祝福の神子 3
カナシュタ・フロンタールという名は以前に一度捨てた名だった。
アナスタシア皇国の皇族として―――養子という形ではあったものの―――迎え入れられた時、私の名は全く別のものへと変わった。それは一つの始まりであり、終わりの前触れでもあった。
アナスタシア皇国、皇位継承権第一位。いずれアナスタシア皇国を受け継ぎ、またその背景では高度な政治的な事情によって次代の皇帝に担ぎ上げられた、カナシュタ・ネモフィラ・アナスタシア。それが私の、アナスタシア皇国第一皇子としての名前となった。
私の母は、時の皇帝陛下の妹であり、皇族から臣下に下った公爵夫人であった。つまり母の血統を辿れば私は、皇帝陛下の甥であり皇族に名を連ねるに足る血筋を持っているという事でもある。
血を分けた母はあらゆる部分において厳しい人で、父たるその人も、私を優しく包み込むような愛情で愛してくれた事など一度も無かった。母にとって私は単なる血を分けた子どもであり、肉親の情というものは露程も持ち合わせてはいなかったのだ。それを悲しいと思うことは無かったが、他の家庭に比べて肉親の情という物が希薄であったため、周囲とどのように関係を築き、また距離を取れば良いのか幼い時分は大層迷った。
踏み込み過ぎれば心酔され、遠すぎれば疑われ当たり障りなく…いや、寧ろ距離を詰めようとする者ばかり。その煩わしさは日に日に増していった。
父は母と同様に、私を公爵家を受け継ぐ次期公爵としてではなく、自らの領分をいずれ掠め取っていく存在としか認識しては居なかった。私はただ、両親によって義務的に産み落とされた存在であるのだ。
そのような中にあっても公爵夫妻の仲は良好だった。二人はとてもドライで、いわばお互いの守るべき領域を侵す事のないように動いていた。
その様は傍から見れば、利害が一致した者達による、薄っぺらな絆でしかなかったが、夫妻にとってそれは最良の相手であったのだろう。
皮肉な事に、夫妻は『公爵家を守る』というただ一点でのみ、お互いの意識を共有していたようだった。
そういう環境にあって私は物心付く頃には既に何処か達観した子どもらしくない子に成長した。子どもらしい傲慢さでもって周囲を見下していた訳でも、斜に構えていた訳でもないが、私は冷静に周囲の状況を分析し、どのように行動するのが最も最良かを常に考え慎重に行動してきた。
私にとって血の繋がった実の親でもある公爵夫妻は、私の家族足り得ない存在でもあった。
そんな私が祝福の神子であると公式に認定されたのは、五歳の時の事。
夫妻はそれを喜びも憤りもしなかったが、ただ静かにそれを受け入れ淡々と事務的に私という存在の価値を見定めていた。
同時に、私が皇帝陛下の養子という形で皇族となったのもこの頃になる。
―――そこで私は、運命と出会った。
より正確に言うのであれば、私の唯一無二の片翼とも言える存在であり義妹たるテルミナ・ローズ・アナスタシアと出会ったのだ。
テルミナは私と同じ祝福の神子だった。
普段はその力を秘めて子どもらしい天真爛漫さで周囲に愛されていた彼女は、義兄となった私をすんなりと受け入れ、憧憬の眼差しでもって慕ってくれた。その様は何処か親猫に纏わりつく子猫のようで、私の自尊心は大いに満たされた。
彼女にとって私は、かけがえのない存在なのだと感じる事が出来たから。
ドロドロと、汚泥の如き執着心が頭を擡げた。その好意に付け込んで彼女の思考を私だけに向けてくれるよう少しずつ少しずつ彼女の中に方向性を作り出したのは思いの外楽しく、私の独占欲を否が応にも刺激した。
祝福の神子の力は同族には通用しない。勿論、誓約と代償、そしてその褒美に関しては別であるが、徒人が相手であれば相手の無意識も容易く絡めり、人心すらも容易く掌握出来るというのに、同族であるテルミナの前ではそれらは単なる飾りと化してしまう。
じっくりと毒を塗り込むように、愛情深く。
それでいて、テルミナ自身には気取られることなく囲い込むように着々と包囲網を敷いて行く。それらは概ね上手く行った。
