第12話 誰が夕飯を作るのか
「ただいまっ!」
慌ただしく開けたドアを同様に閉め、葵蒼汰は帰宅した。
靴を玄関に脱ぎ捨ててLDKに続くドアの飾り窓から漏れる光に向かって足を急がせると、そのドアも勢いよく開けて駆け込む。
「あ、蒼くん、お帰りなさい」
すぐ近くのダイニングテーブルの周囲に配置された椅子の一つに、真っ白な少女が腰掛けて湯のみを両手で支えてるのを見て、ようやく蒼汰は脱力した。
「なぁ、何和んでるの?」
脇に抱えていた学生カバンを壁際の床に落とすと、蒼汰もゆっくりとテーブルに近付き《矛盾》の核神――アイソドシンクの対面に座る。
「すみません、茶葉勝手に頂きました」
「いやそれはいいけど……お茶の入れ方とか分かるのか?」
「今日、暇だったので覚えました」
「あ、そう……」
概念の塊がお茶を飲むというのも良く分からないが、ただなんか似合うなぁ、と蒼汰は思った。
「それにしても、『頂きます』という言葉は、本当に“人間”というものを良く表してますよね」
「はい?」
アイソドシンクが何を言いたいのかを理解出来なかった蒼汰は、思わず聞き返した。
「食事を取る時、日本では『頂きます』と言うじゃないですか」
「まあ、そうだな……普通は」
「あれは食物連鎖のヒエラルキーにおいて、『私達こそが頂点に君臨しています』という、“高度な知恵を有する種族”としての自負から生まれた言葉だと推察します。恐らく『頂きに立ってます』を略して『頂きます』になったのではないかと。そう考えると人間とはとてもエゴイスティックで可愛げがあると思いませんか?」
「いや、昔からある言葉だし、そんな風に略すかな……」
「日本における挨拶なんて今や大体略語ではないですか。『おはよう』は『朝がお早うございますね』ですし、『こんにちは』は『今日はいい天気ですね』、『こんばんは』は『今晩は月が綺麗ですね』、『おかえり』は『お帰りなさい』、『ただいま』は『只今帰りました』、『おやすみ』は『お休みなさい』。一例も含んでますが、そう考えると『いただきます』が『頂きに立ってます』でも不思議ではないような気がしてきませんか?」
そういう風に説かれればそういう気もしないでもないが、それでも蒼汰にはまだ言い返せることがあった。
「まあ確かに可能性は無くはないけど、でも仮に昔の人がそういった意味合いで略したんだとしても、現代人でそんなことを食事の度に意識してる人間は一人も居ないんじゃないか?」
「さて、どうでしょう。全ての可能性は否定出来ませんから」
「それ、昨日も言ってたよな」
「はい。この世に絶対はない、という話もしましたがそれと意味は同じことです。百パーセントと零パーセントは、この世界に存在しません。絶対に起きることもなければ、絶対に起きないこともないということです。『この世に絶対はない』のに、“絶対”という言葉は存在している。だから“矛盾”しているんです」
「……ふーん」
その核神の言葉を半分くらい理解したところで、ようやく乱れた息を完全に整え終えた蒼汰は、この空間がいつもと違うことに気が付いた。
「あれ、緋奈は?」
そもそも真っ白な概念の集合体が室内にいる時点で異常だったからなのか、蒼汰はその軽度な異常に気付くのが遅れてしまった。
いつもならば、葵緋奈が夕飯を作り終えている時間帯であるが、その料理が並んでいるはずのダイニングテーブルの上には綺麗に何も置かれていない。
「ああ、葵緋奈でしたら不都合かと思って眠らせておきました」
事も無げに、核神が言う。
限りなく無機質だったその声音は、しかし蒼汰にとってはとてつもなく残酷な響きに聞こえた。
「は? え………お前、まさか……」
蒼汰の顔が絶望に染まりきるよりも先に、核神が補足をする。
