第10話 路地裏のささやかな救出劇
千散儚に心の中の矛盾を聞いたときに泣いてしまったことを、葵蒼汰は来た道を引き返しながら反省していたが、しばらくしてそれを止めた。
泣きたかったら泣けばいい、というのが蒼汰の持論であるし、あの時はどうしても脳裏に妹の緋奈の顔が浮かんでしまって、涙を堪える事が出来なかった。
生きたいけど生きてて良いのかな、とか。
居なくなりたいけど死ねない、とか。
皆なんで、そんなに難しく考えて生きてるんだろう、と、帰路を歩きながら蒼汰は思う。
生きたかったら生きればいい。
死にたいなら死にたくなくなる理由を探せばいい。
それだけじゃないのか?
蒼汰はそもそも難しく物事を考えるのが得意ではなかった。
白敷叶や千散儚の思考をトレース出来るわけはないし、だから葵蒼汰は葵蒼汰なりに、葵蒼汰の生き方をするしかない。
それは蒼汰だけじゃなく、誰でも同じことだった。
ただ、それを分かってなお、蒼汰には納得が難しい。
だって、生きることを許されない“存在”だって、存在するのだから。妹のように。
生きたくても生きられない人達だって、きっと世の中にはいくらでも居る。
それなのに、どうして生きることに前向きになれないというのか。
そんなことをあの名前の通り儚げな少女――千散儚に話せば、きっとこう言うだろう。
『そうかもしれません。でもそれは私じゃない人達の話です。私にその人達の苦悩や辛さが分からないように、その人達にも私の――大して労さなくても生きられてしまう人間の闇など、知るよしもないでしょう。そんなものなんです、この世界は。結局人は、他人の境遇を羨んだり妬んだり、蔑んだり同情したりしながら、自分の生まれた環境で生きてくしかないんです。つまり私が言いたいのは、人の想いや考えを比較するべきじゃないと、そういうことです。だから、与えられた命をどう扱うのかも、個人個人で決めればいいんですよ』
「分かってるんだってそんなこと!」
どこか遠い目で自分を糾弾する儚の姿が脳裏に浮かび、蒼汰はつい声を発してしまう。
周囲に人気は無かったので奇異の目で見られる事はなかったが、蒼汰は珍しく自分が悩んでしまっている事にこそ悩んでいた。
別に学校まで戻る必要は無かったので途中で道を折れ、気付けば学校からの最寄り駅付近に差し掛かっている。
学校近くの住宅地と比べると近隣の学生達が群れを成して歩いていたりと、何となく賑やかな空気があった。
もう日も大分傾いてあと一時間もすれば完全に地平線に沈んでしまいそうな頃合いだ。
明確な答えが出ずに、そもそも何に対しての答えなのかも分からずに、悶々とした気持ちは消えないが悩んでいても仕方ないし、それに今夜は妹の事で一波乱あるだろう。
そう思った蒼汰が自分の頬を叩き気合いを入れた、その時だった。
通り掛かった建物と建物の間の路地から、何やら物騒な気配を感じて、蒼汰は立ち止まった。
「なぁ、いいじゃねーか可愛い姉ちゃん。別に痛いことする気はねえんだよ、なぁ?」
「おーよ。ちょっとばっかし俺達の楽しいお遊びに付き合ってくれたらそれで良いんだよ。なーに、金は必要ねえ。その綺麗な身体一つあれば充分だ」
蒼汰が目を凝らして薄暗い路地を見ると、どうやら蒼汰と同い年くらいの少女が、どこか時代錯誤な風情のある長髪と短髪のチンピラ二人組に、壁を背にして詰め寄られているようだ。
『うわー、マジでこういう展開あるんだ……』、と蒼汰が呆れと驚き半々の表情を浮かべていると。
「ごめんなさい。先を急いでいるのであなた達に付き合ってる余暇はありません」
そう言って毅然な態度で、少女が深々と頭を下げると、チンピラ達は一瞬面食らったようだったが、すぐにそれは苛立ちに変わったらしい、
「お前……なめてんのか? この世には恐いものがあるってことを教えてやろうか、あぁ?」
チンピラの表情が険しくなる。
しかし頭を上げてそれを見た少女の顔は呆れた表情に変わる。
「ああ……もう、なんで人間っていうのはこうも愚かなのですか……。すぐに見た目で判断するし、身の程をわきまえないし、エゴイストばかりだし……」
「なぁ、エゴイストってなんだ?」
長髪のチンピラが短髪の相棒に聞くが、その相棒も首を傾げるしか出来ない。
その様子を視野に納めた少女は、もはや世界の終わりを目撃しているかのように、その顔を絶望色に染めている。
そしてトドメの一撃。
「おまけに馬鹿だし」
その単純な二文字は、流石に無学なチンピラにもしっかり通じたらしく。
「テッ…めぇっ! 調子乗ってんじゃねーぞっ!!」
憤怒した長髪のチンピラは握った拳を振りかぶり――そして。
「うぐぁっ!?」
「おい、大丈夫か!?」
突如ぶつかって来た少年と一緒に吹っ飛んだ。
心配した短髪のチンピラが声を掛けるがどうやら腰を打ったらしく悶絶している。
一足先に穏和な雰囲気の少年が立ち上がると、
「ごめんなさい! ちょっと急いでて! お詫びはいつか必ず! ではまた! ほら、行くぞ!」
そう捲し立てると、近くにいた少女の手首を掴み走り出す。
「くっそテメェっ! 待ちやがれ!」
短髪の手を借りて遅れ馳せながら立ち上がり、そして二人で追いかけてくる。
それから蒼汰と謎の少女は、路地を突き抜け大通りを疾走し交差点を紆余曲折し歩道橋を駆け上がり。
野良犬のようにしつこいチンピラ二人をようやく撒いたのは、夜の帳も降り、駅からかなり離れたどこかの公園だった。
「はあ……はあ……ようやく、撒いたな……」
蒼汰がゼーハーしているのを尻目に、少女は息切れもすることなくその傍らに気丈に立っていた。
「なんで、あんな余計なことをしたんです?」
「え?」
あまりにも意外な言葉に、蒼汰はどうにか息を整えて顔を上げ、そしてそこでやっと、少女の顔を初めてしっかりと見た。
「うわっ!?」
驚愕の声を上げ、離すのを忘れてた手首を慌てて離すと、心臓の脈動が高まるのを否応なしに感じる。
「失礼な人ですね。人の顔を見て悲鳴を上げるなんて」
と、少女は軽蔑の眼差しを蒼汰に向けるが、蒼汰の反応は至って正常で、また仕方のないものだっただろう。
何故ならその少女が、こんなに簡単な言葉で形容しても良いのか、戸惑う程に。
――とてつもない美少女だったからだ。