しかし、最大の問題かつ障壁となっていたのは、時の皇帝陛下であり義父たるマユリス・ヘデラ・アナスタシアであった。
アナスタシア皇国では女性にも皇位継承権を認めている稀有な国である。そのため本来であれば彼女――アナスタシア皇国第一皇女たるテルミナは皇位継承権第一位の座に就く筈だった。けれども義父はこれを是とせず、テルミナの持つ皇位継承権第二位に引き下げ、私を次代の皇帝に据えた。
祝福の神子というネームバリューがあるのだから、テルミナが次代の女皇でも構わなかった筈だ。だが義父はテルミナを女皇となる為に必要以上に表舞台に出すこと、そしてそれによって運命が翻弄されていくことを良しとはしていなかったのである。
義父は真実、テルミナを私人として、一人の親として愛しているが故に私を養子として上位に据え置いたのだ。
これにより周囲の視線は逸らされ、テルミナは徐々に安寧の日々を過ごしていき、反対に私は衆目の中で息を殺し、次期皇帝として振る舞わなければならなくなった。
無論それらを苦痛だなどとは思わなかった。義父である皇帝陛下を除けば、私が意のままに操れる駒となる人間はそれこそ山のように居たのだ。私自身が望む環境へ整えていく事は私の数少ない楽しみの一つでもあったのだ。
ただ、テルミナと過ごす時間が減っていく事ばかりが気掛かりで、私はテルミナの監視を緩めてしまった。それがここに至るすべての始まりであったのかもしれない。
―――それはまだ私が第一皇子として過ごしていたある日の事。
私が鷹狩に出たその日、テルミナは王宮でさる貴族の男と密会しているという話が私のもとに飛び込んできた。それは以前から私がテルミナに近付く要注意人物としてマークしていた人間であり、テルミナとは旧知の仲として広く知られた男でもある。
私自身は未だ男との面識は無く、男は殊の他テルミナを大事にしている代わりに私を警戒しているのか、私がテルミナの側に居るときには近付く事すらしてはいなかった。
それが何故、今動くというのか。
奇妙な焦燥感に駆られた私は、駒からもたらされた情報をもとにすぐさま皇城へと引き返し、テルミナが居るという皇城の中庭へと向かった。
そうして中庭に辿り着いた瞬間、私は息を飲んだ。
男とテルミナは、まるで長年付き合っている恋人同士のように寄り添っていたのだ。……いいや、寄り添うというのは些か誇張だったかもしれない。しかしながら二人はそうあるのが当然だと言わんばかりにごく自然に近付いて談笑していた。それを見咎める者も、或いは揶揄する者もいない。恐らくはそれが二人の自然な距離感なのだろう。
『皇女殿下、』
数メートルしか離れてはいないというのに二人が私の存在に気付く事はなく、男がテルミナに何事か囁いた。テルミナはそれに柔らかく微笑みながら頷き、男の話に静かに耳を傾けていた。
何故、私に見せない顔で男を見ている?
何故、そんなにもその男を信頼した眼差しで見つめている?
私の居ない所で何故、安心して笑っていられる?
私はこんなにも、テルミナを愛し慈しんでいるというのに。
逃げるつもりなのか?私の元から。そして男の元へ去るつもりなのか?
カッと熱くなった腹の奥でグツグツと腸が煮え繰り返る思いで射殺さんばかりに男を見やった。
実際、普段は抑えている魔術の力が少しばかり漏れだし、私の側に置いていた鷹狩りのための弓矢が青白い炎に包まれて一瞬にして灰となる。
男に向かって魔術を放たなかったのは、目の前に居るテルミナの心を僅かでも傷付けないためだ。美しくないもの、醜いものを、あの純粋で綺麗な心を持つテルミナに見せたくはない。
けれども私の心とは裏腹にテルミナは柔らかく微笑んだ。
テルミナの少しばかり拗ねたような表情も、気心の知れた相手に向ける柔らかな微笑も本来は私だけのものだ。義兄である私だけのもの。
だというのに何故テルミナは私以外の人間に気を許しているというのか。
男が優雅な所作でテルミナの前に跪き、溢れんばかりの忠誠心と敬愛、そして少しばかりの恋情を込めてテルミナを見上げている。
忌々しい。そんな欲を孕んだ目で私のテルミナを見るな!