「早とちりの勘違いです。文字通り『眠ってもらった』んです。今からあなたの妹を象ったパラドクス――葵緋奈の存在の是非を決めようというのに、当人に居られては困るのは蒼くんではないですか? 彼女は本当のことを何も知らないんですから」
「そ、そうか……そうだな。疑って悪かった。……けど」
「はい?」
「俺の夕飯は?」
少しの間、世界が呼吸を止めた――ように二人には感じた。
そんな間の抜けた質問に、《矛盾》の核神は。
「ご飯、食べるんですか?」
間の抜けた質問で返した。
「食べるよ! 『腹が減っては戦は出来ぬ』っていう言葉もあるんだぞ!」
「蒼くんは、戦をするつもりなんですか?」
「それは比喩だけど! 夕飯を食べずに空腹状態で良く分からないことに相対する自身が無いというか――ていうか、そうだ! 聞きそびれてたけど、緋奈はいつまで大丈夫なんだ!?」
抽象的な物言いだったが、それに関しては核神も多少なりとも気にしてはいたので、すぐに口から答えが出る。
「パラドクスが発生から48時間でステージ2に遷移することは昨日言いましたが、葵緋奈が発生したのは丁度昨日の午前零時です。ですから、次に時計の短針と長針が真上を向くまでは、まだ猶予があります」
核神のその言葉を受けて、蒼汰は部屋の入り口側の壁に掛けられた時計を見る。
時間はちょうど午後八時になるところだった。
「あと4時間、か……。なぁ、こんなゆっくりしてて大丈夫なのか? まだ何の説明も無いし……」
「『今夕飯の心配をしてたあなたが言うことですか?』というツッコミはとりあえず置いておきましょう。それよりも、私がまだ蒼くんに何の説明もしていない理由ですが、昨晩はあまり一度に情報を与え過ぎると脳の処理が追い付かず混乱してしまう可能性を考えてのことでした。そして予定では今朝、私が考えうる唯一の“葵緋奈の存続方法”について話をするつもりだったんですが……」
何故かそこで一回言葉を切った核神は、特に調子を変える事もなく続ける。
「蒼くんが葵緋奈とイチャイチャしていた為にそのタイミングを逃してしまいました」
「…………………………」
「タイミングを、逃してしまったんです」
応答が無かった為聞こえなかったと判断した核神は、重要な部分をもう一度繰り返した。
「そ、そうか、それは仕方ないな……。一応訂正させて貰うけど、あれはイチャイチャしてたわけではなく、兄妹間のコミュニケーションというか、日課みたいなものだから――」
「蒼くんの意識的にはそうかもしれませんが、端から見ればイチャイチャ以外の何ものでも無かったかと」
主観と客観は、どうやら違うらしく、どちらが正しいとも言えないのが難しいところだが、蒼汰はとりあえず考えない事にした。
「まあ、過ぎたことを言っても仕方ないか。とりあえず今でいいから、教えてくれないか?」
蒼汰の華麗なスルーを核神も特に気には留めずに答える。
「もう話している時間はそんなにないと思います。そろそろ“来る”頃合いだと思うので。それに、実際に直面してしまった方が、蒼くんは理解がしやすいかもしれません」
さりげなく行き当たりばったりを推奨している核神だったが、蒼汰が気になったのはそこではなく。
「来るって、誰が?」
「それも、来れば分かります」
『この核神、説明するのが面倒臭いだけなんじゃ?』と蒼汰が訝しんでいると、すかさずアイソドシンクが話をすり替える。
「それよりも、夕飯問題に関して私には普通に普通の解決策があるように思えるのですが」
「一応聞こうか」
「あの、蒼くんが料理すればいいのではないですか?」
その言葉には、いかに矛盾しない少年と言えど溜め息を吐くしかなかった。
「いいか、よーく聞けよ?」
核神が耳を澄ます。
「俺はな――」
その時。
「料理がドヘタクソなんだ」
悲しい音を含んでインターホンが鳴った。