第1話 始まりの夜
桜舞う春、月が照らす宵の刻。
葵蒼汰がいつものように――いや、いつもよりも遅い時間に帰宅したその夜。
鍵が開いていたことには疑問を覚えなかった。
たった一人の同居人である妹には、用心の為の施錠をことあるごとに促してはいるけれど、それでも人間誰しも忘れることはある。というか、忘れないことはないだろう。
だからそこに違和感は覚えなかったのだけれど、それでも葵蒼汰は、家に一歩足を踏み入れた瞬間に動揺した。
違和感の正体は明白だった。
暗すぎて――静かすぎたのだ。
鍵が開いているのなら、妹は帰っているはずだ。
朝、妹よりも遅く家を出た自分がしっかりと鍵を閉めた、その記憶がちゃんとあるのだから。
勿論、それが思い違いという可能性もゼロではないが、ただそうだとしても。
そうだとしても、だ。
学校からほとんど直行で帰宅するあの妹が、午後八時に迫ろうという今の時間に帰宅していないということは、蒼汰には考えられなかった。
何か事件にでも巻き込まれていないかぎりは。
そう頭に浮かべたが、すぐにかぶりを振ってその不安を追い払う。
まだ何もかもが未知だ。
確定前だ。
葵蒼汰という少年には自分で見たものしか信じないという性質がある。
その代わり、それが良いか悪いかは別として、見たものはことごとく信じてしまう傾向もあった。
とにかくは、目撃することだ。
可愛い妹の姿を、もしくは不在を。
不在。
存在しないものを目撃するなんて、まるで矛盾しているかのような表現だけれども、つまり居るか居ないかは視認できる、ということだ。
意を決した蒼汰は玄関で靴を脱いで、なんとなくそこに学生鞄も置いて手ぶらになると、とりあえず一階をくまなく見て回る。
居ない。
リビングにもダイニングにもキッチンにも、トイレにも浴室にも洗面所にも、妹――葵緋奈の姿はなかった。
玄関の近くにある上へ続く階段をのぼっていく。上には二つの部屋しかない。
蒼汰の部屋と、妹の緋奈の部屋だ。
蒼汰は妹が自分の部屋に居るという可能性は早々に捨てた。
あの気遣いの妹が、人の部屋に勝手に入るとは到底思えない。
だから真っ先に迷うことなく、妹の部屋に足を向けた。
二階の廊下は短く、直ぐにドアの前に辿り着く。
ドアには可愛らしい字体で『ひなのへや』と書かれ、簡単な装飾を施された札が掛かっている。
一応ノックをする。
だが返事はない。
やっぱり居ないのか……?
そう思いつつもドアノブを握る右の掌に力を込めて、ついにドアを押し開けた。
――そして世界は変わった。
白色の、乙女。
左目を隠すその髪は透き通るような白で、遠目でもその細やかさが分かる肌は陶磁器のような白で、見たこともない、ある種近未来的とも言える露出部分の多いその外装は新雪のような白で。
その右手に握られた細身の剣すら、柄から刃の先まで純白に輝いている。
細身の剣。
剣?
それは現実味をどうしても帯びない。
剣なんて、日常のどこで目撃するのだろうか?
いや、生まれてこの方本物のそれを見たことがない。
今この時が、葵蒼汰にとって初めての経験だった。
じゃあ、なら、その剣は、“何を斬る為”のものなのだろう?
その答えはすぐに見つかった。
右手に握られた剣。
その逆位置。
左手には――人間が握られていた。
華奢な左手の指がその細い首にしっかりと食い込んでいて、どうやらその人物に意識はないらしい。
少し赤み掛かった長い髪が、窓から射し込む月光に照らされてどこか悲しげに煌めいている。
目は閉じ、うなだれ、足は床に届いていない。
白色の乙女の細腕一本が、その物言わぬ少女の身体を易々と持ち上げている。
右手に握られた剣が流れるような弧を描いて、やがてその切っ先を手中の少女に向けた。
こいつは、斬るつもりだ。
俺の妹を。
「妹に何してんだ!!」
斬られる前に、その動作に入る前に、気付いた時には叫んでいた。
すぐに目に見える反応はなかったが、やがてゆっくりと、その白色の少女は蒼汰の方に顔を向ける。
琥珀色の目に射抜かれた蒼汰は、何かこの世ならざるものを見た気がして怯んでしまう。
「おや、あなた、私が見えるのですか?」
髪と同じように、透明感のある声。だがそこに感情らしきものは込められていないように、蒼汰には思えた。
「見えるに、決まってんだろ」
なぜか震える唇で、しかし声は震えないように発する。
「初めて見ました。干渉者ですか。まあ、だからどうということもないんですけれど」
そうしてろくに意にも介さないように、再び自身が持つ剣の先に居る少女に目を向けると、剣を――。
振り上げようとする前に、蒼汰の手が白色の少女の背後から、その細い首に掛かった。
手首から腕にかけて触れているその髪が、まるで絹糸のような滑らかさを持っていて、蒼汰を少しばかり困惑させた。
「なんの、つもりですか?」
ひたすらに白い少女に、動じた様子はなかった。
ただ、今にも自分の首を絞めようとしている少年の感情がどうにも理解出来ないという風に、顔をしかめる。
「何がどうなってこうなってるのかは知らないが、お前が俺の妹を殺すつもりなら、その前に俺がお前を殺す」
「妹?」
白色の美少女が気に留めたのは、なぜかその一点だった。
まるで自分の命には関心がないようで、殺されるかもしれないという不確定な未来のことには触れもしない。
「ああ、そういう設定なのですね。あなたが、“これ”の兄で、ここがあなた達の家。なるほど、です。よくできていますね」
蒼汰にとって理解不能な言葉を、端整な顔を微かにも歪めず、少女は淡々と並べ立てる。
感情が無いみたいだ、と蒼汰は思った。
「何を、わけのわかんねえことを言って――」
だがしかし。
「では、まずはあなたの誤認を正しましょう」
本当にわけがわからないのは、次の一言だった。
「“これ”は、あなたの妹ではありませんよ、人間さん」
それが、矛盾しない少年――葵蒼汰と、矛盾の神――アイソドシンクの出会いだった。
初めましての方は初めまして。
初めましてじゃない方はお久しぶりです。
蒼葉綴です。
この度は『矛盾だらけのアイソドシンク ―The World of Paradox―』第一話をお読みいただきありがとうございます。
前々から頭の中にあった、誰もが生きるこの世界の“概念”というものを物語の主軸にした作品を、これから連載させていただきます。
自分の頭の中がだだ漏れな作品になっていますが、読者の皆様の、何かを考えるきっかけになれれば幸いです。
そうでなくとも、せめて退屈にならない物語をお届けできるよう慢心せずに邁進していきますので、どうぞこれからよろしくお願い致します。
長々と失礼しました。
2017.1.10 蒼葉綴