ぎしりと嫌な音が噛み締め過ぎた奥歯から鳴った。
対するテルミナは、強い信頼と親愛の情を滲ませた視線で男の目を見返し、男が辞去の挨拶をして立ち去るまでテルミナは男をじっと見つめていた。
男とテルミナは幼い頃から共に育った幼馴染という立場にあるのだという。口惜しいことに男はテルミナに強い信頼と親愛の情を向けられる程度には親しく、そしてそれに足る信用を勝ち取っているらしい。
私が見た限り、テルミナに男に向けた恋情等はなかった。勿論、それはテルミナがいまだ恋を知らぬ幼い年齢であるからこそ、というものも理由の一つではある。
しかしながらテルミナが男に向けていた感情は、忠誠心の厚い臣下に向ける信頼と親愛であり、男自身もそれが分かっているからこそ、テルミナに恋情を告げるような素振りもなく、ただひたすらに忠義の厚い臣下としてテルミナに寄り添い、そのテルミナに向ける視線の中に親愛の情を越えた恋情を込めているだけだ。
男は今後も恐らくテルミナに自身の愛情を伝えるつもりはないだろう。貴族間の噂話等から察するに男は非常に理知的であり、鋼の理性を持った臣下の鑑なのだから。
だが、それでも私はあの男に心底腹が立って仕方が無かった。今目の前に男が居たのであれば八つ裂きにしてしまいたいと願う程に男の存在を憎悪している自分が居たのだ。
―――それは私が生涯初めて天敵とと認識した男との出会いでもあった。
男の名は、ヴィクトル・ザイツ。ザイツ侯爵位を若くして受け継いだ貴族であり、今現在もテルミナの側でその治世を支え続けるアナスタシア皇国の筆頭青年貴族である。
後にその男の排除に動く寸前、何の前触れもなくテルミナが忽然と姿を消し、同時に私に対して皇帝陛下から国外追放の命が下されてしまった事は今でも悪夢として記憶している。
けれども六年という月日を挟んで漸くテルミナを取り戻す事の出来た今、その悪夢もまたテルミナを完全に私の支配下に置き、取り戻すために必要な過程であったということは私自身理解している。
窓を背にした執務机には決裁処理するべき書類が山のように積まれていた。それらを淡々と処理しつつ考えるのはテルミナのことだ。
私がアナスタシア皇国に攻め入り、ドロワー王国の属国となって早二月が過ぎた。アナスタシア皇国の民達は思いの外物分かりが良いのか、はたまたそこまでの気概がないのか、水面下での不穏な動きを除き、武装蜂起しようとする動きは殆ど無かった。
けれど、
「ほう、そう来たか」
窓の外、眼下に見える皇城の玄関口に一台の馬車が止まった。
そこから降りてきたのは、花柄の華やかなドレスを纏った上に長いフード付きのローブを羽織った年若い女の姿だった。
ローブの合間から溢れるウェーブがかった髪の色は柔らかなマロンブラウン。
「さて、出迎えに行こうか。私の従姉妹殿を」
女の名はエレーナ・ボリジ・アナスタシア。
本来であれば未だドロワー王国に滞在しておる筈の人間が何をしに来たというのだろう?
