第15話 ラピスラズリ
「出来ました」
「早っ! ……おお、カレーか!」
「あの調理過程を見て気付かなかったんですか……。まあ、調度材料があったので」
緋奈が予約設定で炊いてくれていたご飯を、蒼汰が深皿の半分くらいまで盛ってレクシアに渡す。
スパイシーな香りが食欲をそそるカレーをおたまで鍋から掬い上げ、皿の空いている部分に流し込めば、皆とは言わないが大多数が好きであろうカレーの出来上がりだった。
* * * * *
「さて、本題に入りましょうか」
「いただきます」
「いただきます」
アイソドシンクと蒼汰が隣り合わせで座り、その目の前には二人分のカレーライスが並んでいる。
「なんで話を聞く立場の私が仕切り、そして時間を気にしなきゃいけないのかは甚だ疑問ですが、いいです……せっかく作ったので二人は食べつつ会話をしてください……」
アイソドシンクの向かいに座るレクシアは呆れた表情を隠そうとせずにそう言った。
「あ、ありがとう……シアさんは――」
「レクシアです」
冷たい目でぴしゃりと言葉を遮られた蒼汰は、視線を少しさまよわせてから、もう一度レクシアに戻した。
「あ、ああ……。レクシアさんは、カレー食わないの?」
「私は……この時間はちょっと……」
「え、なんで?」
時間になんの意味があるのかを理解できなかった蒼汰は、無邪気に聞き返した。
「べ、別に良いじゃないですか! お腹、空いてないですから!」
「あ、そう……なんだ?」
そこでタイミング悪くレクシアのお腹からきゅるきゅるとした音が鳴り、みるみるとその端整な顔が赤く染まる。
流石に鈍い蒼汰も、それ以上は追究しない方が良いことを察した。
そんな二人を尻目に、アイソドシンクは。
「はむ………ん、おいしい……」
「お前は普通に食うのな……」
「私は食べて太るということはありませんから。シアのようにスタイルを気にする必要はないです」
「アイソドシンク! 余計ことを言わないでください!」
言わなくて良いことを言われて憤るレクシアに対して、アイソドシンクは何故怒られているのかが分からず首を傾げる。
「これが、カレー……“美味しい”とは、こういうことなんですね」
スプーンに掬ったカレーを無表情に見詰める《矛盾》に、蒼汰が気になったことを聞く。
「食べたことないのか? カレー」
「ない、です。核神は概念そのものなので、そもそも栄養を摂取する必要がないですから。“食べる”という行為自体、初めてです」
「ふーん……なるほど。……じゃあ、俺も改めていただきます」
アイソドシンクの話を半分くらい聞きながら、蒼汰もスプーンで掬ったカレーを口に運ぶ。
「っ!!」
「お口に合いませんでしたか?」
突然驚いた表情になった蒼汰を訝しみながら、レクシアは聞いた。
「うまっ!! なんだこれスゲー旨いな!」
「えっ、ありがとう……ございます。普通に作っただけですけど」
「いや緋奈が作ったカレーも美味しいけど、これは俺の好みのど真ん中だよ。作ってくれて本当にありがとう!」
もはや蒼汰は感動して涙目で、その後は黙々とカレーを食べ始めた。
「まあ、喜んでいただけたならよかったですが……」
と、レクシアもどこか照れながらも嬉しそうに、蒼汰が食べる姿を見詰めていた。
そして結局、二人がカレーを食べ終えるのを待ってから。
「もうあまり時間がありませんが、私に聞いて欲しいこととはなんですか?」
ようやく本題に入ろうとしていた。
「シア、蒼くん――彼は、パラドクス“葵緋奈”の存続を望んでいます」
「はい!?」
時間が無い故に単刀直入なアイソドシンクの言葉に、レクシアは分かりやすく動揺した。
「何を言っているのですかアイソドシンク! 自分の役割を忘れたのですか!?」
「忘れてはいません」
「ならっ、それが無理な事だと分かるはずです! そもそもこの人に、パラドクスがどういう存在であるのかをちゃんと説明したのですか!?」
それにはレクシアから一瞥を受けた蒼汰が答える。
「ちゃんと聞いたし、理解もした。それでも俺は緋奈と一緒に生きていきたいんだ」
「何故ですか! そのパラドクスはあなたの妹でもなければ人間ですらないんです! 生きてないし、あなたの頭の中にある“葵緋奈”の記憶だって、実際にあったものじゃないんですよ!?」
「だからそれも分かってる」
「なら――」
「それでも。世界にとってあいつが嘘でも、俺にとっては真実なんだ。だってもう、その存在を知ってるんだから」
レクシアは愕然とする。
人間とは、そういうものなのか?
人間とは、真実を求めるものではないのか?
嘘や偽りを嫌い、それに絶望する種族ではないのか?
誰かを、何かを守るための嘘なら良いという意見があることは知っている。
でもそれは嘘を吐かれた本人が嘘だと気付かなければの話だろう。
『嘘を吐かれた』という事実に気付いたときには、やはり『本当のことを言って欲しかった』と、そう思うんじゃないのか?
じゃあ。
この目の前の少年は、なんだというのだ。
血の繋がりが嘘だと知っても。
思い出が偽りだと納得しても。
何故その存在を、愛せると言うのだろう。
この人間は、なんだ?
そんなレクシアの思考をシャットダウンしたのは、真っ白な少女だった。
「パラドクスは矛盾そのものです。このままではステージ2に上がり、やがては更に上のステージへ上がり、世界を危機に晒すかもしれません。ですが、“葵緋奈”が“葵緋奈”のままであれば、その危険性はないかと思います」
「何が言いたいのですか……アイソドシンク」
「あなたの行使権限で、彼女の存在を許可してくれませんか?」
「そんなこと……不可能に決まっています!!」
テーブルに手を叩きつけ、バンッと激しい音を起こしながら、レクシアは 立ち上がった。
「パラドクスは回収されるべき存在なんです! そう天意で定められており、その為にあなた……アイソドシンクがいるのではないですか! あなただって、今までそうして来たではありませんか!」
激昂するレクシアに対するアイソドシンクの表情には、相変わらず感情の機微は窺えない。
「でも、《矛盾》である私は天意によって存在しています。ならパラドクスだって……」
「分からないのですか! パラドクスの存在が許されるのであれば、あなたの存在が必要ないのです! パラドクスの存在を認めるのは、あなた自身の存在理由を否定することと同義なんですよ!」
「そう……ですね。矛盾しています。それでも――」
レクシアと対象的に静かに立ち上がったアイソドシンクは真っ直ぐに、揺らいでいる《存在》の双眸を見詰める。
「矛盾とは事象の歪み。矛盾とは存在し得ない存在。矛盾とは全ての可能性の肯定、です。だから、やらずにあるかもしれない可能性を否定することを、私はしたくない。それは《矛盾》として、矛盾していないと思いませんか?」
レクシアはそのラピスラズリを映したような目を伏せ、肩をわなわなと震わせた。
「……それこそ、矛盾しています……」
ゆらりと。
脱力感のある動作でテーブルを迂回したレクシアはアイソドシンクの前に立つと。
「分かりました」
打って変わって落ち着いた声で。
「あなたを消して、新しい《矛盾》に生まれてもらいましょう」
そう言って澄んだ目と、いつの間にかその手に握られていた“刃”を煌めかせた。