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「ともかく、その佐竹様のご意向をきちんと確かめることが先決ですわ」
馨子の涙がおさまってから、櫻子は静かな声でこう言った。
彼女のその意見はもっともだったが、いきなり彼に会いに行って「わたくしのこと、どのようにお考えでしょうか」と尋ねるというのも、あまりに唐突な話に思えた。
なにしろ、月に一度、ただあの桜並木をほんの十分程度、一緒に歩いていたというだけの仲なのだ。そんな間柄の相手から、いきなり「どんな気持ちでいるのか」と詰め寄られても、彼とて困るだけではないか。
馨子がそんな風に説明するのを、櫻子はもう、なんとも言えない焦れた様子で聞いていた。
「お姉さまったら、もう本当に……。今日び、初等部の女の子たちだって、そんな可愛らしい恋愛はいたしませんわよ」
しまいには、呆れたようなそんな感想を頂戴してしまった。
妹は可愛らしい仕草でひとつ溜め息をつくと、少し考えてからこう言った。
「とにかく、凪子おばあさまに、一旦このお話は止めていただかなくてはいけませんわ。先方に『それで結構です』とお返事してしまってからでは、お話が一段とややこしくなってしまいますもの」
「でも、櫻子。それでは――」
「『でも』は聞かなくてよ、お姉さま」
いつになくきっぱりと妹はそう言って、にっこり笑って馨子の手をとった。
「お姉さまはいつもいつも、わたくしのために『家を継ぐのだ、婿を取るのだ』って思いつづけていらっしゃったのでしょう? わたくしが、ちゃんと好いた殿方と一緒になるためですわよね。……それは嬉しいの。ずうっとずっと、ほんとうに嬉しかったの。……でも」
櫻子は、潤みだしたそれは魅力的な瞳でじっと馨子を見つめてきた。
「それでわたくしが、本当に幸せになれると思っていらしたの? お姉さまが別に好きでもなんでもない方と望まないご結婚をなさったその上で、わたくしが自由に好きな方を選ぶようなことをして……?」
見る見る、その瞳に光るものが盛り上がってくる。
「わたくしは、そんなのはいや。だって、お姉さまが大好きなんですもの。お勉強も、運動もおできになって、すうっと背がお高くてお美しくて……わたくしだけには、いつもとってもお優しい。自慢の、大好きなお姉さまなのですもの……!」
言いながら、もうその雫がひとつ、ころりとつややかな頬を伝っていった。
「お姉さまには、どうしてもどうしても、幸せになっていただきたかったの。いつも神社で、神様にそのことをお祈りしてきたわ。『どうぞどうぞ、お姉さまがお幸せなご結婚をなさいますように』って……!」
ふたつ、みっつと、雫がさらに増えてゆく。
「だから、三木からその佐竹様のことを聞いたときは、本当に嬉しかったの。とうとう、お姉さまがご自分でご自分の道を見つけられたんだわ、って。心の中で、ずっと祈っていたわ。その方とお姉さまが、どうかうまく行きますようにって……!」
馨子はもう絶句して、美しい雫があいかわらず零れ落ちている櫻子の顔を見つめているしかできなかった。
この、いつまでも幼くて可憐な少女とばかり思っていた妹が、いつのまにこんな、大人の女性が言うようなことを言えるようになっていたものだろう。
「けれど、櫻子――」
「ですから、『けれど』は聞きません! 先ほどもそう申し上げましたわよ」
ぴしゃりと決め付けられて、さすがの馨子も黙るしかなかった。
「ここからは、お姉さまとわたくし、そして三木で協力してことに当たりましょう。おばあさまにはわたくしからもお話させていただきますわ。とにかくお姉さまは一刻も早く、佐竹様とお会いになって。よろしいですわね?」
とうとう馨子は、三つも年下の妹に、ただ黙って頷かされてしまったのだった。
◇
さて、その週末のこと。
例によって三木に頼み、彼の自宅へ電話を入れてもらって、ようやく馨子は久しぶりに宗之と会うことができた。もちろん、いつものあの桜並木である。
宗之はすでに県外の四年制大学の二年生になっている。自宅からでも通えないほどではなかったらしいが、結局、大学の近くで下宿することになったらしく、この界隈へ戻ってくるのは彼も久しぶりのことだった。
「大切なお話がおありだとのことでしたね。なんでしょうか」
宗之は、馨子と顔を合わせて久しぶりの挨拶をしたあと、すぐにそう訊ねてきた。
馨子はいつものセーラー服だが、高校生でなくなった宗之は、詰襟の学生服から、今はごく普通のシャツにスラックスという姿になっている。
こと、この青年に関して言えば、一般的な学生がよく着るようなTシャツにジーンズ姿というのは見たことがなかった。また、彼にはこうした落ち着いた服装のほうがよく似合うのも確かだった。
いつもの馨子だったら、とりわけこんな話題でこうまで真正面から本題に入られてしまうと、戸惑ってうまく内容に入るのは難しかったかもしれない。しかし今回は、なんといっても強力な相談役がついていた。
今日の馨子は、どうやらその姉よりもはるかに恋愛経験値の高かったらしい実の妹から、微に入り細に入って、どう切り出すかのシミュレートをされてきているのだ。とはいえ当の妹のそれだって、実際は単なる「耳年増」なのだろうとは思われたけれども。
馨子は、一度大きく息を吸ってから、ふ、と吐き出し、一気に言った。
「わたくしに、お見合いのお話が参りまして」
「……はい」
微妙に、宗之の返事までには間があった。
「これまででしたら、即答にてお受けしたはずのところだったのです。あちら様の条件に文句はありませんでしたし、昔から『とにかく婿を取って家を継げ』というのが、わたくしにとっては家からの至上命令のようなものでしたので」
「……はい」
恬淡と、宗之が相槌をうつ。馨子は少し言葉を切って、並木道の向こう側の、広い河川敷のほうを見やった。
「でも、祖母からその話を聞いたとき、わたくしはすぐにお返事ができませんでした。……心に掛かるお方ができてしまったものですから」
「…………」
今度は宗之も返事をしなかった。
彼の顔を見るのが怖くて、馨子はまるでそちらに気を惹かれる重大ななにかでもあるかのように、ずっと平坦に広がっている穏やかな川の水面を見つめていた。
馨子は、知らず、ぎゅっと両手を握りしめていた。喉も、口の中もからからに乾いてざらついているような気がした。
「お受けしたほうが良いと思われますか? 佐竹様」
「…………」
やっぱり、宗之は黙っている。
馨子はとうとう、恐る恐る、そっと彼の顔を窺ってしまった。
彼の顔を見て、馨子は「あっ」と思った。
胸の中からきらきらと、木漏れ日のような光の粒がわっと溢れ出たような気がした。
宗之は、これまで馨子が見たこともないような、非常に難しい顔をしていた。
眉間に皺を入れ、腕組みをし、顎に片手をあてて何ごとかを思案する風である。
そしてそれは、確かに「困っている」という顔ではなかった。何かを本当に真剣に、どうすべきかを思い悩むような顔だったのだ。
目の前にわずかの光明が開けたような気持ちになって、馨子の胸にぽっと小さな灯りがともった。
その灯りが、馨子に次の言葉を発させた。
「いかが……でしょうか? 佐竹様」
すでに新緑に着替えてしまった桜の枝が、若い二人を見下ろして、さやさやと小さく笑みを洩らした。