まあ理由はある程度想像出来るが、身の振り方如何でどうとでも処分出来る口実を貰ったようなものだ。エレーナが向かう先は恐らくテルミナの執務室だろう。
悠々と私に宛がわれた部屋を出てテルミナの執務室へゆっくりとした足取りで向かう。
「さて、楽しませてくれよ、従姉妹殿」
*
その日に起こった出来事は、文字通り降って湧いたような話だった。
「娘が居ない?」
「はい。昨夜遅くに馬車が城を出ていくのを目撃したと当直の衛兵が申しています。恐らく行き先はアナスタシア皇国かと」
アナスタシア皇国から共にやって来た長年屋敷の執事を務めてきた男の報告に、私は渋面を隠さず苦虫を噛み潰した。目の前に居る執事も同じような表情を浮かべているのはこの事態がどれ程大きな意味を持つのか分かっているからなのだろう。
だというのに娘は自身が起こす行動の意味が露程も分かってはいなかったらしい。
平和な日常に浸り過ぎた娘には、私達が何故こんな外国であるドロワー王国に居を移さねばならなかったのか、そしてアナスタシア皇国が何故属国に下らなければならなかったのかという意味など、本当の意味で理解してはいなかったということか。
「それしかないだろうな。全く、手を焼かせてくれる。あちらは見逃してはくれないだろうな」
「ええ。一応、動かせる配下を急ぎ追わせていますが到着を阻止することは難しいでしょう」
「……兎も角、こちらに反逆の意思は無い事を示さねばならん。宰相閣下と渡りをつけなければ」
「手配致します」
「頼む」
執事が部屋を出ると私は溜め息を吐いた。情けない事に今はドロワー王国に遣わされた信使という名の虜囚の身。ここではアナスタシア皇国で私が築き上げてきた威光など塵芥に等しい。
ドロワー王国の城下町に置かれた屋敷には常にドロワー王国の監視役たる衛兵が詰めている。
「全く余計な事をしてくれたな、エレーナ」
遠い祖国へ向けて馬車を走らせているであろう娘を思い浮かべ、けれどもすぐに頭を振ってその残像を消した。
今は娘を想っている時間など無い。早急に宗主国たるドロワー王国の上層部に釈明と謝罪をしなければ。
屋敷の使用人を呼んで着替えを手伝って貰いながら、私は再び大きな溜め息を吐いた。
「これまでの付けが回って来たという事やもしれんな」
私の名は、ノブリス・ライヒ・アナスタシア。
アナスタシア皇国第二十八代皇帝、マユリス・ヘデラ・アナスタシアの実弟であり、マユリス皇帝陛下亡き後に皇帝陛下代理としてアナスタシア皇国の全権を握りあらゆる采配を振るっていた人間である。
そう、言葉通り過去形だ。
今はその任が解かれて単なる皇族の一人となっているのだから。
ふと、あの日アナスタシア皇国の皇城を制圧し、後にドロワー王国へと送られる直前にドロワー王国の総司令官、カナシュタ・フロンタールに言われた言葉を思い出した。
『あなたがテルミナを餓えさせ、あわよくば亡き者としたかったのは、それはあなたがテルミナを将来国を脅かす危険人物になると断じたからでしょう? あの子がただ祝福の神子であるが故に。ですがあなたは本当に何も分かってはいなかったようですね。この国を心底愛し守って来たのはあの子の祝福と代償があったが故のこと。気付きませんでしたか? あの子は不当な処遇を受けながらもずっとアナスタシア皇国の繁栄のみをずっと祈っていました。無論それはあなた方の事もその範疇の中にある。祝福の神子の祈りは願いだ。あの子が力を制限されていたとはいえ六年間もの年月を重ねればそれは大きな力となる。だからあなたはこうして今も処刑されず生かされている』
冷たい微笑を浮かべたかつてのアナスタシア皇国第一皇子は、うっとりとした表情でテルミナが居るであろう執務室を振り仰いだ。
『お前達などにテルミナの関心を傾けさせるのは癪ですが、あなたがテルミナを不遇に扱ってくれたお陰で私達は意図せずして最良の形でアナスタシア皇国を手に入れる事が出来た。その事実にのみ感謝しておきましょう』
