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西園寺家の屋敷は、街の中心部からは少しはずれた、緑の多い山手の地域にある。そこは、そうした様々な邸宅の並ぶ、いわゆる「お屋敷界隈」なのだった。
旧家の建物らしく敷地を贅沢につかった昔ながらの日本家屋で、大門の周囲は白壁がずっと長く続いており、広い庭園を囲んでいる。見た目は素晴らしいけれども、その日本庭園を卒なく維持するというだけでも、けっこうな経費のかかる代物だ。
とはいえこちらもまた、昔ながらの頑固な職人気質の初老の男がずっと庭師を務めてくれて、いまもその優美な美しさを損なってはいない。
馨子と宗之、そして櫻子は、大門前に停められた車から降りた。
宗之には一旦、小さな客間で待ってもらい、馨子と櫻子は先に父と母に会いに行ってことの顛末を簡単に説明してから、祖母、凪子の部屋に向かった。
父母はもちろん驚天動地という顔ではあったけれども、もともと二人とも娘たちに家を継がせることについて強力に勧めているわけでもなかったので、「ともかくもお母様にお話を」ということですぐに了承してくれた。
凪子は自室にいるとのことで、馨子はその部屋の前まで行き、一度目を閉じてしっかりと覚悟を決めてから、障子の傍に膝をついて中へ声を掛けた。
櫻子も、その後ろに座っている。
「おばあさま、馨子です。お話があるのですが、今、構いませんでしょうか」
「結構ですよ。お入りなさい」
枯れた、しかし凜とした声が掛かって、二人はすぐに入室した。
読んでいたらしい本を卓に置き、小ぶりの老眼鏡を外した凪子は、目の前に正座した二人にあらためて向き直った。相変わらず、背筋はぴんと伸びており、その所作には一筋の隙もない。
「どこかへお出かけだったのですか、お二人とも」
「はい。実は、とある御方とお会いしておりました」
馨子は、澱みなくすらりと答えた。
覚悟が決まってからの馨子は、いつもこうだ。
この凪子に対しては、あの父や母のようにびくびく、おどおどと話をすると却って事がこじれてしまう場合が多い。むしろ、言いたいことは正々堂々、覚悟を決めて申し上げたほうが、この祖母には共感をもって迎えてもらえることを、自分の経験を通して知っていた。
「とある御方」という単語を聞いただけで、祖母の空気がぴりっと一転したのが分かった。これも予想の範囲内である。大切なのは、この祖母の気に呑まれないこと、その一点だ。
「佐竹宗之様とおっしゃいます」
一抹の不安も匂わさない声音で馨子がそう告げると、凪子はすっと一瞬目を細めたが、すぐに言った。
「その様子なら、もうこちらへお運びなのですね。すぐに応接間へお連れ申し上げてください」
「……恐れ入ります」
馨子は一礼して立ち上がり、お手伝いの者にすぐに宗之を呼びにやらせた。
西園寺家のこの応接間は、和室である。畳十畳敷きの広めのつくりで、上座の壁には掛け軸と一輪挿しがあるのみの簡素かつ品のよい設えだ。時折り、庭先の鹿威しがかこんと涼やかな音を響かせている。
凪子の命で、父と母も同席する運びとなり、二人は宗之よりも先に応接間にやって来た。少し気の弱い母は、ちょっと青ざめた顔色だった。父はさすがに顔には何も出していなかったけれども、それでも緊張した様子は隠せないようだった。
凪子は上座に、父母はその脇に並び、馨子と櫻子はその反対側に向かい合って並んで座った。
やがて、障子の外からお手伝いの者の「お連れ申し上げました」との声が掛かって、凪子が「お通ししなさい」とそれに応えた。
「失礼いたします」
ごく落ち着いた、あの低い声が聞こえて、馨子は思わず心の奥底でほっとする自分を覚えて驚いた。
宗之の声には、少しの迷いも、ゆらぎもなかった。その声を聞くだけでも、馨子は数万の手勢を与えられた戦国武将のような思いを禁じえなかったのだ。
応接間の続き部屋となっている向かいの座敷の方へ宗之が現れて、開かれた襖の向こうで正座をし、そこで一礼した。背筋のきりりと伸びた、それは美しい礼だった。
(……ああ。この方、剣士なのだわ。)
馨子は、電撃に打たれたような気になって、あらためてその宗之の姿から目が離せなくなってしまった。
見た目はごく普通の青年にしか見えないというのに、いざという時のこの気概はいったいどうしたことなのだろう。普段、あれほど穏やかで落ち着いている青年が、今は闘いに臨んだ武者のように、その丹田に気を横溢させているのが馨子にですらはっきり分かった。
それは、どうやら凪子と父母も同様だったようである。隣に座っている櫻子でさえ、先ほど車の中で一度会っているにも関わらず、驚いた目を隠そうともしていなかった。
「どうぞ、お入りくださいませ」
祖母が返礼をしてからそう言うと、宗之は「お邪魔いたします」とひと声かけて部屋に入ってきた。置かれていた座布団は脇へ寄せて、直に畳みの上へ正座しなおし、再び頭を下げた。
「この度は、かように急な訪問に応じていただき、誠に有難うございます。佐竹宗之と申します。不躾の段、なにとぞお許しくださいませ」
馨子以上に澱みなく、宗之が低い声音でそう言うと、凪子は明らかに呆気にとられた様子で少し黙った。が、やがて気を取り直したように言った。
「丁寧なご挨拶を、こちらこそ傷み入ります。西園寺凪子と申します。馨子の祖母でございます」
そう言って、さらに隣の父と母を宗之に向かって紹介した。宗之はそちらを向いて、それぞれにまた頭を下げ、挨拶をした。父母も、驚いた顔そのままで、やっぱりぎこちなく頭を下げた。
「それで、今日のお話というのはどのようなことでいらっしゃるのでしょう。佐竹様は、この馨子とはどのような?」
そう言った凪子の射るような視線にも、宗之はさほど動じる様子もなく、やはり森閑とした泉のように静かなものだった。
「はい。馨子さまとは、二年前、たまたま道でお会いしたことからお知りあいにならせて頂きました。以来、月に一度ほどお会いさせて頂くことが続きまして、今日に至った次第です。こちら様へのご挨拶が遅れましたこと、まことに不躾の極みです。幾重にもお詫び申し上げます」
宗之はすらすらとそう述べて、凪子へすっとまた頭を下げた。
まさに流れる水のような、それでいて隙のない挨拶だった。
父母はもう、唖然として呆けたような顔である。櫻子も似たようなものだった。
凪子はと言えば、さすがにその三人のような顔になるわけにも行かず、かといって不機嫌な様子を見せるようでもなかった。そして、目だけで一瞬、ちらりと馨子の方を見たようだった。
「左様にございましたか。それはご丁寧に、有難うございます」
聞きたいことは勿論それだけのはずはなかったのに、凪子はそれ以上、なにも訊いてくる様子がなかった。
部屋に、なんとも言えない沈黙がおりた。
父母があからさまに居心地の悪そうな顔になり、櫻子が辛抱たまらなくなったのか、ちょんちょんと馨子の脇腹をつつくようにしてきた。それで初めて、馨子は自分が何か話すときなのだとやっと気付いた。どうやらそれほど、宗之に目を奪われてしまっていたということらしかった。
「あ、……あの、おばあさま。誤解のないよう申し上げたいのですが」
座敷の皆の目が、一斉にこちらを向いた。
当作品は、フィクションです(当たり前だ!)。
実在する西園寺家とは何の関わりもございませんので、悪しからずご了承くださいませ。