすら、叶には分かっていたからだった。
それくらいに、蒼汰と叶の関係は深いものになっている。
「もし私に出来ることがあったら遠慮なく言ってね。蒼ちゃんの役に立ちたいから。せっかく生きてるんだし」
前向きな叶の発言に少し嬉しくなり、蒼汰は微笑み、そして。
「そうだな、その時はよろしく頼むよ」
そう言いながら、自分より頭半個分くらい背の低い幼馴染の頭を、掌で優しくポンポンする。
これで昨日核神に撫でられた分はチャラだろ、とよく分からないことを蒼汰は頭の中で考えていた。