あの男は昔からテルミナに異常な愛情を向けていた。アナスタシア皇国を追放されてそれが薄れたかと思っていたが、以前より更にその狂人的な愛情から察するにあの男がテルミナを逃すつもりなど毛頭無いのだろう。血の繋がったテルミナの父たる先の皇帝陛下ですら邪魔者として扱ってきたのだ。
テルミナを愛していない訳ではない。だがテルミナの持つ力は絶大で強力だ。いつそれを民に向け、悪用するか知れない。
それでも私がした事は間違いでは無かったと自信をもって言える。
たった一人を犠牲にして国を守れるならば、私は喜んでその人間を差し出すだろう。たとえそれが可愛い姪であったとしても、私と血の繋がった娘であったとしても。
「ノブリス様、準備が整いました」
「ありがとう。では登城してくる。家の事は頼んだぞ」
速やかに準備を整えてくれた使用人達と家令を労いながら、私はドロワー王国に来てからというもの、ずっと臥せっている妻が住む北棟を仰ぎながらそう声を掛けた。
察しの良い使用人達と家令はしっかりとこれに頷き、私は一人馬車に乗り込んだ。向かう先はドロワー王国の王城だ。
逸る心とは裏腹に、屋敷の前に乗りつけられた馬車は思いの外ゆっくりと動き出した。
*
「テルミナ姉様、どうか私達を助けて下さい!」
そう言って女皇陛下に与えられた執務室に飛び込んできたのは、二か月前に一家揃ってドロワー王国へと送られた従姉妹の姿だった。
困惑した様子の衛兵を振り切ってここまで駆けてきたのだろう。エレーナにとっては勝手知ったる城内だ。つい先頃までこの皇城に住んでいた皇族の突然の来訪に、衛兵もどう対処して良いものか迷っていたに違いない。
エレーナ、と呼びかけようとして喉の奥がその音を震わせないのに気づき、はくっと吐息が漏れた。
ああ、そうだ。先日カナシュタ義兄様と誓約した通り、私は親しい誰かの名前を呼ぶ事は出来ないらしい。
執務室の入り口でどうにかエレーナを押し留めようとする衛兵達を労いながら私はエレーナの前に立ち塞がった。
生憎、普段であれば執務室に詰めている側近達や忠臣のザイツ侯爵らは全員出払っている。ならば止められるのは私のみだ。
「お久しぶりですね、私の愛しい従姉妹君。ですがこちらは女皇陛下に与えられた執務室。あなたが入る事は許されてはおりません」
「テルミナ、姉様…?」
呆然と、他人行儀で話す私を見つめたエレーナの視線を真っ向から見返して私は続けた。
「場所を移しましょう」
*
向かった先はかつてエレーナが住んでいた部屋の一室だった。
あの頃から手を加えてはいないから、エレーナにとっては本当の家に戻って来たかのような安心感があるのだろう。目に見えて緊張を解いたエレーナをつぶさに観察しつつ私はエレーナに問いかけた。
「それで従姉妹君は私に何を助けて欲しいというの?」
「テルミナ姉様、私達はドロワー王国でまるで虜囚のように過ごしています。常に見張られ、監視されて生活しているから、母は神経が参ってしまって、もう一か月以上臥せったままです」
「そうなの。それはお気の毒ね」
「ええ。ですからテルミナ姉様に助けて頂きたいのです! だって私達を助けられるのはテルミナ姉様を置いて他には居ないのですものっ」
勢い込んでそう言うエレーナは、具体的にどうしたいのか、どう助けて欲しいのかを解くことは無かった。エレーナはただ今の環境から抜け出したいだけだ。けれどそれを手助けした後は? どうするというのか。仮にもエレーナはアナスタシア皇国の皇族だ。その血は今だエレーナの体に流れているし、その血を欲して良からぬ事を考える者が出てこないとは限らない。
「従姉妹君、私にあなたを手助けする力は無いわ。どうかドロワー王国にお帰りなさい。そうすればあなたは皇族としてそれなりの場所に嫁ぎ、生きる事が出来る。あなた個人の幸せだけ考えていられる。だから、今すぐに帰りなさいな。衛兵! 馬車の準備をなさい!」
部屋の外に控える衛兵にそう声を上げる。
慌ただしく部屋の外で動く気配がするが、エレーナは慌てたように私の肩を揺さぶった。
「どうしてですかテルミナ姉様、私達は不当な扱いを受けているのですよ? どうして助けて下さらないのですかっ?」
「従姉妹君、あなたは勘違いしているわ。不当な扱いを受けているのであればこうしてドロワー王国から馬車を飛ばせる事も無かっただろうし、何よりあなたが今着ているドレスはドロワー王国から下賜されたもおのなのでしょう?」
私の言葉にエレーナはかっと頬を熱くした。
「あなたはまだ若い。間違う事もあるだろうけれど、その行動力があるのであればドロワー王国で潰れる筈がないわ。あなたの母君の事はあなたがお支えなさい。それでも無理ならば叔父様にお任せなさい。あなたは皇族として常に正しい道にいなければ」
「どうして、どうしてですか! 私はもうこのアナスタシア皇国に帰れもしないのに! お父様が皇帝陛下代理から降ろされて、テルミナ姉様だけがアナスタシア皇国に残って。私は、私はもう一人です! ずっとずっと一人ですっ。ねえテルミナ姉様、逃げられないのなら一緒にドロワー王国に参りましょう? 国のことはカナシュタ殿下にお任せすれば良いのだわ。ねえ、テルミナ姉様」
「それだけは無理よ、従姉妹君。だって私はアナスタシア皇国の女皇陛下ですもの。この国の民は皆私の子。子を放っておくことなど出来る筈がないのですもの」
嫌だ、嫌だと駄々を捏ねるエレーナは涙を流しながら私の手に縋りついた。
その手の力の強さに驚かされる。六年見ない内に、エレーナはすくすくと成長していたのだ。エレーナは私よりも二歳年下の少女だ。けれどもエレーナには友人となる少女や少年は殆ど居なかった。
それは一重に彼女がアナスタシア皇国の皇族であるが故に。身分を越えた友情を手にすることが出来るのは、本当に一握りの人間だけだ。
だから彼女は身内に執着する。エレーナにとって私は頼るべき姉であり、救いを求める友人でもあるのだ。
「テルミナ姉様はずるい。もう私の名すら呼んではくれないだなんて」
エレーナはそう言って、私の手を放し、諦めたように座り込んだ。
「皆、ずるい。お父様もテルミナ姉様も、もう私の事なんて見てはくれないのだわ」
「ごめんなさいね、愛しい従姉妹君。私の妹。あなたの名前を私はもう呼ぶことは出来ないのよ」
努めて淡々とそう言えば、エレーナがはっとしたように背後を振り返った。
「その通りだよ、テルミナ。テルミナは最早私以外の人間の名を親しく呼ぶことは出来ない。つまりはテルミナを姉と仰ぐエレーナの名前ですら、その枠を越えることは出来ない。絶対にね」
予想通り、カナシュタ義兄様は良いタイミングでかつてエレーナに与えられていた部屋に入室すると、いつの間に抜き払ったのかエレーナの背後にぴたりと冷気を纏う研ぎ澄まされた鋭い氷の刃を向けた。
顔面蒼白となったエレーナはぶるぶると体を震わせて声にならない悲鳴を上げる。
その刃には明確にエレーナを害する意志が宿っていた。
「カナシュタ義兄様、その刃をお納め下さい。私との誓約に反する行為です」
「そうか? いいや、誓約には反していない。エレーナは今やドロワー王国の民だからな」
「か、カナシュタ殿下、私はドロワー王国の民などでは…っ!」
「それ以上喋らない方が懸命だぞ、エレーナ。それに私は最早殿下などでは無い。つまりエレーナ、お前に親しく名前を呼ばれる人間ではないという事だ」
「そうかもしれませんわね。ですがカナシュタ義兄様、彼女の名前からアナスタシアを取り上げる命を出した覚えはありません。つまり従姉妹君は私と同じ血脈を受け継ぐアナスタシア皇国の皇族に相違ありませんわ。即ち彼女は私が守るべき民…大事なアナスタシア皇国の民であるということに変わりありませんわ。違いますか、カナシュタ・フロンタール総司令官殿?」
ぐっと顎を反らしてそう問えば、カナシュタ義兄様は何かを探るような視線をこちらに向けてきた。しかし数拍の後、「確かにテルミナの言う通り、エレーナは未だアナスタシア皇国の民だな」と向けていた刃をそっと下した。
ほっと息を吐いた私は未だ固まったまま呆然とカナシュタ義兄様と私を見つめるエレーナの手を掬い取ってそっと額に押し当てた。
傍から見ればそれはエレーナに向かって私が臣下の礼を取ったようにも見えただろう。けれども私の心情はそのような生優しいものではなかった。私はただ、愛しくて愛らしいエレーナへ向けた罪悪感を少しでも軽くしたかっただけだ。
強かな女だと思うのならば思えば良い。だけれども私はもう彼女達の行く末を見守る事は決して出来ない。そして私は彼女達にただ祝福という名の悲しい代償とささやかな褒美を与えることしか出来はしないのだ。
「愛しい従姉妹君、私の妹。叔父様の現状は私も存じ上げています。ですが最早叔父様の処遇は私の手から離れてしまっている。あなた方がアナスタシア皇国の民である限り、あなた方が害される事など万に一つも有り得ません。勿論、カナシュタ義兄様以外の御方が画策したとするならば別ですが」
「そんな事はしない。今の所はだが」
冷笑を浮かべたカナシュタ義兄様は私がエレーナの手を取った右手を冷たく見据えた。
「さようなら、愛しい子。私の愛する妹。あなた方の未来に限りない祝福が在らんことを祈っているわ」
そうして、カナシュタ義兄様が背後に居た人物に指示を出しエレーナを取り押さえた。
何度も何度も振り返りながら叔父様の手配した配下に腕を引かれて去っていくエレーナの背中を見つめ、私はそっと息を吐いた。
「助けられないのであれば手を差し伸べない方が良いと私は思うのだけどね」
「分かっていますわ。けれどあの子は私にとって最初で最後の妹でしたもの」
カナシュタ義兄様が隣に寄り添って私の手をそっと拭う。エレーナと繋いだ手の感触すらも拭い取るように優しく、力強く私の手を握りなおすとカナシュタ義兄様はふと何事か小さく呟いた。
それがどのような言葉であるかなど私には分からなかったけれど、それが何か良からぬものであることは私にも分かった。
―――翌年、私は女皇陛下として王配を迎える事となる。相手は誰かなど言うまでもないことだ。
しかしそれは私にとって更なる悪夢の始まりであったことをこの時の私は知る由も無かった。
おまけ
カナシュタ・フロンタールという子どもは、凡そ子どもらしくない子どもだった。
「まさか、我がフロンタール家に祝福の神子が産まれるとはね」
パトリシアは声を潜めるように苦々しく呟いた。
忌々しい、祝福の神子。
その肩書きはフロンタール公爵家にとって大きな意味を持つ。
時はアナスタシア皇国の建国時代にまで遡る。
当時アナスタシア皇国に現れた祝福の神子に見初められ、果てのない執着と狂気とも呼ばれる歪な愛情によって人生を狂わされた皇女、ベアトリス・トリテリア・アナスタシア。彼女が相思相愛の恋人の家に嫁いだ由緒正しい名門貴族こそ、このフロンタール公爵家である。
パトリシア――つまり私の事だけれど――は皇帝陛下の妹であり、アナスタシア皇国の正統な血を受け継ぐ元皇女である。フロンタール公爵家がアナスタシア皇家共々長らく秘匿してきた時の祝福の神子が引き起こした悲劇以来、その忠義と忠誠心でもって皇家を支えてくれた事は勿論知っている。
然しその一件以来、名目貴族の中でも皇家とは一定の距離を保っていたフロンタール公爵家が皇女たるパトリシア立っての希望にも関わらず、その降嫁に難色を示した事は記憶に新しい。結婚して十数年経った今でも、あの時の激しい水面下での攻防はよく覚えているのだ。
だからまさかこの因縁浅からぬフロンタール公爵家に、忌々しいとしか言い様が無い祝福の神子が産まれること等想定外の事だった。
第一、先に挙げられた建国時代から現在に至るまでおよそ千年の時を経ているが、その後祝福の神子が公式に確認されたのはたった一例のみ。それも産後の肥立ちが悪く、祝福の神子たる赤子が生後数日で亡くなった為、健やかに成長し年を重ねる祝福の神子が産まれたのは、およそ一千年振りとなる。
正直言って、祝福の神子たる息子、カナシュタ・フロンタールを愛した事など一度もない。無事に産んであげた事だけでも感謝して欲しいものである。
「私の子は、ただ一人だけ」
カナシュタを産む数年前に着床して数週間後に流産した命、それだけだ。